狐の窓

「あの少女、どうするおつもりですか!!」
 
 襖が勢いよく開く音と共に、鋭い声が飛んできた。
 
「仕方がないだろう。あのまま放置していたら死んでいたかもしれない」
「でも…人の子ですぞ!?我々にどんな危害をもたらすか……」

 狐は皆口を揃えてそう言う。まるで人間という存在が外道だと決めつけるみたいに。
 
「何かあったら俺が責任を取る。だから体調が良くなるまでの間だけでもここにいさせてあげてくれ」
「……ですが……もしこのことがバレたらあなたの立場に影響が……」
「俺が責任を取ると言っているだろう。それも当然の報いだ」
「そう言われましても……」

 彼は口を籠らせた。
 こいつの頑固な性格は昔から変わっていない。
 
「とにかく、俺がいない間はあの子の面倒はお前に任せる。"お前が"危害を加えないようにな」
「でも……」
「わかったな??」
「……はい……承知しました……」
 
 悔しそうに顏を歪ませた奉公人の彼を横目に、()は部屋を後にした。


 彼女がいる部屋の前につく。
 コンコンとノックをしても返事がない。
 小さく襖を開き中を覗く。
 彼女はまだベッドに横になっていた。はー、はーと彼女の呼吸のする音が聞こえる。
 どこかおかしい。過呼吸ではないか。
 襖を限界まで開けて、彼女の元にすり足で寄る。
 やはり呼吸が荒い。顔も赤く、滝のように汗をかいている。苦しそうだ。
 彼女の額に手をやる。思わず手を引いてしまった。焼けるように熱い。自分の白い手が一瞬で赤く染まる。
 人の体温はこんなにも高いものなのだろうか。
 とりあえず汗を拭かなければ、体が冷えてしまう。
 押入れに入った浴衣とぬぐいを取り、彼女の元に置く。
 彼女の服をはだけようと手を伸ばす。
 寸前で手を止めた。
 今私は破廉恥なことをしようとしていないか?相手の承諾なしでやるのは穢らわしいことではないか?
 やはり……女中にやらせればよかったか?
 急に数々の不安が俺の頭に渦を巻いた。
 いや、私は彼女のために。至ってそのような感情はない。これは人助け、これは人助け……これは人助け…………
 そう自分自身に唱え続ける。最低限のものだけが見えるよう、目を細める。
 待て。なんだこの服。どうやってはだけるんだ? 
 えっとここを引っ張ってみるか?そしてこうして……あっているのか?
 これは……西洋の下着か?
 体も赤いな……相当熱が高そうだ。
 彼女の体にポンポンとぬぐいをあて汗を拭う。
 女物の浴衣。男物と着せ方は同じでいいよな?
 ……こうして、こうして……よしできた!
 少しいい加減だがまぁよいだろう。
 彼女の着ていた服を手に取る。見たこともないような服、触れたことのないような手触り。中を捲ると漢字が書いてあった。

「さ、こ……ぼたん?」

 これが彼女の名前なのだろうか。 
 
          *****

 ゆっくりと瞼を開く。視界がぼやけてよくわからない。
 あれ、私、何してたんだっけ。
 体がだるい。起き上がろうとしても体が動くのを拒否してくる。
 何回か瞬きをしていると視界が鮮明になってきた。
 木目のついた茶色い天井。知らない。ここはどこだろう。
 やっとの思いで体を起こし、辺りを見る。頭がだるく重い。
 私は布団で寝ていた。生地が薄いからか、背中と腰がビリビリと痺れている。
 私の着ていた制服は横に畳まれていて、私は浴衣を見に纏っていた。帯が緩んでいて、節々から不器用さが感じられる。
 なぜこんな格好を?やっぱり思い出せない。
 畳の床、襖の張られた扉、古い押入れ、中に蝋燭の灯った見たこともない照明、狐の描かれた巻物。私1人ではもったいないほど広い部屋。THE日本と言わんばかりの雰囲気だった。
 ん?狐?そういえば私、狐の行列を見て…
 記憶が少しずつ戻っているのを感じる。
 まだ何か忘れてるような…
 パチパチと音が聞こえてふと横を見ると、大きな囲炉裏に水の入った鉄製の鍋が、コトコトと煮詰めてあった。
 なぜ囲炉裏がここに?
 私が考えるより先に、襖の向こうから声が聞こえた。

