その晩、茗子は渡殿に出た。
眠れなかったわけではない。ただ、耳に届く声があって、その声に引き寄せられるようにして外に出た。
蟲の声だった。
細く、小さな声だった。春の初めだけに鳴く種で、左京の邸でも毎年この季節になると聞いた。庭の暗がりのどこかから、途切れ途切れに響いてくる。茗子は渡殿の柱に手をついて、その声に静かに耳を澄ませた。
内裏にも、ちゃんといる。
足音がした。
渡殿の向こうから、帝が歩いてくる。茗子は慌てて頭を下げ、端に寄った。
「下がらなくていい」
帝は言いながら近づいてきた。茗子はそのまま頭を下げた姿勢で、ひとつ思い出したことがあって、顔を上げた。
「陛下」
「なんだ」
「今日、お礼を申し上げる機会を逃してしまいました」茗子は帝を見た。「息せき切っておいでになったのに、そのままになってしまいまして」
帝は少し目を細めた。
「礼はいらない」
「いいえ」茗子は言った。「申し上げます。ありがとうございました」
帝は何も言わなかった。ただ渡殿の端に立ち、庭の暗がりを見た。しばらく、蟲の声だけがあった。
その時だった。
白い蝶が、どこからともなく飛んできた。
夜光蝶だった。闇の中で羽がほのかに光る、夜に飛ぶ珍しい種だ。その蝶が、ひらりと帝の袖に飛びついた。
帝は小さく身じろぎして、袖を払おうとした。
足が、渡殿の端の段差に引っかかった。帝の体が傾いた。
茗子はためらわずに手を伸ばした。帝の腕を、両手でしっかりと掴んだ。帝の体が止まった。
一瞬の静寂があった。
帝は体勢を立て直し、茗子の手を見た。茗子は気づいて、そっと手を離した。
「出すぎたことを、失礼いたしました」
「いや」帝は言った。それから少しの間、茗子を見た。「お前は俺に触れるのが、平気なのか」
茗子は少し考えてから、答えた。
「平気です」
帝は答えなかった。渡殿の柱に背を預け、夜光蝶の消えていった方をしばらく見ていた。
「寺にいた頃」帝は静かに言い始めた。「兄と呼んでいた者がいた」
茗子は黙って聞いた。
「臣籍に降りた身分の者で、俺よりずっと年上だった。寺に預けられたばかりの俺を、何かと気にかけてくれた」
帝の声は平坦だった。感情を乗せないようにしているのか、元々そういう話し方なのか、茗子にはわからなかった。
「その人は財産を狙われていた。暗殺を恐れて、毒に耐性をつけようとしていた。色々な毒を少しずつ飲んで、体を慣らしていた。俺もそれを真似た。おおよその毒には、大勢がついた」
「帝の毒への御関心は、その方譲りだったのですね」
「そうだ」帝は短く言った。「しかし」
夜の空気が、少し重くなった気がした。
「その人は毒殺された」
茗子は静かに息を止めた。
「耐性があったはずの人が死んだ。何を使われたのかがわからなかった。俺の考えでは、蟲毒だと思っている。蟲を使って作る、通常とは異なる毒だ。耐性のつけ方が、普通の毒とは違う」
帝は庭を見たまま続けた。
「だから蟲のことを学び始めた。蟲毒に使われる種を調べるために。そのために、蟲に詳しい者の描いた絵を手に入れていた」
茗子の胸に、何かが落ちてくる予感がした。
「とある貴族を通じて」帝は言った。「蟲の絵を買っていた。見事な絵だった。細部の写し方が、本物を深く愛している者の手だとわかった。やり取りの際に交わす文も、気が利いていて読むのが楽しかった」
帝がちらりと茗子を見た。
「実は今もまだ、その貴族を通じて買い続けている」
茗子は帝を見た。
「白状してしまうが」帝は続けた。その声に、かすかに照れたような色があった。「先日届いた揚羽蝶の絵も、その中の一枚だ」
「あの絵を、お持ちなのですか」
「持っている。見事な絵だった。揚羽蝶の羽の斑紋の、光による色の変わり方まで写し取ってあって」
「破られた後で描き直したものです」茗子は言った。
帝が茗子を見た。
「描き直した、とはどういうことだ」
「あの絵は、私が描きました」茗子は静かに言った。「ずっと、私が描いておりました」
帝が、静かに止まった。
渡殿に、蟲の声だけが響いた。
「お前が」帝はゆっくりと言った。「あの絵を」
「はい」
「文も」
「はい」
帝はしばらくの間、茗子を見ていた。驚きと、それから何か別のものが、その顔に重なった。やがて帝の顔が、静かにほどけた。声を上げて笑うわけではなかったが、茗子が入内してから一度も見たことのない顔だった。
「お前だったのか」
その四文字に、色々なものが詰まっていた。茗子にはそれがわかった。文箱の中で、何度も読んだ文の向こうにいたのがこの人だったのだと、今ようやく腑に落ちた。
しばらく間があって、帝は庭の方を向いた。
「俺に触れようとする者はいない」帝は言った。「毒を好む帝の傍にいれば、何かされると思っている」
茗子は黙って聞いた。
「お前は畑で俺が渡した水を、ためらわずに飲んだ。今日も草を受け取った。今も、腕を掴んだ」
「はい」
「毒が入っているとは、思わなかったのか」
茗子は少し考えた。それから正直に答えた。
「思いませんでした」
「なぜ」
「あんなに立派なフキノトウをお育てになる方が」茗子は言った。「悪い人であるはずがありません」
帝は茗子を見た。
「フキノトウか」
「はい。毒のある草ばかりの畑の中で、あのフキノトウだけが食べられる草でした。毒の研究だけが目的なら、食べられる草を丁寧に育てる必要はないはずです。でも帝はそれを育てておいでだった」
帝は何も言わなかった。
茗子も、それ以上は言わなかった。
夜光蝶がまた、どこからか飛んできた。今度は渡殿の梁の辺りをゆっくりと旋回して、また夜の闇に消えていった。その白い羽が見えなくなるまで、ふたりは黙って見ていた。
蟲の声は、まだ続いていた。細く、遠く、春の夜の底に溶けるように。
帝がぽつりと言った。
「枯れた庭は次の命の揺籠だと、文に書いていたな」
茗子は少し驚いた。あの文を、まだ覚えていたのか。
帝は渡殿の向こうを見ていた。険しさも、つかみどころのなさも、今この瞬間はなかった。ただ静かな横顔だった。
この人が、あの文の向こうにいた人だったのか。
茗子はそっと庭に目を向けた。闇の中で、蟲の声が続いている。春の初めにしか聞けない、細くて短命な声だった。それでも毎年、同じ季節に、同じ場所で鳴く。
悪姫と呼ばれてここに来た。つなぎの后として、誰にも必要とされないままここにいる。そのはずだったのに、今この渡殿に並んで蟲の声を聞いている人がいる。
それで十分だと、茗子は思った。
春の夜は、まだ長かった。


