昼間はあんなにも晴れていたのに。皆が寝静まったころにそれはやってきた。
部屋のベッドで寝ていたはずなのに、まるで滝壺の中にいるような—耳を塞ぎたくなるくらいの水音だった。
手を引かれて歩いていたような、自らの足で歩いていたような。
瀑布の中を歩いているのか視界が悪い。数寸先が全く見えない。
うつらうつらと歩いていると、突然足首を何かに掴まれた。
抵抗、状況把握、そんなものする間もなくずるりと水の中に引きずり込まれる。
慌てて足を引き抜こうとした瞬間、ずるずるずるっと胸まで一気に落ちていく。
頭の上まで水に浸かると息が出来なくなった。
パニックになり吸い込んだ肺に水が流れ込む。
そのまま意識を失い、助けを求めて水の上へと伸ばしていた手が力を失くした。
間もなくして季節は梅雨を迎える。からっと晴れては土砂降りを繰り返していた町も今はじめじめとした空気に覆われる。しかし以前の嵐のような天気に見舞われることはなかった。昨夜をのぞいては―。
陽平がアラームの音で目覚めると枕元に置いてある携帯に手を伸ばす。時間を確認するついでに画面をチェックするとメッセージが届いていた。送信主は南佳織だった。メッセージを開いた陽平の頭が一気に冴える。
『昨日の夜中、小学校近くの水路で子供が溺れたって。青葉台に住んでる子らしいけど、知ってる子とちゃう!?』
南が子供というほどだから小学生くらいだろうか。まっさきに翔也の顔が浮かんだ。飛び起きて一階へと駆け降りる。まだ母親は起きてきていない。テレビをつけたが、明るい情報番組や天気予報が流れているだけで、こんな山奥の小さな町のニュースなどどこも報じてはいない。それもそうだ。まだ溺れたという情報なだけで、その子供がどうなったかなど分からない。大したことがなければニュースになどならない。陽平が再び携帯を見る。美陽から何か連絡が入らないか気になった。しかしホーム画面は何も伝えてはこなかった。
外着に着替えると家を飛び出す。自転車にまたがると一目散に向かったのは小学校だった。小学校へは団地を抜け、緩いカーブを描く坂道を下っていく。左側には田んぼが広がり、右側には林と呼ぶか、森と呼ぶか迷うほどの木の茂みが続く。茂みは傾斜をなして上にそびえる。それは小学校の裏山へと繋がり続いていた。
青葉台の方面から通学する生徒たちはみな正門ではなく北門を使う。そして北門の隣にはそこそこに立派な神社があった。積祈神社と呼ばれるその場所は、小学生の頃陽平と美陽の寄り道の場所によく使われた。若い神主がいるが、ほとんど見たことはない。見かけても軽く挨拶をしたことがある程度だった。
陽平が北門を目指し坂道をくだっていると、すでに学校の前の水路が騒がしくなっていた。田んぼ用に作られた大きめの水路は小学生からすれば川のようだが、普段はちょろちょろと水が流れている程度で危険性はない。ただ昨晩局地的に降った雨のせいで水が溢れだすまでに水位が増したのかもしれない。それでも子供が溺れるとなれば、水路の高さも、時間帯も、不自然だった。
人だかりが出来ているその場所には近づけないようにロープが張られていた。パトカーと警察官数人の姿も見られたが、事件性はないようだった。そして野次馬の中に見知った人物を見つける。慌てて自転車を道路脇に停めるとその人物へ駆け寄った。陽平に気付き振り向いたその顔に特別驚いた様子はなかった。
「ハル! どうしてここに」
「ああ、ヨウも誰かから聞いて来たん?」
どこでこのことを知ったのか美陽は答えなかった。
「それで、あの」
陽平が言い淀むとあっさりとしたほどに冷静な声が耳を刺した。
「翔也やって」
「……え」
「翔也。日比野翔也。救急車で運ばれた。肺に水が入ってたみたいやけど、幸い息はしてたらしい。足を滑らせて水路に落ちたんやないかって」
「いやいや、いつ? 夜中? 早朝? なんで!?」
つい問い詰めてしまった陽平の視界に美陽の手元がうつった。美陽の目はしっかりと水路を捕えている。声も冷静さを保っている。しかし、体の前で握っていた手が震えていた。右手首を左手で強く掴み、震えを抑えている。その手に陽平が自分の手を添える。ゆっくりと美陽の手を包むと次第に震えが落ち着いていく。
