翌朝。
タロシア邸の正門には、王家の紋章が入った豪奢な馬車が停まっていた。
カシリア殿下が自ら迎えに来てくださったのだ。
「おはよう、リリス」
差し出された手。
白い手袋。
「おはようございます、殿下」
私はその手に自分の手を重ねる。
私の左手の手袋の下には、まだ生々しい傷跡が隠されている。
殿下はそのことを知っていながら、何も言わずに優しくエスコートしてくれた。
馬車が動き出す。
車窓から見える王都の風景が、後ろへと流れていく。
今日が、最後だ。
あの息の詰まる教室、突き刺さる視線、孤独なバラ園。
すべてに別れを告げるための、最初で最後の華やかな凱旋。
「……緊張しているか?」
殿下が問う。
「少しだけ」
「大丈夫だ。全て手はずは整っている。……君はただ、私の隣で笑っていてくれればいい」
殿下の表情は硬かった。
彼もまた、戦場へ向かう覚悟をしているのだ。
私を守るという、共犯の契約を果たすために。
王家学院の大講堂は、全校生徒の熱気で満ちていた。
突然の全校集会。
壇上には、学生会長であるカシリア殿下と、副会長である私が並んで立っている。
ざわめきが波のように広がり、やがて殿下が手を挙げると、潮が引くように静まり返った。
「諸君、急に集まってもらってすまない」
殿下の声が、会場を響き渡る。
「今日は、学生会長として、そしてメニア王国王太子として、重要な報告がある」
殿下は一呼吸置き、隣に立つ私へと視線を向けた。
その瞳に宿る熱が、私を焼き尽くすようだった。
「私、カシリア・メニアは……ここにいるリリス・タロシア嬢と、正式に婚約を結んだことを発表する」
悲鳴のような歓声、驚愕の息遣い、そして割れんばかりの拍手。
講堂が揺れるほどの衝撃が走る。
エリナの噂など、一瞬で吹き飛んだ。
王太子の口から直接語られる「正式な婚約」という事実は、絶対的な真実として世界を上書きする。
殿下は歓声が収まるのを待たず、さらに続けた。
「それに伴い、リリス嬢には王家より重大な責務を依頼することとなった」
会場が再び静まる。
「彼女は未来の王太子妃として、領地経営の実務を学ぶため……我が国でも重要な領地へ赴任することとなる」
「これは特例中の特例であり、彼女の類稀なる才覚を見込んでの王命である。……よって、彼女は本日をもって、当学院を休学し、公務に専念することとなる」
どよめきが起きる。
「追放」でも「逃亡」でもない。「栄転」。
誰もが羨む、王太子妃への最短コースとしての実務研修。
完璧なシナリオだった。
「リリス」
殿下に促され、私は一歩前へ進み出た。
数千の視線が私に突き刺さる。
かつては恐怖の対象だったその視線が、今はただの背景に見える。
私はもう、ここの住人ではないのだから。
「……ご紹介に預かりました、リリス・タロシアでございます」
私は、今までで一番美しい声を出し、一番優雅な微笑みを浮かべた。
「この度、殿下より過分な愛と信頼を賜り、身に余る光栄に震えております」
嘘。
「学生としての生活を離れることは寂しくもありますが……殿下の支えとなり、国の礎となるべく、この身を捧げる覚悟でございます」
嘘。
全部、嘘。
視界の端に、エリナの姿が見えた。
彼女は口をあんぐりと開け、けれど目を輝かせて拍手を送っていた。
ファティーナがハンカチで涙を拭っているのが見えた。
皆、騙されている。
私が「幸せな未来」へと旅立つのだと信じている。
私は、惨めな敗残兵ではなく、凱旋将軍としてこの場を去るのだ。
「皆様、今までありがとうございました。……ごきげんよう」
深く、深く一礼する。
顔を上げた時、私の目から一筋の涙が零れた。
それは演技でもあり、同時に、本当の別れの涙でもあった。
式典が終わり、生徒会室に戻った私たちは、ようやく二人きりの時間を取り戻した。
「お疲れ様、リリス。……よくやってくれた。」
カシリア殿下は肩の力を抜き、私に椅子を勧めた。
「殿下こそ。……素晴らしい演説でしたわ。」
私は勧められるままに座り、強張っていた足をさすった。
カシリア殿下は机の引き出しから、分厚い羊皮紙の束を取り出し、私の前に置いた。
「これが、君に任せたい領地の資料だ。」
「ガーナー領……ナミス様のご実家の領地ですね?」
「ええ。」
カシリア殿下は頷き、資料の一枚を広げた。
