リリスは闇に溶けるようにして、重い鉄の扉を押し開けた。
蝶番が微かな悲鳴を上げたが、夜風の音にかき消される。
倉庫の中は、乾燥した藁と穀物の匂いが立ち込めていた。
手にしたカンテラの灯りを頼りに、奥へと進む。
そこには、うず高く積まれた麻袋の山があった。
昼間、私兵たちが運び込んだ「支援物資」だ。
リリスは手近な袋の一つに触れた。
粗い麻の感触。
指先で強く押すと、中身のカサカサという乾いた音が返ってくる。
穀物ではない。
枯れ葉と木屑。
完璧だ。
外見からは、誰も中身がゴミだとは気づかないだろう。
この数百の袋が、ガロス卿の長年の備蓄と混ざり合い、一つの巨大な「富の象徴」を形成している。
だが、それは蜃気楼に過ぎない。
数日後には、この場所は紅蓮の炎に包まれる。
リリスの視界が歪んだ。
暗闇の中で、赤い幻影が揺らめく。
爆ぜる音、焼け落ちる梁、そして全てを失った人々の絶望の叫び。
幻聴だと分かっていても、耳の奥にこびりついて離れない。
身震いがした。
寒さのせいではない。
自らが引き起こそうとしている破滅の規模に、魂が震えているのだ。
「……燃えなさい」
リリスは呟いた。
声は震えていたが、言葉には呪いのような響きがあった。
全てを灰にして、その灰の中から、新しい秩序を作らなければならない。
たとえそれが、悪魔の所業だと罵られようとも。
自室に戻ったリリスは、扉に背を預けて崩れ落ちた。
部屋は冷え切っていた。
暖炉の火は消えかけ、赤い残り火だけが、今の自分の心のように頼りなく明滅している。
孤独。
その言葉が、重い鉛となって胸を押し潰す。
誰にも言えない。
ナミスには聖女の仮面を被り、ガロスには慈悲深い令嬢を演じ、カシリア殿下には従順な婚約者を装う。
誰も、本当の私を知らない。
誰も、この震える手を知らない。
それに引き換え、エリナはどうだろうか。
脳裏に、あの太陽のような笑顔が浮かぶ。
彼女は今頃、王都の煌びやかな光の中で、愛する人々に囲まれて笑っているのだろう。
父カストの不器用だが深い愛情。
母ミカレンの献身的な慈しみ。
そして、カシリア殿下の信頼と、隠しきれない好意。
彼女には秘密がない。
いや、出生という秘密はあるが、それは彼女を縛る鎖ではなく、むしろ悲劇のヒロインとして彼女を輝かせる装飾品だ。
もし家柄が公になれば、彼女は堂々と公爵令嬢として迎えられ、その天真爛漫さで社交界の寵児となるだろう。
誰もが彼女を愛し、誰もが彼女を許す。
彼女が剣を振るえば「勇敢だ」と称えられ、彼女が無作法に笑えば「飾らない」と愛される。
私はどうだ。
私が剣を持てば「野蛮」と蔑まれ、私が笑えば「作り物」と疑われる。
同じ父から生まれたはずなのに、光と影ほどに違う。
私は、彼女の影でしかないのか。
彼女が輝くための、踏み台としての悪役。
そう定められた運命の歯車が、ギシギシと音を立てて私をすり潰していく。
「……う、ぐ……」
リリスは胸を掻き毟った。
息ができない。
空気が薄いわけではないのに、肺が酸素を取り込むことを拒絶しているようだ。
私は何をしているのだろう。
婚約破棄される未来。
それが見えているのに、なぜ逃げ出せない。
逃げようとしても、カシリア殿下との婚約という鎖に繋がれ、王太子妃としての責務という重石を載せられ、逃げることさえ許されない。
そして任されたのは、この薄汚い計画だ。
ナミス。
あの清らかな青年。
国のために体を捧げ、傷つき、それでも民を思って生きる彼。
私は、そんな彼の最後の拠り所である領地を、彼の父の誇りを、焼き払おうとしている。
彼の血肉をすすり、その骨を薪にして、自分の功績という暖を取ろうとしている。
これは政治。
これは略奪。
悪魔だ。
私は、人の皮を被った悪魔だ。
善意を利用し、信じる者の心を踏みにじり、平和と幸せを壊す魔女だ。
「……ひっ、うう……」
喉の奥から、ひきつけのような嗚咽が漏れる。
涙が止まらない。
目から、体中の水分が悲しみとなって流れ落ちていく。
苦しい。
誰か、助けて。
誰か、私を止めて。
いっそ、カシリア殿下が今すぐに婚約破棄を突きつけてくれれば、この苦しみから解放されるのに。
いっそ、あの倉庫の火に巻かれて、私も一緒に灰になってしまえば楽になれるのに。
リリスは床に丸まり、冷たい石に額を押し付けた。
その姿は、華麗な公爵令嬢には程遠く、罪に怯えるただの小さな子供のようだった。
闇の中で、誰にも届かない慟哭だけが、虚しく響き渡っていた。
