蟲たちと茗子の暮らしは、やがて終わりを迎える。
きっかけは、都を駆け抜けた急な知らせだった。
帝が崩御したのだ。
まだ四十に満たぬ御年であったという。にわかには信じがたい話だったが、内裏からの早馬が幾度も走り、左京の果てにある古びた邸にも事の次第は伝わった。
茗子は縁側に出て、遠くに見える内裏の方角をしばらく眺めた。
――今上の御世が終わった。ならば次の帝は。
その答えが出るまでには、少し時がかかった。
先帝には御子がいた。しかしまだ生まれて間もない、乳飲み子に近い齢だったからだ。到底、帝位を継げる歳ではない。
内裏でも、同じ疑問が湧いたそうだ。
赤子に帝位を継がせ、摂政をつけるか。いや、さすがに無理だ。しかし他に御子はおらぬ……。
公卿たちが頭を寄せ合い、決まったのが『つなぎ』の帝を立てることだった。亡き帝には、歳の離れた弟宮がいたのだ。
その噂は茗子の耳にも届いた。農民の中の誰かが、市で仕入れてきた話を教えてくれた。
「長いこと、寺に預けられておいでだった宮様が、帝の位をお継ぎになるそうで。ほんのつなぎの間だけ、帝のお務めをなさると聞きましたが」
茗子は静かに頷いた。
つなぎの帝。乳飲み子の東宮が御位を継げるようになるまでの、仮の帝。
その言葉が、妙に耳に残る。
弟宮は間もなく黒曜帝として即位した。
矢じりや飾りとして用いられる黒い石と同じ名の帝を、都の者たちはもっぱら別の名で呼んだ。
毒帝、と。
新たな帝は、かねてより毒の収集を好む方だという。
珍しい毒草を取り寄せ、毒を持つ鉱物を並べて、毒そのものを研鑽しているとも聞いた。
寺育ちの宮様が、なにゆえそのような奇怪な趣味を持つに至ったのか。都から離れて暮らしていただけにそれを知る者は少なく、ただ妙な方だという印象だけが先行して広まっている。
公卿たちの間でも眉を顰める者が多いのだが、みな、さほど口うるさく喚くことはなかった。
どうせ、つなぎの帝なのだ。好きにすればいい。
文句も言われぬ代わりに扱いはそれなり。毒帝はさほど外に出ることなく毒だらけの自室で過ごしているとのこと。
いずれによ、茗子にとってそれは遠い世界の話だった。帝が誰であろうと、この庭の蟲たちは変わらず生きている。
茗子はその日も庭で筆を持ち、梅の古木に戻ってきた尺取り虫の子孫らしき一匹を紙に写し取った。
玉蟲の君に添える文には何を書こうと考えていると、門前に珍しく、立派な牛車が止まった。
狭い邸ゆえ、門からは庭がすべて見える。
牛車から降りてきた狩衣姿の男は、筆と紙を持って立ち尽くしている茗子を見て僅かに顔を顰めた。
「また、蟲とにらめっこしておったのか」
「叔父様……」
大納言・藤原金忠。茗子の叔父である。
「茗子、至急話がある」
扇の先で襤褸家の中を示す金忠の声は低く、どこか機嫌が悪そうだった。もっとも、この人が機嫌よく見えたことなどほとんどない。
邸の中に入ると、茗子は円座を出して金忠に座るよう促した。
金忠は周囲を見回し、かすかに眉を寄せた。
「狭い邸だな……」
分かり切ったことを。
茗子は身じろぎ一つせず、ただただ少し目を伏せる。
すると、ふいに金忠が身を乗り出した。
「縁談がある」
「縁談、ですか」
「そうだ。縁談……というより、入内だな」
「えっ」
何を言われたのかすぐには分からなかった。
普段は叔父と目を合わせぬ茗子も、このときばかりは狸に似た顔をまじまじと見る。
「茗子。新帝の後宮に入れ」
「――私が、ですか!?」
面食らっている姪を見て、金忠はふんっと鼻を鳴らした。
「茗子。お前はあばら家の蟲姫だが、母は先々帝の第八王女。血筋だけはいい。後宮に入るのに、不足はない」
「新帝……確か次の帝までのつなぎと聞いております。つなぎの帝に、后が必要なのでございますか」
茗子が静かに言うと、金忠はわずかに口元を固くした。
「形の上では必要なのだ。そのような細かいことをお前が気にすることはない。……それに、悪い話ではないだろう。なにせ后だぞ。内裏に住める。かような蟲だらけの邸から、絢爛な雲居に……」
「叔父様」
茗子は穏やかに話を遮った。なんだ、と口をゆがめた金忠を、まっすぐ見据える。
「その絢爛な場へ、なぜ私を行かせるのです。叔父様には、也子様という年頃の実の娘がいらっしゃいます。身分という点では、私よりも也子様の方がよほど釣り合いが取れております。悪い話でないというなら、なぜ也子様を入内させぬのですか」
