二日月の恋

モノトーンでまとめられた部屋は、急に来たにもかかわらずきれいに整頓されている。
元々物が少ないのだろうか。
放っておくとすぐに漫画や洋服で散らかってしまう達樹(たつき)の部屋とは大違いだ。
キッチンではガサゴソと音がする。
手持ち無沙汰な私は、ローテーブルの脇にちょこんと正座をした。
つまみのスナック菓子を持ってキッチンから戻ってきた咲弥(さくや)くんは、私を見て苦笑いを浮かべる。

「ソファに座ればいいのに」
「ううん、こっちのほうがいいの」
「達樹がいないから遠慮してるの?」
「そういうわけじゃないんだけど」

遠慮というより緊張しているんだ、今さら。
達樹と一緒にこの部屋に来たことはあるけれど、ひとりで来るのは初めてだから。
思えば、知り合ってから三年近く経つけれど、今までふたりきりで会ったこともない。
直接連絡を取ったことだって、今日まで一度もなかった。

咲弥くんはテーブルの角を挟んで座り、あぐらをかいた。
大学でサッカーサークルに入っているという彼は、炎天下での練習で肌がこんがり焼けている。
缶ビールのタブをそれぞれ開けると、ぷしゅ、と気持ちのいい音がした。

美南(みなみ)ちゃん、気を使ってビール買ってこなくてもよかったのに。うちにもあるし」
「お邪魔させてもらうんだから、手土産くらいないと。おつまみ忘れちゃったけど」
「大丈夫。ウチはつまみの品ぞろえ豊富だから」

笑いながら、「乾杯」と軽く缶をぶつけ合う。
缶を傾ければ、からからに渇いていた喉に爽快な苦味が落ちた。
真夏のビールほどおいしいものはない。

初めて飲んだときは、達樹と咲弥くんと三人でだった。
私たちはみんな同じ月の生まれで、二十歳になったとき、ドキドキしながら初めて居酒屋に入ったのだ。
『不味いね』
『不味いな』
第一声はそれだった。
『それがさ、一年後には美味く感じるようになるらしいよ』
『えー本当に?』
『なるって。大人ってみんなビール好きじゃん』
三人でそんなことを言い合いながら、なんとか飲み干したのを覚えている。
あれから一年、本当にビールを美味しいと思うようになったから不思議だ。
お酒というのは慣れるものであり、クセになるものでもあるらしい。
今では日常生活の一部になっている。
多すぎるくらいの一口を飲んで息を吐いたところで、咲弥くんが口火を切った。

「で、達樹と喧嘩でもしたの?」
「……うん」

ビールの缶に視線を落として小さくうなづいた。
急にお邪魔したくせに、何の説明も考えていなかったことに今さら気づく。

「原因はなに?」
「……カレー」
「は?カレー?」

咲弥くんは突飛な声を上げ、首を傾げる。

「甘口派か辛口派か、みたいな?」
「ううん、もっとどうでもいいこと」
「カレーの味よりどうでもいいことって、この世の中にあるんだ」

思わず笑ってしまった。
カレーは甘口か辛口か。目玉焼きには醤油かソースか。
そんな微笑ましい揉め事ならどんなによかっただろう。
私たちも、遠い昔にそんなやりとりをした記憶があるけれど。

私と達樹は高校三年の夏に付き合い始め、丸三年になる。
大学進学のために上京し、それぞれ一人暮らしを始めたけれど、すぐに通学の便がいい達樹の部屋で半同棲状態になった。
何をするのも自由なモラトリアムに浮かれ、ダラダラ一緒にいる生活を続けていたのが悪かったんだ。
いつしか外へデートに出かけることも、感謝の気持ちを伝えることも、愛の言葉を口にすることも少なくなっていった。
けれど、そんなマンネリ状態を打破するほどの気力もなく、徐々に心がすり減っていったのだと思う。
今夜、いつものようにファミレスのバイト帰りに達樹のアパートへ行くと、夕食に食べたであろうカレーの皿がキッチンのシンクに置きっぱなしになっていた。
それを見て心底げんなりした。
今日はシフトに入っていた子が急に休んだため忙しく、最後は溜まった食器を嫌というほど洗ってきたからだ。
「お疲れさま」とリビングに入ると、達樹は机でパソコンを打ちながら「お疲れ」と目も合わせずに言う。
いつものことなのに、今日はそれが私の気持ちを荒ませた。

