美陽と陽平が自転車を押しながら歩く。蘆屋の住む杉田地区から青葉台へは、北東へ向かい、小学校を過ぎた後坂道を登っていく。だいたい三キロほどの場所にある。小学校から西側は比較的住宅も多い。とはいってもやはり昔からの家が大半を占めていた。古い店がぽつぽつと立ち並ぶ商店街もある。それも今は本屋と菓子屋、文房具店くらいしか常時開いている店はない。小学生の頃を最後に、この辺りで買い物をすることもなくなっていた。
「あー、早くバイクの免許取りてえ」
とぼとぼと歩きながら陽平が嘆く。
「ヨウの学校は禁止じゃないん?」
「ん? 免許取んの? 夏休みとかで教習所通う分には大丈夫やで。ハルんとこはあかんねや?」
「うん。確か禁止。いや、正確には知らん。免許取る人も周りにおらんし」
「進学校やもんなあ。みんなちゃんと勉強しなあかんもんな」
そもそも美陽の学校では高校生のうちに免許を取るという考えがない。陽平がそうとは言わないが、陽平が通う高校の制服を着た生徒がバイクを乗り回しているところは何度も見かけている。環境が違えば常識も違うのだろう。どうであれ人に迷惑をかけなければそれでいいし、陽平がそんな不品行をするとは思えない。ただ移動手段としてバイクを使いたいのだ。
「なあハル。蘆屋が言ってる事、ほんとやと思う?」
陽平の自転車はカラカラとうるさい。チェーンがたるんでいるのだろう。直しに行くにも自転車屋がこの辺りにはない。陽平の家も美陽の家も母親しかいない。こういう整備を教えてくれる大人は昔から身近にはいなかった。
「今はほんとやと思うしかないよな。現に不可解な事が起こってるし、まずは信じてやってみんと」
「そうやんな。もしハルが鬼になるなんて、俺嫌やし」
蘆屋が言うには、一度鬼を孕めばそれを体から消し去ることはできない。ただし儀式をすれば話は別。もちろん近年では例がほぼない上に、症例は蘆屋にも教えられていない。蘆屋が知っているのは鬼を排除する儀式だけ。きっと両親も何かアドバイスをくれると思うので、今はその方法を試してほしい、とのことだった。
「とりあえず、このまま沼行ってみる?」
陽平の提案に美陽が頷いた。蘆屋が教えてくれた儀式とは「山地泉の法」と呼ばれる。鬼は山で産まれ、地で育つ。そして泉で落ちる。落ちるとは、人の体外へ出る事を意味するという。ここでいう山は青葉台にある小山。地は埋め立てられた青葉台全体をさす。そして泉とは小山から青葉台を東へ抜けた先にある沼の事をさしていた。この地形こそが鬼が産まれやすく、鬼に対する儀式が継承され続けて来た所以だとも蘆屋は話した。要は沼に近づく機会を増やす、そして山には近づかない。それだけだった。沼で何かしなくてもいいのかと聞けば、一般人がむやみに儀式の真似事をするものじゃないと言われた。手順、手法、何かを一つでも間違えれば、それがもたらす事象は変わってくると。
青葉台から沼への道は、そのまま駅への抜け道となっている。しかし小学生の頃に何度か探検しにいったきり、そこへ近づくことはなかった。小田地区に住む同級生から、昔この沼で死体が上がったと教えられた。その噂を聞いてから陽平も美陽もおのずと避けるようになっていた。
