美陽の事を相談すると、蘆屋は陽平に「放課後一緒に帰らないか」と提案をした。最寄り駅で蘆屋を見かけることはあっても、二人が一緒に帰るのは初めてだった。
ホームルームが終わると陽平が鞄を掲げ教室を出る。いつも連れ立っている友人たちが声をかけてきた。
「おい、今日一緒に帰んねえの?」
「あ、悪い。今日ちょっと」
慌てた様子で教室を出ていく陽平を不思議がり、友人たちがひょこりとドアから廊下へ顔を出す。すると廊下の先でこちらへ手を振る蘆屋の姿があった。
「え、あれってさ」
「センコーに手え出したって噂の、建築科の」
「アシヤ? だっけ? なんで陽平があいつと?」
コソコソと聞こえる話し声を背に、陽平が気まずそうに笑う。こういうことには慣れている、気にしないとばかりに蘆屋は余裕の表情で陽平を迎えた。
「気にすんなよ。噂好きって多いから」
「ぜーんぜん」
肩をすくめた蘆屋は本当に気にも留めていないように平然としている。一度玄関で別れ、それぞれの下駄箱へ向かう。上履きからスニーカーに履き替えると再び入り口で落ち合った。学校の最寄り駅と言っても二〇分ほど歩かなければいけない。さすがに下校時間は生徒たちも多い。あまり人に聞かれたくないと思ったが、蘆屋は気にしていないように平然と話を切り出してきた。
「大丈夫やって。他人の話に誰も興味ないって」
蘆屋はふんふんと鼻歌交じりに機嫌よく歩く。深刻に顔をこわばらせている陽平とは対照的だった。
「で? 美陽くんがどうしたん? なんで今になって鬼のことなんか聞いてきたん?」
「それは―」
言葉に迷いながら、言葉を選びながら、陽平が最近の町の様子と美陽の話を蘆屋に伝えた。悪天候になると体の調子が悪くなる事、それは猫を拾った時から始まった事、猫を拾った日の事、豪雨の日に町人が二人事故に合ったこと、二人とも陽平たちの知り合いだという事、そしてその事故に美陽は覚えがある事。原因は美陽にあると本人が考えている事、そして思い浮かんだのは過去に蘆屋が言っていた「美陽に鬼が入っている」という言葉だった事。
「へえー、その溺れた子の足を引っ張り込んだ感覚があると。ふーん」
「なあ、それってやっぱり鬼ってのと関係あるん?」
「せやなあ、美陽くんの言ってることがほんまやとして、関係あると考えてええかもしれん。詳しいことは、せやなあ、美陽くんも交えて話さへん? 陽平くんが間に入ってるなんて二度手間やしさ。それに……」
「それに?」と陽平が続きの言葉をせかす。
「俺も久しぶりに美陽くんに会いたい」
そう漏らす蘆屋の目が少し色気ばんだようにうるっと濡れ、頬が心なしか紅潮している。陽平はそんな蘆屋を前に「会わせたくない」と思ってしまう。しかし美陽の不安を取り除くには蘆屋が必要だった。
「鬼を孕んでるとか言ってたけど、それも蘆屋なら解決できるん?」
「それも美陽くんに直接話すわ」
まるで陽平は蚊帳の外と言われているようでムッとする。その様子に蘆屋はさらに楽しそうにムズっと身を震わせた。
ようやく来た電車に二人で乗り込む。下校時間でも席に余裕のある車内。二人は四人掛けのボックス席に腰を下ろした。
爪弾きにされた腹いせ、というわけではない。ただ、少し当たりたくなったのかもしれない。前から陽平も気になっていた事をあえて本人にぶつけた。
「なあ、ほんとはどうなん?」
「ん?」と窓に頬杖を突いた蘆屋が振り向く。絵になりすぎる目の前の男が正直羨ましい。
「入学早々さ、先生と噂になってたやつ」
ぶはっと蘆屋が吹きだす。嫌な顔ひとつしない蘆屋が陽平の幼稚さを際立てる。
「なんやあ、やっぱり陽平くんも噂好きなんやね。でも分かるよ、陽平くんのは他のヤツらと意図が違う」
「なにが……」
「嫉妬やろ? 陽平くんのは下衆な好奇心やなくて、俺に対しての嫉妬やろ」
「うっ」と言葉を詰まらせる。その通りだった。男としてどうこうという事もあるが、美陽を救えるのは蘆屋なのかもしれない。焦りからくる八つ当たりだった。
「じゃあ、あれはただの噂なんや」
蘆屋がぐっと陽平に体を寄せる。上目遣いに見上げられれば、不覚にも心臓がドキっとしてしまう。
「陽平くん、俺はなあ、ミステリアスな子が好きなんよ。消えてしまいそうに儚くて、輪郭がおぼろげで掴めない。そんな子」