ナミスの父であるガーナー伯爵は、忠実だが少々商才に欠けていてな。
「領地は平和だが、財政は慢性的な赤字が続いている。」
「君の任務は、この赤字を解消し、領地の経営を立て直すことだ。」
「赤字の解消……ですか。」
私は眉を少しひそめた。
経営の立て直しは容易なことではない。
だが、カシリア殿下は安心させるように微笑んだ。
「心配はいらない。これは表向きの「試練」だが、解決策はすでに用意してある。」
彼はもう一枚の書類を提示した。
王家からの特別資金援助の認可証だ。
「これを使えば、当面の負債は即座に完済できるし、新たな事業への投資も可能だ。」
「つまり、君は王家の代理人として現地へ行き、この資金を使って慈善事業や公共事業を行い、領民の支持を得るだけでいい。」
なるほど……。
私は書類に目を通した。
王家の金という圧倒的な力を使って、問題を解決する。
実務能力というよりは、王家の威光を示すための政治的なパフォーマンスに近い。
それならば、私にも難しくはないだろう。
「ナミスにも話は通してある。現地では彼の一族が君を全力でサポートするはずだ。」
「静かで、平和な場所だ。……君が心を休めるには、最適な環境だと思う。」
カシリア殿下の瞳には、私への気遣いが滲んでいた。
彼は本当に、私のために安全な隠れ家を用意してくれたのだ。
「ありがとうございます、殿下。……謹んで、お受けいたします。」
私は資料を胸に抱き、深く頭を下げた。
これは任務であり、同時に療養でもある。
これから、私は静かで、平和で、そして何も起こらない場所へ。
そこで私は、殿下がエリナと恋に落ち、私を忘れていくのを、ただ静かに待つのだ。
「……リリス」
講堂を出て、馬車に乗り込む直前、殿下が囁いた。
「もう何も怖いことなどない。ガーナー領は平和の場所だ。オレがいくのを、待っていてくれ」
その言葉に縋りつきたくなる自分を殺し、私は首を横に振った。
「いいえ、殿下。ご公務を優先なさってくださいませ」
私は最後まで、完璧な「物分かりの良い婚約者」を演じきる。
「私は……いつまでも、お待ちしておりますから」
タロシア邸の正門には、王家の紋章が入った豪奢な馬車が停まっていた。
カシリア殿下が自ら迎えに来てくださったのだ。
「おはよう、リリス」
差し出された手。
白い手袋。
「おはようございます、殿下」
私はその手に自分の手を重ねる。
私の左手の手袋の下には、まだ生々しい傷跡が隠されている。
殿下はそのことを知っていながら、何も言わずに優しくエスコートしてくれた。
馬車が動き出す。
車窓から見える王都の風景が、後ろへと流れていく。
今日が、最後だ。
あの息の詰まる教室、突き刺さる視線、孤独なバラ園。
すべてに別れを告げるための、最初で最後の華やかな凱旋。
「……緊張しているか?」
殿下が問う。
「少しだけ」
「大丈夫だ。全て手はずは整っている。……君はただ、私の隣で笑っていてくれればいい」
殿下の表情は硬かった。
彼もまた、戦場へ向かう覚悟をしているのだ。
私を守るという、共犯の契約を果たすために。
王家学院の大講堂は、全校生徒の熱気で満ちていた。
突然の全校集会。
壇上には、学生会長であるカシリア殿下と、副会長である私が並んで立っている。
ざわめきが波のように広がり、やがて殿下が手を挙げると、潮が引くように静まり返った。
「諸君、急に集まってもらってすまない」
殿下の声が、会場を響き渡る。
「今日は、学生会長として、そしてメニア王国王太子として、重要な報告がある」
殿下は一呼吸置き、隣に立つ私へと視線を向けた。
その瞳に宿る熱が、私を焼き尽くすようだった。
「私、カシリア・メニアは……ここにいるリリス・タロシア嬢と、正式に婚約を結んだことを発表する」
悲鳴のような歓声、驚愕の息遣い、そして割れんばかりの拍手。
講堂が揺れるほどの衝撃が走る。
エリナの噂など、一瞬で吹き飛んだ。
王太子の口から直接語られる「正式な婚約」という事実は、絶対的な真実として世界を上書きする。
殿下は歓声が収まるのを待たず、さらに続けた。
「それに伴い、リリス嬢には王家より重大な責務を依頼することとなった」
会場が再び静まる。
「彼女は未来の王太子妃として、領地経営の実務を学ぶため……我が国でも重要な領地へ赴任することとなる」