青葉台まで帰ってくると団地の奥へと向かう。団地の端には雑木林が広がり、その中へは入っていけそうもない。ただ一つ、泥が剥き出しになり荒涼とした道らしくない道が一本だけあった。抜け道の前に自転車を停める。細く足場が悪い上に傾斜のある下り道になっている。自転車で入っていくのは危ない。いや、危ないのは道に限った事ではないのかもしれない。林への入り口には誰が作ったのか、白く塗装された木の看板が立てられている。塗装が剥がれ落ち、腐朽した木材が見えている小さな看板。そこにはただ一言、「危険」とだけ書かれていた。小さい頃は気にした事もなかった。ぬかるんだ道が危険なのか、死体が上がった事と関係あるのか、それとも鬼のせいなのか。今になって、書かれたその一言にゾクっと背筋を逆撫でられる感覚を覚える。
「ハル、行こう」
陽平が無意識に美陽に手を差しだす。昔はそうやって未知の世界への探検へと繰り出していた。いつも陽平が美陽の手を引いてやる。しかし果たして本当にそうだったのだろうか。美陽を守ってやると思い込む事で、気を大きく持たせていたのではないだろうか。今だって、手を繋ぎたいのは陽平なのではないだろうか。陽平の心の底など知るはずのない美陽はそれは普通に、ごく自然に、躊躇う事もなく陽平の手を取った。
「地面滑りそうやし、気いつけてな」
陽平が美陽の前を行く。本当に足場が悪く、つい握った手に力が入る。少しでも力がこもろうものなら、すぐに陽平の手が美陽を支えようとした。たぶん陽平は自分が転んだとしても美陽を死守するだろう。陽平の襟足からのぞく男らしい首筋を美陽がぼうっと見つめる。「ああ、やっぱりヨウは頼もしいな」などと、その後ろ姿を見つめながら考えていた。
「ハル?」
陽平が振り向いていたことにも気づかないほど、美陽はぼんやりとしていた。
「どしたん、そんな呆けて」
美陽の顔が面白かったのか、陽平がケタケタと笑う。
傾斜を下りきると陽平が手を離した。その先はあぜ道が続く。雑草が覆い茂った道は、ここを通る人がいない事を示している。傾斜の入り口から続いている雑木林の先に沼はある。昼間なのにどよんと影が落ちている。沼の淵をぐるりと囲んでいる木々のせいなのか、それとも気持ちがそう見せているのか。ひしめき合った樹冠は重そうに、今にも水面に浸かりそうなほどに垂れ下がっている。黒く濁った水は底を見せず、空を映し出していた。
沼に来たのは小学生ぶりだった。
「こんなちっさかったっけ?」
陽平の言う通り、記憶しているよりも沼はずいぶんと小さく感じた。
「俺らがおっきくなったからやろ」
「そっか」と言って陽平が沼の際にしゃがみこむ。少しも水中が見えないほどに淀んだ沼。それだけでも不気味だった。陽平と違い、美陽は沼から少し離れたところに立っていた。
「ハル、なんか変わったこととかある?」
ふるふると美陽が首を振る。
「ヨウ、あんま近づきすぎたら危ないで」
陽平の後ろから声を掛ける。少しだけ美陽の方へ振り向くと、よっこいしょと陽平が立ち上がった。
「これから駅行く時はこの道通ったらええんやんね? 明日からは一緒に行こうか」
「いや、でもヨウは一本遅い電車やろ?」
「駅まで行ってみよう」と陽平が歩き出す。その後を美陽が着いて行く。
「ここ通ってるときとか、ハルになんかあったら大変やん。学校に早く行く分には誰も文句言わへんよ。それに蘆屋も俺が一緒にいた方がいいって言ってたし」
先を行く陽平の背中を眺める。暑いのか、まくり上げたシャツから見える腕がたくましい。ロールアップしたパンツからのぞくくるぶしが力強く茂みを歩く。気付けば美陽が無意識に再び陽平の手を取っていた。美陽の手の感触に陽平が振り向く。
「怖い? 大丈夫やって。鬼が消えたら元通りやろ?」
そうだといいのだがと願う。その願いを口に出すことなくうつむく。「だいじょうぶだいじょうぶ」と陽平の鼻歌のような声が心を和ませた。
