オニツキ

 二人で一匹の猫を拾った。あれは今と同じ梅雨に入る前の五月。気持ちのいい小春日和が続いていた。走り回る日などは半袖でも十分なほどに暖かい。小学一年生でこの地に転居してきた陽平(ようへい)美陽(みはる)も三年生になる頃にはお互いを親友と認識していた。転校した小学校は全校生徒合わせて百人ほど。家が遠い生徒だと30分ほど歩いて登校してくる。陽平と美陽が住んでいた青葉台からは一五分もかからない、比較的近い場所に小学校はあった。
しかし青葉台から登校する生徒は当時二人きり。転校生は珍しく、学校で二人は少し浮いた存在だった。その上美陽といえば東京の大きな小学校からの転校生で、標準語を話す唯一の生徒だった。それ故に陽平以上に同級生から壁を作られていた。言葉と無駄に品のいい出で立ちをいじられては陽平が庇ってやっていた。そうした理由もあり、美陽はいつも陽平の背中に付いて行動するようになっていた。
 その日も日中はよく晴れた空が綺麗だった。学校帰りに陽平と美陽が団地の空き地で遊んでいると人為的に置かれた段ボール箱を見つける。子供でもギリギリ抱えられるくらいの箱におそるおそる近づいた。最初は空っぽなのかと思ったが、上から覗き込むとそこには猫が一匹入れられていた。子猫ではない。何歳かは分からないがそこそこに大きくなった猫。陽平と美陽が顔を見合わせる。
「猫や! 捨てられとるんやろか?」
 今よりも強い方言を話す陽平が興味津々にしゃがみこみ覗き込む。
「そう、みたいだね。ヨウ、どうするの?」
「かわいそうや。飼えへんかな」
「それは無理だろう」と美陽が俯瞰的に考える。陽平の家が許してくれるわけはないと知っている。美陽の家も、きっとダメだろう。美陽は幼いながらにそういうところが冷静だった。
「俺、一回相談してくる。ハルもきいてみて」
 美陽の返事を待つこともなく陽平が家へと走り出す。仕方がないと美陽も走り去っていく陽平に背を向け、ゆっくり家へと歩き出した。もちろん、本当に親に聞くつもりなどなかった。それに今はまだ聞く人も家にいない。とぼとぼと帰りながら、家で陽平からの連絡を待てばいいやとぼんやり考えていた。
 家に帰り着き、一息つく間もなく電話が鳴り響いた。どうせもう一度出かける事になるのだろう。「早く出てよ」と急かすようなベル音に受話器を上げた。
「俺んとこ、あかんって」
 考えれば分かることなのに、陽平は希望を持ちたがる。美陽にはそんな陽平がいつも眩しくうつる。
「俺の家も。ダメだって」
 美陽の父親は引っ越してきてすぐに亡くなった。だから母親は他県まで働きに出ている。その方が給料がいいからだ。いつも帰ってくるのは夜の遅い時間だった。
 まだ帰ってきているはずもない親に聞いてみたかのように装った。
「なあ、もっかい猫んとこ来て」
 やはり美陽の予想通りの展開になった。
「うん、分かった」と伝えて電話を切る。さっき脱いだ靴を履きなおす。急ぐことなくゆっくりとさきほどの場所へと向かう。急いできたのかもう待ち合わせ場所に陽平の姿があった。
「なあハル」
 言いにくそうに、しょぼくれた顔で美陽を見る。そんな顔を見せるのは美陽にだけだと自負があった。その顔を他人に譲りたくはなかった。だからこそ美陽はなんだっていう事を聞く。陽平の望むことをしてやった。
「二人で飼わへん? 秘密で」
「小学生二人だけで生き物を飼うなんて難しい」と頭ではわかっている。なのにこの時の美陽は陽平が自分を頼ってくれていることが嬉しかった。二人だけの秘密が持てるなんて至極だった。
「いいよ。そうしよ」
 陽平の顔がぱっと明るくなる。いそいそと箱を抱えると美陽に向き直る。
