朝の陽光がタロシア邸の応接間に差し込み、リリスはソファの上で静かに指を組み直した。
窓の外では小鳥がさえずり、庭師が手入れをする鋏の音が遠く響いているが、室内の空気は澱んだ水底のように重く静止していた。
今日は「体調不良」という名目で学院を休んでいる。
完璧な令嬢として生きてきたリリスにとって、仮病による欠席はあまり経験なかった。
それは罪悪感を伴うと同時に、学校という名の処刑場から逃れられたことへの安堵をもたらしていた。
だが、その安らぎも長くは続かない。
カシリア殿下が来る。
昨日、彼は「完璧な言い訳を作る」と約束してくれた。
その言葉だけが、今のリリスを支える唯一の希望だった。
扉がノックされ、ロキナが緊張した面持ちで入室を告げる。
「お嬢様、カシリア殿下がお見えになりました」
「……通して」
リリスはドレスの裾を整え、立ち上がった。
心臓が早鐘を打つ。
扉が開き、カシリアが入ってくる。
彼は公務用の正装ではなく、幾分か簡素な、しかし仕立ての良い狩猟服のような装いだった。
その表情は硬く、瞳には昨夜の苦悩とは違う、ある種の決意めいた光が宿っている。
「殿下……朝早くから、申し訳ありません」
リリスは完璧な礼をする。
カシリアはロキナに目配せをし、人払いを命じた。
重厚な扉が閉ざされ、広い応接間に二人だけの呼吸音が残された。
「……座ってくれ、リリス」
カシリアは向かいのソファを勧めず、自らも座ろうとしなかった。
代わりに、暖炉の前まで歩き、背を向けて立ち止まる。
その背中は、何か重大な告白を前にして逡巡しているようにも見えた。
「昨夜は……よく眠れたか?」
「はい。……おかげさまで」
嘘だった。
一睡もできなかった。
不安という名の棘が、寝具の中にまで入り込んでいたからだ。
「リリス。……君が謝る必要はない」
カシリアは振り返り、真っ直ぐにリリスを見据えた。
「昨日も言ったが、すべては私の責任だ。私が君を守りたかっただけだ。……父上とも相談し、君を学校から遠ざけるための、最善の案ができた」
「……陛下と、ですか?」
リリスは息を呑んだ。
王太子の一存ではなく、国王陛下の承認まで得ているとは。
これほど大事になるとは思っていなかった。
「ああ。……だが、これを実行するには、君の同意が必要になる」
カシリアは一歩近づき、リリスの手を取ろうとして、ためらい、空中で拳を握りしめた。
その頬が、わずかに紅潮する。
王太子としての威厳よりも、一人の青年の羞恥が勝った瞬間だった。
「その……唐突かもしれないが」
彼は意を決したように、言葉を紡いだ。
「俺の……正式な、婚約者になってくれないか」
「……え?」
リリスの思考が停止した。
今、何と言った?
婚約者?