「起きてるのか?」

 男性の声だった。
 優しさや気遣いは感じられるものの、堂々とした鋭い声をしていた。
 その声を聞いたとき、心霊スポットにいるかのような、肌寒さや不気味さを感じた。
 私の体は自然と萎縮した。
 誰かはわからない。人ではない気配を感じる。
 もしかして、狐?
 声の問いかけに、体が硬直した私は何も答えることができなかった。
 襖がカタッと音を立ててゆっくり開く。
 ゴクリと息を呑む。

「体調は優れたか?」

 そこには白いもふもふの耳と尻尾をつけた、人間?がいた。目はキリッと凛々しく、どこか高圧的な印象を受ける。コスプレのようにも見えるが、耳はぴょこぴょこと、尻尾は腰まで伸びた真っ白な髪と共に、揺れるように動いていた。
 突如現れた人の姿をした何かを見て、空いた口が塞がらなかった。

「まだ顔色が悪いな。よく休むといい」

 そういい彼は私の横に座り、私の頬に触れた。

「っ……」
 
 彼の手は氷のように冷たく、咄嗟に手を振り解いてしまった。

「……悪い……」

 彼の表情に変化はなかったが、耳と尻尾が垂れ、申し訳なさを感じていることだけはわかった。
 てか、何だこの状況。なぜ私はこんな和室にいて、狐人間に看病してもらってるんだ?
 どう頭を凝らしても、目覚める前の出来事が思い出せない。
 きっと疲れているのだろう。変な幻覚でも見えているのかもしれない。
 私は必死に目を擦ったが、彼の頭と腰には、真っ白な耳と尻尾が確実についていた。
 横ではパチパチと火花が飛んでいる。
 やはり、なにか変だ。
 行列で見た狐の目、目の前にいる彼の表情、丁寧に用意された寝床に部屋、この奇妙な状況。そして私の横の煮詰められた鍋。
 おかしすぎる。普通、こんな畳の上に囲炉裏など置いてあるだろうか。
 見た感じここはキッチンではないようだが。
 疑いの気持ちが膨らむ。
 ……畳の上に……囲炉裏……何か調理しようとしているということか?でもなにを……。
 元の世界だとキツネってイヌ科だよな。つまり肉食動物ってことだよな……。
 !……いや……それは流石に……。
 でも……ここは異世界で……元の世界の常識が通用しないだろうし……倫理観が違うかもしれないし……いや、そもそも人間じゃなさそうだしな……
 てことはやっぱり……
  
 ……私、食べられちゃう?

 ……でも……本当に?
 体調の心配は、健康なほうが美味しいから?怖がった肉は硬く食べにくいと聞いたことがある。だからわざと優しくして安心させたところを食べようと。確かに、それなら辻褄が合っている……かもしれない。
 気持ち悪い不気味さのある沈黙が続く。
 この後の行動次第で、私の生死が問われるかもしれない。
 でもこの状況を知る手掛かりはやっぱりこれしかない。
 軽く呼吸を一つつき、震えた腕を抑えて口を開いた。

「……あの……あなたは誰ですか?」

 そう問う私の声は枯れ、微かに震えていた。
 私の問いかけに、彼はわずかだが動揺を見せた。彼の表情の変化を、初めて見た瞬間だった。

「……私は……ハクという。この家の当主兼次期名主となるものだ」

 当主……名主……
 ……って……え?めっちゃ偉い人じゃない?そんな人がなぜ私の前に?
 さらに疑問が積もったが、とりあえず疑問を一つずつでも減らそうと質問を続けた。