蝶番が微かな悲鳴を上げたが、夜風の音にかき消される。
倉庫の中は、乾燥した藁と穀物の匂いが立ち込めていた。
手にしたカンテラの灯りを頼りに、奥へと進む。
そこには、うず高く積まれた麻袋の山があった。
昼間、私兵たちが運び込んだ「支援物資」だ。
リリスは手近な袋の一つに触れた。
粗い麻の感触。
指先で強く押すと、中身のカサカサという乾いた音が返ってくる。
穀物ではない。
枯れ葉と木屑。
完璧だ。
外見からは、誰も中身がゴミだとは気づかないだろう。
この数百の袋が、ガロス卿の長年の備蓄と混ざり合い、一つの巨大な「富の象徴」を形成している。
だが、それは蜃気楼に過ぎない。
数日後には、この場所は紅蓮の炎に包まれる。
リリスの視界が歪んだ。
暗闇の中で、赤い幻影が揺らめく。
爆ぜる音、焼け落ちる梁、そして全てを失った人々の絶望の叫び。
幻聴だと分かっていても、耳の奥にこびりついて離れない。
身震いがした。
寒さのせいではない。
自らが引き起こそうとしている破滅の規模に、魂が震えているのだ。
「……燃えなさい」
リリスは呟いた。
声は震えていたが、言葉には呪いのような響きがあった。
全てを灰にして、その灰の中から、新しい秩序を作らなければならない。
たとえそれが、悪魔の所業だと罵られようとも。
自室に戻ったリリスは、扉に背を預けて崩れ落ちた。
部屋は冷え切っていた。
暖炉の火は消えかけ、赤い残り火だけが、今の自分の心のように頼りなく明滅している。
孤独。
その言葉が、重い鉛となって胸を押し潰す。
誰にも言えない。
ナミスには聖女の仮面を被り、ガロスには慈悲深い令嬢を演じ、カシリア殿下には従順な婚約者を装う。
誰も、本当の私を知らない。
誰も、この震える手を知らない。
それに引き換え、エリナはどうだろうか。
脳裏に、あの太陽のような笑顔が浮かぶ。
彼女は今頃、王都の煌びやかな光の中で、愛する人々に囲まれて笑っているのだろう。
父カストの不器用だが深い愛情。
母ミカレンの献身的な慈しみ。
そして、カシリア殿下の信頼と、隠しきれない好意。
彼女には秘密がない。
いや、出生という秘密はあるが、それは彼女を縛る鎖ではなく、むしろ悲劇のヒロインとして彼女を輝かせる装飾品だ。
もし家柄が公になれば、彼女は堂々と公爵令嬢として迎えられ、その天真爛漫さで社交界の寵児となるだろう。
誰もが彼女を愛し、誰もが彼女を許す。
彼女が剣を振るえば「勇敢だ」と称えられ、彼女が無作法に笑えば「飾らない」と愛される。
私はどうだ。
私が剣を持てば「野蛮」と蔑まれ、私が笑えば「作り物」と疑われる。
同じ父から生まれたはずなのに、光と影ほどに違う。
私は、彼女の影でしかないのか。
彼女が輝くための、踏み台としての悪役。
そう定められた運命の歯車が、ギシギシと音を立てて私をすり潰していく。
「……う、ぐ……」
リリスは胸を掻き毟った。
息ができない。
空気が薄いわけではないのに、肺が酸素を取り込むことを拒絶しているようだ。
私は何をしているのだろう。
婚約破棄される未来。
それが見えているのに、なぜ逃げ出せない。
逃げようとしても、カシリア殿下との婚約という鎖に繋がれ、王太子妃としての責務という重石を載せられ、逃げることさえ許されない。
そして任されたのは、この薄汚い計画だ。
ナミス。
あの清らかな青年。
国のために体を捧げ、傷つき、それでも民を思って生きる彼。
私は、そんな彼の最後の拠り所である領地を、彼の父の誇りを、焼き払おうとしている。
彼の血肉をすすり、その骨を薪にして、自分の功績という暖を取ろうとしている。
これは政治。
これは略奪。
悪魔だ。
私は、人の皮を被った悪魔だ。
善意を利用し、信じる者の心を踏みにじり、平和と幸せを壊す魔女だ。
「……ひっ、うう……」
喉の奥から、ひきつけのような嗚咽が漏れる。
涙が止まらない。
目から、体中の水分が悲しみとなって流れ落ちていく。
苦しい。
誰か、助けて。
誰か、私を止めて。
いっそ、カシリア殿下が今すぐに婚約破棄を突きつけてくれれば、この苦しみから解放されるのに。
いっそ、あの倉庫の火に巻かれて、私も一緒に灰になってしまえば楽になれるのに。
リリスは床に丸まり、冷たい石に額を押し付けた。
その姿は、華麗な公爵令嬢には程遠く、罪に怯えるただの小さな子供のようだった。
闇の中で、誰にも届かない慟哭だけが、虚しく響き渡っていた。