あぜ道を進んでいくと、不意に舗装された道に出た。この道も、一軒だけ建つ民家の為に作られたような道で、舗装は急に途切れている。道路と畦道の間には侵入禁止用のハードル型バリケードが置かれている。安全第一と書かれた黄色と黒のしま模様の、よくあるアレだ。陽平がバリケードをひょいと跨ぎ、美陽がそれを避けて通った。沼を抜けるとざわついた心が収まったようで、美陽がするっと陽平の手を離した。陽平が伸びをするようにして駅の方を眺める。
「案外駅までの近道かもしれんな」
陽平たちがいる場所からはもう駅舎の屋根が見えている。駅までの距離感もつかめたところで来た道を引き返そうときびすを返す。団地に置いて来た自転車を取りに戻らなければいけない。しかし回れ右をした陽平が歩を止めた。
「大丈夫?」
もう一度沼を通らなければいけない事を心配しているのだろう。
「駅から周って団地まで戻る?」
本当に陽平は、美陽の事となると過保護で心配性だった。
「さっきも別になんともなかった。蘆屋の話が本当かと疑うほどや。心配いらん」
「分かった」と陽平がニカっと笑う。細いあぜ道は陽平が前を歩く。沼の前をもう一度通るが、やはりなんの変化もなかった。ただ少し違和感があった。嫌な感じではない。血液がめぐりだしたような、火照ったような感じに身体がそわついた。何かに対し、体が喜んでいる。そんな風にも感じた。
陽平と美陽が帰ったあと、家は寂しくだだっ広く感じる。先ほどまで充満していた声やニオイ、熱が忘れきれず、余計に独りを感じさせる。これが名残というものかと思うと同時に、そんな考えは虚しいだけだと蘆屋が気持ちを振り払う。
西日が落ち暗くなった部屋の中、灯りもつけずに携帯を手に取る。着信だけでも残しておけばいいかとコールしたが、耳元で「もしもし」と声がした。
「あ、おとん。仕事は? ―そうなんや。少し時間いい?」
父親の声を聞く蘆屋の顔は心なしか幼くみえる。陽平たちに見せていた、ませた小生意気な態度とは違っていた。
「やっぱり、生まれてた。―そう、俺の友達。やっと、力を貸せそうなんよ」
下がった目じりと薄く笑った口元に蘆屋の喜びが滲み出る。父親からの言葉を嬉しそうに聞いている。
「ねえ、次はいつ帰ってくるん? ―いや、大丈夫。一人でも平気やから」
「じゃあ、また」と軽く別れの挨拶をすると通話を切る。報告が終わるとようやく部屋の電気をつけた。ダイニングへ向かい冷蔵庫を開ける。いつものように野菜炒めでも作るかと材料を取り出す。冷凍庫を開くと、冷凍された肉の中に牛肉を見つけた。
「ホイコーロー……」
蘆屋の中では少し特別な存在の牛肉。回鍋肉と書かれた箱に入った合わせ調味料を持ってコンロへ向かう。弾んだ気持ちの手さばきで夕飯づくりに取り掛かった。
六月に入ると、いよいよと梅雨真っただ中となる。あの豪雨を思うと、梅雨の雨は穏やかに感じた。しかし美陽の体調は芳しくはなかった。学校から帰ってきた駅の前、陽平が傘をさすと美陽を引き寄せる。
「俺がさしとくから、ハルは入っていき」
美陽側に傾けられた傘のせいで陽平の左肩に雨が当たっている。
「ええって。あそこ道狭いし、一つの傘に入ってたら歩きにくい」
「そ、そっか……」
しょぼくれた陽平が美陽の後ろを歩く。今日も足元の悪い沼の道を歩いて帰る。あの日以来蘆屋の教えを守っていた。沼に近づき、山を遠ざける。あれから美陽は山に登っていない。
「今日は蘆屋おらんかったな。助かった」
陽平が息をつくと、美陽が「なんで?」と返す。
「え、いや別に深い意味は……。最近帰りが一緒やとついて来るやん」
そのまま美陽の家に行き、三人で過ごす事に少し不満を感じているなどとは美陽には話せなかった。
