墨馬が玄関まで三人を見送る。「すっかり暗くなっちゃったね」と墨馬が言う。
「ご飯食べてってくれていいのに」
「いえ、まだ人と食べるのは怖いので」
美陽がぺこりと頭を下げる。
「そういえば、やっぱり俺がハルと飯食っても平気なのって……」
「鬼について確かなことなんて分からないけど、やっぱり心は残っているんだと思うよ。元の人の、心がね」
「そっか」と短く返した陽平は、その答えで納得が出来たようだった。蘆屋は興味なさそうに明後日の方を向いている。
「行こ、ハル」
左手を差し出せば、美陽が迷いなく右手を伸ばす。その手を取り歩き出す。
「陽平君」
階段の上から墨馬が呼び止める。陽平につられて美陽も振り返った。
「心配しなくても美陽君はちゃんと君のことを必要としてると思うよ」
首を傾げたまま美陽が陽平を見る。下から煽った陽平の顎のラインはこんなにも雄々しかっただろうか。その顔が携えた瞳は力強くまっすぐに墨馬を捕えている。
「知ってます」
それだけ答えると再び前を向き美陽の手を引いた。「なんのこと」と問う美陽に曖昧な返事をする。マウント取られちゃったなと墨馬が苦笑した。
二人の背中が小さくなって、ようやく蘆屋も階段に足を掛けた。
「累」
今度は蘆屋を呼び止める声が聞こえる。こちらは呼び止められる事が分かっていたように頭を搔きながら墨馬に向き直る。
「嫌やなあ。なんか嫌な予感するわ」
片目を薄く瞑り、もう片方の目で墨馬を見る。墨馬は柔らかい表情のまま蘆屋を見ている。
「美陽君の加持をする前に、一つだけお願い」
「なあ香住。美陽くんの加持すんのはええねん。でもあんな香住の姿を誰かに見られんのはめっちゃ嫌」
ぱちくりと墨馬の目が瞬いている。
「お前がどんな格好になろうが、何になろうが、何を犯そうが、それは俺だけが知ってたらええ。そうやろ?」
本当に甘えん坊で独占欲の強い子どものようだ。思わずふふっと墨馬が吹きだす。
「累は、可愛いね」
「は!?」とつい大声をあげる。骨格もしっかりし筋肉もついた。身長も墨馬を越した。声も低くなった。話についていけるよう勉強もした。なのにまだ墨馬は肩を並べてくれないのかと悔しくなる。
「明日は、俺もずっと傍におるからな」
「泊っていく?」と何の気なしに聞けば、蘆屋の眉間に深いしわが寄り不機嫌になる。
「アホか。こっちは明日の準備があんねん。帰っていろいろ支度する」
「じゃあ、頼んだよ」と笑う顔はふやけたように柔らかく、まるでふわふわの綿帽子のよう。こんな人が鬼だなんて、蘆屋でさえも信じられないと思う。「じゃあ」とそっけなく手をあげると背を向け階段を下っていく。
ふうと息を吐いた墨馬の瞳には、慈悲と無情が入り交じっていた。
美陽は手を握られたまま、陽平の半歩後ろを歩く。手のひら全体で陽平の体温を感じる。陽平の柔らかいものがぴたりと美陽に張り付いていた。少し汗ばんで湿った皮膚の吸い付くような感触を感じる。それは守ってやるとか、離れたくないとか、そんな生ぬるい感触ではない。
―離してはやらない。
そんな意思が伝わってきた。
美陽がじっと握られた手を見つめて歩く。
「明日ハルのおばさんは?」
「休みやから家にいる」
「よかった」
それだけを陽平が返す。
「なんでヨウが緊張してんねん」
陽平の手に力が入る。
―可哀そうなヨウ。人を疑うなんて不得手なくせに。蘆屋を必死に疑って、それでも疑った先にハッピーエンドを望んでいたのだろうに。
