記憶の中のリリスは、常に豪奢な額縁の中にいる肖像画のようだった。
社交界という名の、欲望と欺瞞が渦巻く舞台。
彼女はその中心にありながら、誰よりも遠い場所にいた。
王族をも凌ぐ圧倒的な華。
完璧な所作。
けれど、彼女の周りには見えない硝子の壁があった。
誰もが彼女を求め、誰もが彼女に焦がれる。
しかし、その指先が誰かに触れることは決してない。
彼女は誰のものでもなく、同時に誰の隣人でもなかった。
孤独な女王。
それがリリスだった。
奇妙なことに、彼女の幼少期の記憶がオレには欠落している。
王家と公爵家の結びつきを考えれば、幼い頃に顔を合わせているはずなのに、オレの記憶野には白い霧がかかっている。
彼女は、十二歳のデビュタントの日に、突如として完成された姿でこの世に降り立った――そんな錯覚すら覚える。
あの日、シャンデリアの光が降り注ぐホールで、彼女は異彩を放っていた。
桜色の髪に深紅の薔薇。
雪のような肌に、血のように赤いルビー。
甘やかなフローラルの香りを纏い、深紫の瞳で微笑む彼女は、人々を惑わす魔性の存在そのものだった。
「リリス嬢。オレと踊っていただけないだろうか」
十二歳のオレは、儀礼的な笑みを貼り付け、手を差し出した。
「ええ、喜んで。殿下にお誘いいただき、光栄です」
彼女のカーテシーは、教科書を切り取ったように完璧で、隙がなかった。
音楽が鳴り始める。
オレは幼い頃から、この「社交」という茶番に倦んでいた。
地位や名誉を欲する有象無象が、媚びへつらい、色目を使ってくる。
欲望に濁った視線、計算高い接触。
それらに反吐が出るほどの嫌悪感を抱いていた。
だが、リリスは違った。
オレの手を取る彼女の指先は、氷のように冷たく、乾燥していた。
ステップは正確無比。
呼吸ひとつ乱さず、オレのリードに水のように従う。
そこには、他の令嬢たちが放つような熱情も、恥じらいも、媚びもない。
ただ、精巧な自動人形と踊っているような、無機質な正しさだけがあった。
彼女の顔に張り付いた「完璧な微笑み」。
それは、職人が丹精込めて焼き上げた磁器の仮面のようだった。
誰が見ても幸福そうで、優しげで、美しい笑顔。
けれど、その深紫の瞳の奥には、何の感情も灯っていない。
オレを見ているようで、その実、オレの背後の虚空を見つめているような空虚さ。
美しいが、どこか薄ら寒い。
音楽が終わり、雷鳴のような拍手がオレたちを包んでも、彼女の仮面は微塵も揺らがなかった。
「ありがとうございました、殿下。夢のような時間でした」
「……ああ。君のダンスは完璧だったよ」
「お褒めにあずかり光栄です。――それでは、少々失礼いたします」
彼女は一礼し、優雅に身を翻した。
その背中を目で追った先で、オレは信じられないものを見た。
ホールの片隅、車椅子に座る婦人――サリス公爵夫人。
リリスと同じ色の瞳を持つ母のもとへ歩み寄った瞬間、彼女の纏う空気が一変したのだ。
凍てついた硝子の城が、春の日差しを受けて崩れ落ちるように。
あるいは、冷たい人形に、突如として熱い血が通ったかのように。
彼女は母の膝に手を置き、見たこともない表情で笑いかけた。
それは、オレに向けられた精巧な作りの笑顔とは別物の、とろけるような甘さと、依存にも似た深い愛着に満ちた、本物の「生」の表情だった。
ああ、そうか。
彼女にも、心があったのか。
オレは遠巻きにその光景を見つめながら、言い知れぬ喉の渇きを覚えた記憶がある。
完璧な人形が隠し持っていた、ただ一つの人間らしい欠落。
