ナミスは車椅子を軋ませ、リリスの執務室の前に辿り着いた。
扉を叩いても応答はなく、中からはただ、重苦しい静寂だけが滲み出していた。
否、耳を澄ませば、微かに何かが擦れるような、あるいは引きつるような、不穏な音が漏れ聞こえてくる。
不吉な予感が、病に侵されたナミスの背筋を冷たい指で撫で上げた。
「……リリス様?失礼いたします」
彼は震える手でドアノブを回した。
扉が開くと同時に、鼻を突いたのは鉄錆のようなインクの匂いと、澱んだ絶望の気配であった。
「リリス様ッ!」
ナミスの悲鳴が室内に響く。
そこには、冷たい石床の上に崩れ落ちたリリスの姿があった。
美しい桜色の髪は乱れ、灰のように蒼白な頬は床に押し付けられている。
華奢な肩は呼吸を忘れたかのように動かず、その指先は黒いインクで汚れていた。
まるで、彼女自身が書き損じられた物語の一部であるかのように。
ナミスは車椅子から転げ落ちるようにして、彼女のそばへ這い寄った。
動かない足を引き摺り、彼女の上半身を抱き起こす。
「息を……!リリス様、息をしてください!」
彼女の体は氷のように冷たかった。
ナミスは己の無力さを呪いながら、彼女の背をさすり、気道を確保しようと必死に動いた。
その時、彼の視界の端に、机の上から滑り落ちた数枚の羊皮紙が映った。
倒れたインク壺から溢れ出した黒い液体が、毒のように紙面を侵食している。
ナミスは見まいとした。
主の私信を盗み見るなど、騎士にあるまじき不敬である。
だが、その紙面に踊る文字が、あまりにも残酷に彼の目を焼き付けた。
『泥棒猫』
『隠し子』
『次期公爵』
『カシリア殿下も困っていらっしゃる』
それは、王都のファティーナ令嬢からの手紙だった。
ナミスは震える手で、その隣にあったもう一枚の羊皮紙――リリスが書いていた返信を拾い上げた。
『私は幸せです』
インクで塗り潰されかけたその文字は、震え、歪み、まるで悲鳴を上げているようだった。
『エリナはいい子です』
『カシリア殿下を信じています』
『公爵位は譲ります』
読み進めるごとに、ナミスの呼吸は浅くなり、視界が涙で滲んだ。
ああ、なんと……なんと救いのない……!
彼女は知っていたのだ。
父に見捨てられ、家を奪われ、そして愛する婚約者が別の女に心を寄せていることを。
その全てを知りながら、彼女はこの冷え切った部屋で、たった一人、誰にも恨み言を漏らすことなく、完璧な「物分かりの良い妹」を演じようとしていた。
呼吸ができなくなるほどの苦痛の中で、裏切り者たちを庇う言葉を紡いでいたのだ。
ナミスは、リリスの汚れた指先を見た。
その黒いインクの染みは、彼女が流した見えない血の痕跡そのものだった。
「殿下……カシリア殿下……!」
ナミスは歯を食い縛った。
口の中に鉄の味が広がる。
私が敬愛し、忠誠を誓った主君は、これほどまでに残酷な方だったのか。
王都で新しい「太陽」のような少女と笑い合っている間、この「月」のような令嬢が、どれほどの闇に蝕まれていたか、想像すらしなかったのか。
「う、ぅ……」
リリスの唇から、微かな呻き声が漏れた。
ナミスはハッとして、彼女の手を両手で包み込んだ。
「リリス様……!ここに、私がおります……!」
しかし、彼女の瞳は閉じられたままだ。
その表情には、気絶してなお消えない苦悶の色が張り付いている。
ナミスは自分の動かない足を拳で殴りつけた。
悔しい。
守りたいのに。
彼女をこの地獄から連れ出し、安らかな場所へ運びたいのに。
今の私には、彼女を抱き上げて医務室へ運ぶことすらできない。
王子の側近でありながら、王子の裏切りを止めることもできず、ただ彼女が壊れていく様を傍観することしかできなかった。
「申し訳ございません……申し訳ございません……!」
ナミスはリリスの手の甲に額を押し当て、慟哭した。
熱い涙が、彼女の冷たい肌を濡らす。
だが、その涙で彼女の傷が癒えることはない。
彼女が必要としていたのは、遠い王都からの愛だったのだから。
机の上では、書きかけの手紙が風に揺れていた。
『私は幸せです』
その嘘だけが、白々しく、そして痛ましく、誰もいない空間に向かって叫び続けていた。