「どうしよ。どっか見つからんとこに置いてやらんと」
「それじゃあ、あそこは?」
 美陽が指をさしたのは団地にある小さな山だった。下から頂上まで階段が続いているが、人がのぼっているところなど見たことがなかった。ただ二人は探検と称してなんども山に登っては遊んでいた。
「ええやん。いっちゃん上に小さい神社みたいなんあったやろ?」
「祠ね」
「そう、ホコラ。そこやったら屋根もあるし」
 二人の秘密基地になっているようなその場所に、猫を隠した。明日はご飯を持ってきてあげようなどと陽平が楽しそうにする。夕焼けが空に伸び始めて来た頃、その日は解散となった。しかし夜になるにつれワクワクとした心を分厚い雲が覆っていった。
 あれだけ穏やかだった天気は急転し、外は土砂降り。激しい稲光を伴う雷雨となった。このあたりでは都会で感じたこともないほどの大きな雷鳴が轟く。近くの山に落ちればめりめりと木が裂け、根が千切れる音が生々しく空に響く。陽平は窓に張り付きながら猫の事を思い出した。
「大丈夫やろか」
 母親に外に出たいと申し出たがものすごい剣幕で却下された。雨が打ち付ける窓に鼻をぴたりとくっつける。閃光が陽平の顔に走り顔面に濃い影を落とす。どかんと地面が抉られたような大きな音が家をビリビリと震わせた。そんな音に構っていられないほど陽平は心配事で頭がいっぱいになっていた。
「ハル、怖がってへんかな」
 夜の電話は親に禁止されている。明日は朝一で美陽の元へ行こうと決めると、窓の傍を離れた。
 
 翌朝、目覚めたと同時に美陽の家に電話をかけた。しかし電話には誰も出ない。急いで外へ駆け出し美陽の家へと向かう。チャイムを鳴らしたが、こちらも応答がなかった。おかしいと思ったが仕方がない。もう一つの心配事へと走り出す。小山を登り祠へと向かった。
 今になって思えば不思議だが、小山の祠は階段に背を向け建っている。祠の正面側には探検隊しか使うことのない獣道がふもとへと続く。祠などは普通であれば人が往来する階段側に正面を向け、訪れる人を迎えていそうなものなのに。
 祠の正面に回り込むと昨日置いていった段ボール箱を見つけた。一安心するとその中を覗き込む。その瞬間、陽平が言葉を失くした。目を見開きひゅっと息を吸う。一歩、後ろへのけぞる。段ボール箱から逸らした目を再びそちらへ向ける事が出来なかった。一歩二歩後ずさり呼吸を整える。どうしてか美陽の存在を探してしまう。こんな時、いつもなら美陽の手を握ってやるのに。
いや、握りたいのはいつでも陽平の方だった。
 一度心を落ち着かせ箱の中をゆっくりとのぞきこむ。やはりそこには猫がいた。四肢をぴんと張り、硬直した猫が。
死んでいる。
何かの死に直面したのは初めてだった。よほど心に衝撃を受けたのだろうか。猫がどんな顔をしていたのか思い出せない。苦しそうだったような、何かに驚いたような、そんな顔だっただろうか。魂を吸い取られるとはこういうことだと感じた。段ボール箱に触れることも出来ず山を走って下る。ぬかるんだ土に一度足を滑らせ転びそうになる。それでも足を止めず走り続けた。登校前の早い時間は団地内に人の姿など見当たらない。一目散に戻った家で母親に今あった事実を伝えた。「かわいそうだったわね」と言った母はどれほど同情してくれていたのだろう。
「地区会長さんに言っておくから、陽平は学校へ行きなさい」
「お墓、立ててあげるん?」
 その質問への返答はなく、「ちゃんと供養してもらうから」と、それだけ言い残して母親はキッチンへと入っていってしまった。陽平もその言葉を信じるしかなく、それ以上の追及は諦めた。
「うん」
 母親には聞こえないほどの小さな声で頷く。後ろめたさを感じたまま学校へ行く。その日、美陽は学校を休んでいた。
 