蘆屋に迫られのけぞったまま陽平の心臓が煩く鳴り続けている。
「な、なにそれ。よく分からん」
陽平から身を引くと椅子に座り直す。再び頬杖をつくと窓の外を眺めた。
「いつか紹介してあげるわ。俺の気になる子」
「え、いるん!?」
蘆屋が目線だけを陽平に向けると、ふっと不敵に笑う。
「さあ?」と小さく答えた声は、ガタガタと五月蝿く鳴る田舎の電車の音にかき消された。
入院していた翔也が無事に退院し、普段通りの生活に戻っていた。入院中にお見舞いに行こうと陽平は誘ったが美陽は断った。もちろん心配はしているが、顔を合わせる事が出来なかった。もしかしたら自分のせいかもしれないと、確信のない不安があった。もしその不安が当たっていたとして、美陽の体に何かが起こっているとして、それを取り払える可能性があるなら。今はただの可能性にかけてみるしかなかった。
二人が初めて蘆屋の家にやってくる。蘆屋の家があるのは、杉田地区という小学校から一番遠い地区。蘆屋の家は疎か、そもそも杉田地区に来ることも二度目だった。ここは昔部落差別があった地区だと小学校で習う。一度目は学習目的で小学生の時に訪れた。もちろん今はそんな差別は存在しない。しかしその時陽平は子供ながらに、語り継ぐのは気にしている証拠ではないかと考えたのを覚えている。そして敢えてそんな地に引っ越してくるのは蘆屋家くらいだった。そう考えれば、この土地にはまだ根を張っている何かがあるのかもしれないとも思えた。
美陽にじゃないと話さないと言われた手前、今日は美陽を連れてやってきた。蘆屋の部屋に通されて尚面白くなさそうな顔をしていたのか、蘆屋が「気い悪くしたらごめんな」などと陽平の肩をたたく。美陽が一人、何のことかと不思議がっていた。
三人で机を囲んで座る。組んだ腕を机に置き、蘆屋がじっと美陽を見つめる。なかなか目を逸らさない。気まずくなった美陽が視線を揺らす。
「蘆屋、久しぶりやな」
「うん。美陽くんも久しぶり。ってか、小学校ん時全然喋ってくれへんかったけど」
「いや……そうやね」
二人の間に怪しい空気が流れ始めると、いよいよ陽平が我慢できずに大きく咳払いをした。
「蘆屋、鬼の事。話してくれるんやろ?」
露骨に苛立つ陽平をやはり面白そうにする。
「はいはい、そう焦らんとってや。美陽くんの話はだいたい陽平くんから聞いた。やっぱり気になってるんは猫を祠の前に置いたってところやんね?」
陽平と美陽がうなずく。
「それたぶん正解。こっちではクダショウって言うねんけど」
「クダショウ?」
陽平が聞きなれない言葉を繰り返す。蘆屋が意図して流そうとした言葉を美陽が拾い上げた。
「いや、蘆屋待って。こっちって何。まずお前が何で鬼について知ってるん。お前は何を知ってて、何者なん」
「うわあ、やっぱり美陽くんは頭まわるね。そこはさらっと行こうかと思ってんけど」
美陽の突っ込みに陽平も怪訝な顔を向ける。二人に睨まれ蘆屋も降参と手をあげた。
「大層なことやないよ。うちの家ってなんていうか、昔から続く術師の家系みたいな? ほら、占い師とか祈祷師とかそういう類やと思ってくれたらええよ。陰陽師! とか言ったらかっこええ?」
どこかふざけたように話す蘆屋を信用しきれない。陽平が眉をひそめる。美陽も陽平と同じ顔をしていた。
「そんな疑いの目向けんといてよ。世の中にはいるんやって、そういう仕事してる人らが。怨霊とか化け物とか、そんなんは知らんけど、俺の家はずっと鬼と関わってきた。今じゃ鬼を駆逐する以前に産まんようにする術も確立されてる。やから俺らは監視するだけって感じ。まあ、一部の人しかもう知らん話やな」
「ご両親も鬼に関わってきたってこと?」
美陽がたずねると「そやで」と蘆屋が軽く返す。どうやらひとまず信じるしかなさそうな状況に美陽が話を戻す。
「それで、クダショウがなんて?」