可哀そうなヨウ。疑いたくないと心が言い、疑えと頭が言う。俺のために自分を裏切ろうと葛藤する。
可哀そうなヨウ、愛おしいと思う俺のために。
「ヨウ、ありがとう」
「ん? 何が?」
「……別に」
二人の間に流れる空気は穏やかだった。そしてそれは嵐の前の静寂だった。
次の日は朝から降り始めた雨に外はどんよりした空気に包まれる。
次第に激しくなっていく雨は昼を過ぎる頃には危険を伴うまでになっていった。厳霊山の麓には緊急避難が警告され、早々に避難場所への移動が始まっていた。
本物の鬼の力とはこれほどなのか。
これでは鬼の所業などではなく、神の逆鱗ではないか。
美陽の部屋に閉じこもる二人が身を寄せ合う。激しい雨に渦巻く風。窓の外は空から滝が落ちてきているのかと思うほどの水量で視界が閉ざされる。合わせて数秒ごとに突き刺す閃光と轟く霹靂が尋常ではない。恐怖を煽るほどの地響きが壁と天井を震わせる。びりびりと窓が鳴る。メリメリと空間を走り伝わる音は木が裂かれ根が引き千切れる音。厳霊山を数多の落雷が襲う。
陽平がぎゅっと美陽を抱いたまま離さない。大丈夫だと言っているのに、不安で不安で仕方がないのだろう。チカチカと電気が点滅するとふっと明かりが消えた。どこかの電線に雷が落ちたのだろうか。
「美陽! 停電かしら?」
一階から母親の呼ぶ声が聞こえる。数秒するとパッと再び明かりが点く。
「大丈夫みたい」
美陽が声を張って返事すると母親も安心したのかリビングへと戻っていった。
さきほどから陽平は言葉を発さない。あんなにお喋りな人物が静かだと調子が狂う。
「ヨウ、なんか喋れって」
巻き付く腕をぽんぽんと叩く。
「お前ってこんな怖がりやったんか」
鋭く差し込む白光が部屋に窓枠の影を映す。ゴロゴロとまた雲が唸り出す。部屋のテレビから聞こえてくるニュースは、やはりこの地の異常気象の事など一切触れることはない。しかしSNSには、ここへ向かう電車、道路、すべての交通網が封鎖されている事実を伝えていた。何かの力が働いた素早い対処だ。
美陽が携帯の画面をオフにする。
「俺さ、やっぱり県外の大学行こうかな」
久しぶりに陽平が顔をあげる。思ったよりも情けない顔をしていた。
「なあヨウ、俺が遠くに行ったらどうする? ここを出て違う場所に住むねん。すぐには会えへんくなって、お互い忙しくなったらだんだんと忘れていく。今日のことも、その前のことも」
情けない顔だと思っていたが、そうではなかった。陽平の垂れた眉は「意味が分からない」と伝えている。
「はあ? ハルが県外に出るとして、違う場所に住むとして、なんで俺らが離れるん。俺はずっとハルと一緒におるつもりなんやけど。ハルには俺が必要やろ?」
頭でも打ったんかとでも言いたげな顔に、思わず美陽が吹き出した。
「せやな。そうやんな、ヨウは」
「でもよかった。やっぱりなんか理由あって諦めてたんやろ。おばさんのこと? お金? それなら大丈夫やで。俺が働くし」
「いやお前は進学せんの?」
「ハルー、俺の勉強嫌いなんで知らんねん。いや、勉強が心底嫌いってわけじゃないけど。うちは金ないし、仕事していろいろ学びたい。それより、早く家を出たい」
以前美陽が県外へ出る事を辞めたと伝えた時、焦りだした本当の理由をようやく聞くことができた。
「お前はほんとに、俺がおらなダメやな」
美陽が陽平に体を預ける。
―ヨウは、俺が必要としていると実感して初めて安心する。分かってて利用してるんは俺か。