「……えっと……ハク、さん……?は何者、なんですか?あと、ここはどこですか?」

 自分の危険を承知の上で質問する。
 彼はためらいながらも口を開いた。

「……私は……いや、私たちは、……人間と狐の血が流れた、妖狐人(ようこびと)という種族で、いわば半人間的な存在だ」

 ようこびと……?やはり私は夢でも見ているのだろうか。
 
「……そして、私たちの住むこの世界だが……隠り世(かくりよ)、または忘却の地(ぼうきゃくのち)と呼ばれている」
「かく、りよ?」
「……えっと……現世(うつしよ)……つまり君のいた元の世界の、裏の世界と考えてくれればよい」
「かくりよ……ぼくきゃくの、ち……」
「覚えられなくても問題ない。……君は……簡単に異世界とでも呼んでくれてかまわぬ。そのほうが親しみやすいだろう」

 そう言った彼の口にはうっすらと笑みが浮かべられている気がした。
 ようこびと……かくりよ……
 理解が追いつかない。つまり私は本当に異世界に?へ?まじ?どうゆうこと?
 私はパチンと自分の両頬を叩いた。

「痛い……」

 当然の私の行動に、彼の耳はピョンと立ち上がった。

「き、急にどうした?やはりまだどこか具合が悪いのか?」
「……あ、えっと……夢を見てる気がして……」
 
 そう言った私の言葉に彼はフッと笑いをこぼした。

「なんだそれ……」

 彼の笑顔を前にして、心の鎖が緩みそうになった。
 ……あれ?この人、顔は怖いし、近寄りがたい雰囲気あるけれど……案外良い人だったりする?
 だが首を横に振る。心を引き締める。
 騙されてはいけない。私はこの人の食料でしかないのだから。 
 彼の様子をマジマジと観察していると、彼の身を纏う袴に目が止まった。
 彼の袴は鮮やかなスカイブルーのグラデーションで、雪の結晶の刺繍が施されていた。とても華やかな袴だった……ん?スカイブルーの袴?どこか見覚えが……
 白狐……狐の行列……スカイブルー……最後尾……
 記憶の中のぼんやりとした部分が鮮やかに色を取り戻した感覚がした。
 あ!!私が狐の窓で見た行列の最後尾にいた白狐!!あれがハクさん!!
 ということは私は狐の窓を覗いて、行列を見て……
 徐々に記憶が戻っているのを感じる。
 そしたら白い光に包まれて、いつのまにか雪の中にいて……
 てことは、つまり……

「もしかして、私のこと助けてくれたの……ハクさんですか?」

 多分、というか確かに彼だと確信を持っていた。
 彼の表情に大きな変化はなかったが、彼の瞳孔が開かれたことを私は見逃さなかった。

「……あ、ああ。君が目の前で倒れて、咄嗟にここに連れてきてしまったんだ。独断で行ってしまったこと、本当に申し訳ない」
「いえいえ、大丈夫です。私を助けてくれてありがとうございます」

 私はお礼の代わりに精一杯の笑顔を向けた。
 そうか、この人が私をここまで。
 きっとこの人に見つけてもらわなければ、私、死んでいたかもしれないよな。
 相手からしたら私が異世界人のはずなのに、なんて優しい人だろう。
 この人なら信じてもいいかもしれない。
 それにこんな素敵な部屋に、暖炉まで……
 ……ん?
 
 暖炉じゃなくないか?

 そうだ。私はこれがなぜここにあるのか知るためにこの人に話しかけて……
 まだこの人が私を食べないという根拠はなくないか?もしかしたら彼は私に油断させようとしているのかもしれない。
 畳の上に囲炉裏があるなんて、私を食べること以外理由なくないか?
 いやでも仮に他の理由があったとしたら?
 変に探って赤ずきんみたいな目には遭いたくないしな……
 どっちにしろ、彼に聞くしか……ここは思い切って!