それはオレの胸に、消えない棘のような違和感を残した。
社交界という名の、欲望と欺瞞が渦巻く舞台。
彼女はその中心にありながら、誰よりも遠い場所にいた。
王族をも凌ぐ圧倒的な華。
完璧な所作。
けれど、彼女の周りには見えない硝子の壁があった。
誰もが彼女を求め、誰もが彼女に焦がれる。
しかし、その指先が誰かに触れることは決してない。
彼女は誰のものでもなく、同時に誰の隣人でもなかった。
孤独な女王。
それがリリスだった。
奇妙なことに、彼女の幼少期の記憶がオレには欠落している。
王家と公爵家の結びつきを考えれば、幼い頃に顔を合わせているはずなのに、オレの記憶野には白い霧がかかっている。
彼女は、十二歳のデビュタントの日に、突如として完成された姿でこの世に降り立った――そんな錯覚すら覚える。
あの日、シャンデリアの光が降り注ぐホールで、彼女は異彩を放っていた。
桜色の髪に深紅の薔薇。
雪のような肌に、血のように赤いルビー。
甘やかなフローラルの香りを纏い、深紫の瞳で微笑む彼女は、人々を惑わす魔性の存在そのものだった。
「リリス嬢。オレと踊っていただけないだろうか」
十二歳のオレは、儀礼的な笑みを貼り付け、手を差し出した。
「ええ、喜んで。殿下にお誘いいただき、光栄です」
彼女のカーテシーは、教科書を切り取ったように完璧で、隙がなかった。
音楽が鳴り始める。
オレは幼い頃から、この「社交」という茶番に倦んでいた。
地位や名誉を欲する有象無象が、媚びへつらい、色目を使ってくる。
欲望に濁った視線、計算高い接触。
それらに反吐が出るほどの嫌悪感を抱いていた。
だが、リリスは違った。
オレの手を取る彼女の指先は、氷のように冷たく、乾燥していた。
ステップは正確無比。
呼吸ひとつ乱さず、オレのリードに水のように従う。
そこには、他の令嬢たちが放つような熱情も、恥じらいも、媚びもない。
ただ、精巧な自動人形と踊っているような、無機質な正しさだけがあった。
彼女の顔に張り付いた「完璧な微笑み」。
それは、職人が丹精込めて焼き上げた磁器の仮面のようだった。
誰が見ても幸福そうで、優しげで、美しい笑顔。
けれど、その深紫の瞳の奥には、何の感情も灯っていない。
オレを見ているようで、その実、オレの背後の虚空を見つめているような空虚さ。
美しいが、どこか薄ら寒い。
音楽が終わり、雷鳴のような拍手がオレたちを包んでも、彼女の仮面は微塵も揺らがなかった。
「ありがとうございました、殿下。夢のような時間でした」
「……ああ。君のダンスは完璧だったよ」
「お褒めにあずかり光栄です。――それでは、少々失礼いたします」
彼女は一礼し、優雅に身を翻した。
その背中を目で追った先で、オレは信じられないものを見た。
ホールの片隅、車椅子に座る婦人――サリス公爵夫人。
リリスと同じ色の瞳を持つ母のもとへ歩み寄った瞬間、彼女の纏う空気が一変したのだ。
凍てついた硝子の城が、春の日差しを受けて崩れ落ちるように。
あるいは、冷たい人形に、突如として熱い血が通ったかのように。
彼女は母の膝に手を置き、見たこともない表情で笑いかけた。
それは、オレに向けられた精巧な作りの笑顔とは別物の、とろけるような甘さと、依存にも似た深い愛着に満ちた、本物の「生」の表情だった。
ああ、そうか。
彼女にも、心があったのか。
オレは遠巻きにその光景を見つめながら、言い知れぬ喉の渇きを覚えた記憶がある。
完璧な人形が隠し持っていた、ただ一つの人間らしい欠落。
それはオレの胸に、消えない棘のような違和感を残した。