「ハル、大丈夫?」
「俺は、大丈夫」
それでも未だ美陽が陽平の方を見ようとはしない。陽平と目を合わそうとはしなかった。二人がぎこちない空気の中立ちすくむ。町の人たちが水路や田んぼの点検をしてまわっていた。
「ほんっま、最近ゲリラ豪雨っちゅうんか? ひどい天気が多いな」
「山下さんもほれ、山で雷に打たれたやんか」
「今度は子供が巻き込まれるとはな。どうなっとるんや」
「こんだけ異常な天気が続いとんのに新聞やニュースでは聞かへんやろ?」
「こんな田舎の異常気象なんざ大きく扱われることはないんやろ。それか―この町に見えへん膜でも張っとんちゃうか?」
「なんやそれ」と大人たちが笑う。
「大丈夫かな……翔也」
一方で肩を落とす陽平は心底翔也を心配している。美陽が自分の気持ちに蓋をするように一度目をつむる。そしてゆっくりと、深呼吸をするように瞼を開いた。
「翔也のことだから、またすぐに元気な姿見せてくれるやろ」
「信じよう」と美陽の目が語っている。その時やっと美陽と陽平の目が合った。陽平の冴えない笑顔が美陽の瞳にうつる。
もうここに留まっていたところで事態は変わらない。二人はざわざわとした大人たちから距離を取り、自転車へと歩き出す。積祈神社の傍に停めた自転車を取りに行くと、境内に神主の姿が見えた。事故の様子を見に出て来たのだろうか。装束は着ておらず、普段着だったがその顔を知っている。すっとした儚げな顔立ちに肩下まで伸ばした髪。そのせいで一見女性のようにもみえる。消えてしまいそうなその姿に魅了される人が数多いそうだと陽平が考える。そしてどこか美陽と似ているなとも思った。そんなことをぼうっと考えていると、神主がちらりと陽平の方を見た。いきなり目が合い驚いたが、ぺこりと頭を下げるとあちらも丁寧に頭を下げる。礼儀が正しい人だと思いながら自転車を押し込む。ガシャンと音を立てスタンドが上がると、来た道へとハンドルを旋回させた。
カラカラと自転車を押しながら美陽に並んで坂道を登っていく。どんどんと人の声が遠ざかっていくと一気に人気がなくなった。
「なあ、どうやってハルは事故のこと知ったん? 南から連絡あった?」
しばらく美陽がそのことに答えようとはしなかった。
「南からは連絡ない」
そう告げられたが陽平が他の可能性を追及することはない。ではどうして? 気になった、しかし聞かなかった。しかし美陽が話したいことなら話してくれればいい。話したくないなら話さなくてもいい。陽平には美陽の気持ちが一番大切だった。
坂道をのぼりきったところで一度立ち止まる。青葉台へ入る一番近い道は階段になっていた。自転車ならさらに迂回しなければいけない。再び陽平がハンドルを押し出そうとした瞬間、聞き漏らしそうなほどか細い声が陽平に助けを求めた。
「俺かもしれん」
「……は?」
陽平が振り返る。聞き取れなかったわけではない。あまりにも予想外の言葉に意味を汲み取れなかった。伏せた美陽の目に睫毛がかかる。たまに見せる美陽の表情。影を落としたようなそれはふとした瞬間にも消えてしまいそうで、陽平の心をくすぐる。
「何が?」
もう一度陽平が聞き返す。睫毛がさらに美陽の目を隠した。
「ヨウは信じてくれるかな」
ハンドルを持つ手に力が入る。これから美陽は何を言い出すのか、少しこわかった。
「誰かの足を掴んだ感覚がある」
美陽が右手を握って開く。何かの感触を思い出すように手のひらを握っては開く。
「え、いや、それは、どういう―」
「どういう事か分からんよな」
ごくりと生唾を飲み込んだ陽平の喉仏が上下に動いた。
「昨日の夜なのか、今日の朝なのかわからん。水の中でもがく足を引っ張って水中へ引きずり込んだ。夢なのか現実なのか分からん。でも実際俺自身がやったことではない—はず。起きたらベッドの上やったし」
冗談を言っているのだろうか。本気であったことを話しているのだろうか。陽平が戸惑う。翔也を溺れさせたのは自分だと言いたいのだろうか。
―いや、どうやって。
「夢、ちゃうん?」
