白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 ──冷たい。
 春の夜だというのに、まるで真冬の川に沈められたように、身体の芯まで冷え切っている。自分だけが水の底に取り残されてしまったような心地だ。
(……わたし)
 死んだのだ。その事実だけが、不思議なくらい静かに胸の奥へと沈んでいった。
 肩を斬られ、熱い血が流れた。畳の上に、椿の花のように赤が散っていた。
 それから──。
「……っ」
 そこで、芹ははっと息を呑み、勢いよく目を開けた。浅い呼吸を何度も繰り返しながら、ぼんやりと天井を見つめる。
 古びた木の梁。見慣れた天井板。障子越しに差し込む、やわらかな朝の光。
 神威家の寝所ではない。ましてや、血に濡れた婚礼の夜でもなかった。
「……え」
 喉の奥から、掠れた声がこぼれ落ちる。
 ゆっくりと身体を起こすと、身に纏っていたのは白い装束ではなく、いつもの夜着だった。
 恐る恐る左肩に手をやると、傷はない。首筋に指を這わせてみたが、そこにも何もなかった。けれど確かに、自分はあの夜殺されたのだ。肩を裂かれ、血を流し──首を落とされた。
 あの瞬間の冷たさも、痛みも。身体が二つに分かれてしまったようなあの感覚が、あまりにも鮮明に残っている。
(夢……だったの?)
 そんなはずがない。夢にしては、あまりにも生々しかった。今も喉の奥に鉄のような味が残っている気がする。
 何かを確かめなければならない。そう思って布団を跳ねのけた、その時だった。
「──姫様?」
 襖の向こうから、聞き慣れた声がした。
 どくん、と心臓が大きく跳ねる。
 聞き間違えるはずがない。けれど、そんなことがあるはずもない。
 まさか、と息を止めたまま襖を見つめていると、す、と静かにそれが開いた。
 朝の光を背にして立っていた人影を見た瞬間、芹は今度こそ呼吸の仕方を忘れた。
「……(しゅう)?」
 黒い髪。静かな目元。少し困ったように笑う、その癖まで。
 見間違えるはずがない。彼は芹が兄のように慕っていた人だ。誰よりも優しくて、誰よりも芹を理解してくれていた人。
 そして、もう二度と会えないと思っていた人。
「どうなさいました、そんな顔をして」
 愁は不思議そうに小首を傾げる。
 芹は答えられなかった。なぜなら愁は一年前に死んだからだ。
 愁は都へ買い物に出た帰り道、鬼に襲われたのだと聞いた。別人と化した姿だからという理由で、芹は顔を見ることさえ許されなかった。
 あの日、自分がどれほど泣いたのか、もう思い出せない。
 もう二度と名前を呼んでも返事はないのだと知った瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気がしたことだけを覚えている。
 なのに今、ここにいる。生きている。ちゃんと息をして、芹を見ている。
「……どうして」
「はい?」
「どうして、生きているの」
 ぽろり、と。そんな言葉が唇から零れ落ちた。
 愁はぱちりと目を瞬かせ、それから少しだけ眉を下げて笑った。
「朝から随分と物騒なことを仰いますね」
「だって……」
 その先は、うまく言葉にならなかった。喉の奥が熱くなって、視界が滲んでいく。
 気づけば芹は布団を飛び出し、そのまま愁にしがみついていた。
「愁……っ」
 腕の中の身体は、ちゃんとあたたかかった。
 夢じゃない。幻でもない。本当に、生きている。そのことが嬉しくて、苦しくて、涙が勝手にあふれてきた。
「死んだと思った……」
「死んでおりませんよ」
「本当に?」
「はい」
「絶対?」
「ええ、絶対です」
 困ったように笑いながら、愁はそっと芹の背中を撫でた。
 昔から変わらない、優しい手だった。木から落ちて泣いた日も、熱を出して眠れなかった夜も、こうして何も言わず、背を撫でてくれた。
「嫌な夢でも?」
 低い声が、頭の上から静かに降ってくる。
 芹は顔を埋めたまま、小さく頷いた。
 ──夢。そう呼んでしまえたなら、どれほど楽だっただろう。
 あれは夢ではない。自分は確かに殺されたのだ。白い装束を纏った、あの男に。
 ぞくりと、背筋が冷えた。
「……姫様?」
「今日、何日?」
「え?」
「今、何年の何月何日?」
 愁はますます怪訝そうな顔をしたが、それでもきちんと答えてくれた。
「永正二十四年の、三月十五日ですが」
 芹は息を呑んだ。
 その日付は、神威天也に嫁ぐちょうど一年前──新帝が即位する前で、縹家がまだ没落していない頃。そして、愁がまだ生きている春だった。
(戻った……?)
 時が、一年前へ。
 そんなことが、本当に起こるのだろうか。
 けれど、愁はここにいる。自分は生きている。それが何よりの答えだった。
 ならば、これはきっと与えられたのだ。
 やり直すための時間を。何も知らないまま奪われてしまった、あの夜を迎えないための。
「……顔色がよくありませんね」
 頬に、そっと指が触れる。その優しさに、また泣きそうになる。
「本当に、大丈夫ですか」
 大丈夫なわけがない。けれど、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。確かめなければならないことがあるのだ。
 誰が自分を殺したのか。
 天也だったのか。それとも、別の誰かだったのか。
 芹はゆっくりと顔を上げた。
「愁」
「はい」
「私、都へ行ってくるわ」
「……は?」
「すぐ戻るから」
「いや、少々お待ちください。まず朝餉を召し上がってください」
「あとで!」
「あとで、ではありません」
 背中に愁の声が飛んでくる。けれど、止まることはできなかった。

 春の風が吹く。
 庭の桜が、ひらりと舞った。
 あの日。婚儀の庭で見た、翡翠の桜によく似ていた。
(待っていて)
 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
 今度こそ、何も知らないまま、殺されたりはしない。
 芹はそう強く思いながら、都へ向かって駆け出した。