「せやったね。正しくは『クダショウの儀』っていう儀式があんねん。陽平くんと美陽くんが猫を置いてった祠やけど、あれはむかーし昔に建てられてね。鬼が産まれるのを制御するためでもあるし、産む為でもある。あ、詳しいことは聞かんといてや。俺もまだあんま教えられてない。あっこに鬼が鎮まるように神体祀って加持をする。鬼っちゅうんは祀られる代わりに大人しくなったりする。契約みたいなもんやと思ってくれたらええよ。祀る代わりにやたらに人には宿りません、その代わりあることをすれば人に鬼を孕ませる。一方的な契約やったら、ウィンウィンやないやろ? 鬼が産まれる道も残しといて初めて縛りが有効になる。要は使い道ってやつかな。で、猫を祠に預けた行為は貢の儀式にあたる。うーん、猫じゃなくても生きた生き物。要は生贄やな。それが鬼を産む儀式の一つ、クダショウの儀や」
「生贄……」と陽平が唾を飲み込む。
「あの祠が制御基板みたいなもんなんか」
「さすが美陽くん」と蘆屋がにっこり微笑みかける。
「いや、気になってるんやけど、孕むってなんなん? ハルが鬼のあかちゃん産むん!?」
陽平の素っ頓狂な問いに蘆屋がケラケラと笑う。
「おい、俺は真剣に聞いてるんやけど!」
「ごめんごめん。ほんま陽平くんて面白いね。確かに孕むなんて言い方したらそう思うやんね」
笑われた陽平は面白くなさそうにむすっとする。
「でも実際女性が孕めば鬼の子を産む事もある。相手が人であろうと鬼であろうとね。男性の場合妊娠できんから産むことはないけど、腹ん中では鬼が産まれ育つ。これは男女共通やけど、だんだん母体を蝕みやがてその人自体が鬼になる」
美陽の目がこわばる。自分の中にいるモノを確かめるように腹をさすった。
「ハルが、ハルは鬼になるん?」
あまりにも直球な言葉に美陽がはっと陽平に振り向く。美陽と違い陽平は感情が表に出やすい。人より不安や心配などの気持ちは体とリンクしやすい。上がった息と落ち着かない瞳から動揺が伝わる。
「ヨウ、落ち着いて」
なぜか当事者の美陽が陽平をなだめる。陽平の腕を掴むと乗り出した体を押し戻す。「ヨウ」ともう一度名前を呼ぶと、上がった息が落ち着いていく。そんな二人に向けられた蘆屋の目は冷静で、冷静過ぎるが故に冷徹にも見えた。
「鬼になったら、どうなるん」
落ち着きを取り戻すように座り直すと、陽平が問う。蘆屋は淡々と、ただ説明をするだけのように答える。
「別に、見た目は変わらん。でもだんだん人としての主体は失われていく。隣の人が友達やったことも、分からんようになる。災害を起こす。人を巻き込む。鬼として人を駆逐しだす。その頃には正気もなくなっとる」
陽平が美陽に向くと、同時にこちらを見た美陽と目が合う。そんな二人を前に蘆屋は話を続ける。
「よう聞く話やけど、鬼は人の根昏いもんから生まれる。人格が奪われれば狂暴性が現れるという記録がある。動物に危害を加えるのはただの戯れや。人を駆逐するって言うたけど、直接手にかけるってよりは精神に干渉して追い込んでくる。鬼は人より自然に近い存在や。磁場や大気の物理的現象もあっちに味方する。それらが人間に幻覚や妄想を起こさせる。要はこの辺りは危険やと、禁足地にさえすればそれでええ」
「じゃあ、俺の中に生まれた鬼が翔也を……。もしかしたら山下さんも」
自分の中に存在するものを自覚していく。その異物感に美陽が大きく嘔吐いた。慌てて美陽の背中を陽平がさすってやる。
「それってさ、ハルの意思じゃないよな!? 鬼が勝手にやってることやんな?」
美陽のせいではないと確かめたいのだろう。陽平がぎゅっと美陽の背中を抱いた。
「酷な事を言うと、ちょっとビミョウ。たぶんだんだんと美陽くんと鬼が結びつき始めとる。鬼と思考がリンクするっていうんかな。美陽くんが恨み僻みを持った相手に鬼が手を出す可能性はある」
くいっと美陽の眉間にしわが寄る。苦い顔をした美陽とは反対に顔を赤らめ逆上したのは陽平だった。
「ハルがそんな感情持つわけないやろ! そんなヤツじゃない!」
陽平の大きな声に一瞬蘆屋がかたまる。しかしすぐにクスクスと笑いだした。
「まあまあ、そんな興奮せんでよ。ほんま君たちおもしろいね。鬼の存在はさっきも言うたように儀式、術が関係してくる。真偽の分からん伝承も多いけど、一つ確かなターゲットのマーキング方法がある。鬼の災いに触れてしまう方法や。それはこの辺りで『ヒ ヲ ワカツ』という言葉で伝えられとる」
「ひをわかつ?」
「そ。ヒは焚火の『火』って字を書くとされとるけど、忌み事の「忌」でもあって、穢れの意味があるとも言われとる。確かな伝承は文字では残ってない。やから本来どうやって生まれた言葉かは分からへん。でも確かにこの辺りではヒヲワカツと言う言葉が使われとった。まあ、簡単に言うと懐胎したもんはヒを持つ。ヒを持つ者と飯食うんは禁忌やったって意味や」