「なあ、ハルはあいつもいた方が安心?」
陽平が美陽と肩を並べる。道路からあぜ道に変わるところで急に道は細くなる。さりげなく陽平が美陽の前へ出ると、先に立って歩きだす。
「いや、そんなん考えた事ない。ただなんかあった時いてくれた方がいいのかもしれん」
「俺だけじゃ不安やから?」
急に振り向いた陽平に驚きのけぞる。傘の張り出しがある分、いつもの距離感だと露先がぶつかりそうになる。
「そうじゃなくて、鬼の事は蘆屋しか分からんやろ?」
「そう。そうやな」
そう言って陽平が美陽から視線をはずす。離れていく陽平の瞳が一瞬、悦に入っていたように見えた。その瞬間、美陽の体がドクリと波打つ。心臓なのか、脳なのか、体か指先なのか分からない。ざわざわと感じるそれは今回が初めての感覚ではない。傘からちらりと見える陽平のうなじが異常に興味をそそる。なぜかそれを欲する衝動にかられた。傘の外へと手を伸ばす。伸ばした手でどうしたいのか美陽にも分からない。ただ陽平の首に手をかけたい。
ほしいものはどうすればいいのか、知っている。
はあと熱い息を吐いたその口に歯が覗く。犬歯につうっと唾液の糸が引いた。
「そういえば、ハルさ―」
振り向くと欲情したような顔で手を伸ばす美陽が目に入った。陽平に気付かれた瞬間、美陽が勢いよく陽平の首を掴みにかかる。
「ぅわっ、ちょ、ハル!」
抑制しようと陽平が両手で美陽の手首を掴む。傘がガサっと音を立て地面に落ちる。
こういう時、「まるでその目は美陽のものではないようだった」と、そうであれば幾分か良かった。なのに陽平を刺しているその瞳は、美陽のそれだった。それでも体格差から考えて陽平が押し負けることはない。美陽の力が増しているとか、そのような変化がない事は救いだった。
「ハル! ハル、どうした!? 落ち着けって」
陽平の声に反応したのか、ぐいぐいと首を掴もうとしていた美陽の腕の力が抜けていく。陽平に手首を掴まれたまま、自分が何をしようとしたかを美陽が自覚していく。やがて美陽の目元に影が滲みだした。
絞り出した声は助けを求めていた。
「ヨウ……」
「大丈夫やって。ほら、俺が手握ってたら何も出来へんやん。俺の声も聞こえてた。今のはちょっと、なんかの魔が差しただけやって」
「な?」と美陽の顔を覗き込む。美陽が正気であることを確認すると、陽平が傘を拾い上げ差し出す。美陽がしずしずと受け取ると、陽平も自分の傘を拾った。
「濡れたな。風邪ひくから、早く帰ろう」
前に向き直った陽平。背後が気にならないわけではない。もしかして美陽が本当に鬼になってしまうのではないか、直に人を襲ってしまうのではないか。本当は心臓がどきどきと鼓動していた。頭の中が最悪の事態を想像しいっぱいになっていた。それでも自分の心配が美陽に伝わらないように平然と歩く。
「気にしない気にしない。一応蘆屋にも相談しとくし、ハルはこれ以上考えんな」
へらへらと笑いながらたわいもない話題を振る。こういう時バカなキャラでよかったと、自分自身に感謝した。
「ハル、明日の休みは予定あり?」
「いや、特にないけど」
「じゃあさ、久しぶりに商店街の方行こうや。あ、でも小学校の前通らなあかんから、やっぱやめとこうか」
振り向くことのない陽平の後頭部を美陽が見つめる。今もいつものようにのんきな顔をしているのだろうかなどと想像する。
「それは、大丈夫やけど。蘆屋に相談しに行った方がいいんと―」
「だーいじょうぶやって。蘆屋には月曜に話してみるから」
―ヨウ、お前は一体今どんな顔をしている?
