悪姫入内 蟲愛づる姫と毒好む帝


 帝のお渡りは、翌日もなかった。
 その翌日も、なかった。
 七日が過ぎ、十日が過ぎ、ひと月が経った。帝が茗子の局に足を向けることは、ただの一度もなかった。
 后が大勢いれば、帝の渡りが滞ることもある。しかしこの場合は事情が違う。后は茗子ひとりだ。それでもお渡りがないということは、つまりそういうことだった。
 初夜に帝が言った言葉を、茗子は時々思い返した。
『互いにさほど関わらず、それぞれに過ごす方が、お前にとっても楽であろう』
 帝はその言葉通りに生きていた。茗子の局に来ないだけでなく、渡殿ですれ違う時にも、帝は茗子の方を見なかった。視線がこちらに向きかけて、しかしすっと外れる。意図的に、しかし自然に、茗子を視界の外に置いているように見えた。
 茗子はそれを、特段辛いとは思わなかった。
 困ったのは、それが周囲に筒抜けであることだった。
 ある日の昼過ぎ、茗子が渡殿を進んでいると、向こうから帝が来た。供の者を一人だけ連れた、質素な出で立ちだった。
 茗子は足を止めて頭を下げた。帝はこちらに気づいたようだったが、目線はすうっと流れ、茗子を素通りした。足を止めることもなく、そのまま渡殿の向こうへ歩いていった。
 背後で、くすくすという声がした。
「まあ」
 振り返ると、也子が取り巻きの女房を二人連れて、渡殿の曲がり角のあたりに立っていた。いつからそこにいたのか、茗子は気づいていなかった。
「蟲姫は、毒帝にもそっぽを向かれてしまわれたのね」
 也子の声は、わざと遠慮がちに出している。聞こえているとわかっていて、しかし聞こえていないふりができる音量で。
 さらに、取り巻きの女房のひとりが言った。
「お気の毒に。后様なのに、一度もお渡りがないとか」
「つなぎの后だもの、仕方がないわ。でも蟲姫ですものね。毒蟲の帝とはお似合いのはずなのに、それでもそっぽを向かれるとは、よほど……ねえ」
 也子の言葉に、女房たちがまた笑った。
 茗子は振り返らなかった。足を止めなかった。渡殿をまっすぐ歩いて、局に戻った。
 局に入り、文台の前に座った。紙を一枚取り出し、筆を持った。蟲の絵を描き始めた。今日の朝、局の前の柱に張り付いていた小さな蛾の記憶を、紙に写し取った。
 笑われることには慣れている。左京の邸にいた頃から、茗子はずっとそうだった。今更、也子に笑われたからといって、筆を持つ手が震えるわけではなかった。

 嫌がらせが始まったのは、内裏に上がって半月ほど経った頃だった。
 最初は、渡殿だった。
 夜、局から清涼殿の方へ用があって渡殿を歩いていると、敷かれた板の上がびしょびしょに濡れていた。暗い渡殿の中で気づくのが遅れ、茗子は裾をしたたかに濡らした。初菊が翌朝、渡殿を管理する下仕えの者に聞いてきたところでは、夕方に水を撒いた者がいたという。誰かは、わからなかった。
 濡れた裾を乾かしながら、茗子はさほど腹も立てなかった。水が撒かれているとわかれば、次から気をつければいい。夜に渡殿を歩く時は、灯を多めに持てばいい。
 次は、文だった。
 差出人のない文が、局の文台の上に置かれていた。初菊が首を傾げながら持ってきたそれを開くと、中には短い和歌が一首書かれていた。
 筆跡は流麗だったが、内容は茗子の胸に冷たく落ちた。
 后としての務めも果たせぬまま、内裏の隅で何を待っているのか、という意味の歌だった。后のくせに帝のお渡りもなく、みじめなことよ、と、婉曲に、しかし確かにそう書かれていた。
 茗子は和歌をもう一度読んだ。筆跡は達者だ、と思った。也子は琴だけでなく、筆の腕も磨いてきたらしい。それから文をたたんで文台の端に置き、自分の絵の続きを描いた。
 返歌は書かなかった。
 しばらくして、今度は贈り物が届いた。
 差出人は也子だった。名を隠しもしていない。
 包みを開けると、中から櫛が出てきた。黒塗りの、一見すると丁寧な細工に見える櫛だった。しかし茗子が手に取ってよく見ると、歯の間隔が広く、しかもところどころ歯が欠けている。新品ではなく、使い古した末に歯が抜け落ちたものを、わざわざ包んで贈ってきたのだとわかった。
 一緒に入っていた文には、こう書かれていた。
「御髪のお手入れに、ご不自由されているかと存じましてお送りいたします。どうぞお使いくださいませ」
