悪姫入内 蟲愛づる姫と毒好む帝

数日後、絵が仕上がった。
 揚羽蝶の絵だった。畑で帝と言葉を交わしたあの日の帰り道、ようやく一匹を見つけた。柑橘の木の低い枝に止まっていた。茗子はしばらくその場を離れず、羽の模様を目に焼き付けてから局に戻り、記憶のままに筆を走らせた。
 黒地に青い斑紋が散る羽の模様は、光の当たり具合で微妙に色が変わる。その変化を紙の上でどう表現するかに、茗子は二日かけた。満足のいく仕上がりだった。中将に届ければ、喜んでもらえるだろう。
 使いに渡す前に、茗子は絵をそっと文台の上に広げて眺めた。
 蝶の羽の、あの複雑な模様。近くで見なければわからない細部がある。遠くから見た時の印象と、手に取って見た時の印象が全く違う。蟲というのは、近づけば近づくほど知らないことが増えていく。それが茗子には面白くてたまらなかった。
 そこへ、渡殿の方から足音がした。
「后様、大納言様よりお届け物でございます」
 女孺が局の前に来て、そう告げた。
 盆の上に、青々とした葉に包まれたものが載っていた。春の香りがした。フキノトウだった。丸くふっくらとした、よい形のものが幾つか並んでいる。
 茗子は少し目を細めた。フキノトウを見ると、あの畑でのやり取りを思い出した。帝が食べるなと言ったのは、畑の中のものだった。これは大納言からの差し入れだ。久方ぶりの食べ物らしい食べ物で、茗子の腹がひそかに喜んだ。
「ありがとう、そこに置いてください」
 女孺が盆を置いてすぐのことだった。
「まあ、よいものが届いたこと」
 也子が局に入ってきた。
 茗子は顔を上げた。也子は取り巻きの女房を二人連れており、ふんわりとした笑みを浮かべていた。その笑みがどういう意味を持つか、茗子はもう知っていた。
「大納言様からのお届け物? 父上もご律儀なこと」
 也子は盆に近づき、フキノトウを一つ手に取って眺めた。それからそのまま、盆ごと取り上げた。
「いただいてもよいかしら。后様はお食が細いでしょうから」
 女孺がはっとした顔をしたが、也子はもう背を向けていた。取り巻きの女房のひとりがにこにこしながら盆を持ち、もうひとりが文台の上に目を向けた。
「まあ、これは」
 女房が絵に手を伸ばした。
「触らないでください」
 茗子が言うより早く、女房は絵を持ち上げていた。
「蝶の絵ですこと。后様がお描きになったの?」
「返してください」
「まあ、ずいぶんと細かい。虫けら姫はやはり蟲がお好きなのね」
 女房は絵をひらひらと揺らしながら也子に見せた。也子がそれを受け取り、眺めた。
「これをどちらかへ送るつもりだったの? 后様が外に文を出すなんて、珍しいこと」
「返してください」茗子は静かに、しかしもう一度言った。
 也子はにこりとして、絵を女房に返した。女房は絵を持ったまま、少し高いところに掲げた。
「うっかり」
 女房が言った次の瞬間、絵は二つに裂けていた。
 さらに、また裂かれた。細かく、細かく。茗子が二日かけて仕上げた揚羽蝶の羽が、白い紙くずになって宙を舞った。
「あら、手が滑ってしまったわ」
 女房が笑った。也子も笑った。
 紙くずが、茗子の頭の上にはらはらと降ってきた。
「これを持って寝所に行けばどうかしら」と也子は言った。「紙吹雪で后のお出ましよ。毒帝も可愛がってくださるかもしれないわ」
「虫けら姫だからやっぱり駄目かしら」と女房が続けた。
 二人はくすくすと笑いながら、局を出ていった。女孺も、どこかへ消えていた。
 茗子は動かなかった。
 頭の上に紙くずが数片、まだ残っていた。茗子はそれをゆっくりと手で払った。白い欠片が、畳の上に落ちた。揚羽蝶の、羽の一部だった模様の端が、わずかに見えた。
 茗子はしばらくそれを見ていた。