扉を叩いても応答はなく、中からはただ、重苦しい静寂だけが滲み出していた。
否、耳を澄ませば、微かに何かが擦れるような、あるいは引きつるような、不穏な音が漏れ聞こえてくる。
不吉な予感が、病に侵されたナミスの背筋を冷たい指で撫で上げた。
「……リリス様?失礼いたします」
彼は震える手でドアノブを回した。
扉が開くと同時に、鼻を突いたのは鉄錆のようなインクの匂いと、澱んだ絶望の気配であった。
「リリス様ッ!」
ナミスの悲鳴が室内に響く。
そこには、冷たい石床の上に崩れ落ちたリリスの姿があった。
美しい桜色の髪は乱れ、灰のように蒼白な頬は床に押し付けられている。
華奢な肩は呼吸を忘れたかのように動かず、その指先は黒いインクで汚れていた。
まるで、彼女自身が書き損じられた物語の一部であるかのように。
ナミスは車椅子から転げ落ちるようにして、彼女のそばへ這い寄った。
動かない足を引き摺り、彼女の上半身を抱き起こす。
「息を……!リリス様、息をしてください!」
彼女の体は氷のように冷たかった。
ナミスは己の無力さを呪いながら、彼女の背をさすり、気道を確保しようと必死に動いた。
その時、彼の視界の端に、机の上から滑り落ちた数枚の羊皮紙が映った。
倒れたインク壺から溢れ出した黒い液体が、毒のように紙面を侵食している。
ナミスは見まいとした。
主の私信を盗み見るなど、騎士にあるまじき不敬である。
だが、その紙面に踊る文字が、あまりにも残酷に彼の目を焼き付けた。
『泥棒猫』
『隠し子』
『次期公爵』
『カシリア殿下も困っていらっしゃる』
それは、王都のファティーナ令嬢からの手紙だった。
ナミスは震える手で、その隣にあったもう一枚の羊皮紙――リリスが書いていた返信を拾い上げた。
『私は幸せです』
インクで塗り潰されかけたその文字は、震え、歪み、まるで悲鳴を上げているようだった。
『エリナはいい子です』
『カシリア殿下を信じています』
『公爵位は譲ります』
読み進めるごとに、ナミスの呼吸は浅くなり、視界が涙で滲んだ。
ああ、なんと……なんと救いのない……!
彼女は知っていたのだ。
父に見捨てられ、家を奪われ、そして愛する婚約者が別の女に心を寄せていることを。
その全てを知りながら、彼女はこの冷え切った部屋で、たった一人、誰にも恨み言を漏らすことなく、完璧な「物分かりの良い妹」を演じようとしていた。
呼吸ができなくなるほどの苦痛の中で、裏切り者たちを庇う言葉を紡いでいたのだ。
ナミスは、リリスの汚れた指先を見た。
その黒いインクの染みは、彼女が流した見えない血の痕跡そのものだった。
「殿下……カシリア殿下……!」
ナミスは歯を食い縛った。
口の中に鉄の味が広がる。
私が敬愛し、忠誠を誓った主君は、これほどまでに残酷な方だったのか。
王都で新しい「太陽」のような少女と笑い合っている間、この「月」のような令嬢が、どれほどの闇に蝕まれていたか、想像すらしなかったのか。
「う、ぅ……」
リリスの唇から、微かな呻き声が漏れた。
ナミスはハッとして、彼女の手を両手で包み込んだ。
「リリス様……!ここに、私がおります……!」
しかし、彼女の瞳は閉じられたままだ。
その表情には、気絶してなお消えない苦悶の色が張り付いている。
ナミスは自分の動かない足を拳で殴りつけた。
悔しい。
守りたいのに。
彼女をこの地獄から連れ出し、安らかな場所へ運びたいのに。
今の私には、彼女を抱き上げて医務室へ運ぶことすらできない。
王子の側近でありながら、王子の裏切りを止めることもできず、ただ彼女が壊れていく様を傍観することしかできなかった。
「申し訳ございません……申し訳ございません……!」
ナミスはリリスの手の甲に額を押し当て、慟哭した。
熱い涙が、彼女の冷たい肌を濡らす。
だが、その涙で彼女の傷が癒えることはない。
彼女が必要としていたのは、遠い王都からの愛だったのだから。
机の上では、書きかけの手紙が風に揺れていた。
『私は幸せです』
その嘘だけが、白々しく、そして痛ましく、誰もいない空間に向かって叫び続けていた。