 お前の髪にはそれで十分だ――歯の欠けた使い古しの櫛をわざわざ贈ることで、嫌みを伝えてきているのだ。
 茗子はしばらく櫛の歯の欠けた部分を指でなぞり、それから初菊を呼んだ。
「これ、庭の隅の土に挿しておいてもらえますか」
「……土に、でございますか」
「朽ちた木の端切れは、蟲の良い住処になります。これも同じように使えるかもしれない。歯の隙間に何か棲まないかと思って」
 初菊は何とも言えない顔をしてから、「かしこまりました」と言って櫛を受け取った。
 返礼の文は書いた。丁寧に、ご芳志に感謝申し上げます、と書いた。贈り物の感想は、一言も書かなかった。


 そのような日々の中で、茗子がただひとつ困ったのは、腹の減ることだった。
 内裏では后への食事の世話は女房を通じて行われるが、茗子付きの女房は初菊ひとりで、初菊は台盤所での立場も強くない。届いてくる食事は量が少なく、また也子の取り巻きの女房が局を訪ねてきたときに、世間話をしながら帰り際に持っていくことが重なった。
 ある夕方、茗子は空腹を抱えたまま、局の縁に出て外を眺めていた。
 庭に面した渡殿の向こうを、帝が歩いていくのが見えた。今日も供の者が一人だけ、あの質素な出で立ちで、どこかへ向かっているようだった。
 帝がふと、こちらに目を向けた。
 茗子と目が合った。
 一瞬だった。帝の目が茗子をとらえ、しかしすぐに外れた。足は止まらなかった。そのまま渡殿を歩いていった。
 腹が、鳴った。小さく、しかし確かに鳴った。
 茗子は誰にも聞こえていないことを確かめてから、口元に手を当てた。帝はもうとっくに渡殿の向こうへ消えている。
 互いに干渉しない、と帝は言った。茗子もそれで構わないと思っていた。
 ただ、この空腹だけは、どうにもならなかった。
 庭の土の上を、小さな蟲が一匹横切っていった。茗子はその細い軌跡を目で追いながら、静かに息を吐いた。蟲は何も食べずとも、ああして律儀に歩いていく。茗子も同じようにできればよかったが、残念ながらそうはいかないらしかった。
 また、腹が鳴った。
 今度は少し大きかった。
 文が届いたのは、雨上がりの朝のことだった。
 使いの者が局の前に来て、初菊を通じて文を渡してきた。見覚えのある折り方だった。茗子は思わず、手に取る前に少し息を止めた。
 開くと、やはりそうだった。中将からの依頼だった。
 この春に見られる揚羽蝶の絵を一枚、できれば羽の模様を細かく、と書かれていた。文の最後に、一言添えられていた。
『内裏の中でご不便もあろうかと存じますが、もし叶うようであれば、と思っております』
 茗子は文を読み返した。それから窓の外を見た。
 雨上がりの空は青く、庭の草がしっとりと光っていた。揚羽蝶が好む草は、茗子にはわかっている。柑橘の類や、山椒の葉を好む。内裏の中にそのような木があるかどうか。
 あるかもしれない、と茗子は思った。
 内裏は広い。茗子はまだ、局の周りと渡殿と、せいぜい庭の一部しか知らなかった。行ったことのない場所が、まだたくさんある。
「初菊、少し外を歩いてきます」
「御供いたします」
「いいえ、一人で」
 初菊は少し心配そうな顔をしたが、止めはしなかった。
 茗子は局を出て、普段は通らない方向へ歩いた。
 渡殿を抜け、築地塀に沿って端の方へ向かう。人の気配が薄くなっていった。華やかな内裏の中心部から離れるにつれ、足元の土が柔らかくなり、草の匂いが濃くなった。
 揚羽蝶を探しながら歩いていた茗子は、ふと足を止めた。
 塀の際に、見慣れない一角があった。
 畑と呼ぶには少し小さく、庭と呼ぶには少し雑然としていた。整然と列を作るわけでもなく、思い思いの方向に草や低木が植えられており、支柱が何本か立っていた。葉の形が、茗子には見慣れたものと見慣れないものとが混在している。
 茗子はゆっくりと中に踏み入った。
 足元の土は柔らかく、よく踏み込まれている。誰かが日々ここに来ているのだと、土の様子からわかった。草の間には、こまめに手が入れられた跡もある。雑草ばかりが伸び放題だった左京の邸の庭とは、管理の仕方がまるで違う。どの草も、意図を持って植えられ、意図を持って育てられているようだった。
 茗子は一株の前にしゃがみ込んだ。