 それから、新しい紙を取り出した。筆に墨をつけた。
 もう一度、描けばいい。蝶はまだ、あの柑橘の木の周りを飛んでいるだろう。記憶はまだ残っている。手は動く。
 茗子は静かに、筆を走らせ始めた。

 どれほど経ったか、渡殿の向こうから悲鳴が上がった。
 茗子は筆を止めた。
 高く、短い悲鳴だった。一度きりではなく、続けて聞こえてきた。茗子は立ち上がり、局を出た。
 悲鳴は也子の女房の局の方から来ていた。
 駆けつけると、渡殿に女官が立ちすくんでいた。顔が青く、局の中を指差して声も出ない様子だった。茗子は局の中を覗いた。
 也子の取り巻きの女房のひとりが、倒れていた。
 先ほどまで笑いながら絵を破いていた女だった。畳の上に横たわり、顔色が悪く、息が浅かった。体が小刻みに震えている。意識はあるようだったが、目の焦点が定まっていなかった。
 局の中に、香の匂いが漂っていた。甘く、少し重い匂いだった。
 床の上に、フキノトウが数個転がっていた。也子が茗子から取り上げたものだった。そのうちのいくつかに、小さな虫食いの跡があった。
 茗子が局に入ろうとした時、背後から声がした。
「呪いだわ」
 也子だった。
 いつの間にか渡殿に人が集まってきていた。也子は青ざめた顔をしていたが、その目は茗子をまっすぐに見ていた。
「蟲の絵を取り上げたから、恨んでいたのでしょう。蟲姫が呪いをかけたのよ」
 囁き声が広がった。
 集まってきた女官たちが、茗子を見た。茗子を避けるように、じりと後ずさる者もあった。
「呪詛など、しておりません」と茗子は言った。
「では何故」也子は言った。「この女房だけが倒れているの。あなたの絵を破ったのは、この女房よ。恨んでいたのでしょう」
「私は局に戻って絵を描いていました」
「証人はいるの」
 茗子は答えられなかった。局にいたのはひとりだった。初菊は用を言いつけて外に出していた。
 人がさらに集まってきた。渡殿が狭くなるほどの人だかりができ、その中に茗子は立っていた。囁き声がやまない。呪詛は大罪だ、という言葉が、誰かの口から出た。死刑もありうる、と続ける者もあった。
 大納言の金忠が来た。几人かの貴族も、後に続いて現れた。金忠は倒れた女房を一瞥してから、茗子を見た。その目に、茗子は見覚えがあった。娘の代わりにこの子を差し出した時と、同じ目だった。
「茗子」金忠は静かに、しかし冷たく言った。「これはどういうことか、説明してもらわねばならぬ」
 茗子は口を開いた。しかし何を言っても、この人は聞かないだろうと、直感でわかった。
 渡殿の人垣が、ざわりと動いた。
 誰かが来る気配がした。足音が、速かった。息を切らしたような、急いでいる気配だった。
 人垣が左右に割れた。
 帝が、来た。
 人垣が割れ、帝が姿を現した。
 息が上がっていた。帝がそのような姿を人前で見せるのは、珍しいことに違いなかった。供の者もなく、ただひとりで渡殿を走ってきたらしかった。いつものひょうひょうとした様子はなく、その顔には見たことのない険しさがあった。
 帝の目は真っ先に茗子を見つけた。
 次の瞬間、帝は茗子の傍に来て、その肩を抱いた。
 渡殿が静まり返った。
 茗子も、一瞬息を忘れた。帝の腕が、茗子の肩をしっかりと抱いていた。人前で、后をこのように抱くことの意味を、その場にいる誰もがわかっていた。だからこそ、誰も声を出せなかった。
「無事だったか」
 帝は低く、茗子にだけ聞こえる声で言った。
 茗子は少しの間、帝の顔を見上げた。険しかった顔が、茗子を確かめるようにしてわずかに緩んでいた。
「はい」と茗子は答えた。「無事です」
 帝は短く息を吐いた。

 也子が声を上げた。
