一旦家に戻り、事情説明して、生活できる程度の荷物を整えたら、私は馬車に乗った。
王都の喧騒は遥か彼方へと消え去り、馬車の車窓には延々と続く荒野とまばらな林だけが流れていた。
車輪が石を噛む音と、蹄の音が一定のリズムを刻み、車内には微かな振動が伝わり続けている。
リリスはクッションに深く身を沈め、窓の外の景色を虚ろな瞳で追っていた。
対面の席には誰もおらず、ただ彼女の孤独を強調する空間が広がっている。
カシリア殿下は、婚約者である自分を守るために、最精鋭の騎士たちを護衛として付けてくださった。
馬車の前後を固める重装の騎馬隊。
その甲冑が太陽の光を反射し、時折まぶしい閃光となって視界を横切る。
リリスは窓のカーテンを少し引き、馬車のすぐ横を並走する騎士の一人に視線を向けた。
兜のバイザーを上げ、手綱を握る若い男の横顔に見覚えがあった。
確か、カシリア殿下の側近の一人、ザロだ。
以前、学院で殿下の後ろに控えていた姿を記憶している。
ナミス卿ほど目立つ存在ではないが、その分、実直で忠実な働きをするのだろう。
リリスは窓ガラスを軽く叩き、合図を送った。
ザロが気づき、馬を寄せてくる。
「リリス様、いかがなさいましたか?何かご不便でも?」
馬上の彼は礼儀正しく頭を下げ、心配そうに眉を寄せた。
「いいえ、ザロ。少し外の風に当たりたかっただけですわ」
リリスは窓を半分ほど開けた。
乾燥した土の匂いを含んだ風が吹き込み、彼女の桜色の髪を揺らす。
「それに、これからの道行き、貴方のような方が守ってくださると思うと心強いですわ」
完璧な微笑みを浮かべ、労いの言葉をかける。
「もったいないお言葉です。殿下より、リリス様を命に代えてもお守りせよと厳命を受けておりますゆえ」
ザロは恐縮し、顔を赤らめて胸を張った。
純朴な男だ。
殿下の影として暗躍することもあるナミス卿とは違い、この男には裏表がないように見える。
「ところで、ザロ卿。貴方はガーナー領へ行かれたことは?」
リリスはさりげなく話題を転じた。
これから自分が統治しなければならない土地の情報を、少しでも多く集めておきたかった。
書面上の数字や地図は見飽きるほど確認したが、実際に現地を見た者の生の声は貴重だ。
「はい、何度か伝令として赴いたことがあります」
ザロは手綱を緩め、懐かしむように目を細めた。
「どのような場所ですの?」
「一言で言えば、非常に平和な土地です」
ザロの声は明るかった。
「争いごともなく、犯罪もほとんど聞きません。領主様……ナミス隊長のお父上ですが、あの方はとても徳の高い方で、領民たちからも慕われております」
「平和、ですか」
「ええ。ただ……少々静かすぎるかもしれません。若者は王都へ出稼ぎに出てしまい、村に残っているのは老人や怪我をした元兵士ばかりでして」
ザロは言葉を選ぶように、少し口ごもった。
「活気という点では、王都とは比べ物になりませんが……のんびりとしていて、私は好きですよ。時間がゆっくり流れているようで」
彼は無邪気に笑った。
その言葉に嘘はないのだろう。
彼のような軍人にとって、血なまぐさい戦場や権謀術数の渦巻く王都よりも、何も起きない田舎の方が心休まる場所なのかもしれない。
だが、リリスの表情は微かに曇った。
ザロの言う「平和」という言葉の響きが、彼女の耳には「停滞」と同義に聞こえたからだ。
「……そうですか。静かな場所なのですね」
リリスは相槌を打ちつつ、内心で冷徹な計算を始めていた。
リリスは窓を閉め、膝の上に広げた地図に視線を落とした。
指先で、これから向かうガーナー領の位置をなぞる。
王都から南西へ馬車で七日。
主要街道である「王の道」からわずかに外れているものの、地理的には決して悪くない。
隣接するサウス伯爵領は穀倉地帯であり、西側の国境付近には鉱山もある。
ガーナー領はその中継地点に位置しており、本来であれば物流の拠点として、宿場町や市場が発展していてもおかしくない立地だ。
それなのに、なぜ「若者がいない」「活気がない」などという状況に陥っているのか。
商業が繁栄していないというのは、地理的要因ではない。
明らかに人的な、統治上の欠陥がある。
「……ナミスのご実家ですものね」
リリスは独り言ちた。
あの有能なナミスの血縁が治めているにしては、あまりにも無能な結果ではないか。
あるいは、ナミスがあれほどまでに完璧なのは、実家の惨状を見て反面教師にしたからなのか。
それとも、ガーナー家には「商才」というものが遺伝的に欠落しているのか。
リリスはふと、ナミスが王都の市場で値切り交渉に失敗し、高値で野菜を買わされている光景を想像してしまった。
あり得ない。
あの男なら、店主を論理的に追い詰めて原価まで下げさせるだろう。
ならば、父親である現領主ガロス・ガーナーの方に問題があるのは明白だ。
「徳が高い」というザロの評価が、逆に不穏な響きを帯びてくる。
清廉潔白すぎて商売ができないのか、それとも単にお人好しなのか。
どちらにせよ、リリスがこれから直面するのは、平和な楽園などではないが。
馬車が大きく揺れ、リリスの思考を中断させた。
車輪が深い轍にはまったようだ。
整備されていない道。
これもまた、領地の貧しさを示す証左だ。
善意によって首を絞められた、緩やかなる死に体の土地だ。
でも、王家からのお金が貰えば、確実にある程度の体面は保てるでしょう。
