オニツキ

「本日も関西地方は晴天の予報。今週は五月に入り汗ばむ日も出てきそうです……」
 テレビから朝の天気予報が聞こえてくる。
「ぜんっぜんあてにならへんやん。なんなん、ここだけ別世界!?」
 陽平がぶつぶつと言いながらもう一度布団を頭までかぶる。
 このところ、ここらでは雨の日が続いている。天気予報では梅雨入りの話題も出ていないのに、毎日のように空がぐずついている。そしてこの日、町には大雨が降り続いた。昨晩から降りしきる雨が山の土を溶かす。土の匂いが町に充満していた。
地盤が緩むと山へ向かう電車がストップした。ここでは珍しくはない。台風の予報があればあらかじめ電車を運休させるなど茶飯事だった。
 ベッドの脇に置かれていた携帯がブブブっと振動し、画面が光った。陽平が携帯へ手を伸ばし通知を確認する。
「うわ、また!?」
 ベッドに寝そべったまま陽平が携帯のメッセージを眺める。
『電車止まったって』
 メッセージの相手は美陽(みはる)だった。
『学校やすみー!』
『喜んでる場合か。また授業遅れる』
 相変わらず真面目だなと陽平が寝返りを打つ。
『山よりこっち側の人はみんな休みっしょ?』
『そんなん数えるほどしかおらんやろ』
 窓を打ち付ける雨が先ほどよりひどくなった。すると遠くでゴロゴロと雷の音がする。「これは近づいてくる」と、幼いころより身に付いた直感で分かった。
『カミナリ鳴った。ハル、大丈夫?』
『子ども扱いすんな』
 思わずふふっと笑みがこぼれる。小さいころはあんなに怖がってたのになあと、陽平の記憶の中にいる美陽を思い出す。そのうち鋭い白光が部屋に刺さると、数える間もなくどかんと地面を打ち抜くような衝撃が走る。「落ちたな」と冷静に考えながら、頭の中では「ハルもこの音を感じている」のかなんて想像する。いつの間にか、口元はゆるんでいた。
 
 次の日、陽平はいつもより早く家を出た。普段陽平より一本早い電車で通学している美陽に会う為だ。ちょうど家を出て来た美陽を見つけると声をかける。美陽は珍しい姿に驚いたようだったが、二人はとぼとぼと駅へ向かい歩き出した。雨はすっかり止んでいたが、未だに土臭さが残っている。背の高い雑草がなぎ倒され道にはみ出す。泥が溝になだれ込んでおり、昨日水が溢れ出ていたことをうかがわせた。
「あっつう」
 湿度の高い空気が息苦しい。陽平が胸元のシャツをバサバサと扇げば着崩している制服がさらにだらしなく乱れる。横で歩く美陽は涼しげに今日もきっちりと制服を着こんでいる。
「ハルはいつでもちゃんとしてるな」
「ちゃんと?」
「頭いいし、大人やし、しっかりしてる。俺みたいにガサツじゃないし」
「どんだけほめるねん」
「ははっ。でもほんとにそう思うからさ。やっぱり俺はバカだから」
「そんなことはない」と美陽は思う。しかし陽平がそんな風に思ってくれているなら敢えて否定はしなかった。誇らしげに自分を見てくれている陽平の目が美陽をうぬぼれさせる。
 駅に着くとホームにはすでに人影が一つ立っていた。
久しぶりに見る顔に陽平が手をあげる。
「南やん!」
 南佳織(みなみ かおり)が二人に気付く。南は陽平たちと同じ小学校出身の同級生で小田地区に住んでいる。
「おはよう! って、あれ、陽平やん」
 南と美陽はいつもこの時間の電車を利用する。他にちらほらと学生やサラリーマンが乗り込むが、大概メンバーは決まっている。しかし学年が違ったり、遠くから車で駅まで来ていたりするのか、見覚えのある顔は他にはいない。
「いっつも後の電車やろ? めずらし」
「ほら、昨日雨酷かったやろ?」
「だから何」と南が首をかしげる。
「最近天気悪いと、ハル、しんどいやろ? やから途中まで一緒に」
 そうだったのかと驚いたのは美陽だった。たしかに中学二年生にあがった頃からだろうか、天気が荒れると美陽は体調を崩しがちだった。
「亀本駅からハルの友達乗って来るやろ? それまで」
 にっと陽平が笑顔を向ける。
「ほんま陽平は小さい時から美陽くんの世話焼きやなあ」
 感心したように呆れたように南が零す。
「美陽くんのお友達はみんな優等生なんやから、あんたみたいなんと一緒にいたらビビられるで」
「だーかーらー。ハルのダチが来る前にどっかいきますうー」
 陽平と南が冗談を言いながらふざけ合う。そういう付き合い方をしてこなかった美陽がポツンと二人の傍に立っていた。普段南と同じ電車に乗っても挨拶程度しか話さない。きっと南は陽平と話すのが楽しいのだと、そう考えると胸がチリっとするのを感じた。
 