沈黙があった。
金忠は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
「也子はまだ若い。内裏での暮らしは、心身ともに消耗するゆえ。……ああいや……」
茗子は消耗しても構わぬようだ。
しばし、重い静寂が襤褸家を包み込む。
茗子は少しの間、膝の上に置いた自分の手を見つめた。土の染みが、爪の端に残っている。蟲を探すために掘り返した土の、黒い跡が。
分かっていた。
いくばくかだが叔父には世話になっている。思い切り嫌な顔はするが、身寄りのない茗子が曲がりなりにも貴族でいられているのは、大納言である金忠のお陰だ。
だから、断れない。
「私がこの邸を離れるのは、いつごろになりますか」
それだけ、聞いた。
茗子の言葉を聞いて、きまり悪そうにそっぽを向いていた金忠が、はっと肩を揺らす。
「……入内を、受けてくれるのか」
断れないのでしょう。
それを言う分の間を置いてから、茗子は頷いた。
「いつごろですか」
また、同じ問いをする。
金忠は満面の笑みで答えた。
「二月後だ」
「……二月」
雪解けのころである。
それまでに、庭にいる蟲たちをすべて描き取っておきたい。
どのあたりにいる蟲たちから別れを告げようか。そんなことを真剣に考えていると、何を勘違いしたのか金忠がやや心配そうな顔で茗子を見た。
「そう案ずることはない。衣装や調度はこちらで誂える」
「はい……お願いいたします」
衣装のことではなく、蟲のことを考えていたのです……とは言えなかった。
それから二月。入内の準備は着々と整った。
といっても、ほとんどのものは金忠が用意してくれた。今日は、それを確認するため茗子は金忠の邸に呼ばれている。
大納言邸に到着すると、広い庭に面した広間に金忠が待っており、也子もそこにいた。
二つ年下の也子は、丁寧に手入れされた黒髪と、仕立ての良い衣を纏っていた。茗子を見た途端、「まぁ」と目を丸くする。
「茗子様、驚いた。雑布でもお召しになっているのかと思ったわ」
茗子は咄嗟に自分の身に着けているものを見た。
母が残した数少ない袿。かなり古びていて、布が弱ってきている。
「ちょうどよかったわ。お父さまが輿入れの準備をなさってくれたのよ」
也子はくすくす笑い名が、部屋の炭を指さす。
そこには入内のために用意された数々のものが置いてあった。
当日は、この邸から内裏へと向かうのだ。
衣装に几帳、逗子、香炉。そのどれもが、少しだけ古びている。
なるべく安く済ませたのが一目で分かった。きっと、実の娘の也子が入内するとなれば、もっと丁寧に支度を整えたのだろう。
だが、十分だ、と思った。これらは本当に持って行きたいものではない。
「素敵ね」
古い袿を茗子にあてがい、也子は笑う。素敵は、もちろん皮肉だろう。
也子は他のものを弄びながらにやっと口角を上げる。
「本当はね、わたくしのところへ縁談が来ていたの。でも、毒帝の后だなんて、とんでもない。わたくしには、身分不相応だわ。だから本当に安堵しているの。父上が代わりを見つけてくださって助かったわ」
代わり、という言葉を、也子はごく自然に使った。
身分不相応、と謙遜しつつ、毒帝なんてとんでもないと本音が漏れている。
「茗子様は、本当にこういう衣装がお似合いだわ。ああ、そうだ。きっと、主上ともお似合いよ、きっと。蟲愛づる姫と毒好む帝、ぴったりじゃないの」
後ろで娘たちの様子を見ていた金忠が噴き出す。
也子も笑った。茗子は顔色一つ変えず、ただ、古い衣装をあてられたままじっと立つ。
しばらくして金忠が也子を下がらせた。一人残った茗子に、少し険しい顔を向ける。
「茗子。入内に際して、ひとつだけ肝に銘じておくことがある」
「なんでございましょう」
「お前が輿入れするのはつなぎの帝だ。今の東宮様が御位を継がれるまでの、仮の帝に過ぎぬ。無論、お前もつなぎの后となる。だから……」
金忠はそこで、茗子の耳元に口を寄せた。
「間違っても子など孕むな」
少し間を置いて、その通りだと茗子は思った。
つなぎの后が帝の子を産めば、話が複雑になる。東宮の行く末に余計な波風が立つかもしれない。
金忠にとって、きっとそれは困ることなのだ。入内する茗子がどうなるかより、自分の政の算段の方が大切なのだということが、その顔にありありと書いてある。