深刻な顔で話を聞いていた陽平が、腑に落ちないと蘆屋に問いかける。
「身ごもることが、穢れ?」
「まあまあ、今の時代そんな考えアホくさいやんね。でも昔は産穢や死穢言うてね、それぞれ不浄のもんとされとった。清める対象やな。そういうんが習俗ってもんや」
それを聞いても納得できていないところに陽平の純粋さを感じる。人の生命が汚れなど、陽平にはとても理解できない考えだった。
そんな陽平の傍にいれば、自分の不純さを感じる。それと同時に日の当たる場所にいるような心地よさを感じる。綺麗なものを汚してしまう背徳感がある。徳に背く快楽を感じてしまう。そんな自分にまた不純を感じる。美陽は分かっていてもこのループから抜け出せないでいた。
「それで? 鬼を孕んだヤツと食を共にすることが本当に儀式になるのか?」
「せやで。妊娠した嫁さんと飯食った後に自分から山に入って熊に襲われて死んだなんて話、ごろごろあるで。その女性が孕んどったんが鬼やったって話な。でも『食を共にする』はちょっと違う。『食を分け与える』が正しいかな。ビミョウな違いやけど」
美陽は話を聞きながら翔也と過ごした時の事を考えていた。そして心当たりはすぐに思いついた。
「ケーキ。もしかして、一緒にケーキ食べたとき」
陽平もすぐに反応し、「ああ!」と声を上げた。
たしかに一度口を付けたケーキを翔也に与えた。きっと翔也は両方のケーキが食べたいだろうと思い、交換という名目で一度口にしたケーキをあげた。その事実を思い出した瞬間、美陽の顔が曇る。翔也を巻き込んだのは自分だという事実が、はっきりと形を持ってしまった。
「でもさ、山下さんは違うやろ? ハルとは関係ないやろ? だって飯一緒に食った事ないし」
庇うように蘆屋に詰め寄る陽平を重い声が制した。
「梅酒……梅酒をあげてる」
「いやいや、だってそれはハルのお母さんが作ったやつで。さっきの話ならあげただけなら理屈は通らんやろ」
「な?」と陽平が美陽の肩に手を置く。しかし沈んだ美陽の顔が上がることはない。
「……味見した。山下さんにあげる瓶の梅酒。俺が味見した」
蘆屋が「ほう」っと興味深い笑みをこぼす。
「だからって、ハルが悪いわけちゃうし。気にすんな。な、ハル?」
美陽の横顔はあの時と同じだった。翔也の事故があった日、美陽が自分のせいではないかと告白してきた、あの時と同じ顔をしていた。
助けてやらないと、助けてやらないと―。
「俺らから聞いてなんやけど、蘆屋もそんな事べらべらと話していいん? 言いふらされたりとか、そういうのはいいん? 全然話題になったり知られてないって、隠してることじゃないん?」
焦りの顔を見せる陽平に蘆屋が動じることはない。
「陽平くんってほんと優しいね。それとも美陽くん限定? でも弱みを握ろうなんてのは陽平くんには向いてないわ。そういうんはもっと狡い人間がやらな」
蘆屋がちらっと美陽を横目に見るとそれを美陽が睨み返した。
「別に君らに喋るんはええよ。だって美陽くんは当事者確定みたいやし? 鬼ってさ、この地域だけの話やないんよ。土地の持つ力に差は在れどね。ちょっと大きめの組織があるんよ、バックに。口外して美陽くんのことがバレたらどうなるか俺も知らん。もう二人とも一生会われへんようなるんかもしれんよ? その場合さ、君らがどっちを選ぶかなんて一目瞭然やん?」
そこまで言われると陽平も楯突くことを諦める。落胆の表情を浮かべる陽平に蘆屋が息をついた。
「勘違いしてるかもしれんけど、俺は君らの味方やねんけど。こんだけ鬼のこと知ってんねんで? さっきも言ったけど、バレればどうなるか分からんけど、バレんかったら対処できる余地はあるやろ? もうちょっと頼ってよ」
どの口が言っているのかと美陽も陽平も半信半疑でいる。しかし蘆屋は昔からこういう性格だった。人をやり込める口の利き方でよく他の生徒を泣かせ、先生を怒らせ、周りから壁を作られていた。そう考えると、かわいそうな性格かもしれないとさえ思えてくる。
「分かった。とりあえずハルの為やから協力してほしい」