「正式に婚約を発表すれば、君には『王太子妃教育』の一環として、王領の管理業務を任せることができる」
カシリアは早口で説明を続ける。
「実務研修という名目だ。これなら、王都を離れ、静かな領地で過ごすことができる。……学校に通う必要もなくなる。誰も君を『逃げた』とは言わない。王命による公務だからだ」
「それは……」
あまりにも完璧な論理だった。
誰も傷つかず、リリスの名誉も守られ、エリナの元から離れることもできる。
だが、リリスの胸に去来したのは、安堵ではなく、黒い混乱だった。
なぜ。
なぜ、今なのか。
前世の私は、あれほど望んでいた。
カシリア殿下の婚約者になり、彼と結ばれる未来を。
そのために血を吐くような努力をし、最後には罪を犯してまでしがみつこうとした。
それでも手に入らなかった「婚約者」の座が、今、何もしていない――むしろ死のうとしていた自分に、向こうから転がり込んできた。
これは運命の気まぐれな祝福か。
それとも、より残酷な絶望を与えるための呪いか。
……ああ、そうか
リリスは冷めた頭で理解する。
これは「一時的な避難所」なのだ。
私が領地へ行っている間、殿下は王都に残り、学院に通うエリナと過ごすことになる。
私がいない場所で、二人は愛を育み、絆を深める。
そして数年後、私が戻ってきた時には、私の席はもうなくなっているのだろう。
「……婚約破棄」
その言葉が脳裏をよぎる。
結局、道筋が違うだけで、行き着く先は同じだ。
私は捨てられる。
それでも、今の私に拒否権などあるだろうか。
ここで断れば、明日から地獄の学院生活が待っている。
それよりは、数年間の猶予と、公務という名の逃避場所を与えられる方が、幾分かマシではないか。
「……よろしいのですか?」
リリスは伏し目がちに問うた。
「そのような……つまらなくて、殿下との交際もまだ浅い私に……殿下の未来を賭けた婚約など……」
「つまらないなどと言うな!」
カシリアが声を荒らげた。
リリスが驚いて顔を上げると、彼は切実な表情で彼女を見つめていた。
「君は誰よりも優秀だ。成績も、品格も、そしてその……美しさも」
カシリアは言葉を探すように、必死に続ける。
「君以上に、隣に立つに相応しい女性はいない。……これは俺の、本心だ」
その言葉に嘘はないように見えた。
今の彼は、罪悪感というフィルターを通して私を見ているからだ。
可哀想なリリス。
傷ついたリリス。
守ってあげなければならないリリス。
それは愛ではなく、庇護欲。
けれど、今の私にはそれさえも眩しかった。
「……分かりました」
リリスは微笑んだ。
完璧で、どこか悲しげな、硝子細工のような微笑みを。
「……はい、喜んでお受けいたします。殿下の婚約者になれるのは、私にとって何よりの光栄ですわ」
カシリアの顔に、安堵の色が広がる。
だが、リリスは言葉を継いだ。
「ただ、一つだけ……お願いがございます」
「なんだ?何でも言ってくれ」
リリスはカシリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その双眸に映る自分の姿は、あまりにも弱々しく、そして滑稽だった。
「もし……殿下が、他の女性を好きになったら」
「……え?」
「その時は、私に隠さず教えてくださいませ。……私は、自ら身を引いて、婚約解除を申し出ますから」
カシリアが絶句する。
その表情が強張るのを、リリスは静かに見つめていた。
これは予防線だ。
いつか必ず来るその日、私がボロボロに傷つかなくて済むように。
エリナを選んだ彼を、笑顔で送り出せるように。
「……なぜ、そんなことを言うんだ」
カシリアの声が震える。
「俺が……浮気をするような男に見えるか?」
「いいえ、滅相もございません」
リリスは首を横に振った。