「お皿くらいすぐ洗いなよ。暑い季節なんだから、虫がわいちゃうよ」
「レポート終わらないんだもん。あとでやるよ」
「皿洗いなんて一瞬で終わるでしょ? そういうズボラなところ、全然直らないね」

達樹がポンとエンターキーを乱暴に叩き、険しい顔でこちらを見た。

「別にいつやったっていいだろ? 美南に洗えって言ってるわけじゃないし」
「私が来るタイミングでこれみよがしに置いてあったら、洗えっていうことだと思うじゃない」

口調が強くなった私に、達樹は苛立ちを隠さず深いため息を吐き、パソコンに向き直ってまたキーを打ち始めた。

「虫が湧くのが嫌ならもう来なくていいよ。レポートに集中したいから邪魔しないで」

何かがぷつりと切れた音がした。
もう来なくていい? 邪魔って何?
こういう時、なんだかんだでいつも私が洗い物をすることくらい、三年も付き合ってるんだからわかるでしょう?
達樹だってそれを期待してたんでしょう?
湧き上がってくる不満を言葉にするのも、もう馬鹿らしくなってくる。
全てがどうでもよくなって、何も言わずに踵を返して部屋をあとにした。
それが、ほんの一時間前の話。

「終わらせ方が、わからないや」

呟いた声は、笑ってしまうくらい疲弊していた。

「終わらせたいと思ってるの?」
「多分」
「そっか」

咲弥くんは腕を組んでうーんと唸る。
はっきりとわかっているのは、今の状態を続けてもしんどいだけだということ。
けれど、『別れよう』のたった一言が言えない。
面倒くさがりな達樹と、世話焼きな私。
相性ぴったりなカップルだね、と周囲の友人たちからは言われていたし、私自身もそう思っていた。
私がいなくなったら、達樹の部屋は散らかりっぱなしのゴミ屋敷になるかもしれない。
達樹は駄目になってしまうかもしれない。
驕りかもしれないけれど、そんなことを考えて二の足を踏んでしまう。
長年付き合った情が、私を弱くさせる。
かと言ってこれを恋と呼ぶには、あまりにも熱量が欠如している。

「付き合い始めるときより、別れるときのほうがパワー使うかもね。付き合いが長いと余計にさ」

一点を見つめながらため息を吐くものだから、妙にリアルに感じた。
そうやって別れた経験があるのかな。

「咲弥くん、今は彼女いないんだったよね」
「今はって、もう二年以上いないよ」
「そうなの?モテそうなのに」
「全然だよ。サークルは男ばっかりだし、バイトとかも女の子とはあんまり話さないし」

なんだか意外だ。
別のクラスだった咲弥くんを達樹が初めて紹介してくれたとき、明るくて誰からも好かれそうな人だと思った。
人見知りするタイプにも見えないし、決して硬派という感じではないのに。
腑に落ちずにいると、ビールを煽った咲弥くんがテーブルに空の缶を置き「まあ、ずっと好きな子はいるんだけどね」と言いながら立ち上がった。

……いるんだ、好きな子。
胸の奥がチクンと痛んだ。

「中身まだ入ってる?飲めそうなら美南ちゃんの分も持ってくるよ」
「うん、ありがとう」

咲弥くんは微笑んでキッチンのほうへと去っていく。
感じた胸の痛みを振り切るように、残りを一気に飲み干した。

二本目のビールを飲みながら他愛のない話をした。
それぞれの大学で履修している科目の話。サークルやバイトの話。
アルコールも手伝って、さっきまでささくれ立っていた気持ちが嘘みたいに、声をあげて笑える自分がいる。
最近、達樹と一緒にいてこんなに笑った記憶はない。
なんだか新鮮で、心が満たされるような気持ちになる。