 不安な気持ちのまま一日を過ごした陽平が放課後に向かったのはやはり美陽の家だった。体調が悪いのだろうか。家族に何かあったのだろうか—それとも自分が何かしてしまったのだろうか。あらぬ想像をしてしまう。緊張しながらもう一度チャイムを鳴らした。
 出て来なければ先生から預かったプリントと共に手紙を置いていこうと考えていた。しかし今度は玄関のドアがゆっくりと開いた。
「ハル!」
 具合が悪そうな美陽が顔をのぞかせる。
「大丈夫か! 風邪、ひいたん?」
 大きな声で呼びかけるとげっそりとした美陽に駆け寄る。陽平の顔を見た美陽がほっと安心したように見えた。
「ちょっと体調悪くて。母さん、昨日は帰って来なくて」
 美陽の母親が仕事で家を空けることはままあった。そういう時は陽平の家に来たらいいと言っているのに、たまに美陽は我慢をする。
「一人は危ないって、うちのお母さんも言ってた。遠慮すんなや」
 悲しそうな顔をすると、それを美陽が愛おしそうにする。
「ハルは寝とき。俺がおったるから」
 美陽の手を引くと、ずかずかと他人の家へと入っていく。二階に上がり、慣れた様子で一つの部屋へと陽平が向かう。美陽を部屋のベッドに寝かしつける。シーツやカーテンも男の子の趣味にしては可愛らしい美陽の部屋。母親の趣味だろうか。この部屋に入ると美陽の存在を直に感じる。陽平はこの部屋の空気が好きだった。
 美陽が大人しく布団にもぐりこむ。しばらくもぞもぞと動いていたが、やがて静かになった。片時も離れまいと言わんばかりに陽平がベッドの脇に座り込む。布団からひょこっと覗いた目元が陽平を見つめている。
その視線に気づくと陽平がニカっと笑った。
「昨日、怖かったやろ」
 怖くなくても美陽は「うん」と頷く。布団になど入っていなくてもいいのに横になりくるまっている。そうすれば陽平は心配してくれる。
「あんな、ハル。昨日の猫やけどな―」
「ヨウ!」
 突然大きな声で言葉を遮られる。驚いた陽平の手首を美陽が強く掴んでいた。
「ど、どうしたん。急におっきな声」
「ごめん、ヨウ。その話、したくなくて」
「え、あ、そうなん。ごめん」
 美陽の元にも話が入ってきたのだろうか。猫が死んだこと。どこかで供養されたこと。知らないのなら美陽が話を避ける理由がない。気になったのは確かだが、さらに悪くなった美陽の顔色にこの話はもうしないでおこうと陽平は話をそらした。
それから美陽がその日の事を聞いてくることはなかった。そして陽平も猫を飼おうなどと提案した罪悪感から、その話を当分することはなかった。
 しかしその時感じた恐怖や不安や後ろめたさは色褪せていく。思い出したように陽平が猫の話をするようになった。そしてその度に美陽が苦しそうに話を遮った。
「ごめん。俺バカだから、すぐに考えてる事口に出しちゃって」
 そう言うと決まって美陽は「気にしてない。大丈夫。陽平は悪くない」と優しく返す。だからだろうか、定期的に陽平は猫の事を思い出しては口を滑らせた。

 そしてどういうわけか、美陽の家から帰った後、陽平は母親にこっぴどく叱られた。「猫の死骸なんてなかった。地区会長さんをお連れしたのに、大恥をかいた」。そう怒鳴られた。どうして猫がいなかったのかという事よりも、怒る母親が怖かった。そのせいで、ずっと今まで忘れていた。

 ジャングルジムの上で高校生になった陽平が当時の事を思い出す。さきほど美陽に怒られた手前、さすがに意識して口を噤む。きっと美陽にとってのトラウマなのだ。美陽を見ては、すぐに視線をそらす。そんな陽平に気付いた美陽が怪訝そうに眉をひそめる。陽平がごまかすように笑顔を作った。
