オニツキ

 朝日が顔を出すころ、みるみると雲が退き、厳霊山へと薄明光線が空から伸びた。放射状にのびた光は町にも明かりをもたらす。青々と茂り、穂をつけ始めた田んぼ。大きな水たまりをあちこちに残した畦道。濁流が溢れだした水路。葉や枝が張り付いた家々の屋根。ひっくり返った鉢たち。折れた木々。泥まみれになった道路。全てのものを照らしていく。
 カーテンから漏れ入る光を、眠い目をこすりながら陽平が見上げた。
 コンコンと美陽の部屋のドアがノックされる。
「ヨウくん、美陽、起きてるの?」
 母親の声に美陽がのそりと立ち上がりドアを開ける。
「え、あなたたちずっと起きてたの!?」
 へろへろになった二人の姿を見た母親が呆れている。
「いや、えーと、ずっとゲームしてて」
 頭を搔きながら陽平が言い訳をする。もちろんゲームなどする心の余裕などなかったのだが。
「電車も道路も昨日の雨で封鎖ですって。点検作業で今日一日は動かないみたいよ」
「わー、今日が月曜なら学校サボれたのにー」
 元気良く声をあげる陽平に、どうしようもない奴だなと美陽の視線が言っている。そんな二人を見て母親はふふっと笑った。
「交通機関以外の被害も大きそうよ。厳霊山は山崩れの危険があるって、未だに避難指示は解除されてないって」
 青葉台は厳霊山から数キロ離れているため山からの被害はない。ただ避難を余儀なくされ、気が気でない同級生たちもいるだろう。
 晴れたということは蘆屋たちは上手くやったのだろうか。それとも予想だにしない事態になっているのだろうか。蘆屋からも墨馬からも連絡は入っていない。
「ヨウ、行こう」
 美陽が陽平を連れて部屋から出ようとすると、母親がそれを制した。
「こんな早くどこに出かけるの!? 外はまだ危ないわよ」
「おばさん、ちょっと散歩。危険なところには近づかないから。徹夜しちゃったから外の空気吸いたくて」
 陽平がおどけてみせたが母親の顔は渋っている。
「ダメよ」
「母さん、ちょっとだけだって」
 二人に背を向けて廊下を歩いていく。
「朝ごはんを食べてからにしなさい。せっかく作ったんだから」
 ぷりぷりと怒りながら階段を下りていく母親に陽平と美陽が顔を見合わせる。
ニっと陽平が笑うと、美陽も眉をひそめて笑い返した。
 
 散歩という名目で二人が外へ出る。むわっとした空気はまるで水中にいるかのように息苦しい。それでも不思議と嫌な予感はしなかった。
 積祈神社へ向かう足が心なしか急く。あれだけの強大な力をもたらすとは、どれほどの負担が墨馬にかかるのだろう。鬼を完全に目覚めさせて無事でいられるものなのだろうか。蘆屋といえども、抑えることが出来るのだろうか。きっとそれは当の本人たちにも予想不可能だっただろう。
 坂を下り積祈神社に到着する。いつも綺麗に掃き清められている境内は物が散乱し、玉砂利は流れ込んだ泥にまみれ、殺伐としていた。拝殿への階段も枝葉と土で汚れ、一段一段足をかける度じゃりじゃりと音を立てた。
 拝殿が見えてくると、建物内に人影を見つけた。
 賽銭箱にもたれ掛かり、罰当たりともいえる体勢で項垂れている。ただ、今はねぎらいの言葉を掛けれど、罰当たりなどとは言う事はできない。
「蘆屋ー、大丈夫かー」
 陽平の問いかけに初めて蘆屋の体が反応する。いつもなら人の気配を繊細にキャッチするような男なのに、周りを気にするだけの集中力も途切れているのだろう。
「来んのめっちゃ早いやん」
 おもむろにこちらに向き直った蘆屋の姿に二人が固まる。
「ちょ、蘆屋どしたんその恰好!」
 ボタンの取れたシャツに微かに滲む血。素肌にみえる引っかき傷やみみず腫れ。いつもアンニュイな雰囲気を醸し出す髪は乱れたまま直す気もなさそうだった。色男の顔に傷がなかったのが唯一の救いだったのかもしれない。
「ただの痴話喧嘩や。気にせんでええよ」
 軽口を叩く声にも元気がなく、満身創痍とはこのことかと思わずにはいられない。
「うまくいった、と思っていいん?」
 美陽が恐る恐る問う。蘆屋がちょいちょいと人差し指を動かし上がって来いと示す。
「いったいった。問題ない」
 拝殿内に入るなど本当に良いのかと戸惑う。すごすごと靴を脱ぎ屋内に上がると、綺麗に張られた木の床に正座した。
「楽にしたらええよ。神社っていってもほとんど見せかけや」
「そうなん」とすぐに陽平が足を崩す。蘆屋は賽銭箱に身を預けたまま、やはり気だるげだった。その体勢のまま陽平たちに顔を向ける。
「体の調子は? 怠いとか。そわそわするとか、疼いたりとか、ない?」