「……あの、ハクさん。さっきから気になってたんですけど……私の隣にあるこの囲炉裏って……」
「……」

 さっきまで平気だった彼の目が、より一層鋭くなった。
 体が震えた。嫌な予感が当たってしまったのか?もしかして本当に……?
 彼の言葉はすぐには返ってこなかった。何か悩んでいるように見えた。
 私は彼の表情から呼吸まで、五感を使って注意深く意識を向けていた。
 自分のことを自分で守る覚悟で。

「……驚かず、聞いてくれるか?」

 彼の発した声は、予想とかなり反していた。
 一層鋭くなった表情に対して、彼の声は弱々しく、ためらいを感じたからだ。

「……はい」

 私も弱々しく返事をした。

「……妖狐人の一部には……妖力(ようりょく)というものを使える者がいて……わかりやすく言うと超能力的なものだ」

 また新しい言葉が出てきた。
 ようりょく。私の好奇心をくすぐる。

「ようりょく……具体的にどんな力なんですか?」
「……えっと……私が知ってる限りでは……自然の力を操ったり、何か物体を生み出したり……人の心に影響を及ぼしたりする力があるな」
「まるで魔法使いみたいですね!!」

 私の反応が予想と反していたのか、彼は少し驚きながらも私の反応をジーッと見つめた。
 まだ慣れない彼の視線の鋭さに、肩に力が入った。
 え、まって……ようりょくって……
 けれど、私の心は正直だった。新たな情報を前にして、私の心は餌を得た子犬のように飛び跳ねていた。
 なんか、急に異世界っぽくなってきたーー!!!
 つまり異能力的なものが使えるっことでしょ!?
 え!すご!かっこよ!
 めっちゃ見たい……
 いや、でも……

「そのようりょく?ってのが、囲炉裏とどんな関係が?」
「……実はこの囲炉裏……その妖力で作られているんだ」

 この囲炉裏が……ようりょくの力……
 すごい。そんなこともできるのか。
 彼の口調は以前と同様、淡々と確かなものになっていた。

「この隠り世に住む妖狐人は、寒さを好む。きっとこの隠り世は現世とは比べ物にならない寒さだろう。……だから……暖房器具がないこの部屋は……君が……凍えてしまうと思ったんだ」
「それで囲炉裏を?」
「……ああ……暖かいものがこれしか思いつかなかったんだ。それと、君に……粥を作ろうと……思って……」

 かゆ?おかゆのこと?この人が?お偉いさんの坊ちゃんで料理なんてしたことなさそうなのに?
 それに、暖かいものが囲炉裏って……
 
「プッ、ハハハハハハハッ」

 口からつい声が漏れてしまった。
 私の笑い声を聞いた彼は、不思議そうに私を見ていた。
 その表情もおかしくって、笑いはとまらなかった。
 ここ最近で人と話して、こんなに声を出して笑ったことなどあっただろうか。
 いつの間にか彼の顔にも笑顔があった。
 ひと通り笑い終えた後、彼とバチッと目があった。
 背筋に微かに冷たいものが走った。 
 彼は一瞬視線を外したが、すぐに戻して投げかけた。