「うん。でも手に感触が残ってる。知らんはずの事故現場を知ってた。行ったらほんとに事故が起こってた。翔也だと聞いて合点がいった。俺の手に残ってる感触は子供のもんやったから」
それでもまだ陽平には真実だとは思えない。美陽を疑うなんて気持ちはない。しかしそんなことあるわけなどないと脳が言っている。
「いやいや、意味分からんて。そんなんホラーやん」
笑い話にしようとした。美陽のただの思い過ごしだろうと流そうとした。
―だって、そんなん信じられるわけない。
そう決め込もうとした思考を、停止させる一言が陽平の胸を突き刺した。
「ヨウ、こわい」
かすれた声とともに美陽の手が陽平の袖を掴む。陽平は無視することができなくなった。美陽は本気で怖がっている。何かに恐れている。恐怖で体が震えている。人を引きずり込んだ感触を、本当に持っている。
「ハル、ハル? こっち見て? 俺の目見て」
ふさぎこんだ顔を覗き込む。美陽の声に、服を掴んだ手に、怯える目に、信じる以外の道はなかった。
「分かったから、もう少し話そう? 話せる?」
少しだけ美陽の瞳が上下したように見えた。
「学校、さぼろっか」
その笑顔はいつもと変わらない。無邪気でバカっぽくてわずかな疑いもない。美陽に向けるいつもの笑顔だった。
だれもいない美陽の家は秘密基地のようだ。小学生の頃から、そう思っていた。日常から隔離された秘密基地。ここに来るといつもワクワクした。しかし今日はいつもとは違っていた。
陽平が冷蔵庫からお茶を出しコップへそそぐ。他人の家とはいえ、もう何年も通い親しんだ家。勝手はだいたい分かっている。コップに入れたお茶を持ち二階へあがる。部屋のドアを開けると美陽がぽつんと座っていた。
「ごめん、勝手に台所入ったで」
美陽の前にお茶を置く。それに手を付ける様子はない。陽平が美陽の横に腰をおろす。なるべく明るく振舞った。
「ハルのタイミングで話したらええで」
コチコチと時間を告げる時計の音が鳴り響く。陽平はひたすら待った。たまに美陽を見ては優しい顔を向ける。胡坐をかいた身体を前後にゆらゆら揺らしながら気長に待っていた。
「最近天気が悪いと体調崩すやろ」
美陽の声が聞こえると陽平の体がぴたりと止まる。
「雨のひどさによって体のだるさも強くなるねん。去年くらいからかな。この辺りで豪雨続いたやん。意識が薄れたり、その日のことよく覚えてないこともあるねん」
「病院では異常ないって言われたんやんな?」
こくりと美陽がうなずく。
「今日みたいな、なんか変な夢みることもあったん?」
「夢……なんやろか。さっきのも、自分の意思っていうか、意識があったように思う」
理解に苦しむ陽平が顔をしかめる。
「ハルが翔也を溺れさせたって思ってるん?」
「分からん」とだけ美陽が答える。陽平が頭を抱えた。
「そのさ、体調悪くなったんって、いつから? 記憶なくなるみたいな」
それが今回のことと関係していると美陽は考えているのだろう。実は陽平にも思いあたる事があった。もし、美陽がこのことと関係しているならだ。説明を付けることが出来るとしたら、これしかなかった。もちろん、そんなことありえないとまだ疑っているのだが。
「中二くらいからひどくなった。でも変やと思ってたんはもっと前。何となく、いつからかは分かってる」
きっかけになった出来事に心当たりがある。それを口にしたくないのだろう。美陽にとっては未だにトラウマなのだ。
「猫ちゃう?」
陽平が静かに、まじめに、今度こそ美陽を逃さないと言葉を刺した。はっとした美陽が陽平の顔を見る。笑ってはいなかった。真剣な顔が美陽を見ている。美陽がひゅっと息を吸う。緊張した美陽の額に汗が滲み出ている。おでこに張り付いた前髪を、陽平がそっと整えてやった。
「大丈夫?」
「ヨウ、何か覚えてるん? あの日のこと」
あの日—猫を拾った時のことだろう。しかし陽平は首を振った。
「あの日のことはそんなに。やけどさ、ハル覚えてない? 蘆屋が言ったこと」