 美陽に問う蘆屋の声は今まで聞いたことがないくらい柔らかい。その声に、美陽は思わず目を見開く。
「いや、大丈夫。むしろ体はちょっと軽くなった」
「そう」と言い、蘆屋が這いながら美陽に近づく。美陽の頬に手を当てると瞳の中をじっと覗き込んだ。そして尻を着きどさっと座り込む。
「うん、ほんまに大丈夫そうやわ」
「そっちはどうなん? 昨日の雨は一体何があったん」
「あー、それは―」
 蘆屋が話しかけた時、拝殿の奥から墨馬が姿を現した。蘆屋同様、ボロボロのいで立ちを見ると再び陽平たちが唖然とする。
「あれ、香住。もう起きたん?」
 蘆屋と墨馬を見比べ、一体何があったのかと陽平たちが目を瞬かせる。
「ごめんね、こんな格好で」
 墨馬が陽平たちの傍に座る。「いえ」と陽平が首を振った。蘆屋が手渡した水を墨馬が受け取るとごくごくっと飲み込む。はあと息をつくと苦々しく笑った。
「牟婁島の事やろ? まだ昨日の今日やし、なんの噂もたってないけど。今日中には見つかるやろ。責任感の強い文化・自然省自然現象研究庁の局長さんが調査の為に入った山中で滑落した。とかなんとか」
「それで、牟婁島は……」
 美陽の言葉を遮るように、蘆屋がひらひらと手を振った。
「それはウワサで聞いたらええよ。今君らが聞くことじゃない」
 他人事のように語る蘆屋だったが、今なら分かる。蘆屋が背負おうとしていることが。それも、陽平と美陽を巻き込まずに。墨馬の目元には暗い影が落ちていた。
「鬼による事故」
 それは陽平にとっては今回だけのことではなかった。山下の事、翔也の事、南の事。それらは誰のせいでもなく、鬼のせいだとしてきた。だから今回も考え方は変わらない。まだ心配が拭えていない様子の美陽が口を開く。
「それは、間違いない、でいいんですか?」
 墨馬が手のひらを見つめ、「間違いない」と言う。
「これで陰謀みたいな、そういうのはなくなるんですか。また新しい何か……」
「牟婁島の後任には蘆屋のお父様を推薦しようと思っていてね。元々蘆屋家は政府と近い家系であったし、オニモチの中でも局内でも支持する声が大きくてね。牟婁島が私利私欲のためにオニモチを使役していたことに反発してた家は多いから」
 初めて聞いた墨馬の話に蘆屋が驚く。しかし「いいかな?」と墨馬に問われれば、大人しく頷いた。また自分の知らない大人たちの世界で事が進んでいたことを面白くなさそうにしている。
「美陽君の今後についてはまたちゃんと話そう。加持もしなきゃだし。でも一先ずは安心して。このことは二人には関係のない事だから」
 体が辛いのか墨馬が顔をしかめると蘆屋が腕を差し出す。
「ごめんやで。もうちょい休ましてもらうわ」
 墨馬を抱えながら立ち上がった蘆屋の足元もふらついている。合わせるように急いで陽平たちも立ち上がった。陽平が手を貸そうとしたが、蘆屋が大丈夫だと制した。
「墨馬さんと蘆屋は、ほんとに大丈夫?」
 体のことだけじゃない。起こしてしまった事やこれから起こすことに問題はないのかが気にかかった。
「だーいじょうぶやって。今までと何も変わらん」
 そう言う二人が背負ったものの重さは、どれだけ時が経とうと変わらないのだろう。巻き込んだ墨馬は罪だと思う。陽平が墨馬を見る。蘆屋に抱えられている墨馬は、あの時の自分と同じ目をしてはいないだろうか。鬼に引きずり込まれていく美陽を見ていた、あの時の自分と。
 ―やっぱり貴方は俺と同じです。
「じゃあ、俺らもいったん帰るわ。蘆屋の顔みたらなんか眠くなってきた」
 いそいそと靴を履く陽平の背中に「は!?」と蘆屋の悪態が吐き飛ばされる。
「行こう、ハル」
 陽平の手を取る前に美陽がもう一度墨馬に向き直る。美陽に向けて墨馬がにこりと笑う。何も伝えることはないまま、美陽が丁寧に頭を下げた。
「じゃーなー、蘆屋ー」
 元気よく手を振る陽平をぶすっとした態度のまま蘆屋が見送る。最後に手を引っ張られながら美陽が振り返った。
「蘆屋! ありがとう」
 美陽の口から出た言葉に蘆屋があんぐりと口を開ける。言っちゃ悪いが、美陽から世辞以外の礼を聞けるとは思ってはいなかった。しかしさっきの言葉は確かに美陽の本音だった。驚いたままの蘆屋の横顔にふふっと墨馬が笑いを零す。
「累、ごめんね」
「はあ? いまさら?」
 後悔をしているわけではない。この事はずっとずっと前から計画し、決めていた。蘆屋を巻き込むことも、決めていた。
「ねえ、累。僕が死んだらここに祀ってね」