「これは特例中の特例であり、彼女の類稀なる才覚を見込んでの王命である。……よって、彼女は本日をもって、当学院を休学し、公務に専念することとなる」
どよめきが起きる。
「追放」でも「逃亡」でもない。「栄転」。
誰もが羨む、王太子妃への最短コースとしての実務研修。
完璧なシナリオだった。
「リリス」
殿下に促され、私は一歩前へ進み出た。
数千の視線が私に突き刺さる。
かつては恐怖の対象だったその視線が、今はただの背景に見える。
私はもう、ここの住人ではないのだから。
「……ご紹介に預かりました、リリス・タロシアでございます」
私は、今までで一番美しい声を出し、一番優雅な微笑みを浮かべた。
「この度、殿下より過分な愛と信頼を賜り、身に余る光栄に震えております」
嘘。
「学生としての生活を離れることは寂しくもありますが……殿下の支えとなり、国の礎となるべく、この身を捧げる覚悟でございます」
嘘。
全部、嘘。
視界の端に、エリナの姿が見えた。
彼女は口をあんぐりと開け、けれど目を輝かせて拍手を送っていた。
ファティーナがハンカチで涙を拭っているのが見えた。
皆、騙されている。
私が「幸せな未来」へと旅立つのだと信じている。
私は、惨めな敗残兵ではなく、凱旋将軍としてこの場を去るのだ。
「皆様、今までありがとうございました。……ごきげんよう」
深く、深く一礼する。
顔を上げた時、私の目から一筋の涙が零れた。
それは演技でもあり、同時に、本当の別れの涙でもあった。
式典が終わり、生徒会室に戻った私たちは、ようやく二人きりの時間を取り戻した。
「お疲れ様、リリス。……よくやってくれた。」
カシリア殿下は肩の力を抜き、私に椅子を勧めた。
「殿下こそ。……素晴らしい演説でしたわ。」
私は勧められるままに座り、強張っていた足をさすった。
カシリア殿下は机の引き出しから、分厚い羊皮紙の束を取り出し、私の前に置いた。
「これが、君に任せたい領地の資料だ。」
「ガーナー領……ナミス様のご実家の領地ですね?」
「ええ。」
カシリア殿下は頷き、資料の一枚を広げた。
ナミスの父であるガーナー伯爵は、忠実だが少々商才に欠けていてな。
「領地は平和だが、財政は慢性的な赤字が続いている。」
「君の任務は、この赤字を解消し、領地の経営を立て直すことだ。」
「赤字の解消……ですか。」
私は眉を少しひそめた。
経営の立て直しは容易なことではない。
だが、カシリア殿下は安心させるように微笑んだ。
「心配はいらない。これは表向きの「試練」だが、解決策はすでに用意してある。」
彼はもう一枚の書類を提示した。
王家からの特別資金援助の認可証だ。
「これを使えば、当面の負債は即座に完済できるし、新たな事業への投資も可能だ。」
「つまり、君は王家の代理人として現地へ行き、この資金を使って慈善事業や公共事業を行い、領民の支持を得るだけでいい。」
なるほど……。
私は書類に目を通した。
王家の金という圧倒的な力を使って、問題を解決する。
実務能力というよりは、王家の威光を示すための政治的なパフォーマンスに近い。
それならば、私にも難しくはないだろう。
「ナミスにも話は通してある。現地では彼の一族が君を全力でサポートするはずだ。」
「静かで、平和な場所だ。……君が心を休めるには、最適な環境だと思う。」
カシリア殿下の瞳には、私への気遣いが滲んでいた。
彼は本当に、私のために安全な隠れ家を用意してくれたのだ。
「ありがとうございます、殿下。……謹んで、お受けいたします。」
私は資料を胸に抱き、深く頭を下げた。
これは任務であり、同時に療養でもある。
これから、私は静かで、平和で、そして何も起こらない場所へ。
そこで私は、殿下がエリナと恋に落ち、私を忘れていくのを、ただ静かに待つのだ。
「……リリス」
講堂を出て、馬車に乗り込む直前、殿下が囁いた。
「もう何も怖いことなどない。ガーナー領は平和の場所だ。オレがいくのを、待っていてくれ」
その言葉に縋りつきたくなる自分を殺し、私は首を横に振った。
「いいえ、殿下。ご公務を優先なさってくださいませ」
私は最後まで、完璧な「物分かりの良い婚約者」を演じきる。
「私は……いつまでも、お待ちしておりますから」