声はいつもの調子と変わらない。言動に不自然な点はない。
じゃあ、どうして今お前の顔が見えないのだろう。
「あー、早くバイクの免許取りてえ」
とぼとぼと歩きながら陽平が嘆く。
「ヨウの学校は禁止じゃないん?」
「ん? 免許取んの? 夏休みとかで教習所通う分には大丈夫やで。ハルんとこはあかんねや?」
「うん。確か禁止。いや、正確には知らん。免許取る人も周りにおらんし」
「進学校やもんなあ。みんなちゃんと勉強しなあかんもんな」
そもそも美陽の学校では高校生のうちに免許を取るという考えがない。陽平がそうとは言わないが、陽平が通う高校の制服を着た生徒がバイクを乗り回しているところは何度も見かけている。環境が違えば常識も違うのだろう。どうであれ人に迷惑をかけなければそれでいいし、陽平がそんな不品行をするとは思えない。ただ移動手段としてバイクを使いたいのだ。
「なあハル。蘆屋が言ってる事、ほんとやと思う?」
陽平の自転車はカラカラとうるさい。チェーンがたるんでいるのだろう。直しに行くにも自転車屋がこの辺りにはない。陽平の家も美陽の家も母親しかいない。こういう整備を教えてくれる大人は昔から身近にはいなかった。
「今はほんとやと思うしかないよな。現に不可解な事が起こってるし、まずは信じてやってみんと」
「そうやんな。もしハルが鬼になるなんて、俺嫌やし」
蘆屋が言うには、一度鬼を孕めばそれを体から消し去ることはできない。ただし儀式をすれば話は別。もちろん近年では例がほぼない上に、症例は蘆屋にも教えられていない。蘆屋が知っているのは鬼を排除する儀式だけ。きっと両親も何かアドバイスをくれると思うので、今はその方法を試してほしい、とのことだった。
「とりあえず、このまま沼行ってみる?」
陽平の提案に美陽が頷いた。蘆屋が教えてくれた儀式とは「山地泉の法」と呼ばれる。鬼は山で産まれ、地で育つ。そして泉で落ちる。落ちるとは、人の体外へ出る事を意味するという。ここでいう山は青葉台にある小山。地は埋め立てられた青葉台全体をさす。そして泉とは小山から青葉台を東へ抜けた先にある沼の事をさしていた。この地形こそが鬼が産まれやすく、鬼に対する儀式が継承され続けて来た所以だとも蘆屋は話した。要は沼に近づく機会を増やす、そして山には近づかない。それだけだった。沼で何かしなくてもいいのかと聞けば、一般人がむやみに儀式の真似事をするものじゃないと言われた。手順、手法、何かを一つでも間違えれば、それがもたらす事象は変わってくると。
青葉台から沼への道は、そのまま駅への抜け道となっている。しかし小学生の頃に何度か探検しにいったきり、そこへ近づくことはなかった。小田地区に住む同級生から、昔この沼で死体が上がったと教えられた。その噂を聞いてから陽平も美陽もおのずと避けるようになっていた。
青葉台まで帰ってくると団地の奥へと向かう。団地の端には雑木林が広がり、その中へは入っていけそうもない。ただ一つ、泥が剥き出しになり荒涼とした道らしくない道が一本だけあった。抜け道の前に自転車を停める。細く足場が悪い上に傾斜のある下り道になっている。自転車で入っていくのは危ない。いや、危ないのは道に限った事ではないのかもしれない。林への入り口には誰が作ったのか、白く塗装された木の看板が立てられている。塗装が剥がれ落ち、腐朽した木材が見えている小さな看板。そこにはただ一言、「危険」とだけ書かれていた。小さい頃は気にした事もなかった。ぬかるんだ道が危険なのか、死体が上がった事と関係あるのか、それとも鬼のせいなのか。今になって、書かれたその一言にゾクっと背筋を逆撫でられる感覚を覚える。