陽平が差し出した手に驚いた様子をみせたが、すぐにその手を握り返す。「よろしく」と言った蘆屋は嬉しそうにもみえた。
ホームルームが終わると陽平が鞄を掲げ教室を出る。いつも連れ立っている友人たちが声をかけてきた。
「おい、今日一緒に帰んねえの?」
「あ、悪い。今日ちょっと」
慌てた様子で教室を出ていく陽平を不思議がり、友人たちがひょこりとドアから廊下へ顔を出す。すると廊下の先でこちらへ手を振る蘆屋の姿があった。
「え、あれってさ」
「センコーに手え出したって噂の、建築科の」
「アシヤ? だっけ? なんで陽平があいつと?」
コソコソと聞こえる話し声を背に、陽平が気まずそうに笑う。こういうことには慣れている、気にしないとばかりに蘆屋は余裕の表情で陽平を迎えた。
「気にすんなよ。噂好きって多いから」
「ぜーんぜん」
肩をすくめた蘆屋は本当に気にも留めていないように平然としている。一度玄関で別れ、それぞれの下駄箱へ向かう。上履きからスニーカーに履き替えると再び入り口で落ち合った。学校の最寄り駅と言っても二〇分ほど歩かなければいけない。さすがに下校時間は生徒たちも多い。あまり人に聞かれたくないと思ったが、蘆屋は気にしていないように平然と話を切り出してきた。
「大丈夫やって。他人の話に誰も興味ないって」
蘆屋はふんふんと鼻歌交じりに機嫌よく歩く。深刻に顔をこわばらせている陽平とは対照的だった。
「で? 美陽くんがどうしたん? なんで今になって鬼のことなんか聞いてきたん?」
「それは―」
言葉に迷いながら、言葉を選びながら、陽平が最近の町の様子と美陽の話を蘆屋に伝えた。悪天候になると体の調子が悪くなる事、それは猫を拾った時から始まった事、猫を拾った日の事、豪雨の日に町人が二人事故に合ったこと、二人とも陽平たちの知り合いだという事、そしてその事故に美陽は覚えがある事。原因は美陽にあると本人が考えている事、そして思い浮かんだのは過去に蘆屋が言っていた「美陽に鬼が入っている」という言葉だった事。
「へえー、その溺れた子の足を引っ張り込んだ感覚があると。ふーん」
「なあ、それってやっぱり鬼ってのと関係あるん?」
「せやなあ、美陽くんの言ってることがほんまやとして、関係あると考えてええかもしれん。詳しいことは、せやなあ、美陽くんも交えて話さへん? 陽平くんが間に入ってるなんて二度手間やしさ。それに……」
「それに?」と陽平が続きの言葉をせかす。
「俺も久しぶりに美陽くんに会いたい」
そう漏らす蘆屋の目が少し色気ばんだようにうるっと濡れ、頬が心なしか紅潮している。陽平はそんな蘆屋を前に「会わせたくない」と思ってしまう。しかし美陽の不安を取り除くには蘆屋が必要だった。
「鬼を孕んでるとか言ってたけど、それも蘆屋なら解決できるん?」
「それも美陽くんに直接話すわ」
まるで陽平は蚊帳の外と言われているようでムッとする。その様子に蘆屋はさらに楽しそうにムズっと身を震わせた。
ようやく来た電車に二人で乗り込む。下校時間でも席に余裕のある車内。二人は四人掛けのボックス席に腰を下ろした。
爪弾きにされた腹いせ、というわけではない。ただ、少し当たりたくなったのかもしれない。前から陽平も気になっていた事をあえて本人にぶつけた。
「なあ、ほんとはどうなん?」
「ん?」と窓に頬杖を突いた蘆屋が振り向く。絵になりすぎる目の前の男が正直羨ましい。
「入学早々さ、先生と噂になってたやつ」
ぶはっと蘆屋が吹きだす。嫌な顔ひとつしない蘆屋が陽平の幼稚さを際立てる。
「なんやあ、やっぱり陽平くんも噂好きなんやね。でも分かるよ、陽平くんのは他のヤツらと意図が違う」
「なにが……」
「嫉妬やろ? 陽平くんのは下衆な好奇心やなくて、俺に対しての嫉妬やろ」
「うっ」と言葉を詰まらせる。その通りだった。男としてどうこうという事もあるが、美陽を救えるのは蘆屋なのかもしれない。焦りからくる八つ当たりだった。
「じゃあ、あれはただの噂なんや」
蘆屋がぐっと陽平に体を寄せる。上目遣いに見上げられれば、不覚にも心臓がドキっとしてしまう。
「陽平くん、俺はなあ、ミステリアスな子が好きなんよ。消えてしまいそうに儚くて、輪郭がおぼろげで掴めない。そんな子」
蘆屋に迫られのけぞったまま陽平の心臓が煩く鳴り続けている。
「な、なにそれ。よく分からん」