「ただ……私は、自分の女としての魅力に、自信がありません」
「やはり……わがままでしょうか」
自嘲気味に呟く。
私は努力で作られた人形でしかない。
エリナのような、太陽の輝きも、人を惹きつける天性の魅力も持っていない。
だから、いつかあなたが本物の光を見つけた時、この偽物は用済みになるのだと。
そう言外に告げていた。
「リリス……」
カシリアは息を呑んだ。
窓からの光が、リリスの桜色の髪を透かし、その儚げな輪郭を際立たせている。
自信がないと俯くその姿は、カシリアの目には、この世の何よりも美しく、そして守るべき尊い存在として映っていた。
彼女の謙虚さ、奥ゆかしさ、そして隠しきれない傷跡。
その全てが、カシリアの胸を締め付け、どうしようもない愛おしさを掻き立てていた。
「……君は、分かっていない」
カシリアは一歩踏み出し、リリスの手を取った。
今度は迷わなかった。
「君がどれほど……俺の目を奪っているか」
その言葉の意味を、リリスはまだ理解していなかった。
彼女はただ、与えられた猶予という名の檻に入ることを、静かに受け入れていた。
窓の外では小鳥がさえずり、庭師が手入れをする鋏の音が遠く響いているが、室内の空気は澱んだ水底のように重く静止していた。
今日は「体調不良」という名目で学院を休んでいる。
完璧な令嬢として生きてきたリリスにとって、仮病による欠席はあまり経験なかった。
それは罪悪感を伴うと同時に、学校という名の処刑場から逃れられたことへの安堵をもたらしていた。
だが、その安らぎも長くは続かない。
カシリア殿下が来る。
昨日、彼は「完璧な言い訳を作る」と約束してくれた。
その言葉だけが、今のリリスを支える唯一の希望だった。
扉がノックされ、ロキナが緊張した面持ちで入室を告げる。
「お嬢様、カシリア殿下がお見えになりました」
「……通して」
リリスはドレスの裾を整え、立ち上がった。
心臓が早鐘を打つ。
扉が開き、カシリアが入ってくる。
彼は公務用の正装ではなく、幾分か簡素な、しかし仕立ての良い狩猟服のような装いだった。
その表情は硬く、瞳には昨夜の苦悩とは違う、ある種の決意めいた光が宿っている。
「殿下……朝早くから、申し訳ありません」
リリスは完璧な礼をする。
カシリアはロキナに目配せをし、人払いを命じた。
重厚な扉が閉ざされ、広い応接間に二人だけの呼吸音が残された。
「……座ってくれ、リリス」
カシリアは向かいのソファを勧めず、自らも座ろうとしなかった。
代わりに、暖炉の前まで歩き、背を向けて立ち止まる。
その背中は、何か重大な告白を前にして逡巡しているようにも見えた。
「昨夜は……よく眠れたか?」
「はい。……おかげさまで」
嘘だった。
一睡もできなかった。
不安という名の棘が、寝具の中にまで入り込んでいたからだ。
「リリス。……君が謝る必要はない」
カシリアは振り返り、真っ直ぐにリリスを見据えた。
「昨日も言ったが、すべては私の責任だ。私が君を守りたかっただけだ。……父上とも相談し、君を学校から遠ざけるための、最善の案ができた」
「……陛下と、ですか?」
リリスは息を呑んだ。
王太子の一存ではなく、国王陛下の承認まで得ているとは。
これほど大事になるとは思っていなかった。
「ああ。……だが、これを実行するには、君の同意が必要になる」
カシリアは一歩近づき、リリスの手を取ろうとして、ためらい、空中で拳を握りしめた。
その頬が、わずかに紅潮する。
王太子としての威厳よりも、一人の青年の羞恥が勝った瞬間だった。
「その……唐突かもしれないが」
彼は意を決したように、言葉を紡いだ。
「俺の……正式な、婚約者になってくれないか」
「……え?」
リリスの思考が停止した。
今、何と言った?
婚約者?