「そういえば……君の名前をまだ聞いていなかった。私に教えてくれるか?」
「はい、私は佐孤牡丹と申します。どうやって書くと思います?」

 ただの直感だが、この人なら信用していい気がする。
 私はいつもの調子を取り戻していた。

「……(にんべん)と、(ひだり)()に、狐で佐孤、……ぼたんは花の牡丹だろう」
「え!?どうしてわかったんですか!?よく間違えられるのに!」

 彼の顔が微かに歪んだ。
 何か失礼なことでも言ってしまっただろうか。
 
「……言った方がいいのか?」
「?、はい!ぜひ教えてください!」

 何をそう躊躇っているのだろう。
 彼は一呼吸間を開けた後、口を開いた。
 
「……話そうか迷っていたのだが……」

 声のトーンが下がった。元々低い声がさらに地に響く。圧力を感じた。
 
「……君の服をはだけさせたのは……私なんだ。そのときに君の服に書かれた漢字を見て……本当に申し訳ないことをした!」

 彼はすごい勢いで頭を下げた。
 頭が真っ白になった。
 
「……え、あ、気にしないでください!!不可抗力ですし!私そうゆうこと全然気にしないんで!!それより、知ってたにしても漢字当ててもらえたことが嬉しいです!!」

 私の口からツラツラと言葉が出てくる。
 彼の言葉が理解できなかった。
 彼が私の服を?
 私が言葉を発した後、彼はスッと立ち上がった。彼の急な行動に思わず体がビクつく。
 私の横にある囲炉裏に近づく。

「熱ッ……!」
 
 鍋に触れると眉をひそめ、布巾を取り出し持ち直した。
  
「……あー……その……まだ君の体調も万全じゃないだろうから……粥を作ってくる。……だから……その間は……休んでてくれ……」

 そう放ち、襖をバタンと閉じた。
 彼の声は、以前と打って変わって大きく、激しく動揺を感じた。
 だが不思議と足音は聞こえなかった。生き物の気配も感じなかった。
 そこに不気味さを感じつつも今この場で起きた出来事を振り返る。 
 不覚にも、しょうがないにしても、初めて会った人に下着姿を見られただなんて、なんという恥ずかしめだろう。
 彼が隠そうとしていたのも納得だ。
 私の両手は無意識に顔を覆っていた。
 よかった。彼が部屋を出ていってくれて。こんなまぬけで隙だらけな表情、絶対誰にも見られたくない。
 とりあえず彼の言う通り眠りにつこう。
 ひと通りの出来事が起こった後でも、まだ体は重いまま。
 ようこびとに、かくりよ。まだまだ信じられないことが起きることへ、少しの胸の高鳴りと、僅かに空いた頼りない風穴のような不安感が心に湧いている。
 私の頬にはまだ不気味なほどにはっきりと、彼の手の冷たさが残っていた。

          *****

「入るぞ」

 彼の声が聞こえる。

「どうぞ」

 体を起こし軽く返事を返す。彼の声は相変わらず不気味だった。
 結局あの後一睡もできなかった。
 だるく重い体と対照的に私の脳は覚醒していたのだ。
 今起きている不思議な出来事が夢ではないことを信じながら、夢の世界と自分を繋ぎ止めるみたいに、とにかく起きていた。
 襖が音を立て開く。
 そこには湯気のたつ器と水の乗ったお盆をもつ、彼の姿があった。腰まで伸びていた長い髪は耳の高さあたりで軽く結ばれている。
 裾は肘あたりまで上がっており、白い肌の腕が露出していた。服の上からはわからない、男らしい腕に浮き出る血管を見て、不覚にもドキッとしてしまった。