「ハル、行こう」
陽平が無意識に美陽に手を差しだす。昔はそうやって未知の世界への探検へと繰り出していた。いつも陽平が美陽の手を引いてやる。しかし果たして本当にそうだったのだろうか。美陽を守ってやると思い込む事で、気を大きく持たせていたのではないだろうか。今だって、手を繋ぎたいのは陽平なのではないだろうか。陽平の心の底など知るはずのない美陽はそれは普通に、ごく自然に、躊躇う事もなく陽平の手を取った。
「地面滑りそうやし、気いつけてな」
陽平が美陽の前を行く。本当に足場が悪く、つい握った手に力が入る。少しでも力がこもろうものなら、すぐに陽平の手が美陽を支えようとした。たぶん陽平は自分が転んだとしても美陽を死守するだろう。陽平の襟足からのぞく男らしい首筋を美陽がぼうっと見つめる。「ああ、やっぱりヨウは頼もしいな」などと、その後ろ姿を見つめながら考えていた。
「ハル?」
陽平が振り向いていたことにも気づかないほど、美陽はぼんやりとしていた。
「どしたん、そんな呆けて」
美陽の顔が面白かったのか、陽平がケタケタと笑う。
傾斜を下りきると陽平が手を離した。その先はあぜ道が続く。雑草が覆い茂った道は、ここを通る人がいない事を示している。傾斜の入り口から続いている雑木林の先に沼はある。昼間なのにどよんと影が落ちている。沼の淵をぐるりと囲んでいる木々のせいなのか、それとも気持ちがそう見せているのか。ひしめき合った樹冠は重そうに、今にも水面に浸かりそうなほどに垂れ下がっている。黒く濁った水は底を見せず、空を映し出していた。
沼に来たのは小学生ぶりだった。
「こんなちっさかったっけ?」
陽平の言う通り、記憶しているよりも沼はずいぶんと小さく感じた。
「俺らがおっきくなったからやろ」
「そっか」と言って陽平が沼の際にしゃがみこむ。少しも水中が見えないほどに淀んだ沼。それだけでも不気味だった。陽平と違い、美陽は沼から少し離れたところに立っていた。
「ハル、なんか変わったこととかある?」
ふるふると美陽が首を振る。
「ヨウ、あんま近づきすぎたら危ないで」
陽平の後ろから声を掛ける。少しだけ美陽の方へ振り向くと、よっこいしょと陽平が立ち上がった。
「これから駅行く時はこの道通ったらええんやんね? 明日からは一緒に行こうか」
「いや、でもヨウは一本遅い電車やろ?」
「駅まで行ってみよう」と陽平が歩き出す。その後を美陽が着いて行く。
「ここ通ってるときとか、ハルになんかあったら大変やん。学校に早く行く分には誰も文句言わへんよ。それに蘆屋も俺が一緒にいた方がいいって言ってたし」
先を行く陽平の背中を眺める。暑いのか、まくり上げたシャツから見える腕がたくましい。ロールアップしたパンツからのぞくくるぶしが力強く茂みを歩く。気付けば美陽が無意識に再び陽平の手を取っていた。美陽の手の感触に陽平が振り向く。
「怖い? 大丈夫やって。鬼が消えたら元通りやろ?」
そうだといいのだがと願う。その願いを口に出すことなくうつむく。「だいじょうぶだいじょうぶ」と陽平の鼻歌のような声が心を和ませた。
あぜ道を進んでいくと、不意に舗装された道に出た。この道も、一軒だけ建つ民家の為に作られたような道で、舗装は急に途切れている。道路と畦道の間には侵入禁止用のハードル型バリケードが置かれている。安全第一と書かれた黄色と黒のしま模様の、よくあるアレだ。陽平がバリケードをひょいと跨ぎ、美陽がそれを避けて通った。沼を抜けるとざわついた心が収まったようで、美陽がするっと陽平の手を離した。陽平が伸びをするようにして駅の方を眺める。
