オニツキ

 昼前、陽平が温羅家のチャイムを鳴らす。玄関から出て来たのは美陽の母親だった。
「ヨウくん、いらっしゃい。お昼ご飯用意してるわよ」
 美陽の母親はこの地域では目立つほどに洗練された雰囲気を持つ女性だった。きっと都会へ働きに出ているからだろう。未亡人になったとたん、他の家の男性から声を掛けられ始めたと美陽から聞いた。独身もいれば、妻子ある身の男もいる。団地の中で出来上がっていくこの気持ちの悪いサークルが嫌だった。それでも美陽の母親は凛とし、美陽の母を務めあげていた。務めるとは失礼な言い方かもしれない。しかし陽平はそんな彼女を真に尊敬していた。そして羨ましかった。
「おばさん、いつもすみません」
「ええ!? やめてよヨウくん。いつも美陽がお世話になって、感謝してるのは私なんだから」
 気さくに笑いながらリビングに案内する。オープンキッチンでは美陽が食事の準備をしていた。
「ヨウ、おはよ」
「お、おはようじゃねーわ。一時間前には起きてたわ」
 美陽は表情をあまり表に出さない。いつも愛想がなくつんけんしたように見える。でもこういう時の美陽は笑っているように陽平には見えた。きっと言葉にしない気持ちが伝わってくるのだろう。
 美陽が母親の作ってくれたご飯を机に並べていく。陽平が家では食べたことのないグラタンが並べられた。縁が少し焦げた皿の中、チーズのとろりとした表面が艶やかに光っている。湯気とともに香ばしい香りが充満する。大きなガラスのボウルに入ったサラダは見慣れない葉っぱで溢れている。とりわけ用の小皿を美陽が陽平の前に置いた。
「お母さんこのあと買い物で町に出るけど、あなたたちも車に乗ってく?」
 エプロンをはずしながら母親が身なりを整える。
「いや、今日はその辺ぶらぶらしに行く。遠出になったらバス使うし、大丈夫」
 美陽の答えに「そう」と優しく返す。
「出ていく時鍵かけていくのよ」と言われれば「分かってる」と美陽が淡泊に返した。母親が玄関へ向かうとドアが閉まる音がする。やがて車のエンジン音が聞こえたかと思うと、音は遠ざかり静かになった。
「いつもうまそうな飯やな」
 陽平が焦がれるような目で目の前のご飯を見つめている。手を付けずにひたすら目で楽しんでいる陽平にグラタンがよそわれた。
「冷めんうちに早よ食べろって」
 皿を陽平に差し出すと、美陽がしまったと皿をひっこめようとする。それを陽平が取り上げ、自分の前に置くと手を合わせた。
「はい! いただきます!」
 陽平ががつがつとグラタンを食べ始める。
「おい! ヨウ、あかんって!」
 美陽が取り上げようとする皿を陽平が死守する。
「だーいじょうぶやって。てか、大丈夫な気がするねん。だってハルと飯食うのなんてしょっちゅうやったやろ? それでも今まで何もなかったし。おばさんとも一緒に食っとるやろ?」
「一応は、気を付けてる」
 ぺろりとグラタンを平らげると、おかわりと二杯目をよそう。
「なあ、鬼っていうんは何なんや? 人みたいに心はないんかな。俺はハルといてても危ないと感じたことがない。案外鬼も大切な人を傷つけたいとは思ってないんかな」
 昨日の出来事をもう忘れてしまったのかと美陽が気まずそうにする。陽平を襲うようなマネをしたのに危なくないなどと、どうして思えるのか不思議だった。
「俺は山下さんも翔也も、傷つけたくないよ」
「そうやんな」と相槌を打つ陽平の目元が陰る。恐れることも嫌がることもせず平らげた陽平の食べ跡を美陽が見つめた。陽平が大丈夫で翔也がダメなのなら、飯の事とは別の要因があるのだろうか。『母体の心は鬼とリンクする』と言った蘆屋の言葉を思いだす。自分の心に原因があるのだとしたら。だとしたら自分の汚い部分を自覚せずにはいられなかった。
 