スナック菓子がちょうどなくなる頃には、三本目のビールの中身はずいぶん軽くなっていた。
缶を揺らすと、心許なくちゃぷちゃぷと高い音が鳴る。
壁掛け時計に目をやれば、23時半を過ぎている。
終電まではまだ余裕の時間だ。
冷蔵庫にもうビールの在庫はないみたいだ。
もっと多く買って来ればよかったかな。
もっとゆっくり飲めばよかったかな。
そうしたら、もう少しここにいる理由ができたのに。
こんなことを考えるなんて、私はそうとう酔っているんだろうか。
いや、そもそもここに来ようと思った時点ですでに可笑しかったんだ。
どうして私はこのひとに連絡してしまったんだろう。
どうして私は……好きな子がいると知って、胸が痛くなったんだろう。
話し疲れたのか酔いのせいなのか、大きなあくびが出て思わず口元を覆う。

「眠いならベッドで寝てていいよ。俺、ソファで寝るから」

予想外の言葉に、すぐに反応できなかった。
もっとここにいたいと思ったくせに、寝てもいいと言われるとどうしていいのかわからない。
黙っていると、咲弥くんは慌てたように付け足す。

「ああ、もう遅いから、帰り道危ないかと思って。やましい気持ちは全然ないよ」

咲弥くんに下心がないのは、本当に慌てている表情や声のトーンから感じ取れる。
達樹に悪いとは思う。けれど……
帰りたくない。
もうちょっと、咲弥くんと一緒にいたい。
やっぱり私、きっと自分で思う以上に酔っている。

「ありがと。じゃあ借りるね」
「うん、どうぞ」

残っていたビールを飲み干して、ベッドに横になる。
夏掛けを胸の上までかけると、清潔な柔軟剤の匂いがふわりと香った。
几帳面な咲弥くんは、きっと洗濯もマメにしているんだろう。
こんなところも、達樹とは大違い。
三本目を飲み干したらしい咲弥くんが立ち上がる気配と、ナイロン袋が擦れる音がした。
テーブルのほうを見れば、咲弥くんがビールやスナック菓子の袋を片付けてくれている。
慌てて上体を起こした。

「ごめん、私やるよ」
「いいよ、寝てな。すぐ終わるし」

自己嫌悪でため息が漏れた。
達樹に片付けろなんて言ったくせに、私も人の家に来ておいて片付けもしないで寝ようとしていたなんて。
それなのに、咲弥くんは嫌な顔ひとつしない。
さっきだって、多分気を使って達樹の話題は避けてくれていたし、たくさん私を笑わせようとしてくれていた。
やさしい人なんだ、とても。

「ねえ」

咲弥くんはゴミ袋の口を縛りながら「ん?」と短く語尾を上げる。
その響きがあまりにもやわらかくて、気が緩んだ。

「隣で寝て」

咲弥くんの手が止まった。
空気が変わったほんの数秒、沈黙に耐えられなくなったのは私のほう。

「冗談だよ、ごめん」

再び横になり、テーブルから背を向けた。
何を考えているんだろう、私。
こんなの、私と浮気してくださいって言っているようなものじゃない。
恥ずかしくて夏掛けを口元まで引き上げる。

「電気消すよ」

パッと視界が暗くなった。
足音が近づいてきてベッドが軋んだと思ったら、背中に温い気配を感じた。
僅かに触れた固い感触から、咲弥くんが私に背を向けて横になっているのがわかる。

「シングルにふたりは狭いなあ」

後ろから苦笑いが聞こえた。
狭いと感じるのは当然だ。
多分咲弥くんは、私になるべく触れないように距離を空けてくれている。

「ごめん。寝ずらいよね」
「いや、大丈夫」
「身体はみ出てるんじゃない?」
「ちょっとね。でも、元々寝相悪いから平気」

寝相がどうとかいう問題じゃないんだけど、と言いかけてやめた。
隣で寝てほしいと言ったのは私なのに、そんなことを言ったら追い出そうとしているみたいだ。

会話が途切れ、部屋の中が静まり返る。
タイマーになっていたエアコンが、早く眠れとばかりに切れたけれど、さっきまであくびをしていたくせに眠れる気がしない。
狭いスペースで寝返りを打つと、咲弥くんの広い背中が目に映った。