「平和ね……」
王都の喧騒は遥か彼方へと消え去り、馬車の車窓には延々と続く荒野とまばらな林だけが流れていた。
車輪が石を噛む音と、蹄の音が一定のリズムを刻み、車内には微かな振動が伝わり続けている。
リリスはクッションに深く身を沈め、窓の外の景色を虚ろな瞳で追っていた。
対面の席には誰もおらず、ただ彼女の孤独を強調する空間が広がっている。
カシリア殿下は、婚約者である自分を守るために、最精鋭の騎士たちを護衛として付けてくださった。
馬車の前後を固める重装の騎馬隊。
その甲冑が太陽の光を反射し、時折まぶしい閃光となって視界を横切る。
リリスは窓のカーテンを少し引き、馬車のすぐ横を並走する騎士の一人に視線を向けた。
兜のバイザーを上げ、手綱を握る若い男の横顔に見覚えがあった。
確か、カシリア殿下の側近の一人、ザロだ。
以前、学院で殿下の後ろに控えていた姿を記憶している。
ナミス卿ほど目立つ存在ではないが、その分、実直で忠実な働きをするのだろう。
リリスは窓ガラスを軽く叩き、合図を送った。
ザロが気づき、馬を寄せてくる。
「リリス様、いかがなさいましたか?何かご不便でも?」
馬上の彼は礼儀正しく頭を下げ、心配そうに眉を寄せた。
「いいえ、ザロ。少し外の風に当たりたかっただけですわ」
リリスは窓を半分ほど開けた。
乾燥した土の匂いを含んだ風が吹き込み、彼女の桜色の髪を揺らす。
「それに、これからの道行き、貴方のような方が守ってくださると思うと心強いですわ」
完璧な微笑みを浮かべ、労いの言葉をかける。
「もったいないお言葉です。殿下より、リリス様を命に代えてもお守りせよと厳命を受けておりますゆえ」
ザロは恐縮し、顔を赤らめて胸を張った。
純朴な男だ。
殿下の影として暗躍することもあるナミス卿とは違い、この男には裏表がないように見える。
「ところで、ザロ卿。貴方はガーナー領へ行かれたことは?」
リリスはさりげなく話題を転じた。
これから自分が統治しなければならない土地の情報を、少しでも多く集めておきたかった。
書面上の数字や地図は見飽きるほど確認したが、実際に現地を見た者の生の声は貴重だ。
「はい、何度か伝令として赴いたことがあります」
ザロは手綱を緩め、懐かしむように目を細めた。
「どのような場所ですの?」
「一言で言えば、非常に平和な土地です」
ザロの声は明るかった。
「争いごともなく、犯罪もほとんど聞きません。領主様……ナミス隊長のお父上ですが、あの方はとても徳の高い方で、領民たちからも慕われております」
「平和、ですか」
「ええ。ただ……少々静かすぎるかもしれません。若者は王都へ出稼ぎに出てしまい、村に残っているのは老人や怪我をした元兵士ばかりでして」
ザロは言葉を選ぶように、少し口ごもった。
「活気という点では、王都とは比べ物になりませんが……のんびりとしていて、私は好きですよ。時間がゆっくり流れているようで」
彼は無邪気に笑った。
その言葉に嘘はないのだろう。
彼のような軍人にとって、血なまぐさい戦場や権謀術数の渦巻く王都よりも、何も起きない田舎の方が心休まる場所なのかもしれない。
だが、リリスの表情は微かに曇った。
ザロの言う「平和」という言葉の響きが、彼女の耳には「停滞」と同義に聞こえたからだ。
「……そうですか。静かな場所なのですね」
リリスは相槌を打ちつつ、内心で冷徹な計算を始めていた。
リリスは窓を閉め、膝の上に広げた地図に視線を落とした。
指先で、これから向かうガーナー領の位置をなぞる。
王都から南西へ馬車で七日。
主要街道である「王の道」からわずかに外れているものの、地理的には決して悪くない。
隣接するサウス伯爵領は穀倉地帯であり、西側の国境付近には鉱山もある。
ガーナー領はその中継地点に位置しており、本来であれば物流の拠点として、宿場町や市場が発展していてもおかしくない立地だ。
それなのに、なぜ「若者がいない」「活気がない」などという状況に陥っているのか。
商業が繁栄していないというのは、地理的要因ではない。
明らかに人的な、統治上の欠陥がある。
「……ナミスのご実家ですものね」
リリスは独り言ちた。
あの有能なナミスの血縁が治めているにしては、あまりにも無能な結果ではないか。
あるいは、ナミスがあれほどまでに完璧なのは、実家の惨状を見て反面教師にしたからなのか。
それとも、ガーナー家には「商才」というものが遺伝的に欠落しているのか。
リリスはふと、ナミスが王都の市場で値切り交渉に失敗し、高値で野菜を買わされている光景を想像してしまった。
あり得ない。
あの男なら、店主を論理的に追い詰めて原価まで下げさせるだろう。
ならば、父親である現領主ガロス・ガーナーの方に問題があるのは明白だ。
「徳が高い」というザロの評価が、逆に不穏な響きを帯びてくる。
清廉潔白すぎて商売ができないのか、それとも単にお人好しなのか。
どちらにせよ、リリスがこれから直面するのは、平和な楽園などではないが。
馬車が大きく揺れ、リリスの思考を中断させた。
車輪が深い轍にはまったようだ。
整備されていない道。
これもまた、領地の貧しさを示す証左だ。
善意によって首を絞められた、緩やかなる死に体の土地だ。
でも、王家からのお金が貰えば、確実にある程度の体面は保てるでしょう。
「平和ね……」