 昼ご飯を食べ終わり、外へと出かける。今日は快晴だった。じめじめとした梅雨の気分を吹き飛ばすような、絶好のお出かけ日和だ。
「歩いて行こう」
 陽平の提案に美陽も乗る。商店街へは積祈(つみき)神社と小学校を通り過ぎ、さらに進んだ先にある。小学校までの坂も、小学校前の水路も、通るのはあの日以来だった。遠足気分で機嫌よく歩く陽平。それを見ていると、美陽の心も弾んでくる。美陽は、陽平のそんな無邪気さが本当に好きだった。
 青葉台を抜け、近道の階段を下りる。すると目の前に広い二車線の道路が現れる。そこから坂道が続き下っていくのだが、見晴らしのいい坂の上からは例の水路を見ることが出来た。
「ハル?」
 心配そうな陽平の顔に美陽が眉を落とす。
「大丈夫やって」
 眉を落としたまま薄く笑って返す。「ん」と納得した陽平が再び歩き出した。
「なんで今日は商店街なん?」
「ん? ああ、久しぶりに食べたいなって。八戸(やと)さんのコロッケ」
 八戸さんとは八戸精肉店の事で、ここで売っているコロッケは小学生であれば誰もが一度は食べたことがある絶品のおやつだった。
「それだけ?」
「それだけ。あ、あとヒロマガ買いたい」
 少年誌ヒーローマガジンは週刊誌だが、コンビニのないこの地域では商店街の本屋が唯一の入手先だった。もちろん今では携帯やネットで読む事も出来るのだが、陽平は昔から雑誌を買って読む派だと言い張っていた。
「じゃあ本屋行って、八戸さん寄って、積祈神社で食べようか」
 穏やかに話す美陽の声が心地いい。一ヵ月前までは、こんな風にのどかに平和に過ごしていた。それが短期間で事態が一変した。一番不安を感じているであろう美陽の気持ちを少しでも紛らわしてやりたい。だから美陽から放たれる声が穏やかな事が、陽平は嬉しかった。
 本屋で雑誌を買い、八戸精肉店でコロッケを買う。店主は陽平と美陽には気づいていないようだった。毎日たくさんの生徒が買いに来ているのだろう。いちいち生徒の顔など覚えていなくても無理はない。
 アツアツコロッケが入ったビニール袋を下げて積祈神社に向かう。神社に行く前に陽平の提案で隣の小学校へ寄った。少しも変わらないその光景に懐かしさを覚える。
一階の窓から中をのぞくと、壁に張られた絵には知らない名前ばかり書かれている。それが寂しい気持ちにもさせるし、希望のようなものも感じさせ複雑な思いになる。
「ハルが転校してきた時ビックリしたなー」
「ほぼ同時期やろ」
 陽平が越してきたのが一年生の夏休み前。美陽は夏休み明けの九月に越してきた。たった二カ月差なのに陽平は兄貴面をする。
「だって、めっちゃ綺麗な子が来たんやもん」
 綺麗な子という表現に美陽が引く。
「いやいや、違うって。身なりとか、言葉遣いとか、雰囲気とか。立ってる姿はなんかの花みたいな、言うやん」
「芍薬な」
「そう、それ!」
 芍薬がどんな花なのか知っているのかも疑わしい。しかし陽平の目にそう映っていたのなら悪い気はしない。
「芍薬は種類によっては毒あるけどな」
「あ、あー。そう、そうなんや」
 陽平が何を言おうとしたのかはだいたい想像がつく。危険なものをはらんでいた方が魅力的だと人は思う。しかし小学生にとってその魅力は仇となった。自分たちと違うと思えば排除する。そういう負の感情を子供は直球でぶつけてくる。
「ヨウがおらんかったら、どんな小学校生活やったかな」
「ハルなら一人でもなんとか出来てたよ」なんて事は言わない。
 ―俺が全部追い払ってやった。守ってやった。だって、ハルは弱いから。
