罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~

早朝の執務室には、冷え切った空気と、古びた紙の匂いが沈殿していた。

リリスは徹夜で積み上げた書類の山の前で、重いまぶたを擦った。

ガロスから全権を奪って以来、睡眠時間は削られ続け、指先はインクで黒く染まり、洗っても落ちなくなっていた。

そこへ、一通の手紙が届けられた。

カシリア殿下からではない。

父からでもない。

差出人の名は、ファティーナ。

王家学院での友人であり、噂好きで知られる伯爵令嬢だった。

「……ファティーナ様から?」

リリスは怪訝に眉を寄せた。

彼女とは親しいが、わざわざガーナー領まで手紙を送ってくるほどの仲だっただろうか。

封を開けると、甘ったるい香水の匂いが漂い、鼻腔を刺激した。

この殺風景なガーナー領には存在しない、王都の華やかな毒の香りだ。

『親愛なるリリス様へ。ガーナー領での暮らしはいかがですか?私たちは皆、貴女様を心配しておりますのよ』

流麗な文字で綴られた冒頭。

だが、その後に続く内容は、リリスの心臓を凍りつかせるに十分な猛毒を含んでいた。

『ところで、信じられない噂を耳にしましたの。あの無作法な剣術指南役のエリナという女……なんと、タロシア家の隠し子だそうですわね!』

リリスの指が震えた。

知ってしまったのか。

隠し通そうとしていた家の恥部が、社交界の玩具になっている。

『しかも、あろうことか彼女が次期公爵になるという話まで出ています。貴女様という素晴らしい長女がいるというのに、なんであんな年上の平民上がりが?まるで泥棒猫ですわ!』

文字が踊る。

善意と正義感に基づいた、無邪気な怒りの言葉たち。

『カシリア殿下も、最近はあの女に付きまとわれて困っていらっしゃる様子。……でもご安心になって。私たちが、あの身の程知らずに痛い目をあわせてやりますから!リリス様の敵は、私たちの敵ですもの!』

手紙を持つ手が、ガタガタと震え始めた。

紙面から目を逸らしたくても、できない。

視界の端に置かれた、自分が出すはずだった書類の山が歪んで見える。

「……なんで?」

リリスは乾いた唇から、掠れた声を漏らした。

エリナが次期公爵?

父様が、それを認めたというの?

私には一言の相談もなく?

脳裏に、優しい父の顔と、カシリア殿下の誠実な瞳が浮かぶ。

彼らは私に何も言ってこなかった。

エリナの家柄が露見したことも、後継者の話も、何一つ。

沈黙。

ただひたすらに、重く、冷たい沈黙だけが、王都から送られてきていたのだ。

「は、はは……」

乾いた笑いが喉から漏れた。

私には「領地を頼む」と言い、厄介払いをしておいて。

自分たちは王都で、新しい「公爵」を囲んで、家族ごっこをしている。

カシリア殿下でさえ、私に真実を告げず、エリナを守ろうとしている。

そして、この残酷な真実を私に教えたのが、家族でも婚約者でもなく、普段は疎ましくさえ思っていたファティーナだという皮肉。

「みんな……私のことなんて、どうでもいいのね」

その事実は、鋭利なナイフとなってリリスの胸を抉った。

私は捨てられたのだ。

便利な駒として利用され、用が済めば忘れ去られる、哀れな人形として。

「……書かなきゃ」

リリスは虚ろな目で呟き、新しい羊皮紙を引き寄せた。

震える手でペンを握る。

ファティーナに返事を書かなければ。

変な誤解をさせてはいけない。

私は完璧な令嬢なのだから。

『ファティーナ様、お手紙ありがとう。……心配しないで』

ペン先が紙に引っかかり、インクが滲む。

『私は王妃になる身ですから、公爵位は妹のエリナに譲るつもりでしたの。だから、何も問題はありませんわ』

嘘だ。

家を奪われることが、どうでもいいわけがない。

母様の思い出が詰まったあの屋敷が、あの女のものになるなんて。

『エリナは……少し奔放ですが、とてもいい子です。私も彼女を認めていますの。だから、どうか仲良くしてあげて』

文字を書くたびに、胃液が逆流してくる。

いい子?

あいつが?

私の人生を狂わせ、全てを奪っていくあの女が?

でも、そう書かなければならない。

私は「物分かりの良い姉」で、「慈悲深い聖女」でなければならないから。

「……っ、う、ぐ……っ!」

不意に、呼吸ができなくなった。

喉が痙攣し、空気を吸い込もうとしても、肺が拒絶する。

ヒューッ、ヒューッ、という異音が、自分の喉から鳴っている。

視界が急速に狭まっていく。

机の上のインク壺が倒れ、黒い液体が書きかけの手紙を汚していった。

『私は幸せです』と書こうとした文字が、黒く塗り潰されていく。

ああ、そうだ。

私の人生そのものだ。

黒く、汚く、塗り潰されていく。

助けて。

カシリア殿下。

お父様。

ロキナ。

誰か、誰か私を見て。

ここにいるのよ?

一人で、寒くて、怖くて、死にそうなのよ?

「……ぁ……」

リリスは椅子から崩れ落ちた。

床に倒れ込む衝撃すら、遠い世界の出来事のように感じられた。

冷たい石の床に頬が触れる。

薄れゆく意識の中で、彼女は最後に見た。

窓の外、広場の復興作業に勤しむ領民たちの姿を。

彼らは誰も、館の窓を見上げてはいなかった。

世界は動き続けている。

リリス一人が、呼吸を止め、時を止めても、誰も気づかないまま。

「リ…リリス様!?」