 たった二両の電車が来るとドアの「開」ボタンを押す。乗り換えをする亀本駅までドアは手動で開ける。三人なら余裕で座れるほど空いている車内。横長の椅子に三人並んで座る。陽平を真ん中にして美陽と南が両サイドに腰掛ける。南が身を乗り出し、二人に話しかけた。
「そういえばさ、昨日の雨で。聞いた?」
「何を?」と陽平が返す。
「山下さん。あのおっちゃん昨日厳霊山(いかちやま)に入って雷に打たれたって。それで病院運ばれたんやって」
「あんな天気悪い日に? なんで厳霊山?」
 厳霊山は駅から見て北西に位置し、標高750mほどとさほど高くはない山。昔は山頂に寺院があったとも聞くが、陽平たちの興味をそそる話ではなかった。
「あそこほんまによく雷落ちるよなあ」
 南の口ぶりは疑問には思っているようだが、声のトーンから実際はあまり関心がないことは明らかだった。
「この前ほら、帰り道でハルと一緒に会った時元気やったから。心配やな」
 こちらは本当に心配しているといった表情の陽平。
「そうやな」と美陽が静かに返した。
 
 山下は一時的に意識を失っていたが、その後目を覚ましたと人伝いに聞いた。なぜあんなに天気の悪い日に厳霊山に行ったのか、誰も分からないとも聞いた。そしてなにより奇妙なのは、本人さえも覚えていないということだった。
 
「うわあ、今日も雨ひっど」
 陽平が朝家を出ようとすると、またもや強い雨が町を叩きつけていた。しかしまだ傘をさせば出歩ける程度。面倒くさいと思いながらも駅へと向かう。まくり上げたズボンの裾はぐちょぐちょに濡れ、スニーカーの中まで雨が浸っている。やっぱり休めばよかったと考えながら駅の待合室に入った。こんな大雨では誰も駅に来ているはずはないだろうと思っていたのに、待合室には人が一人座っている。項垂れた背中は具合が悪そうに見えた。
「ハル! どしたん。電車は?」
「あ、ヨウ。止まってて。ごめん、連絡すればよかったな」
 だるそうに上げた顔は明らかに青白い。
「マジか。この雨やったらギリ走ってると思ってんけど」
「なんで止まってるん?」と言いながら美陽の横に座る。すかさず美陽が陽平の体にもたれかかった。
「駅員おらんから分からん。山の方はもっとひどいんかもな」
 陽平が美陽の額に手を当てる。熱はないようだ。雨がひどい日に体調を崩す原因は分からない。病院へも行ったというが異常は見つからなかったらしい。きっと美陽が一番不安なはずだと陽平が心配げな目を向ける。
「大丈夫か? 家までおぶってくし、帰る?」
「いや、じっとしてたら良くなる、と思う」
 もしかしたら雨の中に出れば余計に悪化するかもしれない。雨が弱くなれば連れて帰ろうと考えながら美陽の頭を撫でた。美陽がもたれ掛かりやすいように体勢を変える。すると沼の泥濘に身を沈めるように美陽がどぷりと陽平に体を預けた。
「大丈夫大丈夫。ハルがよくなるまで一緒におるから。なんかあったら俺がなんとかするからな」
 陽平の言葉で美陽に纏いつき締め付けていたものが少しばかり軽くなったように感じる。美陽の表情が和らいだ。それを見て安心したのは陽平の方だった。
「ハル、俺がいたら大丈夫やから」
「うん」と小さく答えた美陽が目を閉じる。美陽が頼れるのは俺だけなのだと、しっかりと身体を支えてやる。外に目をやる。未だ雨が弱くなる様子はなかった。
 