「……まだ起きてる?」
「起きてるよ」

小声で訊ねると、なぜか咲弥くんも小声で返してきた。
また気が緩んで、余計な言葉が零れる。

「ねえ、冗談だけど」
「なに?」
「手、握っててほしい」

冗談だけど、と前置きして保険をかけたつもりが、心臓は面白いくらいに早鐘を打ち始める。
咲弥くんはゆっくりと寝返りを打ってこちらを見た。
だいぶ酔ってるね、なんて笑ってくれればいいと思ったけれど、彼は何も言わずに右手で私の左手を握った。
控えめに、そっと指を絡めて。
充足感と胸の奥が甘く疼く感覚が、ぐちゃぐちゃだった頭の中をクリアにしていく。

――気づいてしまった。
達樹にはもう感じないものを、咲弥くんがくれることに。

「変なお願いばっかりしてごめんね」
「謝らないでよ。弱ってるんでしょ。今日だけこうしててあげるよ」
「……今日だけ、なんだ」
「ん?なんか言った?」
「ううん、なんでもない」

私は馬鹿だ。
聞こえないように呟いたのに、聞こえていなかったことを残念に思っている自分がいる。
聞こえていたとしても、咲弥くんを困惑させてしまうだけなのに。
少しして、咲弥くんがぽつりと口を開く。

「……今日だけ、だよ」

咲弥くんを見ると、彼は眉尻を下げて表情を緩める。

「壊したくないからさ」

言葉の意味を瞬時に理解して、羞恥で顔が熱くなった。
もしも今夜私との間に何かあれば、咲弥くんと達樹の仲に亀裂が入る。
雰囲気に酔って自分のことばかり考えていた私が、とても浅はかで愚かに思えた。

「わかってるよ。冗談だってば」

笑い混じりに明るく答えた。
そう、冗談にしてしまえばいいんだ。
今咲弥くんに対して感じている気持ちも、全部。

――ポロン
テーブルのスマホが音を発し、握っていた手が離された。
起き上がった咲弥くんが、身を乗り出してスマホを取り、私に「はい」と手渡してくれる。
画面を開けば、達樹からのメッセージがきていた。

『ごめん、さっきは言いすぎた。レポート終わったから、明日はどこかに夕飯食べに行こう』

心がずっしりと重くなる。
達樹だってやさしい人なのだ。
喧嘩をしても、いつもこうやって先に折れてくれる。
このやさしさが足枷になって離れられずにいることを、達樹は知らない。
彼が私に家事を押し付けるだけのひどい男だったら、とっくに別れられていたのに。

「達樹から?」
「うん」
「謝ってきたでしょ。明日はデートしようとかフォローつけて」
「当たり。すごい、よくわかるね」
「わかるよ。何年親友してると思ってるの」

ふたりは小学校から一緒だと言っていた。
十年をとうに過ぎた仲だ。
私より咲弥くんのほうが、達樹のことをよくわかっているかもしれない。
咲弥くんが壊したくないと思うのは当然だし、私が引っ掻き回していいものじゃない。
絶対に壊してはいけないんだ。
しばしメッセージを見つめたけれど、画面を消してスマホを枕元に置いた。