「陛下」也子は一歩前に出た。顔は青ざめていたが、声は張っていた。「このたびの件、ご報告申し上げねばなりません。后様が呪詛を——」
「茗子が呪詛をかけたと言うのか」
 帝の声は静かだった。静かだったが、也子は口を閉じた。
 金忠が進み出た。
「陛下、事は重大にございます。倒れた女房の様子をご覧いただければ、尋常ではないことはおわかりいただけましょう。この局に出入りしていた者を考えれば、后様以外に——」
「金忠」帝は金忠を見た。「お前も、茗子が呪詛をかけたと思うか」
「それは……調べを進めねば何とも……しかし状況から見て」
「状況から見て、という話をするなら、まず聞け」
 帝は茗子から離れ、倒れた女房の局に向かった。人垣が自然に左右に開いた。帝は局の前に立ち、中を見た。
「今日、大納言から差し入れがあったと聞いている」
 静かな声だった。周囲の者たちが顔を見合わせた。
「茗子のもとへ届いたものと同じものが、今日の昼過ぎ、俺のところにも届いた」
 也子が、わずかに顔を強張らせた。
「フキノトウだと思っていた」帝は続けた。「しかしそれは、ハシリドコロだ」
 その名を口にした時、場の空気が変わった。ハシリドコロ。毒草の名として、知っている者は知っていた。
「俺が届いたものを調べて気づいた時には、茗子のもとへも同じものが届いた後だった。食べてしまったのではないかと、急ぎ来たのだ」
 帝は茗子を見た。
「食べていないな」
「食べておりません」茗子は答えた。「也子様が、お持ちになりましたから」
 也子の顔が、さっと変わった。
「私は、ただ……」
「也子様」帝は也子を見た。穏やかな声だったが、也子は続きを言えなかった。
 帝は局の中に視線を戻した。
「食べた者はいないとなると」と帝は独り言のように言った。「では、何故この女房が倒れた」
 その場の誰も、答えを持っていなかった。
 呪いだ、という囁きがまた起きかけた。
 その時、茗子は局の中に踏み入った。

 誰かが「后様、危のうございます」と言った。茗子は構わずに進んだ。
 倒れた女房の傍に膝をついて、様子を確かめた。息はある。顔色は悪いが、呼吸は続いている。手足の震えは、先ほどより少し収まっていた。
 茗子は立ち上がり、局の中を見回した。
 香炉があった。部屋の隅の、低い台の上に置かれている。香の煙がまだ細く立ち上っていた。甘く重い匂いが、局の中に淀んでいた。
 茗子は香炉に近づいた。
 中を覗き込んだ。
 灰の上に、小さな蛾が一匹、焦げて死んでいた。
 茗子はしばらくそれを見た。焦げているが、形はまだわかった。羽の模様の残骸が、灰の中にある。茗子には、それが何という蛾かわかった。
「陛下」
 茗子は振り返って帝を呼んだ。帝は局の入り口に立っていた。
「この蛾をご覧ください」
 帝が局に入ってきた。茗子の隣に立ち、香炉の中を覗いた。
 一瞬の沈黙があった。
 帝の顔が、静かに変わった。険しくなったわけではない。何かを理解した時の、静かな変化だった。
「この蛾は」茗子は言った。「ハシリドコロの葉を好む種です。この草を食べて育ちます」
 帝が茗子を見た。
「ハシリドコロを食べた蛾が、香炉に飛び込んだ」帝は静かに言った。「燻されて、腹の中のものも一緒に」
「はい」
「だから」
「局の中に、毒の煙が満ちた」
 茗子と帝は、ほぼ同時に言った。
 渡殿で聞いていた者たちが、ざわめいた。
「では呪いでは」と誰かが言いかけた。
「呪いではない」帝は渡殿に向かって言った。静かだが、はっきりとした声だった。「蛾が香炉に落ちた。それだけのことだ」

 帝はすぐに踵を返した。
「畑に取りに行く」と茗子に言った。「毒消しになる草がある」
 茗子は頷いた。帝は渡殿を速足で去っていった。
 残された者たちの間に、しばらく沈黙があった。