 一時間、二時間と時間が過ぎる。陽平もうつらうつらとしてきた頃、突然駅舎の入り口を誰かが塞いだ。
「え! 陽平……と、美陽くん!?」
 南の明るい声が聞こえ、入り口を見る。そこに立っていた南の後ろには晴れわたった空が映っていた。
「え、あんたらなんで膝枕!?」
「南やん! 雨止んだんか。気付かんかった」
 元気に手を振る陽平よりも、南の目は違うものを捕えていた。そしてゾッとした。
 陽平の膝を枕に寝ていた美陽が薄目を開ける。薄く開いた瞼からのぞく視線と南の目が合う。この目だ。この目が南は苦手だった。まるで威嚇し敬遠するような。陽平に近づくものを遠ざけようとする目。縄張りに入った獲物を絡めとり、絞め殺そうとする蛇のような目。突き刺さった視線で動けずにいる南を陽平が不思議そうにする。
「どうした? 雨やんだし、電車動くかな?」
 何も知らないのは陽平だけ。今の美陽の目をたぶん陽平は知らない。ただ無邪気に明るい笑顔を南に向けていた。
「そう思って来てんけど」
 南がたじろぐ。むくりと起き上がった美陽にビクッと身体を跳ね上げた。
「ハル、もう大丈夫なん?」
「うん、ちょっと前から大丈夫やった」
「そっか。よかった」
 どうして陽平はそんなにピュアな笑顔を向けられるのかと南が困惑する。美陽の本性に気付いていないのか、それとも知っているのか。昔から二人の関係はこうだった。陽平が美陽の傍にいるのは危うい—そう感じる事があった。