蘆屋。その名前はもちろん覚えている。小学校の同級生、蘆屋累。小学三年生の春に転校してきた男子生徒。大人びていて浮世離れしていた雰囲気のせいで、転校当初は近づきにくい存在だった。皮肉まじりにニヤつく顔をはっきりと覚えている。そんな蘆屋があのとき美陽に言った。猫の事があった、すぐ後だった。
『美陽くん、中に鬼入ってんで』
からかうなと陽平が言い返した。それでも蘆屋は楽しそうにカラカラと笑っていた。ニヤついたその顔を、はっきりと覚えている。
「ヨウは、あれ信じるん? もしかしてほんとに鬼なんかいて、それが俺の中におると思うん? それで今回のこともその鬼の仕業と思うん?」
「いや、分からん。でもずっとひっかかってて、ずっと忘れられへんかった。今日ハルが怖がってるの見て、ほんまにそうちゃうかなって、思えてん」
鬼がこの世に存在する? ハルの中に入っている? 信じられないことは分かっている。それでも美陽を苦しめている何かがあるのだとしたら、その可能性があるのだとしたら、陽平はそれを消してやりたかった。
「蘆屋な、今同じ高校やねん。だいたい俺と同じ電車やったからハルとは会わへんかったかもやけど。まあ、俺も高校であいつと話したことないねんけど」
「……そうなん?」
少し驚いたように美陽の目が丸くなる。中学から地元を離れていた美陽にとって小学校の同級生との関係が希薄になっているのも不思議ではなかった。
「なあ、ハル。嫌かもしれへんけど、教えてくれへん? あの日、何があったん? 何を見たん?」
美陽が少し口を開く。しかしどうしても心がセーフティとなり言葉を吐くことを拒ませる。
「ハル、大丈夫。俺がいるから、俺がなんとかするから。ずっとそうやったやろ? ハルを守ってやれるのは俺やったやろ?」
陽平の言う通り、ずっとそうだった。ここへ転校してきた時、揶揄われる美陽をかばってきたのは陽平だった。いつも美陽は陽平の背中を追っていた。たくましくて優しいその背中が好きだった。そのことを思い出すと自然と心が落ち着いていく。陽平が傍にいるという事実が美陽の安心感へとつながる。まるで太陽のようにぽかぽかと暖かい光が美陽の心を包み込む。
だんだんと息がしやすくなる。ゆっくりと美陽があの日の事を話しだした。
部屋のベッドで寝ていたはずなのに、まるで滝壺の中にいるような—耳を塞ぎたくなるくらいの水音だった。
手を引かれて歩いていたような、自らの足で歩いていたような。
瀑布の中を歩いているのか視界が悪い。数寸先が全く見えない。
うつらうつらと歩いていると、突然足首を何かに掴まれた。
抵抗、状況把握、そんなものする間もなくずるりと水の中に引きずり込まれる。
慌てて足を引き抜こうとした瞬間、ずるずるずるっと胸まで一気に落ちていく。
頭の上まで水に浸かると息が出来なくなった。
パニックになり吸い込んだ肺に水が流れ込む。
そのまま意識を失い、助けを求めて水の上へと伸ばしていた手が力を失くした。
間もなくして季節は梅雨を迎える。からっと晴れては土砂降りを繰り返していた町も今はじめじめとした空気に覆われる。しかし以前の嵐のような天気に見舞われることはなかった。昨夜をのぞいては―。
陽平がアラームの音で目覚めると枕元に置いてある携帯に手を伸ばす。時間を確認するついでに画面をチェックするとメッセージが届いていた。送信主は南佳織だった。メッセージを開いた陽平の頭が一気に冴える。
『昨日の夜中、小学校近くの水路で子供が溺れたって。青葉台に住んでる子らしいけど、知ってる子とちゃう!?』
南が子供というほどだから小学生くらいだろうか。まっさきに翔也の顔が浮かんだ。飛び起きて一階へと駆け降りる。まだ母親は起きてきていない。テレビをつけたが、明るい情報番組や天気予報が流れているだけで、こんな山奥の小さな町のニュースなどどこも報じてはいない。それもそうだ。まだ溺れたという情報なだけで、その子供がどうなったかなど分からない。大したことがなければニュースになどならない。陽平が再び携帯を見る。美陽から何か連絡が入らないか気になった。しかしホーム画面は何も伝えてはこなかった。