「案外駅までの近道かもしれんな」
陽平たちがいる場所からはもう駅舎の屋根が見えている。駅までの距離感もつかめたところで来た道を引き返そうときびすを返す。団地に置いて来た自転車を取りに戻らなければいけない。しかし回れ右をした陽平が歩を止めた。
「大丈夫?」
もう一度沼を通らなければいけない事を心配しているのだろう。
「駅から周って団地まで戻る?」
本当に陽平は、美陽の事となると過保護で心配性だった。
「さっきも別になんともなかった。蘆屋の話が本当かと疑うほどや。心配いらん」
「分かった」と陽平がニカっと笑う。細いあぜ道は陽平が前を歩く。沼の前をもう一度通るが、やはりなんの変化もなかった。ただ少し違和感があった。嫌な感じではない。血液がめぐりだしたような、火照ったような感じに身体がそわついた。何かに対し、体が喜んでいる。そんな風にも感じた。
陽平と美陽が帰ったあと、家は寂しくだだっ広く感じる。先ほどまで充満していた声やニオイ、熱が忘れきれず、余計に独りを感じさせる。これが名残というものかと思うと同時に、そんな考えは虚しいだけだと蘆屋が気持ちを振り払う。
西日が落ち暗くなった部屋の中、灯りもつけずに携帯を手に取る。着信だけでも残しておけばいいかとコールしたが、耳元で「もしもし」と声がした。
「あ、おとん。仕事は? ―そうなんや。少し時間いい?」
父親の声を聞く蘆屋の顔は心なしか幼くみえる。陽平たちに見せていた、ませた小生意気な態度とは違っていた。
「やっぱり、生まれてた。―そう、俺の友達。やっと、力を貸せそうなんよ」
下がった目じりと薄く笑った口元に蘆屋の喜びが滲み出る。父親からの言葉を嬉しそうに聞いている。
「ねえ、次はいつ帰ってくるん? ―いや、大丈夫。一人でも平気やから」
「じゃあ、また」と軽く別れの挨拶をすると通話を切る。報告が終わるとようやく部屋の電気をつけた。ダイニングへ向かい冷蔵庫を開ける。いつものように野菜炒めでも作るかと材料を取り出す。冷凍庫を開くと、冷凍された肉の中に牛肉を見つけた。
「ホイコーロー……」
蘆屋の中では少し特別な存在の牛肉。回鍋肉と書かれた箱に入った合わせ調味料を持ってコンロへ向かう。弾んだ気持ちの手さばきで夕飯づくりに取り掛かった。
六月に入ると、いよいよと梅雨真っただ中となる。あの豪雨を思うと、梅雨の雨は穏やかに感じた。しかし美陽の体調は芳しくはなかった。学校から帰ってきた駅の前、陽平が傘をさすと美陽を引き寄せる。
「俺がさしとくから、ハルは入っていき」
美陽側に傾けられた傘のせいで陽平の左肩に雨が当たっている。
「ええって。あそこ道狭いし、一つの傘に入ってたら歩きにくい」
「そ、そっか……」
しょぼくれた陽平が美陽の後ろを歩く。今日も足元の悪い沼の道を歩いて帰る。あの日以来蘆屋の教えを守っていた。沼に近づき、山を遠ざける。あれから美陽は山に登っていない。
「今日は蘆屋おらんかったな。助かった」
陽平が息をつくと、美陽が「なんで?」と返す。
「え、いや別に深い意味は……。最近帰りが一緒やとついて来るやん」
そのまま美陽の家に行き、三人で過ごす事に少し不満を感じているなどとは美陽には話せなかった。
「なあ、ハルはあいつもいた方が安心?」
陽平が美陽と肩を並べる。道路からあぜ道に変わるところで急に道は細くなる。さりげなく陽平が美陽の前へ出ると、先に立って歩きだす。