「承知しております」
茗子はそう答えて、踵を返した。
襤褸家に戻ってから、茗子がしたのは、庭の蟲たちを描くことと、玉蟲の君に文を綴ることだった。
この邸で描く最後の蟲の絵は、中将が望んだ天狗蝶……冬に舞う蝶の姿だ。茗子はそれを今まで描いた中で一番丁寧に仕上げた。
絵の傍らに、文を添えた。いつもより少し長い文になった。
『今まで絵と文をお受け取りいただき、ありがとうございました。事情があってしばらく筆を執ることが難しくなりますが、いつかまた再開できる折があれば』
内裏でも蟲の絵が描けるのだろうか。
そもそも、殿上人たちが過ごす場に、蟲はどれほどいるのか。
それでなくとも、庭に棲む友たちと別れるのが少し寂しい。
『中将様がどのような方かとうとう知らぬまま終わってしまいましたが、文のやり取りはこの寂しい暮らしの中で、何よりも楽しい時間でございました』
文の最後にそう筆を走らせて、書かない方がいいかと少し迷った。
しかし、結局そのまま使いに持たせた。
翌日の夜、茗子は輿に乗り、やんごとなき場へと発った。
輿入れは夕暮れから始まる。日輪が沈みかけている空は、よく晴れていた。
脂燭の灯が列をなして夜道を照らすのが入内行列の習いだという。しかし茗子の行列は、その灯の数からして少なかった。
前を行く松明持ちが四人。牛車が一台。供人が五人に満たない。後に続く女房の輿もなかった。内裏に上がってから世話をする女房を手配するとは金忠が言ったが、それも金忠の邸で余っている者を一人よこすというだけで、茗子のために選ばれた者ではない。
道の端には、入内行列を見物に来た者たちがちらほらいた。新しい后の姿を一目見ようと、皆待ち構えている。
輿に載った茗子の耳に、その者たちの声が届いた。
「あれが入内の行列か」
「ずいぶんと寂しいな」
「毒帝の后とやら、どんな姫かと思えば……」
「つなぎの后だから、それ相応なのだろうよ」
「蟲が好きな変わりものの姫さんだと聞いた」
「へー蟲姫か。毒帝によく似合う」
くすくすと笑う声が、夜の空気の中に溶けていった。
茗子は牛車の中で、膝の上に手を置き、背筋を伸ばしていた。
笑われることは、予想していた。みすぼらしく見えることも、分かっていた。金忠が用意した衣装や飾りは、夜道でも相応に映る
それでも茗子は、顔色を変えなかった。
蟲姫と呼ぶなら呼べばいい。
蟲を愛することの何が恥ずかしいのか、茗子にはわからなかった。毒帝と呼ばれる帝のもとへ行くことを哀れむなら哀れめばいい。哀れまれたからといって、茗子がどうにかなるわけではない。
行列が内裏の大門をくぐる時、どこかでまた声がした。
「悪姫入内だ」
誰かが笑いながら言った。悪姫、という言葉が夜風に乗って流れていった。
茗子はその言葉を、静かに聞いた。
悪姫。蟲を愛し、毒帝のもとへ嫁ぐ、由緒はあれど落ちぶれた姫。都の人々の目には、そのように映るのだろう。
構わない、と茗子は思った。
どのように呼ばれようと、自分は自分。
庭の古い梅の木も、毎年変わらず花をつける。誰に称えられなくても、誰に笑われても、律儀に白い花をひらく。茗子はその梅の木が好きだ。木の根元にいる蟲たちも、好きだ。
内裏に到着すると、脂燭を先頭に茗子は奥へと導かれた。
渡殿を歩く間、すれ違う女官たちがちらちらと茗子を見た。あからさまに視線を向けてくる者もあれば、扇で口元を隠しながら隣の者に何かを囁く者もいる。
言葉は聞こえなかったが、何を語っているかはわかった。
やがて辿り着いたのは内裏の北の端……淑景舎だ。桐壺とも呼ばれる七殿五舎の一つ。
かの玄治もの型に描かれた桐壺更衣が済んでいたと言われる場だ。桐壺更衣は、身分の低い姫。つまりここは、そういう場だ。
ただ、思い描いていたより広かった。金忠が用意した地羊土品の類が、すべて運び込まれている。
几帳が一枚と、衣桁が一つと、文台が一つ。それだけだった。それでも襤褸家で暮らしていた茗子にとっては贅沢に見える。
「白湯をご用意いたしました」
まごまごしていると、後ろから声をかけられた。
「大納言様の邸より参りました。お世話をさせていただきます。今までは初菊と呼ばれておりました」
金忠が用意した女房だ。三十がらみの、表情の乏しい女だった。茗子が椀を受け取って礼を言うと、初菊は少し驚いた顔をした。女房に礼を言う后など、想定していなかったのかもしれない。