 すこしばかり天気のいい日が続いたある土曜日の午後。陽平は美陽の家にいた。そして珍しくもう一人の客人を迎えていた。翔也がそわそわとローテーブルの前に正座して待つ。先日陽平がたまたま翔也の母親と遭遇した際に、翔也の子守を頼まれたのだ。今日は両親とも帰りが遅くなるらしく、二〇時まで預かってくれないか、とのことだった。慣れた様子でマンガを読みふけっている陽平の横で硬直したままの翔也。入る事が許されない禁域に踏み入ってしまったようで、翔也は緊張していた。ガチャリと音を立てて開いたドアに過剰に反応する。ドアにはお茶とお菓子を持った美陽が立っていた。
「そんなに緊張しなくても」
 そう言ってお盆をテーブルの上に置く。
「翔也、ケーキ好き?」
 思ったよりも親しげに話しかけられ、ようやく翔也の警戒心もゆるまる。
「好き好き! ケーキ好き!」
「ヨウ、お前には聞いてない」
 身を乗り出しアピールする陽平を美陽が制止する。翔也にもう一度優しい表情が向けられると、こくりと一度頷いた。
「じゃあ、宿題終わったら食べようか」
「よっしゃ! 早いとこ終わらせようぜ」となぜか陽平が張り切りだす。そんな陽平にため息をつく美陽を見ていると、なんだかいつもと変わらない二人の光景にだんだんと翔也の緊張もほぐれていった。
 三時のおやつにと美陽が持ってきたケーキがテーブルに並ぶ。今日のために美陽の母親が用意してくれていたものだった。真っ赤ないちごがまるごと乗ったショートケーキ。キラキラと艶めくパナージュをまとったフルーツタルト。こってりと濃厚なクリームに包まれたチョコレートケーキ。それらを前に翔也と陽平が目を輝かせる。
「どれにする? 翔也先に選び」
 大人ぶる陽平だが、明らかに目がチョコレートケーキにくぎ付けだった。
「お兄ちゃんたち、先に選んで」
 乗り出した身をひっこめた翔也に美陽が「いいのか?」と目で訴える。
「悩んでたら選べなくって。どれも美味しそうだから」
「じゃ、俺チョコレートケーキ」と真っ先に取り上げる陽平に「おい」と美陽が叱る。
「いいの、本当に。美陽くんも選んで」
 眉をひそめながら遠慮する翔也に、それじゃあと美陽がショートケーキを選んだ。陽平と翔也が美味しそうに頬張り出すと、美陽もショートケーキをひとくち口に運ぶ。ぱくぱくとリズムよく食べ進める陽平の口元にはチョコクリームが付いている。美陽がティッシュを渡しながら翔也を見遣った。翔也といえば、陽平と二人だと年相応にはしゃいでいるのにやはり今日は借りてきた猫のようだ。
「翔也、ちょっと交換せえへん?」
 そっと自分のショートケーキを差し出す。交換と言ったのは子供らしくない翔也への気遣いだった。翔也の頬がぽっと色づく。見事に美陽の配慮にノってくれた。
「じゃあ、ひとくち交換」
 翔也も自分の皿を差し出すと美陽のものと入れ替えた。
「え、俺は? 俺もほしい」
 陽平まで参入してくるものだから、美陽がしっしと追い払う。
「お前は自分の食べとけ」
 ちぇっと口を尖らせた陽平が最後に残った大きなひとかけを口に放り込み頬張った。そして何気ない調子で陽平が切り出す。
「そういやハル、大学は京都行きたい言うてたやん?」
「ん?」と美陽が首をかしげる。そんな事を陽平に話しただろうか。
「この前ハルのお母さんがこっち残るみたいって言ってて」
「なんやいきなり。別に先の話やし分からん」
 口に頬張ったチョコレートケーキを飲み込むとそのままお茶をぐいっと口に含む。ケーキを流し込むようにごくりと飲み込んだ。
「でも京都っていい大学いっぱいあるんやろ? 俺は勉強あかんけど、ハルならどこでも行けるやろし」
 煩わしそうに美陽が皿を片付ける。翔也は少し冷え付いてきた空気を感じたのか、自身の存在を薄くする。
「県外出んくても学校あるし」
「でもめっちゃ出たがってたやん。中学の時から大学なったらここから出るって」
「なに?」
 美陽の目が冷たく細められる。その瞬間陽平が慌てだす。
「いや、違って。もったいないなって。ハル頭いいんやから。諦めたらもったいないって思って」
「諦めるとかじゃない。ここにおってもええなって、最近思ってるだけ」
「でも、ほら、なんか理由あるんやったら言うてくれたら―」
「だから。しつこいって。俺に夢馳せるのやめろって」
 あっと開いた口のまま陽平がフリーズする。
「俺が大学行くとか、応援したいとか、有名なとこ行ったら自分の自慢になるんやろ?」
 胸の内を言い当てられたことより、美陽の目つきが変わった事に焦った。
「ごめんごめん。ハルの気持ち知りたくて聞いただけで。いや、実際図星。ごめん」
「怒らんとって」と陽平の目が縋る。その目を見た美陽が我に返る。
「いやだから、怒ってないから。言い過ぎた」
「ハルがここにおりたいなら、それがいいやん。うん、それがええよ」
 飼い主に媚びる犬のようだと翔也が思う。あんなに謝り倒す陽平を始めて見た。今まで想像も出来なかった姿だった。陽平に対する印象が変わったわけではないが、この二人の間にある何かが少し奇妙だと感じた。それが何かと言われれば、答えることはできなかった。
 美陽と陽平がケーキの皿や飲み干したジュースのコップを片して立ち上がる。「夕飯は? 三人で食べるんやろ?」と陽平が聞けば「今日は出前」と美陽が返す。いつもの空気に戻った二人が階段を下りていく。足音とともに二人の話声も小さくなっていった。