「いや、そんなん考えた事ない。ただなんかあった時いてくれた方がいいのかもしれん」
「俺だけじゃ不安やから?」
急に振り向いた陽平に驚きのけぞる。傘の張り出しがある分、いつもの距離感だと露先がぶつかりそうになる。
「そうじゃなくて、鬼の事は蘆屋しか分からんやろ?」
「そう。そうやな」
そう言って陽平が美陽から視線をはずす。離れていく陽平の瞳が一瞬、悦に入っていたように見えた。その瞬間、美陽の体がドクリと波打つ。心臓なのか、脳なのか、体か指先なのか分からない。ざわざわと感じるそれは今回が初めての感覚ではない。傘からちらりと見える陽平のうなじが異常に興味をそそる。なぜかそれを欲する衝動にかられた。傘の外へと手を伸ばす。伸ばした手でどうしたいのか美陽にも分からない。ただ陽平の首に手をかけたい。
ほしいものはどうすればいいのか、知っている。
はあと熱い息を吐いたその口に歯が覗く。犬歯につうっと唾液の糸が引いた。
「そういえば、ハルさ―」
振り向くと欲情したような顔で手を伸ばす美陽が目に入った。陽平に気付かれた瞬間、美陽が勢いよく陽平の首を掴みにかかる。
「ぅわっ、ちょ、ハル!」
抑制しようと陽平が両手で美陽の手首を掴む。傘がガサっと音を立て地面に落ちる。
こういう時、「まるでその目は美陽のものではないようだった」と、そうであれば幾分か良かった。なのに陽平を刺しているその瞳は、美陽のそれだった。それでも体格差から考えて陽平が押し負けることはない。美陽の力が増しているとか、そのような変化がない事は救いだった。
「ハル! ハル、どうした!? 落ち着けって」
陽平の声に反応したのか、ぐいぐいと首を掴もうとしていた美陽の腕の力が抜けていく。陽平に手首を掴まれたまま、自分が何をしようとしたかを美陽が自覚していく。やがて美陽の目元に影が滲みだした。
絞り出した声は助けを求めていた。
「ヨウ……」
「大丈夫やって。ほら、俺が手握ってたら何も出来へんやん。俺の声も聞こえてた。今のはちょっと、なんかの魔が差しただけやって」
「な?」と美陽の顔を覗き込む。美陽が正気であることを確認すると、陽平が傘を拾い上げ差し出す。美陽がしずしずと受け取ると、陽平も自分の傘を拾った。
「濡れたな。風邪ひくから、早く帰ろう」
前に向き直った陽平。背後が気にならないわけではない。もしかして美陽が本当に鬼になってしまうのではないか、直に人を襲ってしまうのではないか。本当は心臓がどきどきと鼓動していた。頭の中が最悪の事態を想像しいっぱいになっていた。それでも自分の心配が美陽に伝わらないように平然と歩く。
「気にしない気にしない。一応蘆屋にも相談しとくし、ハルはこれ以上考えんな」
へらへらと笑いながらたわいもない話題を振る。こういう時バカなキャラでよかったと、自分自身に感謝した。
「ハル、明日の休みは予定あり?」
「いや、特にないけど」
「じゃあさ、久しぶりに商店街の方行こうや。あ、でも小学校の前通らなあかんから、やっぱやめとこうか」
振り向くことのない陽平の後頭部を美陽が見つめる。今もいつものようにのんきな顔をしているのだろうかなどと想像する。
「それは、大丈夫やけど。蘆屋に相談しに行った方がいいんと―」
「だーいじょうぶやって。蘆屋には月曜に話してみるから」
―ヨウ、お前は一体今どんな顔をしている?
声はいつもの調子と変わらない。言動に不自然な点はない。
じゃあ、どうして今お前の顔が見えないのだろう。