「でも俺はこれからも鬼と共に生きていかなあかんみたいやし、もう普通の人として生きるんは無理かもしれんで?」
「それは俺が離れる理由か? 加持とか体調とか、いろいろ気にすることは増えるけど、それは俺の理由にもならん」
陽平にもたれる美陽の体に一つだけ変化があった。今まで感じていた血が騒ぐようなざわつきがなくなった。そわそわと体が悦ぶのを感じない。その代わり、とても静かで暖かな安心感が体の中を流れているようだった。
その頃、積木神社では—穏やかでない状況が蘆屋たちを襲っていた。
積祈神社の本殿の中。護摩釜から轟轟と立ち上がる火が部屋中の空気を焼く。部屋の中でガラガラと何かが崩れ落ちる音が盛大に響いた。
暴れ出し部屋の外へ這い出ようとする墨馬の襟首を蘆屋が掴み、引き倒す。うつぶせに倒れた墨馬の体を抑え込むが、凄まじい力で振りほどかれる。剝きだした爪が蘆屋を襲う。襲い来る手首を掴むと力任せに床へと押し付ける。息を切らした蘆屋が墨馬に馬乗りになった。
滴る汗が墨馬の顔へぽたぽたと落ちる。蘆屋のシャツのボタンは二つ三つ無くなっていた。はだけ乱れたシャツからのぞく肌についた引っかき傷から血が滲む。そんな怪我など気にする余裕はない。
「暴れんなって香住!」
護摩壇に目を遣ると、少しも火に犯されていない形代が灰になった護摩木の中へと沈んでいく。くそっと小さく吐く。蘆屋が他所に気をとられていると、再び墨馬が蘆屋を跳ね飛ばし扉の方へと手を伸ばした。しまったと抱きかかえるように墨馬の動きを封じると、暴れた墨馬の肘が見事に蘆屋の脇腹に入る。ぐふっと息を吐き出すが、腕の力を緩めるわけにはいかない。こんな状態ではまともに誦文を唱えることも出来なければ護摩木を組むことも出来ない。護摩釜にある護摩木が燃え尽きてしまえば加持が失敗に終わる。鬼を鎮めることが出来なくなる。
「おまっ。このツケは高いからな」
必死に手を伸ばし取り上げた十五センチほどの護摩木を口にくわえる。ふつふつと口の中で何かを唱えれば、なんとか墨馬を仰向けに押し倒し、咥えていた護摩木を墨馬の歯牙に噛ませるように押し込んだ。鬼を封じる簡単な術。墨馬ほどの鬼相手に効果はさほど期待はできない。それでも少しだけ弱まった墨馬の力を感じ取ると、今だと蘆屋が散乱した護摩木を拾い上げ、数枚釜へと投げ込んだ。
墨馬へと視線を戻すと、次は咥えていた護摩木をぎりぎりと噛み砕こうとしている。そんな事をすれば人の歯がもたない。今度は護摩木を取り上げる為、墨馬の口をねじ開ける。
「香住の体を壊すんは頂けんなあ!」
力任せに誦文を叫べば炎が力を取り戻したように燃え立った。どこを殴られたのかも分からない。蘆屋の体も限界が来ている。護摩木を吐いた墨馬がさらに蘆屋を突き飛ばし威嚇する。
―俺っぽくないことはしたくないんやけどなあ。こんなんまるで陽平くんみたいやん。
自分を嘲笑するようにふっと笑いを零す。儀式や術などにもはや打開策はない。
蘆屋が最後の力を振り絞り墨馬を捕えると、両手でその顔を挟んだ。そして無理やり自分の目を合わせさせる。
「香住! 戻って来い! 俺や、累や! 分かるやろ! 香住‼」
こんなものは術でもなんでもない。ただのまやかし。それでも人はそんなものに縋る。形のないもの、方法が確立されていないもの、一か八かの運、そんな不確かなものに望みをかけて祈る。しかし祈りこそが古より途切れることなく人々がとってきた手段だった。何よりも人にある心という一番不確かなものを信じて来た。