「でも誰もハルに頭で勝てんってなったら、大人しくなったよな」
「別に誰かを負かすつもりはなかったし」
 淡々と語りながらも美陽の頬が緩む。陽平がすごいすごいと褒めてくれるほど、もっとその言葉が欲しくなった。
 
 一通り校舎を覗き偵察を終えると、積祈神社へ向かう。積祈神社は大きくはないが、この辺りでは立派な神社だった。石造りの鳥居がどっしりと構え、境内は狭いが玉砂利が敷き詰められ綺麗に手入れされている。三十三段の石段を登っていくとその上に拝殿があった。奥にある本殿の裏には木々が覆い茂る。鎮守の森がそびえるその場所には人が入れないよう仕切りが置かれている。社殿の横には社務所があって、神主の住居にもなっていた。
 登り切る手前の石段に、二人が腰を下ろした。小学生の頃はこうして学校帰りや放課後に寄り道をした。菓子屋で各々おやつを買い、おしゃべりをした。コロッケもその頃からよく食べていた。
「冷めちゃったかなー」
 陽平がビニール袋をのぞきこむ。
「お、まだあったかい!」
 袋の中には耐油紙に包まれたコロッケが二つ。そのうちの一つを取り出し美陽に差し出した。コロッケを受け取る美陽の手が一瞬戸惑いをみせる。
「大丈夫やって、俺から美陽にあげるんやから」
 そう言われ、大丈夫だと自分に言い聞かせるように美陽がコロッケを受け取った。
 ラードで揚げたコロッケは時間がたってもサクサクとした食感を保っている。ほくほくのじゃがいもの中には上質なミンチ肉が混ざり、肉汁が溶け出す。味付けは薄めだが、芋と牛肉のうまみだけで満足感がある。
「こんなおいしいコロッケをおやつにしてたなんて、なかなか贅沢な小学生やったな」
 指先についた衣をぺろっと舐めながら美陽に話しかける。しかし陽気な陽平とは反対に、美陽が半分ほど食べたコロッケを持った動きを止める。そのまま、ゆっくりとうなだれる。しかめた顔は辛そうに何かを我慢していた。
「ハル? どした!? 具合悪い!?」
 慌てて陽平が美陽の背中をさすってやる。ぐっと腹を抱えた美陽がふるふると首を振った。
「いや、平気。なんか気持ち悪くなった」
「平気ちゃうやん。コロッケか? それともいつものやつ?」
「分からんけど、思ったほどひどくはないから」
 美陽が手をあげ制するが、陽平はわたわたと狼狽える。
「あー、飲み物ないかな。自販機めっちゃ遠いって!」
 どうしようかとキョロキョロ辺りを見渡す。立ち上がろうとした陽平の袖がぎゅっと掴まれた。
「いいから……」
 そう言うと陽平の腕にもたれかかる。それだけで気持ち悪さが軽減するような気がした。
「大丈夫?」
 陽平のものでも、美陽のものでもない声が背後から聞こえた。振り返ると浅黄色の袴を履いた装束姿の神主が二人を覗き込んでいた。二十代前半くらいだろうか、思ったよりも随分と若く見える。翔也の事故があった日に見た私服姿とは違い、清楚な装束と一つに結った髪。その装いのせいか陽平の目には天使のようにうつった。神社で天使とはそぐわない例えかもしれないが、何にせよとても神聖な存在に感じた。
「あ、あの、友達が具合悪くて。水、もらえませんか?」
「ちょっと待って」とすぐに社務所へ駆けていく。戻ってきた神主の手にはペットボトルが握られていた。陽平が受け取ると美陽に手渡す。数口水を流し込むと、さきほどより美陽の表情も和らいだ。
「あの、ありがとうございます。えっと……」
「積祈神社の神主をしています、墨馬香住(すま かすみ)といいます」
「墨馬さん、助かりました」