 也子が口を開いた。
「毒消しの草、などと」也子の声は、先ほどより細くなっていた。「毒帝の持ってくる草など、どうして信用できるの。かえって毒になるかもしれないわ」
 誰かが、そうだそうだ、と同意するように頷いた。金忠も、難しい顔をしたまま何も言わなかった。
 茗子は也子を見た。
「帝は毒の性質と、その消し方を研究しておいでです」と茗子は言った。「ハシリドコロの毒であることがわかっているなら、何が必要かもわかるはずです」
「でも」
「也子様」茗子は静かに続けた。「この女房が、このまま手当てを受けなければどうなるか、おわかりですね」
 也子は黙った。
 帝が戻ってくるまで、長い時間ではなかった。手に幾つかの草を持ち、早足で渡殿を来た。
「これを煎じて飲ませろ」
 帝は周囲に向かって言った。しかし誰も動かなかった。
 帝の差し出す草を、誰も受け取ろうとしなかった。
 女官たちは顔を見合わせた。貴族たちも、一歩引いていた。毒帝の手から渡された草を受け取ることへの、露骨な躊躇いが、その場全体に満ちていた。
 帝は少しの間、その様子を見ていた。
 その顔に浮かんでいたものを、茗子は見た。驚きではなかった。傷ついた様子でもなかった。ただ、慣れている、という顔だった。こうなることを、最初からわかっていたような顔だった。
 茗子は帝の前に進み出て、草を受け取った。
 周囲がまたざわめいた。
「后様」と初菊が声を上げた。「それは……」
「煎じてきてください」茗子は初菊に草を渡した。「急いで」
 初菊は一瞬戸惑ったが、茗子の顔を見て、「かしこまりました」と言って走っていった。
 帝は茗子を見ていた。
 茗子は帝を見た。帝の顔には、また何か意外なものを見るような表情があった。畑で水筒を受け取った時と、同じ目だった。

 典薬寮からの毒消しが届いたのは、それからほどなくしてのことだった。
 典薬寮の医師が運んできた薬が女房に飲まされると、しばらくして女房の顔色が少しずつ戻ってきた。震えが収まり、目の焦点が定まってきた。医師は、命に別状はないだろうと言った。
 渡殿のざわめきが、ゆっくりと収まっていった。
 也子は何も言わなかった。金忠も、厳しい沙汰などという言葉はもう口にしなかった。人々は少しずつ散っていき、渡殿はまた静かになった。
 茗子は局の前の渡殿に立っていた。
 帝がそこにいた。
 初菊が煎じた草は、結局使われなかった。典薬寮の薬が先に届いたからだ。初菊が持ってきた椀は、渡殿の隅にまだ置かれていた。
 帝はそれを見ていた。
 茗子も、それを見た。
「典薬寮が間に合ってよかったです」と茗子は言った。
「そうだな」と帝は言った。
 短い沈黙があった。
「あの草は、合っていましたか」茗子は聞いた。「ハシリドコロの毒消しに」
「合っていた」帝は答えた。「典薬寮が持ってきたものと、同じ種だった」
 茗子は頷いた。やはりそうか、と思った。
 帝は少しの間、渡殿の向こうを見ていた。人々が去った後の、静かな渡殿だった。
「毒帝の持ってくる草だから、信用できないと言った者がいた」帝はぽつりと言った。特に誰かを責める口調ではなかった。ただ、事実を確認するような言い方だった。
「おいでになりました」と茗子は正直に答えた。
「そうか」
「でも」茗子は続けた。「帝が畑で毒消しを丁寧にお育てになっていたのを、私は見ております」
 帝は茗子を見た。
「あの畑に来た日から」茗子は言った。「帝が何のために毒のことを学んでおいでなのか、なんとなくわかる気がしておりました。毒を集めることと、毒を消すことは、帝の中では同じことなのでしょう」
 帝は何も言わなかった。
 渡殿の端で、夕暮れの光が傾き始めていた。どこか遠くで、春の蟲が細く鳴いていた。