朝の冷たい空気が室内に流れ込む中、ナミスは無言で分厚い麻のドレスを広げた。
装飾のない灰色の布地が、寝台の端に置かれる。
続いて、つばの広い帽子と、顔全体を覆う濃紺のヴェールが並べられた。
私はただ椅子に腰を下ろし、彼の確かな手つきを見つめていた。
昨日までの豪奢な絹や繊細な刺繍は、すべて木箱の底に沈められている。
ナミスは私の肩に手を添え、静かに灰色の布を纏わせた。
美しいと称賛された桜色の長髪は、無骨な帽子の中にきつく押し込められる。
最後にヴェールが顔を覆い、視界が一段暗く染まった。
鏡に映る姿は、没落した小貴族の娘、あるいは名もなき平民の女。
タロシア公爵家の至宝と呼ばれた痕跡は、何一つ残っていない。
公爵令嬢リリスという存在を、物理的に消し去る作業。
その過程は、私の輪郭を曖昧にする一方で、奇妙な安堵感をもたらした。
光を避け、影に潜むこの姿こそが、今の私の真実の形なのだと実感する。
ナミスは私の手を取り、冷たい石造りの廊下へと歩みを進めた。
向かう先は、領主館から遠く離れた、古く手狭な離れの建物。
そこには、過去の栄光も、王都の華やかさも存在しない。
ただ、石造りの冷たい壁に囲まれたその部屋には、簡素な木製の椅子と机しか置かれていない。
「……怖がらないでください」
ナミスが私の耳元で低く囁いた。
「闇市に出入りする商人を通じて、腕が良く、何より口の堅い医者を手配しました。小貴族の娘の診察、ということで通してあります」
私は小さく頷いた。
手のひらに冷たい汗が滲んでいるのがわかる。
医者に診られる恐怖と、自分の狂気が他人の口から証明されてしまうことへの恐怖。
ナミスは私の震える手を両手で包み込み、その熱で私を落ち着かせようとしていた。
扉を叩く音がし、ナミスが素早く離れて扉を開ける。
部屋に入ってきたのは、灰色の外套を羽織った中年の男だった。
その男は、私の姿を一瞥すると、余計な詮索はせず、持参した革の鞄から診察の道具を取り出した。
机を挟んで向かい合う。
男の目は細く、感情を読み取ることはできない。
王都の息がかかっていない、身分証を持たない裏の住人。
男は深く頭を下げたが、その視線はヴェール越しの私の表情を鋭く探っていた。
「……遠路ご苦労だった」
ナミスの声は低く、感情の起伏を抑えたものだった。
「小貴族の娘だ。事情があって、公にはできない。問診と診察だけを頼む」
医師は無言で頷き、使い込まれた革鞄から古びた聴診器を取り出した。
私はナミスに促されるまま、硬い木椅子に腰を下ろした。
医師が歩み寄り、私の手首に指を添える。
脈を測るため、灰色の袖口がわずかに押し上げられた。
その瞬間、医師の指先が不自然に止まった。
彼の視線が、私の手首に刻まれた幾筋もの白い傷跡に釘付けになっている。
自ら引き裂いた、愚かな自己破壊の痕。
ナミスが即座に一歩前に出たが、医師は何も尋ねなかった。
ただ、その深く刻まれた傷の深さを視覚で測り、静かに袖を下ろした。
脈拍の確認を終えた医師は、少し距離を置いて椅子に座り直した。
「……お嬢様。現在の症状を、ご自身の言葉でお聞かせ願えますか」
落ち着いた、低く平坦な声。
私はナミスを一度見上げ、彼の頷きを確認してから、ゆっくりと口を開いた。
声はひどく掠れ、自分のものとは思えないほど弱々しかった。
「……誰もいないのに、声が聞こえます」
言葉にするたび、恐怖が蘇り、指先が微かに震える。
「私を嘲笑う声。非難する声。誰かの視線が常に私を監視している。……一人になると、呼吸が浅くなり、立っていられなくなります。記憶が混乱し、今日がいつなのか、自分が何者なのか、わからなくなる時がある。……誰かに見捨てられるという恐怖が、絶えず頭の中を支配して……」
事実を淡々と羅列する。
医師は手元の羊皮紙に何かを書き留めることもせず、ただ私の震える肩を見つめていた。
話し終えると、室内には重く冷たい静寂が降りた。
ナミスの微かな呼吸音だけが、耳に届く。
医師は両手を膝の上で組み、長い沈黙に陥った。
その視線は床の石畳に向けられ、頭の中で無数の症例と私の状態を照らし合わせているようだった。
医師はゆっくりと顔を上げた。
眼差しが、ヴェール越しの私を真っ直ぐに射抜く。
「……僕の経験不足ゆえ、判断を誤っている可能性もありますが」
医師は言葉を慎重に選びながら、静かに告げた。
「お嬢様は……すでに重度のうつ症状を抱えているように見受けられます」
私はその言葉を反芻した。
病気。
そう断定されることで、自分の狂気が証明されたことへの恐怖と、不可解な現象に理由が与えられたことへの安堵が入り交じる。
だが、医師の言葉はそこで終わらなかった。
「いえ……正確には……かなり以前から、すでに発症していた可能性が高いでしょう」
かなり以前から。
その宣告は、私が必死に維持してきた「完璧な令嬢」という時間が、すべて病魔に侵された異常な状態であったことを示していた。