外着に着替えると家を飛び出す。自転車にまたがると一目散に向かったのは小学校だった。小学校へは団地を抜け、緩いカーブを描く坂道を下っていく。左側には田んぼが広がり、右側には林と呼ぶか、森と呼ぶか迷うほどの木の茂みが続く。茂みは傾斜をなして上にそびえる。それは小学校の裏山へと繋がり続いていた。
青葉台の方面から通学する生徒たちはみな正門ではなく北門を使う。そして北門の隣にはそこそこに立派な神社があった。積祈神社と呼ばれるその場所は、小学生の頃陽平と美陽の寄り道の場所によく使われた。若い神主がいるが、ほとんど見たことはない。見かけても軽く挨拶をしたことがある程度だった。
陽平が北門を目指し坂道をくだっていると、すでに学校の前の水路が騒がしくなっていた。田んぼ用に作られた大きめの水路は小学生からすれば川のようだが、普段はちょろちょろと水が流れている程度で危険性はない。ただ昨晩局地的に降った雨のせいで水が溢れだすまでに水位が増したのかもしれない。それでも子供が溺れるとなれば、水路の高さも、時間帯も、不自然だった。
人だかりが出来ているその場所には近づけないようにロープが張られていた。パトカーと警察官数人の姿も見られたが、事件性はないようだった。そして野次馬の中に見知った人物を見つける。慌てて自転車を道路脇に停めるとその人物へ駆け寄った。陽平に気付き振り向いたその顔に特別驚いた様子はなかった。
「ハル! どうしてここに」
「ああ、ヨウも誰かから聞いて来たん?」
どこでこのことを知ったのか美陽は答えなかった。
「それで、あの」
陽平が言い淀むとあっさりとしたほどに冷静な声が耳を刺した。
「翔也やって」
「……え」
「翔也。日比野翔也。救急車で運ばれた。肺に水が入ってたみたいやけど、幸い息はしてたらしい。足を滑らせて水路に落ちたんやないかって」
「いやいや、いつ? 夜中? 早朝? なんで!?」
つい問い詰めてしまった陽平の視界に美陽の手元がうつった。美陽の目はしっかりと水路を捕えている。声も冷静さを保っている。しかし、体の前で握っていた手が震えていた。右手首を左手で強く掴み、震えを抑えている。その手に陽平が自分の手を添える。ゆっくりと美陽の手を包むと次第に震えが落ち着いていく。
「ハル、大丈夫?」
「俺は、大丈夫」
それでも未だ美陽が陽平の方を見ようとはしない。陽平と目を合わそうとはしなかった。二人がぎこちない空気の中立ちすくむ。町の人たちが水路や田んぼの点検をしてまわっていた。
「ほんっま、最近ゲリラ豪雨っちゅうんか? ひどい天気が多いな」
「山下さんもほれ、山で雷に打たれたやんか」
「今度は子供が巻き込まれるとはな。どうなっとるんや」
「こんだけ異常な天気が続いとんのに新聞やニュースでは聞かへんやろ?」
「こんな田舎の異常気象なんざ大きく扱われることはないんやろ。それか―この町に見えへん膜でも張っとんちゃうか?」
「なんやそれ」と大人たちが笑う。
「大丈夫かな……翔也」
一方で肩を落とす陽平は心底翔也を心配している。美陽が自分の気持ちに蓋をするように一度目をつむる。そしてゆっくりと、深呼吸をするように瞼を開いた。
「翔也のことだから、またすぐに元気な姿見せてくれるやろ」
「信じよう」と美陽の目が語っている。その時やっと美陽と陽平の目が合った。陽平の冴えない笑顔が美陽の瞳にうつる。
もうここに留まっていたところで事態は変わらない。二人はざわざわとした大人たちから距離を取り、自転車へと歩き出す。積祈神社の傍に停めた自転車を取りに行くと、境内に神主の姿が見えた。事故の様子を見に出て来たのだろうか。装束は着ておらず、普段着だったがその顔を知っている。すっとした儚げな顔立ちに肩下まで伸ばした髪。そのせいで一見女性のようにもみえる。消えてしまいそうなその姿に魅了される人が数多いそうだと陽平が考える。そしてどこか美陽と似ているなとも思った。そんなことをぼうっと考えていると、神主がちらりと陽平の方を見た。いきなり目が合い驚いたが、ぺこりと頭を下げるとあちらも丁寧に頭を下げる。礼儀が正しい人だと思いながら自転車を押し込む。ガシャンと音を立てスタンドが上がると、来た道へとハンドルを旋回させた。
