罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~

翌日、王家学院の回廊には、目に見えぬ霧のように湿った噂が立ち込めていた。

「見たか?あの女の剣を」

「王太子殿下を倒したらしいぞ」

「一体、何者なんだ?」

学生たちはすれ違いざまに目配せをし、声を潜めて情報を交換していた。

昨日の訓練場で起きた出来事は、一夜にして脚色され、肥大化し、伝説めいた色彩を帯びて学院中を駆け巡っていた。

カシリアが歩けば、波が割れるように道が開ける。

だが、その背中に突き刺さる視線は、以前のような純粋な敬意だけではなかった。

彼らが求めているのは、新たな英雄の「正体」だ。

名も無き女剣士が、なぜ王太子の信頼を得て、指南役などという要職に就いたのか。

その出自は。

家柄は。

貴族社会において、血筋とは即ち存在証明であり、それが不明瞭であることは、最も甘美で危険な蜜の味を放つ。

カシリアは表情筋を凍らせ、完璧な王太子の仮面を貼り付けて回廊を進んだ。

内側では、胃の腑が焼けるような焦燥感が渦巻いている。

一歩間違えれば、リリスを守るための城壁が崩壊する。

その恐怖が、靴音のリズムを微かに狂わせていた。

「殿下、例の件ですが」

人影のない階段の踊り場で、影から染み出すようにザットが現れた。

カシリアは足を止めず、視線だけで先を促す。

「手はず通りに。……『北方の辺境、今は無き小領主の末裔』。武者修行の旅の果てにオレが拾い上げた、と」

低い声で囁く。

それは昨夜、眠れぬ夜を過ごしながら編み上げた、精巧な嘘の網だった。

タロシア公爵家の血縁であることを隠すには、物理的な距離と、確認しようのない没落という設定が必要だ。

「学生たちの間には、既にそのように流布しております。『武芸のみに生きた野蛮な家系』という評価も、あながち彼女の振る舞いと矛盾しませんので」

ザットの報告は淡々としていた。

「……だが、油断はするな。特に高位貴族の子息たちは鼻が利く」

カシリアは釘を刺した。

彼らは血の匂いと秘密の匂いに敏感だ。

少しでも綻びを見せれば、ハイエナのように食らいついてくるだろう。

「御意。……しかし殿下、いつまで隠し通せるものでしょうか」

ザットの問いは、カシリア自身の心の声を代弁していた。

「隠すのではない。……忘れさせるのだ」

カシリアは自らに言い聞かせるように答えた。

「コリンダ王子が来れば、学生たちの関心はそちらに移る。それまでの辛抱だ」

そう、これは時間との戦いだ。

帝国の脅威という巨大な嵐が来るまでの間、この小さな火種を吹き消し続けるしかない。

ザットが再び影に消えると、カシリアは深呼吸をし、重い扉を開けて教室へと入っていった。

教室の空気は、カシリアが入室した瞬間に張り詰めた。

普段なら遠巻きに眺めるだけの令嬢たちが、今日は扇子で口元を隠しながら、じりじりと距離を詰めてくる。

「ごきげんよう、殿下」

一人の令嬢が声をかけた。

有力な伯爵家の娘だ。

その瞳は笑っているが、奥底には冷徹な計算が見え隠れする。

「昨日の試合、拝見いたしましたわ。……あの、エリナという方。とても野性味あふれる殿方……いえ、女性でしたわね」

「ああ。彼女の剣には、学ぶべきところが多い」

カシリアは社交的な笑みを崩さずに応じる。

「でも、不思議ですわ。あのような実力をお持ちなら、社交界で噂になってもよろしいはず。……どちらのご出身なのですか?」

直球の質問。

周囲の学生たちが、会話を聞き漏らすまいと耳をそばだてる気配がする。

カシリアの背筋に、冷たい汗が伝った。

ここで言葉を詰まらせれば、疑惑は確信へと変わる。

「彼女は、北方の山間部で育ったそうだ。世俗とは無縁の、武のみを尊ぶ古い家柄でね。……家名は既に失われているが、その技だけは本物だ」

用意していた台詞を、滑らかに口にする。

喉が渇く。

嘘を吐くたびに、口の中に砂を噛んだような不快感が広がる。

「まあ、没落貴族の末裔……。まるで物語のようですわね」

令嬢は納得したように頷いたが、すぐに次の矢を放ってきた。

「でも、どこかで拝見したような気がいたしますの。あの金色の髪、そしてあの瞳の色……どこか、タロシア公爵家の……」

心臓が跳ね上がった。

タロシア家の特徴的な色彩。

リリスとは違うが、父親のカスト公爵には似ている部分がある。

カシリアは反射的に令嬢の言葉を遮った。

「他人の空似だろう。……それより、帝国の使節団についてだが」

強引な話題の転換。

不自然さが残ることを承知で、カシリアは声を張った。

「コリンダ王子は武闘派として知られる。我々も、彼女のような実戦経験者から学ばねば、国を守れんぞ」

「国を守る」という大義名分を盾にする。

学生たちの愛国心を刺激し、個人的な詮索から目を逸らさせる。

「そ、そうですわね。帝国の脅威は目前ですもの」

令嬢は気圧されたように引き下がった。

カシリアは内心で安堵の息を吐いたが、手のひらは爪が食い込むほど強く握りしめられていた。

放課後、カシリアは訓練場の隅で、エリナの指導風景を眺めていた。

彼女は今や、完全に場の中心だった。

「違う!そうじゃない、もっと腰を低く!」

「相手が剣を持ってるからってビビるな!蹴り飛ばせ!」

エリナの声が響き渡る。

貴族の作法など無視した、荒っぽい指導。

だが、学生たちは目を輝かせて彼女に従っていた。

昨日までカシリアに向けられていた羨望の眼差しが、今は彼女に注がれている。

彼女は、自身の出生がどれほどの爆弾であるかを知りながら、それを全く感じさせない無邪気さで、周囲を魅了していく。

その光景は眩しく、そして残酷だった。

彼女が輝けば輝くほど、その影に隠された「リリスの姉」という真実が、色濃く浮かび上がってくる。

「……罪な存在だ」

カシリアは呟いた。

彼女に悪意はない。

だが、その無垢な才能こそが、リリスを追い詰め、カシリアを嘘の迷宮へと誘い込む。

カシリアは懐に入れたリリスへの手紙の感触を確かめた。

そこには、この光景の何一つ書かれていない。

ただの虚構、優しい嘘。