装飾のない灰色の布地が、寝台の端に置かれる。
続いて、つばの広い帽子と、顔全体を覆う濃紺のヴェールが並べられた。
私はただ椅子に腰を下ろし、彼の確かな手つきを見つめていた。
昨日までの豪奢な絹や繊細な刺繍は、すべて木箱の底に沈められている。
ナミスは私の肩に手を添え、静かに灰色の布を纏わせた。
美しいと称賛された桜色の長髪は、無骨な帽子の中にきつく押し込められる。
最後にヴェールが顔を覆い、視界が一段暗く染まった。
鏡に映る姿は、没落した小貴族の娘、あるいは名もなき平民の女。
タロシア公爵家の至宝と呼ばれた痕跡は、何一つ残っていない。
公爵令嬢リリスという存在を、物理的に消し去る作業。
その過程は、私の輪郭を曖昧にする一方で、奇妙な安堵感をもたらした。
光を避け、影に潜むこの姿こそが、今の私の真実の形なのだと実感する。
ナミスは私の手を取り、冷たい石造りの廊下へと歩みを進めた。
向かう先は、領主館から遠く離れた、古く手狭な離れの建物。
そこには、過去の栄光も、王都の華やかさも存在しない。
ただ、石造りの冷たい壁に囲まれたその部屋には、簡素な木製の椅子と机しか置かれていない。
「……怖がらないでください」
ナミスが私の耳元で低く囁いた。
「闇市に出入りする商人を通じて、腕が良く、何より口の堅い医者を手配しました。小貴族の娘の診察、ということで通してあります」
私は小さく頷いた。
手のひらに冷たい汗が滲んでいるのがわかる。
医者に診られる恐怖と、自分の狂気が他人の口から証明されてしまうことへの恐怖。
ナミスは私の震える手を両手で包み込み、その熱で私を落ち着かせようとしていた。
扉を叩く音がし、ナミスが素早く離れて扉を開ける。
部屋に入ってきたのは、灰色の外套を羽織った中年の男だった。
その男は、私の姿を一瞥すると、余計な詮索はせず、持参した革の鞄から診察の道具を取り出した。
机を挟んで向かい合う。
男の目は細く、感情を読み取ることはできない。
王都の息がかかっていない、身分証を持たない裏の住人。
男は深く頭を下げたが、その視線はヴェール越しの私の表情を鋭く探っていた。
「……遠路ご苦労だった」
ナミスの声は低く、感情の起伏を抑えたものだった。
「小貴族の娘だ。事情があって、公にはできない。問診と診察だけを頼む」
医師は無言で頷き、使い込まれた革鞄から古びた聴診器を取り出した。
私はナミスに促されるまま、硬い木椅子に腰を下ろした。
医師が歩み寄り、私の手首に指を添える。
脈を測るため、灰色の袖口がわずかに押し上げられた。
その瞬間、医師の指先が不自然に止まった。
彼の視線が、私の手首に刻まれた幾筋もの白い傷跡に釘付けになっている。
自ら引き裂いた、愚かな自己破壊の痕。
ナミスが即座に一歩前に出たが、医師は何も尋ねなかった。
ただ、その深く刻まれた傷の深さを視覚で測り、静かに袖を下ろした。
脈拍の確認を終えた医師は、少し距離を置いて椅子に座り直した。
「……お嬢様。現在の症状を、ご自身の言葉でお聞かせ願えますか」
落ち着いた、低く平坦な声。
私はナミスを一度見上げ、彼の頷きを確認してから、ゆっくりと口を開いた。
声はひどく掠れ、自分のものとは思えないほど弱々しかった。
「……誰もいないのに、声が聞こえます」
言葉にするたび、恐怖が蘇り、指先が微かに震える。
「私を嘲笑う声。非難する声。誰かの視線が常に私を監視している。……一人になると、呼吸が浅くなり、立っていられなくなります。記憶が混乱し、今日がいつなのか、自分が何者なのか、わからなくなる時がある。……誰かに見捨てられるという恐怖が、絶えず頭の中を支配して……」
事実を淡々と羅列する。
医師は手元の羊皮紙に何かを書き留めることもせず、ただ私の震える肩を見つめていた。
話し終えると、室内には重く冷たい静寂が降りた。
ナミスの微かな呼吸音だけが、耳に届く。
医師は両手を膝の上で組み、長い沈黙に陥った。
その視線は床の石畳に向けられ、頭の中で無数の症例と私の状態を照らし合わせているようだった。
医師はゆっくりと顔を上げた。
眼差しが、ヴェール越しの私を真っ直ぐに射抜く。
「……僕の経験不足ゆえ、判断を誤っている可能性もありますが」
医師は言葉を慎重に選びながら、静かに告げた。
「お嬢様は……すでに重度のうつ症状を抱えているように見受けられます」
私はその言葉を反芻した。
病気。
そう断定されることで、自分の狂気が証明されたことへの恐怖と、不可解な現象に理由が与えられたことへの安堵が入り交じる。
だが、医師の言葉はそこで終わらなかった。
「いえ……正確には……かなり以前から、すでに発症していた可能性が高いでしょう」
かなり以前から。
その宣告は、私が必死に維持してきた「完璧な令嬢」という時間が、すべて病魔に侵された異常な状態であったことを示していた。