「正式に婚約を発表すれば、君には『王太子妃教育』の一環として、王領の管理業務を任せることができる」
カシリアは早口で説明を続ける。
「実務研修という名目だ。これなら、王都を離れ、静かな領地で過ごすことができる。……学校に通う必要もなくなる。誰も君を『逃げた』とは言わない。王命による公務だからだ」
「それは……」
あまりにも完璧な論理だった。
誰も傷つかず、リリスの名誉も守られ、エリナの元から離れることもできる。
だが、リリスの胸に去来したのは、安堵ではなく、黒い混乱だった。
なぜ。
なぜ、今なのか。
前世の私は、あれほど望んでいた。
カシリア殿下の婚約者になり、彼と結ばれる未来を。
そのために血を吐くような努力をし、最後には罪を犯してまでしがみつこうとした。
それでも手に入らなかった「婚約者」の座が、今、何もしていない――むしろ死のうとしていた自分に、向こうから転がり込んできた。
これは運命の気まぐれな祝福か。
それとも、より残酷な絶望を与えるための呪いか。
……ああ、そうか
リリスは冷めた頭で理解する。
これは「一時的な避難所」なのだ。
私が領地へ行っている間、殿下は王都に残り、学院に通うエリナと過ごすことになる。
私がいない場所で、二人は愛を育み、絆を深める。
そして数年後、私が戻ってきた時には、私の席はもうなくなっているのだろう。
「……婚約破棄」
その言葉が脳裏をよぎる。
結局、道筋が違うだけで、行き着く先は同じだ。
私は捨てられる。
それでも、今の私に拒否権などあるだろうか。
ここで断れば、明日から地獄の学院生活が待っている。
それよりは、数年間の猶予と、公務という名の逃避場所を与えられる方が、幾分かマシではないか。
「……よろしいのですか?」
リリスは伏し目がちに問うた。
「そのような……つまらなくて、殿下との交際もまだ浅い私に……殿下の未来を賭けた婚約など……」
「つまらないなどと言うな!」
カシリアが声を荒らげた。
リリスが驚いて顔を上げると、彼は切実な表情で彼女を見つめていた。
「君は誰よりも優秀だ。成績も、品格も、そしてその……美しさも」
カシリアは言葉を探すように、必死に続ける。
「君以上に、隣に立つに相応しい女性はいない。……これは俺の、本心だ」
その言葉に嘘はないように見えた。
今の彼は、罪悪感というフィルターを通して私を見ているからだ。
可哀想なリリス。
傷ついたリリス。
守ってあげなければならないリリス。
それは愛ではなく、庇護欲。
けれど、今の私にはそれさえも眩しかった。
「……分かりました」
リリスは微笑んだ。
完璧で、どこか悲しげな、硝子細工のような微笑みを。
「……はい、喜んでお受けいたします。殿下の婚約者になれるのは、私にとって何よりの光栄ですわ」
カシリアの顔に、安堵の色が広がる。
だが、リリスは言葉を継いだ。
「ただ、一つだけ……お願いがございます」
「なんだ?何でも言ってくれ」
リリスはカシリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その双眸に映る自分の姿は、あまりにも弱々しく、そして滑稽だった。
「もし……殿下が、他の女性を好きになったら」
「……え?」
「その時は、私に隠さず教えてくださいませ。……私は、自ら身を引いて、婚約解除を申し出ますから」
カシリアが絶句する。
その表情が強張るのを、リリスは静かに見つめていた。
これは予防線だ。
いつか必ず来るその日、私がボロボロに傷つかなくて済むように。
エリナを選んだ彼を、笑顔で送り出せるように。
「……なぜ、そんなことを言うんだ」
カシリアの声が震える。
「俺が……浮気をするような男に見えるか?」
「いいえ、滅相もございません」
リリスは首を横に振った。
「ただ……私は、自分の女としての魅力に、自信がありません」
「やはり……わがままでしょうか」
自嘲気味に呟く。
私は努力で作られた人形でしかない。
エリナのような、太陽の輝きも、人を惹きつける天性の魅力も持っていない。
だから、いつかあなたが本物の光を見つけた時、この偽物は用済みになるのだと。
そう言外に告げていた。
「リリス……」
カシリアは息を呑んだ。
窓からの光が、リリスの桜色の髪を透かし、その儚げな輪郭を際立たせている。
自信がないと俯くその姿は、カシリアの目には、この世の何よりも美しく、そして守るべき尊い存在として映っていた。
彼女の謙虚さ、奥ゆかしさ、そして隠しきれない傷跡。
その全てが、カシリアの胸を締め付け、どうしようもない愛おしさを掻き立てていた。
「……君は、分かっていない」
カシリアは一歩踏み出し、リリスの手を取った。
今度は迷わなかった。
「君がどれほど……俺の目を奪っているか」
その言葉の意味を、リリスはまだ理解していなかった。
彼女はただ、与えられた猶予という名の檻に入ることを、静かに受け入れていた。