カラカラと自転車を押しながら美陽に並んで坂道を登っていく。どんどんと人の声が遠ざかっていくと一気に人気がなくなった。
「なあ、どうやってハルは事故のこと知ったん? 南から連絡あった?」
しばらく美陽がそのことに答えようとはしなかった。
「南からは連絡ない」
そう告げられたが陽平が他の可能性を追及することはない。ではどうして? 気になった、しかし聞かなかった。しかし美陽が話したいことなら話してくれればいい。話したくないなら話さなくてもいい。陽平には美陽の気持ちが一番大切だった。
坂道をのぼりきったところで一度立ち止まる。青葉台へ入る一番近い道は階段になっていた。自転車ならさらに迂回しなければいけない。再び陽平がハンドルを押し出そうとした瞬間、聞き漏らしそうなほどか細い声が陽平に助けを求めた。
「俺かもしれん」
「……は?」
陽平が振り返る。聞き取れなかったわけではない。あまりにも予想外の言葉に意味を汲み取れなかった。伏せた美陽の目に睫毛がかかる。たまに見せる美陽の表情。影を落としたようなそれはふとした瞬間にも消えてしまいそうで、陽平の心をくすぐる。
「何が?」
もう一度陽平が聞き返す。睫毛がさらに美陽の目を隠した。
「ヨウは信じてくれるかな」
ハンドルを持つ手に力が入る。これから美陽は何を言い出すのか、少しこわかった。
「誰かの足を掴んだ感覚がある」
美陽が右手を握って開く。何かの感触を思い出すように手のひらを握っては開く。
「え、いや、それは、どういう―」
「どういう事か分からんよな」
ごくりと生唾を飲み込んだ陽平の喉仏が上下に動いた。
「昨日の夜なのか、今日の朝なのかわからん。水の中でもがく足を引っ張って水中へ引きずり込んだ。夢なのか現実なのか分からん。でも実際俺自身がやったことではない—はず。起きたらベッドの上やったし」
冗談を言っているのだろうか。本気であったことを話しているのだろうか。陽平が戸惑う。翔也を溺れさせたのは自分だと言いたいのだろうか。
―いや、どうやって。
「夢、ちゃうん?」
「うん。でも手に感触が残ってる。知らんはずの事故現場を知ってた。行ったらほんとに事故が起こってた。翔也だと聞いて合点がいった。俺の手に残ってる感触は子供のもんやったから」
それでもまだ陽平には真実だとは思えない。美陽を疑うなんて気持ちはない。しかしそんなことあるわけなどないと脳が言っている。
「いやいや、意味分からんて。そんなんホラーやん」
笑い話にしようとした。美陽のただの思い過ごしだろうと流そうとした。
―だって、そんなん信じられるわけない。
そう決め込もうとした思考を、停止させる一言が陽平の胸を突き刺した。
「ヨウ、こわい」
かすれた声とともに美陽の手が陽平の袖を掴む。陽平は無視することができなくなった。美陽は本気で怖がっている。何かに恐れている。恐怖で体が震えている。人を引きずり込んだ感触を、本当に持っている。
「ハル、ハル? こっち見て? 俺の目見て」
ふさぎこんだ顔を覗き込む。美陽の声に、服を掴んだ手に、怯える目に、信じる以外の道はなかった。
「分かったから、もう少し話そう? 話せる?」
少しだけ美陽の瞳が上下したように見えた。
「学校、さぼろっか」
その笑顔はいつもと変わらない。無邪気でバカっぽくてわずかな疑いもない。美陽に向けるいつもの笑顔だった。
だれもいない美陽の家は秘密基地のようだ。小学生の頃から、そう思っていた。日常から隔離された秘密基地。ここに来るといつもワクワクした。しかし今日はいつもとは違っていた。
陽平が冷蔵庫からお茶を出しコップへそそぐ。他人の家とはいえ、もう何年も通い親しんだ家。勝手はだいたい分かっている。コップに入れたお茶を持ち二階へあがる。部屋のドアを開けると美陽がぽつんと座っていた。
「ごめん、勝手に台所入ったで」
美陽の前にお茶を置く。それに手を付ける様子はない。陽平が美陽の横に腰をおろす。なるべく明るく振舞った。
「ハルのタイミングで話したらええで」
コチコチと時間を告げる時計の音が鳴り響く。陽平はひたすら待った。たまに美陽を見ては優しい顔を向ける。胡坐をかいた身体を前後にゆらゆら揺らしながら気長に待っていた。
