それからの数日間は、薄氷の上を歩くような日々だった。
日中は「聖女」として振る舞い、夜は「罪人」としてナミスの腕の中で震える。
その境界線は日に日に曖昧になり、私の精神をやすりで削り取るように磨耗させていった。
執務室でペンを走らせている最中、ふと顔を上げた瞬間に、ナミスの姿が見当たらないことがある。
ただ書類を取りに棚へ向かっただけ。
ほんの数歩、私の背後に回っただけ。
それだけのことで、心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
『……捨てられたのよ』
『もう愛想を尽かされたんだ』
『お前のような汚い女、誰も相手にしない』
誰もいない部屋の隅から、嘲笑が湧き上がる。
それはカシリア殿下の声であったり、父様の声であったり、あるいはエリナの無邪気な笑い声であったりした。
「……ナミスっ!」
悲鳴のような声で彼を呼ぶ。
「ここにいます、リリス様」
すぐに彼は駆け寄り、私の肩に触れる。
その体温を感じて初めて、幻聴は波が引くように消え去り、私はまた息をすることができるようになる。
だが、安堵は一瞬だ。
すぐにまた、次の不安が黒い波となって押し寄せてくる。
いつか、この手が離れてしまうのではないか。
いつか、彼も私を見限り、光の当たる場所へ――カシリア殿下やエリナの元へ帰ってしまうのではないか。
その恐怖が、私の喉元に冷たい刃を突きつけ続けていた。
夜、寝台に横たわりながら、私は自分の手をじっと見つめた。
インクの染みは消えたが、肌はカサつき、爪も割れている。
かつて王都で称賛された「宝石のような美しさ」は見る影もない。
鏡を見るのが怖かった。
そこにはきっと、嫉妬と猜疑心に歪んだ、醜い魔女が映っているに違いないからだ。
「……ナミスは、医者を探していると言ったわ」
闇に向かって呟く。
彼は私のために、口の堅い医者を秘密裏に探してくれている。
それは優しさだ。
わかっている。
けれど、歪んだ私の心は、それを別の意味に解釈しようとする。
『厄介払いよ』
『病気のお前を、誰かに押し付けたいのね』
『壊れた玩具は、もういらないんだ』
違う。
ナミスはそんな人じゃない。
必死に否定しても、内なる声は止まない。
私は、カシリア殿下との婚約を失いかけている。
家族からも見捨てられようとしている。
私にはもう、身分も、名誉も、財産も、何もない。
ただの、放火魔の犯罪者だ。
そんな私に、ナミスを繋ぎ止める価値などあるのだろうか。
「……ないわ」
乾いた笑いが漏れた。
魅力などない。
愛される資格もない。
ならば、どうすればいい?
どうすれば、彼を私の傍に縛り付けておける?
契約? 約束? そんな言葉だけのものは、簡単に破られると知っている。
カシリア殿下との婚約がそうであったように。
もっと、確かなもの。
原始的で、逃れられない鎖。
私は自分の胸元に手を当てた。
心臓の鼓動が、早くなる。
これしか、ない。
私に残された、最後の「物」。
女として、彼に差し出せる唯一の供物。
扉が静かに開き、ナミスが入ってきた。
手には温かいミルクの入ったカップを持っている。
「リリス様、まだ起きていらっしゃいましたか」
彼は寝台サイドにカップを置き、私の額に手を当てて熱を確かめようとした。
その慣れた手つき。
介護者としての、慈愛に満ちた眼差し。
それが今は、ひどく遠くに感じられた。
私は彼の腕を掴んだ。
「……ナミス」
「はい。……また、悪い夢でも?」
「ううん。……ねえ、聞いて」
私は上半身を起こし、彼を見上げた。
薄い寝間着が肩から滑り落ち、鎖骨が露わになる。
ナミスは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに私の瞳を見据えた。
「どうされました」
「私は……不安なの。貴方が、どこかへ行ってしまいそうで」
「行きません。何度でも言います、僕は……」
「言葉だけじゃ、足りないの!」
私は叫ぶように遮った。
ナミスの目が驚きに見開かれる。
私は震える手で、彼の手を取り、自分の胸へと導いた。
薄い布越しに、狂ったように脈打つ心臓の音が伝わるはずだ。
「私は、何も持っていない。……ナミスに報いるものなんて、この薄汚れた身体しかない」
「リリス様、何を……」
「お願い、拒まないで。……拒まれたら、私、本当に壊れてしまう」
涙が溢れ出し、頬を伝う。
これは演技ではない。
計算でもない。
ただひたすらに、孤独への恐怖と、彼への執着が私を突き動かしていた。
カシリア殿下には、指一本触れさせたことのない身体。
公爵家の至宝として、大切に守られてきた純潔。
それを、この薄暗い部屋で、共犯者の男に捧げる。
それが今の私にできる、唯一の「契約更新」だった。
私は彼の首に腕を回し、濡れた瞳で彼を射抜いた。
「ナミス……お願い……」
「今宵一夜は、私を抱いてくれない……?」
騎士としてではなく。
従者としてでもなく。
ただの一人の男として、私という女をその身体に刻み込んでほしい。
そうすれば、明日私が狂ってしまっても、貴方の身体に残る熱だけは、嘘にはならないから。