陽平から身を引くと椅子に座り直す。再び頬杖をつくと窓の外を眺めた。
「いつか紹介してあげるわ。俺の気になる子」
「え、いるん!?」
蘆屋が目線だけを陽平に向けると、ふっと不敵に笑う。
「さあ?」と小さく答えた声は、ガタガタと五月蝿く鳴る田舎の電車の音にかき消された。
入院していた翔也が無事に退院し、普段通りの生活に戻っていた。入院中にお見舞いに行こうと陽平は誘ったが美陽は断った。もちろん心配はしているが、顔を合わせる事が出来なかった。もしかしたら自分のせいかもしれないと、確信のない不安があった。もしその不安が当たっていたとして、美陽の体に何かが起こっているとして、それを取り払える可能性があるなら。今はただの可能性にかけてみるしかなかった。
二人が初めて蘆屋の家にやってくる。蘆屋の家があるのは、杉田地区という小学校から一番遠い地区。蘆屋の家は疎か、そもそも杉田地区に来ることも二度目だった。ここは昔部落差別があった地区だと小学校で習う。一度目は学習目的で小学生の時に訪れた。もちろん今はそんな差別は存在しない。しかしその時陽平は子供ながらに、語り継ぐのは気にしている証拠ではないかと考えたのを覚えている。そして敢えてそんな地に引っ越してくるのは蘆屋家くらいだった。そう考えれば、この土地にはまだ根を張っている何かがあるのかもしれないとも思えた。
美陽にじゃないと話さないと言われた手前、今日は美陽を連れてやってきた。蘆屋の部屋に通されて尚面白くなさそうな顔をしていたのか、蘆屋が「気い悪くしたらごめんな」などと陽平の肩をたたく。美陽が一人、何のことかと不思議がっていた。
三人で机を囲んで座る。組んだ腕を机に置き、蘆屋がじっと美陽を見つめる。なかなか目を逸らさない。気まずくなった美陽が視線を揺らす。
「蘆屋、久しぶりやな」
「うん。美陽くんも久しぶり。ってか、小学校ん時全然喋ってくれへんかったけど」
「いや……そうやね」
二人の間に怪しい空気が流れ始めると、いよいよ陽平が我慢できずに大きく咳払いをした。
「蘆屋、鬼の事。話してくれるんやろ?」
露骨に苛立つ陽平をやはり面白そうにする。
「はいはい、そう焦らんとってや。美陽くんの話はだいたい陽平くんから聞いた。やっぱり気になってるんは猫を祠の前に置いたってところやんね?」
陽平と美陽がうなずく。
「それたぶん正解。こっちではクダショウって言うねんけど」
「クダショウ?」
陽平が聞きなれない言葉を繰り返す。蘆屋が意図して流そうとした言葉を美陽が拾い上げた。
「いや、蘆屋待って。こっちって何。まずお前が何で鬼について知ってるん。お前は何を知ってて、何者なん」
「うわあ、やっぱり美陽くんは頭まわるね。そこはさらっと行こうかと思ってんけど」
美陽の突っ込みに陽平も怪訝な顔を向ける。二人に睨まれ蘆屋も降参と手をあげた。
「大層なことやないよ。うちの家ってなんていうか、昔から続く術師の家系みたいな? ほら、占い師とか祈祷師とかそういう類やと思ってくれたらええよ。陰陽師! とか言ったらかっこええ?」
どこかふざけたように話す蘆屋を信用しきれない。陽平が眉をひそめる。美陽も陽平と同じ顔をしていた。
「そんな疑いの目向けんといてよ。世の中にはいるんやって、そういう仕事してる人らが。怨霊とか化け物とか、そんなんは知らんけど、俺の家はずっと鬼と関わってきた。今じゃ鬼を駆逐する以前に産まんようにする術も確立されてる。やから俺らは監視するだけって感じ。まあ、一部の人しかもう知らん話やな」
「ご両親も鬼に関わってきたってこと?」
美陽がたずねると「そやで」と蘆屋が軽く返す。どうやらひとまず信じるしかなさそうな状況に美陽が話を戻す。
「それで、クダショウがなんて?」
「せやったね。正しくは『クダショウの儀』っていう儀式があんねん。陽平くんと美陽くんが猫を置いてった祠やけど、あれはむかーし昔に建てられてね。鬼が産まれるのを制御するためでもあるし、産む為でもある。あ、詳しいことは聞かんといてや。俺もまだあんま教えられてない。あっこに鬼が鎮まるように神体祀って加持をする。鬼っちゅうんは祀られる代わりに大人しくなったりする。契約みたいなもんやと思ってくれたらええよ。祀る代わりにやたらに人には宿りません、その代わりあることをすれば人に鬼を孕ませる。一方的な契約やったら、ウィンウィンやないやろ? 鬼が産まれる道も残しといて初めて縛りが有効になる。要は使い道ってやつかな。で、猫を祠に預けた行為は貢の儀式にあたる。うーん、猫じゃなくても生きた生き物。要は生贄やな。それが鬼を産む儀式の一つ、クダショウの儀や」
