罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~

リリスの意識は、底のない暗闇の中をゆっくりと沈んでいった。

冷たい石畳の感触も、喉を灼くような呼吸の苦しみも、次第に遠ざかっていく。

重力から解き放たれた魂は、羽根のように軽く、どこまでも漂っていくようだった。

そこには、痛みがない。

裏切りも、嘘も、義務も、何もない。

ただ、静寂だけが、傷ついた心を包帯のように優しく包み込んでくれる。

不意に、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

それは、遠い記憶の中にある懐かしい匂い。

陽だまりの匂いと、咲き誇る薔薇の芳香。

リリスがゆっくりと目を開けると、そこは黄金色の光に満ちた庭園だった。

かつてタロシア公爵邸にあった、母が愛した庭。

今はもう手入れされることもなく荒れ果ててしまったはずの場所が、ここでは永遠の春を謳歌している。

「……リリス」

風鈴のような声が、彼女の名を呼んだ。

リリスは息を呑み、声の主を探して視線を彷徨わせた。

光の中に、一人の女性が立っていた。

豪奢なドレスを纏わず、簡素な白いワンピース姿で、微笑んでいる。

「……お母、様……?」

リリスの声は震え、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

サリス・タロシア。

厳格で、完璧であることを求め続け、そしてリリスを残して逝ってしまった母。

だが、今の彼女の表情には、かつての厳しさなど微塵もない。

あるのは、ただ無限の慈愛だけだった。

「よく頑張ったわね、リリス」

サリスは両手を広げ、駆け寄ってきたリリスを強く抱きしめた。

その腕の中は温かく、柔らかく、世界のどんな場所よりも安全な聖域だった。

「辛かったでしょう。……寂しかったでしょう」

「う、あぁ……お母様、お母様ぁ……ッ!」

リリスは母の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

積もり積もった感情が、堰を切ったように溢れ出す。

「私、頑張りました……!完璧な令嬢になろうとしました……!お父様のために、カシリア殿下のために……!でも、でも……誰も私を見てくれない……!」

「ええ、知っているわ。貴女は何も悪くない」

サリスの手が、リリスの背中を優しく撫でる。

そのリズムは、幼い頃に聞かされた子守唄のように心地よい。

「もう、いいのよ。……これ以上、傷つかなくていいの」

母の言葉が、甘い毒のようにリリスの鼓膜に染み渡る。

もう頑張らなくていい。

もう演じなくていい。

その許可を与えられた瞬間、リリスの体から力が抜けていくのを感じた。

「ここはいい所でしょう?誰も貴女を責めない。誰も貴女から奪わない。……ずっと、ここにいましょう」

サリスが耳元で囁く。

それは、死への誘いだった。

現実の苦痛から永遠に逃れるための、最も甘美で、最も罪深い提案。

「……はい。帰りたくない……あんな、冷たい場所には……」

リリスは母の服を握りしめ、頭を振った。

現実世界には、彼女を待つものは何もない。

裏切り者の父、心変わりした婚約者、そして全てを奪う姉。

そんな地獄に戻るくらいなら、この温かい腕の中で、永遠に微睡んでいたい。

『――ス様!リリス様ッ!』

遠くで、誰かの叫び声が聞こえた気がした。

必死で、喉が裂けんばかりに、自分の名を呼ぶ男の声。

彼の悲痛な声が、夢の膜を震わせ、微かなノイズとなって響く。

「……誰かが、呼んでる」

リリスが顔を上げようとすると、サリスの手が優しく彼女の頭を押さえ、胸元へと戻した。

「聞かなくていいのよ。……あれは、貴女を引き戻そうとする鎖の音」

母の声が、少しだけ冷たく響いた。

「戻れば、また苦しみが待っているわ。」

そうだ。

誰も信じられない。

カシリア殿下でさえ、私を裏切ったのだから。

「……帰りません」

リリスは、遠い呼び声に耳を塞ぐように、母の胸に深く潜り込んだ。

「私には、お母様しかいないの……」

「ええ、そうよ。私だけの可愛いリリス」

サリスは満足げに微笑み、リリスの髪に口づけを落とした。

世界が白く、優しく溶けていく。

意識が至福の麻痺に覆われていく中で、リリスは安堵の溜息を漏らした。

これが死だというのなら、死とはなんと救いに満ちたものなのだろう。

もう二度と、目覚めたくはない。

このまま、永遠の夜へと沈んでいきたい。