祭りの喧騒は、夜が深まると共に狂熱の度合いを増していた。
太鼓のリズムが大地を震わせ、数千の足音が心臓の鼓動のように重なり合う。
リリスは演台の袖、暗がりに身を潜めていた。
華やかな表舞台から一歩退いたそこは、光と影の境界線。
「……終わりました」
闇の中から、低い囁き声が滑り込んだ。
タロシア家の騎士だ。
彼は祭りの影に紛れ、誰にも気取られることなくリリスの背後に跪いていた。
「中身のすり替え、及び点火装置の作動、完了いたしました。……既に、種火は燻り始めております」
その報告は、死刑執行の合図のように冷たく響いた。
リリスは扇子で口元を隠し、わずかに頷く。
「ご苦労様。……陽動の方は?」
「手はず通り、備蓄庫とは正反対の廃屋に仕掛けてあります。風向きも計算通り。まもなく、派手に燃え上がるでしょう」
完璧だ。
あまりにも順調すぎて、怖気が走る。
私の指先一つで、この幸せな夜が地獄へと変わる。
「下がりなさい。……決して、悟られぬように」
「御意」
気配が消えた。
残されたのは、遠くから聞こえる笑い声と、リリスの掌に残る冷ややかな汗だけ。
彼女は震える手を強く握りしめ、自分自身に言い聞かせた。
これは必要なこと。
腐敗した善意を焼き払い、新しい芽を吹かせるための、聖なる炎なのだと。
「リリス様、こちらにおられましたか」
ガロス卿が、上気した顔で歩み寄ってきた。
手には陶器のジョッキが握られている。
「民たちが貴女を呼んでいますぞ。さあ、もう一度壇上へ……」
その時だった。
広場の反対側、夜空の一部が赤く染まった。
「――火事だ!!」
誰かの叫び声が、音楽を切り裂いた。
一瞬の静寂の後、広場はパニックに包まれる。
「なんだと!?」
ガロスが目を見開き、ジョッキを取り落とした。
陶器が砕ける音が、不吉な鐘の音のように響く。
リリスは、女優としての仮面を瞬時に被った。
「ガロス卿!あちらは……民家ではありませんか!?」
彼女は悲鳴に近い声を上げ、燃え上がる方向を指差した。
その指先は震えているが、目は冷静に状況を観察している。
「い、いかん!直ちに消火を!ナミス、指示を……いや、ナミスは動けん!」
ガロスは狼狽し、右往左往している。
善良な彼は、突発的な危機に対してあまりに脆い。
これが、この領地の限界だ。
リリスは彼の手を取り、強く握りしめた。
「落ち着いてください、ガロス卿!私が指揮を執ります!」
「リ、リリス様……?」
「警備隊は東側の井戸へ!若い男性たちはバケツリレーを!女性と子供は広場の中央へ避難させて!」
リリスの声は、混乱する群衆を貫く鋭さを持っていた。
彼女の的確な指示に、人々は弾かれたように動き出す。
「おお……なんと気丈な」
ガロスは感嘆の声を漏らし、リリスに従って走り出した。
誰も気づいていない。
リリスが指差した先、人々の意識を集中させたその場所は、陽動のための「囮」であることを。
そして、その背後で、本命の備蓄庫が静かに、しかし確実に炎に包まれつつあることを。
「水を!もっと水を運べ!」
「風下には行くな!延焼を防げ!」
リリスは広場の中央に立ち、声を張り上げていた。
ドレスの裾は泥で汚れ、美しい銀髪は灰を被っている。
その姿は、民を守るために戦う聖女そのものだった。
だが、彼女の心臓は、氷のように冷え切っていた。
燃えなさい。もっと、激しく
彼女の視線の端で、備蓄庫の方角から黒煙が上がり始めた。
陽動の火に目を奪われている人々は、まだそれに気づかない。
中身が枯れ葉と木屑である偽の備蓄は、一度火が付けば爆発的に燃え広がる。
消火など不可能なほどの勢いで。
「リリス様!危険です、お下がりください!」
車椅子のナミスが、必死に声をかけてくる。
彼は自分の無力さを呪うように、拳を膝に叩きつけていた。
「いいえ、ナミス!私はここに残ります!」
リリスは彼に向かって叫んだ。
「民が不安に怯えているのです!王家の人間として、背を向けるわけにはいきません!」
嘘だ。
私がここにいるのは、備蓄庫が完全に灰になるのを見届けるため。
そして、貴方たちの目を、真実から逸らし続けるため。
広場の熱気は、祭りのそれから災害のそれへと変貌していた。
熱風が頬を打ち、焦げ臭い匂いが鼻孔を満たす。
それは罪の匂いだった。
私が招いた、私だけの罪の匂い。
リリスは舞い上がる火の粉を見上げ、心の中で泣き叫びながら、それでも気高く美しい命令を下し続けた。