しばらくして、也子が顔を出した。
也子もこの日から掌侍として内侍所に上がることになっているのだ。初菊のところへ何かの書状を届けに来たらしい。
簀子から御簾の内を覗き込んだ也子は扇で顔を隠しながら目を丸くした。
「まぁ、これが后のお住まいなの? ずいぶんと質素なこと。もう少し整えてさしあげれば、父上も面目が立つのに」
也子の後ろに、取り巻きの女房が二人いた。彼女たちもまた、桐壺の中をぐるりと見回して何かを囁き合っている。
「でも、蟲ひ……后様ならぴったりね。それでは失礼いたします……あ」
戻ろうとした也子がぴたりと動きを止める。
扇越しに嫌理と笑い、こう言った。
「后様。ここは左京の外れとは違いますから。分をわきまえていらしてね。蟲が好きだからといって、庭で土をほじくり返すようなことは、おやめになった方がよろしいわ」
女房たちがくすくすと笑った。やがて也子を先頭にして、桐壺から遠ざかっていく。
初菊が茗子の横で、小さく息を吐いた。
茗子は、掘り返せるほど土があるなら蟲がいるかもしれない、と思った、
夜が深まった。
女官に導かれ、茗子は清涼殿へと向かった。
渡殿を歩進むたびに遠くで女房たちの笑い声がした。直接声をかけてくる者はなかったが、茗子の姿を見て何かを囁く者があちこちいる。
毒帝の后が来た、という話は既に内裏中に広まっているのだろう。蟲姫、という言葉も聞こえた。悪姫、という言葉も聞こえた気がした。
やがて清涼殿の前で茗子は立ち止まった。女官が先に入り、茗子は一拍置いてから足を踏み入れる。
室内は薄暗かった。脂燭がいくつか置かれ、揺れる灯の中に、御帳台が見えた。
帝が、そこにいた。
茗子は初めて、その姿を見た。
思っていたよりも、若かった。三十に届くか届かないかといったところだろう。
寺育ちと聞いていたからか、どこか質素な雰囲気があった。身分に見合う装束は着ているが、それを纏っていることをさほど意識していないように見える。
端整な顔立ちだが、顔色が読みにくい。常に微笑んでいるように見えて、しかしその奥に何があるのかが分からない。
帝は茗子を見た。茗子も帝を見た。
しばらく、そのまま互いを見つめていた。
「入れ」
帝は短く言った。声は低く、穏やかだ。
茗子は御帳台の中に入った。褥が敷かれており、茗子はその端に座った。帝は少し離れたところに腰を下ろし、茗子を見つめる。
「緊張しているか」
聞かれるまま、茗子は答える。
「少し」
「正直な后だ」
帝は言って、わずかに笑った。作ったような笑みではなかった。
それから帝は少しの間黙っていた。灯の揺れる音だけがあった。何かの蟲が、遠くで鳴いていた。春先の細い声だ。
「お前も分かっているとは思うが」
帝は静かに話し始めた。
ひょうひょうとした口ぶりだが、しかし言葉はしっかりと届いた。
「俺はつなぎの帝だ。東宮が御位を継がれるまでの、仮の帝に過ぎぬ。それはお前も聞いているだろう」
「はい」
「だから、これは儀式だ」
「儀式……」
「后を迎えるのも、今夜こうして同じ褥に入るのも、すべて形の上でのこと。俺が内裏に長く住むことも、おそらくはない。お前も、早ければ来年か再来年には元の暮らしに戻れる」
茗子は帝を見た。帝は茗子を見ていなかった。どこか遠くを、あるいは何もないところを見ていた。
「互いにさほど関わらず、それぞれに過ごす方が、お前にとっても楽であろう」
帝はそう言って、褥の上に横になった。茗子とは逆の方向に、背を向けて。
茗子はしばらく、そのまま座っていた。
帝の背中が、遠くに見えた。
今、横になっているその人は、どこか人を遠ざけることに慣れているように見える。追い払うのではなく、自分から距離を置いている。その違いが、茗子には何となくわかる気がした。
蟲にも、そういう種がいる。毒を持つがゆえに、他の生き物が近づかない蟲。近づかれないことに慣れてしまって、むしろ自分から距離を取るようになった蟲。
茗子は静かに、褥の端に横になった。
帝との間に、たっぷりとした距離がある。春の夜の空気が、その間に満ちていた。
また、蟲の声がした。春先に鳴き始める、小さな声。左京の邸でも、毎年この季節に聞いた声に似ていた。
内裏にも、蟲はいる。
茗子はそのことを確かめながら、静かに目を閉じた。