日中は「聖女」として振る舞い、夜は「罪人」としてナミスの腕の中で震える。
その境界線は日に日に曖昧になり、私の精神をやすりで削り取るように磨耗させていった。
執務室でペンを走らせている最中、ふと顔を上げた瞬間に、ナミスの姿が見当たらないことがある。
ただ書類を取りに棚へ向かっただけ。
ほんの数歩、私の背後に回っただけ。
それだけのことで、心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
『……捨てられたのよ』
『もう愛想を尽かされたんだ』
『お前のような汚い女、誰も相手にしない』
誰もいない部屋の隅から、嘲笑が湧き上がる。
それはカシリア殿下の声であったり、父様の声であったり、あるいはエリナの無邪気な笑い声であったりした。
「……ナミスっ!」
悲鳴のような声で彼を呼ぶ。
「ここにいます、リリス様」
すぐに彼は駆け寄り、私の肩に触れる。
その体温を感じて初めて、幻聴は波が引くように消え去り、私はまた息をすることができるようになる。
だが、安堵は一瞬だ。
すぐにまた、次の不安が黒い波となって押し寄せてくる。
いつか、この手が離れてしまうのではないか。
いつか、彼も私を見限り、光の当たる場所へ――カシリア殿下やエリナの元へ帰ってしまうのではないか。
その恐怖が、私の喉元に冷たい刃を突きつけ続けていた。
夜、寝台に横たわりながら、私は自分の手をじっと見つめた。
インクの染みは消えたが、肌はカサつき、爪も割れている。
かつて王都で称賛された「宝石のような美しさ」は見る影もない。
鏡を見るのが怖かった。
そこにはきっと、嫉妬と猜疑心に歪んだ、醜い魔女が映っているに違いないからだ。
「……ナミスは、医者を探していると言ったわ」
闇に向かって呟く。
彼は私のために、口の堅い医者を秘密裏に探してくれている。
それは優しさだ。
わかっている。
けれど、歪んだ私の心は、それを別の意味に解釈しようとする。
『厄介払いよ』
『病気のお前を、誰かに押し付けたいのね』
『壊れた玩具は、もういらないんだ』
違う。
ナミスはそんな人じゃない。
必死に否定しても、内なる声は止まない。
私は、カシリア殿下との婚約を失いかけている。
家族からも見捨てられようとしている。
私にはもう、身分も、名誉も、財産も、何もない。
ただの、放火魔の犯罪者だ。
そんな私に、ナミスを繋ぎ止める価値などあるのだろうか。
「……ないわ」
乾いた笑いが漏れた。
魅力などない。
愛される資格もない。
ならば、どうすればいい?
どうすれば、彼を私の傍に縛り付けておける?
契約? 約束? そんな言葉だけのものは、簡単に破られると知っている。
カシリア殿下との婚約がそうであったように。
もっと、確かなもの。
原始的で、逃れられない鎖。
私は自分の胸元に手を当てた。
心臓の鼓動が、早くなる。
これしか、ない。
私に残された、最後の「物」。
女として、彼に差し出せる唯一の供物。
扉が静かに開き、ナミスが入ってきた。
手には温かいミルクの入ったカップを持っている。
「リリス様、まだ起きていらっしゃいましたか」
彼は寝台サイドにカップを置き、私の額に手を当てて熱を確かめようとした。
その慣れた手つき。
介護者としての、慈愛に満ちた眼差し。
それが今は、ひどく遠くに感じられた。
私は彼の腕を掴んだ。
「……ナミス」
「はい。……また、悪い夢でも?」
「ううん。……ねえ、聞いて」
私は上半身を起こし、彼を見上げた。
薄い寝間着が肩から滑り落ち、鎖骨が露わになる。
ナミスは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに私の瞳を見据えた。
「どうされました」
「私は……不安なの。貴方が、どこかへ行ってしまいそうで」
「行きません。何度でも言います、僕は……」
「言葉だけじゃ、足りないの!」
私は叫ぶように遮った。
ナミスの目が驚きに見開かれる。
私は震える手で、彼の手を取り、自分の胸へと導いた。
薄い布越しに、狂ったように脈打つ心臓の音が伝わるはずだ。
「私は、何も持っていない。……ナミスに報いるものなんて、この薄汚れた身体しかない」
「リリス様、何を……」
「お願い、拒まないで。……拒まれたら、私、本当に壊れてしまう」
涙が溢れ出し、頬を伝う。
これは演技ではない。
計算でもない。
ただひたすらに、孤独への恐怖と、彼への執着が私を突き動かしていた。
カシリア殿下には、指一本触れさせたことのない身体。
公爵家の至宝として、大切に守られてきた純潔。
それを、この薄暗い部屋で、共犯者の男に捧げる。
それが今の私にできる、唯一の「契約更新」だった。
私は彼の首に腕を回し、濡れた瞳で彼を射抜いた。
「ナミス……お願い……」
「今宵一夜は、私を抱いてくれない……?」
騎士としてではなく。
従者としてでもなく。
ただの一人の男として、私という女をその身体に刻み込んでほしい。
そうすれば、明日私が狂ってしまっても、貴方の身体に残る熱だけは、嘘にはならないから。