「諦めてはいけません!私たちの家を、守るのです!」
太鼓のリズムが大地を震わせ、数千の足音が心臓の鼓動のように重なり合う。
リリスは演台の袖、暗がりに身を潜めていた。
華やかな表舞台から一歩退いたそこは、光と影の境界線。
「……終わりました」
闇の中から、低い囁き声が滑り込んだ。
タロシア家の騎士だ。
彼は祭りの影に紛れ、誰にも気取られることなくリリスの背後に跪いていた。
「中身のすり替え、及び点火装置の作動、完了いたしました。……既に、種火は燻り始めております」
その報告は、死刑執行の合図のように冷たく響いた。
リリスは扇子で口元を隠し、わずかに頷く。
「ご苦労様。……陽動の方は?」
「手はず通り、備蓄庫とは正反対の廃屋に仕掛けてあります。風向きも計算通り。まもなく、派手に燃え上がるでしょう」
完璧だ。
あまりにも順調すぎて、怖気が走る。
私の指先一つで、この幸せな夜が地獄へと変わる。
「下がりなさい。……決して、悟られぬように」
「御意」
気配が消えた。
残されたのは、遠くから聞こえる笑い声と、リリスの掌に残る冷ややかな汗だけ。
彼女は震える手を強く握りしめ、自分自身に言い聞かせた。
これは必要なこと。
腐敗した善意を焼き払い、新しい芽を吹かせるための、聖なる炎なのだと。
「リリス様、こちらにおられましたか」
ガロス卿が、上気した顔で歩み寄ってきた。
手には陶器のジョッキが握られている。
「民たちが貴女を呼んでいますぞ。さあ、もう一度壇上へ……」
その時だった。
広場の反対側、夜空の一部が赤く染まった。
「――火事だ!!」
誰かの叫び声が、音楽を切り裂いた。
一瞬の静寂の後、広場はパニックに包まれる。
「なんだと!?」
ガロスが目を見開き、ジョッキを取り落とした。
陶器が砕ける音が、不吉な鐘の音のように響く。
リリスは、女優としての仮面を瞬時に被った。
「ガロス卿!あちらは……民家ではありませんか!?」
彼女は悲鳴に近い声を上げ、燃え上がる方向を指差した。
その指先は震えているが、目は冷静に状況を観察している。
「い、いかん!直ちに消火を!ナミス、指示を……いや、ナミスは動けん!」
ガロスは狼狽し、右往左往している。
善良な彼は、突発的な危機に対してあまりに脆い。
これが、この領地の限界だ。
リリスは彼の手を取り、強く握りしめた。
「落ち着いてください、ガロス卿!私が指揮を執ります!」
「リ、リリス様……?」
「警備隊は東側の井戸へ!若い男性たちはバケツリレーを!女性と子供は広場の中央へ避難させて!」
リリスの声は、混乱する群衆を貫く鋭さを持っていた。
彼女の的確な指示に、人々は弾かれたように動き出す。
「おお……なんと気丈な」
ガロスは感嘆の声を漏らし、リリスに従って走り出した。
誰も気づいていない。
リリスが指差した先、人々の意識を集中させたその場所は、陽動のための「囮」であることを。
そして、その背後で、本命の備蓄庫が静かに、しかし確実に炎に包まれつつあることを。
「水を!もっと水を運べ!」
「風下には行くな!延焼を防げ!」
リリスは広場の中央に立ち、声を張り上げていた。
ドレスの裾は泥で汚れ、美しい銀髪は灰を被っている。
その姿は、民を守るために戦う聖女そのものだった。
だが、彼女の心臓は、氷のように冷え切っていた。
燃えなさい。もっと、激しく
彼女の視線の端で、備蓄庫の方角から黒煙が上がり始めた。
陽動の火に目を奪われている人々は、まだそれに気づかない。
中身が枯れ葉と木屑である偽の備蓄は、一度火が付けば爆発的に燃え広がる。
消火など不可能なほどの勢いで。
「リリス様!危険です、お下がりください!」
車椅子のナミスが、必死に声をかけてくる。
彼は自分の無力さを呪うように、拳を膝に叩きつけていた。
「いいえ、ナミス!私はここに残ります!」
リリスは彼に向かって叫んだ。
「民が不安に怯えているのです!王家の人間として、背を向けるわけにはいきません!」
嘘だ。
私がここにいるのは、備蓄庫が完全に灰になるのを見届けるため。
そして、貴方たちの目を、真実から逸らし続けるため。
広場の熱気は、祭りのそれから災害のそれへと変貌していた。
熱風が頬を打ち、焦げ臭い匂いが鼻孔を満たす。
それは罪の匂いだった。
私が招いた、私だけの罪の匂い。
リリスは舞い上がる火の粉を見上げ、心の中で泣き叫びながら、それでも気高く美しい命令を下し続けた。
「諦めてはいけません!私たちの家を、守るのです!」