「返さないの?」
「うん、今日はやめとく」
「そっか」

今『こっちこそごめん』と返したら、また今まで通りに戻るだろう。
それじゃダメなことはもうわかっている。
けれど、今は余計なことを考えたくない。

「……あのさ、これは俺の勝手な願いなんだけど」
「願い?」
「できれば、達樹と別れないでほしい。別れたら俺、美南ちゃんと会えなくなっちゃうから」

真っ直ぐに視線が合って、息をのんだ。
暗がりでも、その真面目な表情に切なさが滲んでいるのがわかる。
視線を逸らせずにいると、彼は小さく微笑んだ。

「不謹慎かもしれないけど、今日頼ってくれてメチャクチャ嬉しかったんだよ」

『ずっと好きな子はいるんだけどね』
さっきの言葉が蘇って、胸がじわじわと痛くなる。
そして、咲弥くんが壊したくないと言った言葉の意図が、他にもあったのだと気づく。
それは達樹と私の関係であり、イコール咲弥くんと私の関係につながる。
達樹と別れたら、私と咲弥くんは会うことも連絡を取ることもなくなる。
だって私たちは『友達』じゃない。
咲弥くんは『恋人の親友』だ。
恋人である達樹と別れれば、もうなんの接点もなくなる。
完全に他人になってしまうんだ。
黙っていると、咲弥くんは困った顔で笑った。

「ごめん、やっぱり冗談。おやすみ」
「……待って!」

寝返りを打った咲弥くんの背中のシャツを思わず掴むと、彼は驚いた様子で肩越しに振り返った。

「……今日だけ手を繋いでてくれるって、言ったじゃない」

咲弥くんは少しの間を置いて微笑み、「そうだったね」とこちら側を向いてまた手を握ってくれる。
手から伝わる温もりに切なくなる。
この温かさを感じることができるのは、今だけだ。

「ねえ、冗談だけどね」
「なに?」
「私も咲弥くんに会えなくなるの嫌だよ」
「冗談なんだ。それ傷つくんだけど」
「あ、えっと、そうじゃなくて」

慌てる私に、咲弥くんは肩を揺らしてくすくすと笑う。

「俺も冗談なんだけどさ」
「なに?」
「いっそ会えなくなったほうがいいかもって、思ったことあるよ」
「冗談でも、それ傷つくよ?」
「はは、ごめん」

冗談だけどね。冗談だけどさ。
そんな前置きをして交わされる言葉は、罪の意識をなくしてくれる。
エアコンは消えたものの扇風機は稼働していて、規則的に首を回し、時折私の元へと風を運ぶ。
ふわりとカーテンの端が浮いて窓枠が見え、あることを思い出した。

「ねえ、今って月が満ちてるのか欠けてるのかわかる?」

唐突な話題に、咲弥くんは不思議そうな顔をする。

「急になんで?」
「なんとなく」
「うーん……ちょっと前は半月が少し欠けた形だった気がするけど、どうかなあ」

私の勘は大当たりだ。

「じゃあ、明日は新月だよ。今日の月は糸みたいに細くなってたから」
「そっか、明日は俺の日か」
「俺の日?」

咲弥くんは意味ありげににやりと笑い、長いひとさし指で宙に文字を書き始める。

「新月は、別名『(さく)』っていうんだよ。始まりって意味」
「始まり……」
「本当は、親はその漢字で『朔弥』にしたかったらしいんだけど、字画が悪くて諦めたんだってさ」

なるほど、と納得した。

「冗談じゃなくて本音だけど」
「なに?」
「始まりの『朔』のほうがかっこいいね」
「俺もそう思ってる」

一拍置いて、お互い吹き出して笑った。
くだらない話をしながら笑い合っているうちに、だんだんと瞼が重くなってきた。
さっきまで眠れないと思っていた自分はどこに行ったんだろう。
もっと話していたいのに、眠気に抗えない。
私の頭が回らなくなっているのは、咲弥くんにはすぐにバレてしまったようだ。

「そろそろ寝ようか」
「……寝たくないな」
「なんで?」
「寝たら手離しちゃうでしょ。それ、嫌だから」

とろんと溶けそうな脳みそで、かろうじて「冗談だけど」と付け足した。
繋いでいた手が、少しだけ力を増す。

「ちゃんと朝まで繋いでるよ。俺も離すの嫌だから」

咲弥くんも、「冗談だけど」と付け足す。
達樹のことを思えば、私たちが伝え合えるのはこれが限度だ。
明日になれば、もう冗談ですら言えなくなる。

「おやすみ」
「うん、おやすみなさい」

ふわふわと夢の世界に誘われて意識が沈んでいく最中、額にやわらかい何かがそっと触れ、ゆっくりと離れる感覚がした。
瞼の裏が、熱くなった。