「最近天気が悪いと体調崩すやろ」
美陽の声が聞こえると陽平の体がぴたりと止まる。
「雨のひどさによって体のだるさも強くなるねん。去年くらいからかな。この辺りで豪雨続いたやん。意識が薄れたり、その日のことよく覚えてないこともあるねん」
「病院では異常ないって言われたんやんな?」
こくりと美陽がうなずく。
「今日みたいな、なんか変な夢みることもあったん?」
「夢……なんやろか。さっきのも、自分の意思っていうか、意識があったように思う」
理解に苦しむ陽平が顔をしかめる。
「ハルが翔也を溺れさせたって思ってるん?」
「分からん」とだけ美陽が答える。陽平が頭を抱えた。
「そのさ、体調悪くなったんって、いつから? 記憶なくなるみたいな」
それが今回のことと関係していると美陽は考えているのだろう。実は陽平にも思いあたる事があった。もし、美陽がこのことと関係しているならだ。説明を付けることが出来るとしたら、これしかなかった。もちろん、そんなことありえないとまだ疑っているのだが。
「中二くらいからひどくなった。でも変やと思ってたんはもっと前。何となく、いつからかは分かってる」
きっかけになった出来事に心当たりがある。それを口にしたくないのだろう。美陽にとっては未だにトラウマなのだ。
「猫ちゃう?」
陽平が静かに、まじめに、今度こそ美陽を逃さないと言葉を刺した。はっとした美陽が陽平の顔を見る。笑ってはいなかった。真剣な顔が美陽を見ている。美陽がひゅっと息を吸う。緊張した美陽の額に汗が滲み出ている。おでこに張り付いた前髪を、陽平がそっと整えてやった。
「大丈夫?」
「ヨウ、何か覚えてるん? あの日のこと」
あの日—猫を拾った時のことだろう。しかし陽平は首を振った。
「あの日のことはそんなに。やけどさ、ハル覚えてない? 蘆屋が言ったこと」
蘆屋。その名前はもちろん覚えている。小学校の同級生、蘆屋累。小学三年生の春に転校してきた男子生徒。大人びていて浮世離れしていた雰囲気のせいで、転校当初は近づきにくい存在だった。皮肉まじりにニヤつく顔をはっきりと覚えている。そんな蘆屋があのとき美陽に言った。猫の事があった、すぐ後だった。
『美陽くん、中に鬼入ってんで』
からかうなと陽平が言い返した。それでも蘆屋は楽しそうにカラカラと笑っていた。ニヤついたその顔を、はっきりと覚えている。
「ヨウは、あれ信じるん? もしかしてほんとに鬼なんかいて、それが俺の中におると思うん? それで今回のこともその鬼の仕業と思うん?」
「いや、分からん。でもずっとひっかかってて、ずっと忘れられへんかった。今日ハルが怖がってるの見て、ほんまにそうちゃうかなって、思えてん」
鬼がこの世に存在する? ハルの中に入っている? 信じられないことは分かっている。それでも美陽を苦しめている何かがあるのだとしたら、その可能性があるのだとしたら、陽平はそれを消してやりたかった。
「蘆屋な、今同じ高校やねん。だいたい俺と同じ電車やったからハルとは会わへんかったかもやけど。まあ、俺も高校であいつと話したことないねんけど」
「……そうなん?」
少し驚いたように美陽の目が丸くなる。中学から地元を離れていた美陽にとって小学校の同級生との関係が希薄になっているのも不思議ではなかった。
「なあ、ハル。嫌かもしれへんけど、教えてくれへん? あの日、何があったん? 何を見たん?」
美陽が少し口を開く。しかしどうしても心がセーフティとなり言葉を吐くことを拒ませる。
「ハル、大丈夫。俺がいるから、俺がなんとかするから。ずっとそうやったやろ? ハルを守ってやれるのは俺やったやろ?」
陽平の言う通り、ずっとそうだった。ここへ転校してきた時、揶揄われる美陽をかばってきたのは陽平だった。いつも美陽は陽平の背中を追っていた。たくましくて優しいその背中が好きだった。そのことを思い出すと自然と心が落ち着いていく。陽平が傍にいるという事実が美陽の安心感へとつながる。まるで太陽のようにぽかぽかと暖かい光が美陽の心を包み込む。
だんだんと息がしやすくなる。ゆっくりと美陽があの日の事を話しだした。