 葉の形が独特だった。手のひらを広げたような丸みのある葉が、地面近くから伸びている。艶はなく、触れるとわずかに毛羽立った感触がある。茗子には見覚えのある葉だったが、こんな場所で育てられているとは思っていなかった。
 その葉の裏に、まるまるとした芋虫が一匹いた。
 黄緑色の、親指ほどの太さの芋虫だった。葉の縁をゆっくりと食んでいる。丸々とした体の張り具合が、何ともいえず愛らしかった。茗子は顔をほころばせた。
 内裏に来て初めて、心の底から自然に笑った気がした。
「その蟲が、気に入ったか」
 声がした。
 茗子は顔を上げた。
 帝が立っていた。いつからいたのか、まったく気づかなかった。質素な直衣を着て、供の者もつけずにひとりで立っていた。手に、小さな鋤のようなものを持っている。内裏でひとりで鋤を持つ人物が帝だとは、見た目だけではにわかに信じがたかった。
 茗子は立ち上がり、頭を下げた。
「申し訳ございません、こちらに勝手に入り込んでしまいました」
「構わない。ここに来る者は、ほとんどいないから」
 それだけ言って、帝は茗子の隣に来てしゃがみ込んだ。芋虫を、茗子と同じように眺めた。
「よく育っている」と帝は言った。蟲に言っているのか、葉に言っているのか、わからなかった。
「この植物を、お育てになっているのですか」と茗子は聞いた。
「そうだ」
 茗子は一角を見回した。
「ここにあるのは、どれも少し、変わった草ばかりですね」
「毒のある植物を集めている」
 帝は短く言った。
 茗子は改めて周囲を見た。鳥兜らしき株、白い小花をつけた草、つる性の植物。どれも、知識のある者が見れば素直には近づかないものばかりだった。毒帝、という呼び名の意味が、少し具体的になった気がした。
「研究しておいでなのですか」
「毒の性質と、その消し方を」
 茗子は頷いて、また芋虫に目を戻した。この丸々とした芋虫は、毒のある葉を食んでも平気な種だ。むしろこの草がなければ育たない。蟲と植物の間には、人の目には理不尽に見える関係が、たくさんある。毒があるからこそ、そこに棲む蟲がいる。
「蟲がお好きか」
 帝に聞かれて茗子は迷わず答えた。
「はい」
「后になってから、蟲を探す機会は減っただろう」
「減りました。内裏は掃き清められているので」
「そうだな」
 帝は少し間を置いてから、続けた。
「ここには、蟲が来る。毒のある草を好む種が、時々現れる」
「存じております。この芋虫も、そうした種のひとつです。この葉がなければ、育ちません」
 帝が茗子を見た。今度は、渡殿ですれ違う時のように視線を外さなかった。
「詳しいな」
「蟲のことだけは」と茗子は答えた。
 帝は何かを言いかけて、やめた。その代わりに立ち上がり、少し離れたところにある株の前に移動した。葉が丸く、柔らかそうな草だった。
「フキノトウだ」
 帝がぽつりと言った。
 茗子は立ち上がって近づき、草を眺めた。
「フキノトウなら、食べられますね」
 腹が減っていたのもあり、つい言ってしまった。
「毒草の隣に生えているんだ。食べるなよ」
「……食べようとは思っておりません」
「そうか」
 短い沈黙があった。
 茗子は喉の渇きを覚えていた。今日は少し暖かく、重い衣装の下に熱がこもる。
「喉が渇いたのか」
 帝がそんな茗子の様子に気が付いて尋ねてきた。
「はい」
 正直に答えると、帝は少しの間そのままでいてから、腰のあたりに手を伸ばした。そこに、竹を削って作った細長い水筒が下げてあった。それをはずして、茗子に差し出す。
 手つきが少しぎこちなかった。渡し慣れていないような、おずおずとした動作だった。
 茗子はそれをためらわずに受け取り、口をつけた。
 冷たくて、よく沁みた。一口、二口と飲んで、茗子は水筒を帝に返す。
「ありがとうございます」
 帝は水筒を受け取りながら、茗子をじっと見ていた。何か意外なものを見るような目だった。
 頭を下げて畑を出る時、帝はまた鋤を持って草の根元に向かっていた。ひとりで、黙々と。茗子は振り返らずに歩いた。
 渡殿に戻る頃には、空はすっかり明るくなっていた。揚羽蝶はまだ見つからなかったが、今日はそれでもいい日だったと茗子は思った。腹はまだ少し減っていたが、喉の渇きは収まっていた。