「生贄……」と陽平が唾を飲み込む。
「あの祠が制御基板みたいなもんなんか」
「さすが美陽くん」と蘆屋がにっこり微笑みかける。
「いや、気になってるんやけど、孕むってなんなん? ハルが鬼のあかちゃん産むん!?」
陽平の素っ頓狂な問いに蘆屋がケラケラと笑う。
「おい、俺は真剣に聞いてるんやけど!」
「ごめんごめん。ほんま陽平くんて面白いね。確かに孕むなんて言い方したらそう思うやんね」
笑われた陽平は面白くなさそうにむすっとする。
「でも実際女性が孕めば鬼の子を産む事もある。相手が人であろうと鬼であろうとね。男性の場合妊娠できんから産むことはないけど、腹ん中では鬼が産まれ育つ。これは男女共通やけど、だんだん母体を蝕みやがてその人自体が鬼になる」
美陽の目がこわばる。自分の中にいるモノを確かめるように腹をさすった。
「ハルが、ハルは鬼になるん?」
あまりにも直球な言葉に美陽がはっと陽平に振り向く。美陽と違い陽平は感情が表に出やすい。人より不安や心配などの気持ちは体とリンクしやすい。上がった息と落ち着かない瞳から動揺が伝わる。
「ヨウ、落ち着いて」
なぜか当事者の美陽が陽平をなだめる。陽平の腕を掴むと乗り出した体を押し戻す。「ヨウ」ともう一度名前を呼ぶと、上がった息が落ち着いていく。そんな二人に向けられた蘆屋の目は冷静で、冷静過ぎるが故に冷徹にも見えた。
「鬼になったら、どうなるん」
落ち着きを取り戻すように座り直すと、陽平が問う。蘆屋は淡々と、ただ説明をするだけのように答える。
「別に、見た目は変わらん。でもだんだん人としての主体は失われていく。隣の人が友達やったことも、分からんようになる。災害を起こす。人を巻き込む。鬼として人を駆逐しだす。その頃には正気もなくなっとる」
陽平が美陽に向くと、同時にこちらを見た美陽と目が合う。そんな二人を前に蘆屋は話を続ける。
「よう聞く話やけど、鬼は人の根昏いもんから生まれる。人格が奪われれば狂暴性が現れるという記録がある。動物に危害を加えるのはただの戯れや。人を駆逐するって言うたけど、直接手にかけるってよりは精神に干渉して追い込んでくる。鬼は人より自然に近い存在や。磁場や大気の物理的現象もあっちに味方する。それらが人間に幻覚や妄想を起こさせる。要はこの辺りは危険やと、禁足地にさえすればそれでええ」
「じゃあ、俺の中に生まれた鬼が翔也を……。もしかしたら山下さんも」
自分の中に存在するものを自覚していく。その異物感に美陽が大きく嘔吐いた。慌てて美陽の背中を陽平がさすってやる。
「それってさ、ハルの意思じゃないよな!? 鬼が勝手にやってることやんな?」
美陽のせいではないと確かめたいのだろう。陽平がぎゅっと美陽の背中を抱いた。
「酷な事を言うと、ちょっとビミョウ。たぶんだんだんと美陽くんと鬼が結びつき始めとる。鬼と思考がリンクするっていうんかな。美陽くんが恨み僻みを持った相手に鬼が手を出す可能性はある」
くいっと美陽の眉間にしわが寄る。苦い顔をした美陽とは反対に顔を赤らめ逆上したのは陽平だった。
「ハルがそんな感情持つわけないやろ! そんなヤツじゃない!」
陽平の大きな声に一瞬蘆屋がかたまる。しかしすぐにクスクスと笑いだした。
「まあまあ、そんな興奮せんでよ。ほんま君たちおもしろいね。鬼の存在はさっきも言うたように儀式、術が関係してくる。真偽の分からん伝承も多いけど、一つ確かなターゲットのマーキング方法がある。鬼の災いに触れてしまう方法や。それはこの辺りで『ヒ ヲ ワカツ』という言葉で伝えられとる」
「ひをわかつ?」
「そ。ヒは焚火の『火』って字を書くとされとるけど、忌み事の「忌」でもあって、穢れの意味があるとも言われとる。確かな伝承は文字では残ってない。やから本来どうやって生まれた言葉かは分からへん。でも確かにこの辺りではヒヲワカツと言う言葉が使われとった。まあ、簡単に言うと懐胎したもんはヒを持つ。ヒを持つ者と飯食うんは禁忌やったって意味や」