「……すまない。時間をかけすぎた」

 彼は私の元まで寄った後、その場で正座し、お盆を渡した。
 器の中にはお世辞には綺麗と言えないお粥?らしきものが入っていた。米は所々焦げ、卵はパサパサしていた。

「……恥ずかしながら……初めてだったものでな。……味の保証はできないが……」
「大丈夫です。ありがとうございます」

 大丈夫、とは言ったものの、正直食べることに少し抵抗はあった。
 恐る恐るれんげを手に取り一口より少なめで掬う。ゆっくり口に入れると、少し硬めの米の食感を感じた。だがその後、見た目と反した優しい味が口の中に広がった。
 大層美味しいとは言えないが、初めて異世界で食べるものとしてはこれで十分だった。
 あっという間に完食して、ハクさんが食器を片している間に制服に着替えた。自分の下着を見て彼の言葉を思い出し体が熱くなる。
 人に見られるならもっと可愛いの着てくればよかったかな?
 そう考えてしまったことに、体だけでなく顔までも熱くなった。
 彼の帰りを待っている間、部屋を見て回ろうと思った。
 まず狐の巻物に近づく。狐のような生き物と、狸のような生き物が和風なタッチで書かれていた。どこか争っているようにも見える。二匹の背後には、雪や、火の粉のように見える模様が入っていた。
 何か意味がありそうだが、よくわからない。
 次に照明を見る。ポーッと蝋燭が灯っていて、どこか心地いい。
 次に押入れに手を伸ばす。スッと少し押入れを引くと、中でコロンと軽い音がした。瓶のようなガラスでできたものが落下した音のように思えた。
 押し入れを半分くらい開けて中を覗く。
 中には、布団や古い箱など、まるでおばあちゃん家の押入れのようなものばかり入っていた。
 その中に、キラキラと輝く小さな瓶を見つけた。その瓶を手に取ると、中には瑠璃色の液体が入っている、雪の結晶が彫刻されたガラス瓶だった。どこか神秘的な雰囲気を感じる。
 拾ったガラス瓶をマジマジと見つめていると、襖の奥から話し声が聞こえた。言い争っているように聞こえる。
 声に驚き、体がビクリと跳ね上がった。咄嗟に瓶をポケットにしまった。

 カタッ
 襖が開く。

「……はぁ……」

 少しやつれた様子の彼が現れた。さっきまでの声の主はハクさんだったようだ。
 立ったままで彼を見ても、見上げる必要があるほど迫力がある。

「どうしたんですか?」
「あー……少し面倒な奴に捕まってな……はぁ……」

 こっちの世界でも色々あるらしい。

「準備できたか?」
「はい!完璧です!どこに行くんですか?」

 私は彼に行く場所があると言われたため、出かける準備をしていた。
 きっと異世界の案内をしてくれるのだろう。
 そう、私は胸を弾ませていた。
 だが返答は予想を大幅に裏切った。

「元の世界に君を帰す」
「……え……」

 期待が一瞬で打ち壊された。
 どうして、やだ。せっかく逃げられると思ったのに。あんな世界、死んでも戻りたくない。
 やだ、やだ、やだ、やだ。
 なぜそんなことを言うの?

「……え、あの……どうしてですか……」
「この世界にいれば、君に危険が及んでしまう恐れがある。それなら元の世界に戻ったほうが」「いやです!!」

 彼の口の動きが止まった。
 止まったというより、私が無理やり止めた。
 重い空気が辺りに漂う。この空気、私が大っ嫌いな重さだ。
 心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
 そんな中彼は、私の前で膝をつき、諭すように囁いた。

「……お願いだ。もし人間だとバレれば……生きては帰れないかもしれない」
「それでも嫌です!!」

 彼の優しい言葉が余計に怒りを引き立てる。
 私は子供じゃないのに。
 
「でも……あっちに友達だって……」
「友達なんて……いません……!」
「っ……だが……」

 彼の言葉が一瞬詰まった。

「……君を……危険な目に……合わせたくない……」 

 彼の声が微かに震えていた。
 
「…………いや……です……戻りたく……ない!」 
「……狐の窓で……いつでもこれるだろう……だから、今は戻って……」
「いやですって!!」
「……だが……それでも……」
「嫌なんです!!……戻るくらいなら……」

「死んだほうがマシです!!」

 気づけば頬が濡れていた。顔を湿らせた私を見ても、彼は表情を変えなかった。

「……ごめん……ごめんな」

 立ち上がった彼は、小声で呟き始めた。

「けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか」

 白い光に包まれた。思いきり目を瞑った。
 あー、戻っちゃうんだ。夢から覚めちゃうんだ。
 そう悟った。
 次に目を覚ましたとき、私は自分の部屋のベッドの上にいた。
 やっと叶ったと思ったのに。
 目にしょっぱい涙を溜めたまま、意識は沈んでいった。