 二人の前に祭壇がどっしりと鎮座している。その奥にはよく知る本殿の扉、そしてその中の護摩壇が容易に想像できる。
 墨馬の言葉に驚く様子はなく、蘆屋が祭壇を見つめる。
「そしたらきっと、この町ももう少し大人しくなると思うから」
「俺に託すこと前提?」
 ぶっきらぼうな言葉は憂いを帯びつつ優しい。当たり前だと言いたげに、墨馬が答えないまま黙っている。
「ええよ。香住より俺はずっと若いし。長く生きるやろ」
「ちょっとお。一緒に歳はとっていくんだからね。だいたい、累は八つも下のくせに生意気だよね!」
 ぷんすかと怒る墨馬を抱き上げると強引に拝殿から連れ出す。
「なにそれ、いまさら?」
 怒る墨馬を楽しそうにしながら蘆屋が社務所へと向かった。さわさわと風が吹けば葉叢から水滴が降り注ぐ。二人で浴びるそれは気持ちよく、少しだけ、ほんの少しだけ不浄を洗い流してくれているように感じた。

くわっと陽平が大きなあくびをする。暢気なものだと美陽が呆れた眼差しを向ける。
「よう分からんけどさ。牟婁島って人は、蘆屋や墨馬さんにとって仇やったんやんね?」
 陽平が後ろ歩きしながら坂道を上る。視線の先にあるのは厳霊山だった。
「そうだとしても、まさかこんな事態になるなんて」
 くるっと向きを変えると前向きに歩き出した陽平が美陽と肩を並べた。
「俺は加担してまうやろなー」
「え?」と美陽が聞き返す。ちらっと横目に美陽を見てすぐに視線をはずす。
「もしハルがおんなじことしても、俺はハルの傍にいるやろなーって」
 美陽から咎める言葉は出てこない。なぜなら「陽平ならそうするだろう」なんて、当たり前に知っているからだ。
 坂を上り切り青葉台への階段を上がる。小山を横目に通り過ぎようとしたところで、バシャバシャと水を含んだ足音が近づいて来た。
「陽平くん!」
 小山から翔也が駆け降りてくる。麓に降りるとそのまま陽平の体へダイブしてきた。
「おお! 翔也! 何してたん」
「探検!」
 陽平に抱きついたまま翔也が顔をあげ、陽平の顔を見上げる。陽平と美陽が顔を見合わせた。
「翔也、上でなんかした?」
「うん」と大きな声で返事する。
「おばあさんが掃除してたから、手伝った」
「足立さんか」と二人が視線で確認する。陽平が翔也に目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「翔也、この山の上ってお化け出るん知ってた?」
 ふるふると翔也が首を振る。
「そのおばあさんに聞いてん。むかーし昔、この山にのぼって遊んでた子どもが祟りにあったんやって」
 自分の事を昔話にされた美陽が笑いを漏らす。
「嘘やあ。そんな話聞いたことない。陽平くんの作り話やろ」
 翔也が美陽に同意を求める。しかし美陽は真剣な顔を翔也に向けていた。
「本当らしいで。俺も遊び半分で登って親に怒られた」
 翔也にとって美陽の口から冗談が出るなどは考えられなかった。それ故に美陽の言葉にぶるっと身を震わせる。
「だから安易に登らない事!」
「分かった」と翔也が敬礼をして答える。「よし!」と陽平が敬礼をし返した。
「陽平くん、また遊ぼ」
 そう言うと大きく手を振り翔也が走り去っていく。翔也の姿が小さくなると二人はまた歩き出した。陽平が何か言いたげにそわそわとしている。
「翔也をとって食おうなんて思わんて。ただ、いい気がしないのは変わらない」
 ようやく聞けた美陽の本音に陽平の口元がゆるむ。
「それがハルの本心なら、嬉しい」
「嬉しい? どうしたらそう思えるねん」
 家に帰ってくると美陽の部屋に直行する。母親が昼ご飯の準備をしているらしく、おいしそうな匂いは玄関まで漂ってきていた。
 陽平がぽーんと体をベッドに投げる。
「ハルー。ちょっと寝よう。さすがに眠い」
「おい、俺のベッド。お前ほんとに悠長やな」
 ごろっと陽平が横向きになると、美陽がベッドに腰を下ろした。
「なあ、ハル。俺はハルに何があっても、何をしても、ずっと傍におるよ」
 ベッドについた美陽の手を撫でるとそのままギュッと握る。
「もし俺を見捨てたら、お前を祟って呪うかもしれんで?」
「逃げるなら今のうちか?」
 寝転がる陽平に美陽が覆いかぶさるように手をついた。
 陽平が見上げた美陽は初めて出会った時と同じように綺麗だった。
 熱い視線を楽しむように美陽の口角が上がる。
 その唇からのぞいた犬歯につうっと唾(つばき)が糸を引く。
 細めた瞳は、目の前のものを欲するようにいやらしく光る。
「……ハル?」
 陽平の声に美陽がふっと笑う。
「じょーだん」