「なんかいらんこと考えてるんやろ」
 美陽の言葉に方言が混じり出したのはこの地に慣れたからではない。ちょうど猫の事があった頃からだろうか。からかわれていた標準語をなるべく話さないようにしていたのは知っていた。陽平は美陽の言葉が好きだった。美陽の放つ言葉は今いる環境から違う世界へ誘ってくれるような言葉。それを守れなかったのは、自分だ。自分の力不足だったと、今でも悔やむ事があった。
「ハルものぼってきてや」
 手を差しだすも「汚れるから嫌」と拒否されてしまう。元からクールな性格であったが、最近やけにそっけないことがある。そもそもジャングルジムにのぼって遊ぶなんて美陽のノリとは違う。諦めた陽平はこの時、美陽の態度を深く受け止めることはなかった。
 公園に着いてから、気づけば一時間ほど経っていた。ただ駄弁っているだけの時間が過ぎる。そのほとんどは陽平がケラケラと笑いながらたわいもない話をしゃべり続ける。たまに口元を緩ませながら美陽が陽平の話を聞いていた。昔と変わらない二人の時間が続いていた。
空に青と朱色のグラデーションが出来始めた頃だった。
「陽平くん!」
 そう叫び駆けて来たのは青葉台に住む少年、日比野翔也(ひびの しょうや)だった。翔也は今年小学三年生になる。陽平たちと同じく小学一年の時にこの地へ越してきた。今青葉台にいる小学生は二人。もう一人は六年生だったはずだが接することはほとんどない。懐いて来たのは翔也だけだった。
「おお、翔也。宿題終わったか?」
 ジャングルジムの下まで走ってきた翔也に陽平が笑顔を向ける。
「まーだ! お母さんみたいなこと言わないでよ」
 膨れっ面になる翔也を陽平が面白がる。翔也はジャングルジムに寄りかかっている美陽にぺこりと頭を下げた。陽平ほどには親しむことはない。だからと言って嫌いだとか苦手だとか、そういう感情もない。ただ、翔也は美陽では少しだけ背伸びをする。陽平に向ける感情とは、少し違っていた。
「翔也、鬼ごっこ!」
 陽平が開戦の合図をすると翔也がジャングルジムを一気にのぼりだす。翔也の手が触れそうになるギリギリの所で陽平が反対側へ移動し、側面、てっぺんと逃げ回る。ついにはジャングルジムから離れ公園内へ走りだす。必死に追いかける翔也とほどほどの距離を空け陽平が逃げる。その内わざと捕まえられると翔也を地面へと引きずり倒し転がす。ケタケタと笑いながらじゃれ合う二人を美陽が眺める。抱きついた翔也を陽平が抱っこし持ち上げたところで、美陽のつま先が足元の砂をじゃりっと搔いた。陽平の背中越しに翔也がこちらを見ている。これは子供同士のじゃれ合い。美陽との境界線を確かにし、陽平を独り占めしている優越感を誇示する顔だった。明らかにお互いがお互いを意識している。だからといって美陽が態度、表情を変える事はない。
 元より、美陽に張り合う気などさらさらない。
「ヨウ、そろそろ帰る」
 先ほどまで翔也に向けていた笑顔が美陽へと向けられる。そう、美陽にはこの一言だけでよかった。
「マジで? ハルん家で宿題していい?」
 抱えていた翔也を地面に下ろす。
もう陽平の瞳は美陽しか見ていなかった。
「じゃあな、翔也。あんま遅くまで遊んでんなよ。宿題ちゃんとやれよ」
 変わらない笑顔を向けると美陽の元へと駆けていく。先ほどまで全身で感じていた陽平の体温だけが翔也に残った。美陽が翔也に優しく笑む。品よく丁寧に優しく手を振り別れを伝えた。
 翔也は何も言わない。期待もしない。最初から二人の間に入る余地などない事など知っている。
帰っていくときはいつも二人。一緒に勉強するか? なんて翔也を誘ってくれたことは一度だってなかった。