深刻な顔で話を聞いていた陽平が、腑に落ちないと蘆屋に問いかける。
「身ごもることが、穢れ?」
「まあまあ、今の時代そんな考えアホくさいやんね。でも昔は産穢や死穢言うてね、それぞれ不浄のもんとされとった。清める対象やな。そういうんが習俗ってもんや」
それを聞いても納得できていないところに陽平の純粋さを感じる。人の生命が汚れなど、陽平にはとても理解できない考えだった。
そんな陽平の傍にいれば、自分の不純さを感じる。それと同時に日の当たる場所にいるような心地よさを感じる。綺麗なものを汚してしまう背徳感がある。徳に背く快楽を感じてしまう。そんな自分にまた不純を感じる。美陽は分かっていてもこのループから抜け出せないでいた。
「それで? 鬼を孕んだヤツと食を共にすることが本当に儀式になるのか?」
「せやで。妊娠した嫁さんと飯食った後に自分から山に入って熊に襲われて死んだなんて話、ごろごろあるで。その女性が孕んどったんが鬼やったって話な。でも『食を共にする』はちょっと違う。『食を分け与える』が正しいかな。ビミョウな違いやけど」
美陽は話を聞きながら翔也と過ごした時の事を考えていた。そして心当たりはすぐに思いついた。
「ケーキ。もしかして、一緒にケーキ食べたとき」
陽平もすぐに反応し、「ああ!」と声を上げた。
たしかに一度口を付けたケーキを翔也に与えた。きっと翔也は両方のケーキが食べたいだろうと思い、交換という名目で一度口にしたケーキをあげた。その事実を思い出した瞬間、美陽の顔が曇る。翔也を巻き込んだのは自分だという事実が、はっきりと形を持ってしまった。
「でもさ、山下さんは違うやろ? ハルとは関係ないやろ? だって飯一緒に食った事ないし」
庇うように蘆屋に詰め寄る陽平を重い声が制した。
「梅酒……梅酒をあげてる」
「いやいや、だってそれはハルのお母さんが作ったやつで。さっきの話ならあげただけなら理屈は通らんやろ」
「な?」と陽平が美陽の肩に手を置く。しかし沈んだ美陽の顔が上がることはない。
「……味見した。山下さんにあげる瓶の梅酒。俺が味見した」
蘆屋が「ほう」っと興味深い笑みをこぼす。
「だからって、ハルが悪いわけちゃうし。気にすんな。な、ハル?」
美陽の横顔はあの時と同じだった。翔也の事故があった日、美陽が自分のせいではないかと告白してきた、あの時と同じ顔をしていた。
助けてやらないと、助けてやらないと―。
「俺らから聞いてなんやけど、蘆屋もそんな事べらべらと話していいん? 言いふらされたりとか、そういうのはいいん? 全然話題になったり知られてないって、隠してることじゃないん?」
焦りの顔を見せる陽平に蘆屋が動じることはない。
「陽平くんってほんと優しいね。それとも美陽くん限定? でも弱みを握ろうなんてのは陽平くんには向いてないわ。そういうんはもっと狡い人間がやらな」
蘆屋がちらっと美陽を横目に見るとそれを美陽が睨み返した。
「別に君らに喋るんはええよ。だって美陽くんは当事者確定みたいやし? 鬼ってさ、この地域だけの話やないんよ。土地の持つ力に差は在れどね。ちょっと大きめの組織があるんよ、バックに。口外して美陽くんのことがバレたらどうなるか俺も知らん。もう二人とも一生会われへんようなるんかもしれんよ? その場合さ、君らがどっちを選ぶかなんて一目瞭然やん?」
そこまで言われると陽平も楯突くことを諦める。落胆の表情を浮かべる陽平に蘆屋が息をついた。
「勘違いしてるかもしれんけど、俺は君らの味方やねんけど。こんだけ鬼のこと知ってんねんで? さっきも言ったけど、バレればどうなるか分からんけど、バレんかったら対処できる余地はあるやろ? もうちょっと頼ってよ」
どの口が言っているのかと美陽も陽平も半信半疑でいる。しかし蘆屋は昔からこういう性格だった。人をやり込める口の利き方でよく他の生徒を泣かせ、先生を怒らせ、周りから壁を作られていた。そう考えると、かわいそうな性格かもしれないとさえ思えてくる。
「分かった。とりあえずハルの為やから協力してほしい」
陽平が差し出した手に驚いた様子をみせたが、すぐにその手を握り返す。「よろしく」と言った蘆屋は嬉しそうにもみえた。