 礼を言う陽平の人なつっこい笑顔につられて墨馬が笑う。明るく陽気で、見せる笑顔が相手への警戒心をなくす。墨馬は陽平にそんなイメージを受けた。墨馬がちらりと美陽に目を遣る。視線に気づいた美陽が振り向きぺこりと頭を下げる。こちらは随分と陽平とは対照的だと感じた。
「もう大丈夫? よかったら僕の家そこだから休んでいく?」
「いいんですか!? ハルせっかくやし―」
「いえ、だいぶ楽になりました。お水ありがとうございます」
 美陽が良すぎるくらい礼儀正しく頭をさげる。丸くした墨馬の目が、ぎゅっと陽平の服を掴んだままの美陽の手を捕えた。
「そう、ならよかった。気を遣わず座っててくれたらいいからね」
 にこりと笑う墨馬の方を美陽は見ようとはしない。
「ヨウ、行こう」
 くいくいっと陽平の服をひっぱる。
「いや、でも……」
「だから、ちょっと気持ち悪くなっただけやって。軽い貧血みたいな」
「ほんまに、大丈夫?」
「ヨウ」
「あ、ごめん。信じてないとかじゃなくて、心配で。ごめん」
 二人の様子を墨馬が眺める。心配しすぎる友人、とは少し違う風にみえた。他人に向けた愛想のよさと、美陽に向けた優しさ。その正体に違和感を覚えるのは考えすぎだろうか。
 美陽が立ち上がると慌てて陽平も腰を上げる。見送る墨馬に振り返り、礼儀正しく頭を下げたのは美陽の方だった。墨馬もたおやかにお辞儀をする。
「あんな若くて、一人で神社を任されてるんか?」
 境内から出ると美陽がぽそっと呟く。「確かに」。そう陽平も思ったが、それ以上この話題が続くこともなかった。
 
 梅雨も明けるといよいよ夏休みへと突入する。雨の日は美陽の体調も良いとは言えなかったが、大きな事故も起こっていなかった。もしかすると蘆屋のアドバイスが効いているのかもしれないと、陽平も美陽もどこかで安堵していた。
 夏休みに入ってすぐの日だった。美陽が家の窓から陽平の姿を見かける。どこかへ出かけるようだった。美陽は知らないふりをして陽平に連絡を入れる。携帯をチェックしていないのか、「今日何してる?」への返事は返ってこなかった。
 駅前のバス停で陽平を待っていたのは、南だった。
「ごめん。急に付き合ってもらって」
 くすみがかったブルーのノースリーブワンピースを南が纏う。ふんわりしたスカートと、普段は見えない二の腕や足首にドキリとする。
「いや、全然。てか、やっぱ私服やとイメージちゃうな」
 照れたように頭を搔くと、南もつられて顔を赤らめる。
「陽平は、ぜんぜん変わらへんな、制服ん時と」
「え、それショック受けていい案件!?」
 陽平が落ち込むふりをすれば、二人で笑い合う。爽やかな風が吹く。こんな風を感じたのは、久しぶりだった。
 南に誘われて、町にあるショッピングモールに赴く。コンビニもない田舎に住んでいればそこはアミューズメントパークのようで、ウィンドウショッピングをしているだけでも心が弾む。南が買いたかったという服や雑貨を見て回る。店員に「デートですか?」と聞かれ、南が曖昧に笑ってごまかす。その後ろから「いや、友達です」と陽平の明るい声が返ってきて、南は残念そうに苦笑した。
 買い物をすませ、ファーストフード店でランチを食べる。あてもなくウロウロと歩き、そろそろ夕方になる頃に元のバス停まで戻ってきた。陽平が持っていた紙袋の束を南に渡す。全部南が買ったものだった。
「今日はありがとう。その、付き合ってくれて」
「ええって。俺も楽しかった」
 陽平の笑みに「本当!?」とつい大きな声が出た。その声に陽平が丸くした目を瞬かせたが、また優しい顔になると手をあげる。
「じゃあ、またな」
「あ、陽平!」
 そのまま去ろうとする陽平を南が呼び止める。「何?」と振り返った陽平の顔は優しいままだった。
「あの、うちな―」