「香住!」
一瞬だったか、墨馬の瞳孔が鮮やかな黒を取り戻した。蘆屋が護摩壇に向かい手印を結ぶと叫ぶ。
「去ね! 鎮まれ!」
ぼっと音を立て形代が燃え始める。みるみると縁が黒くなり、形を保ったまま炭へと変わる。蘆屋の腕がずしりと重くなる。腕の中の墨馬からふっと力が抜け、何事もなかったような穏やかな寝顔を見せていた。ちりちりと燃え尽きていく火を見届けると、蘆屋もガクっとその場に崩れ落ちた。浅い息を繰り返し、汗で濡れた顔を拭う。そのままばたりと仰向けに寝転がる。上下する腹を枕に墨馬が眠っている。
「勘弁してや、ほんま」
もう朝日が顔を出した頃だろうか。荒々しい風と雨、雷の音も聞こえない。手を伸ばし、扉をわずかに開ける。つうっと一筋の光が部屋の中に差し込んだ。部屋のこもった空気と入れ替わりに綺麗な風が吹き込んでくる。天日を確認した蘆屋がようやく安心し目をつむった。
「ご飯食べてってくれていいのに」
「いえ、まだ人と食べるのは怖いので」
美陽がぺこりと頭を下げる。
「そういえば、やっぱり俺がハルと飯食っても平気なのって……」
「鬼について確かなことなんて分からないけど、やっぱり心は残っているんだと思うよ。元の人の、心がね」
「そっか」と短く返した陽平は、その答えで納得が出来たようだった。蘆屋は興味なさそうに明後日の方を向いている。
「行こ、ハル」
左手を差し出せば、美陽が迷いなく右手を伸ばす。その手を取り歩き出す。
「陽平君」
階段の上から墨馬が呼び止める。陽平につられて美陽も振り返った。
「心配しなくても美陽君はちゃんと君のことを必要としてると思うよ」
首を傾げたまま美陽が陽平を見る。下から煽った陽平の顎のラインはこんなにも雄々しかっただろうか。その顔が携えた瞳は力強くまっすぐに墨馬を捕えている。
「知ってます」
それだけ答えると再び前を向き美陽の手を引いた。「なんのこと」と問う美陽に曖昧な返事をする。マウント取られちゃったなと墨馬が苦笑した。
二人の背中が小さくなって、ようやく蘆屋も階段に足を掛けた。
「累」
今度は蘆屋を呼び止める声が聞こえる。こちらは呼び止められる事が分かっていたように頭を搔きながら墨馬に向き直る。
「嫌やなあ。なんか嫌な予感するわ」
片目を薄く瞑り、もう片方の目で墨馬を見る。墨馬は柔らかい表情のまま蘆屋を見ている。
「美陽君の加持をする前に、一つだけお願い」
「なあ香住。美陽くんの加持すんのはええねん。でもあんな香住の姿を誰かに見られんのはめっちゃ嫌」
ぱちくりと墨馬の目が瞬いている。
「お前がどんな格好になろうが、何になろうが、何を犯そうが、それは俺だけが知ってたらええ。そうやろ?」
本当に甘えん坊で独占欲の強い子どものようだ。思わずふふっと墨馬が吹きだす。
「累は、可愛いね」
「は!?」とつい大声をあげる。骨格もしっかりし筋肉もついた。身長も墨馬を越した。声も低くなった。話についていけるよう勉強もした。なのにまだ墨馬は肩を並べてくれないのかと悔しくなる。
「明日は、俺もずっと傍におるからな」
「泊っていく?」と何の気なしに聞けば、蘆屋の眉間に深いしわが寄り不機嫌になる。
「アホか。こっちは明日の準備があんねん。帰っていろいろ支度する」
「じゃあ、頼んだよ」と笑う顔はふやけたように柔らかく、まるでふわふわの綿帽子のよう。こんな人が鬼だなんて、蘆屋でさえも信じられないと思う。「じゃあ」とそっけなく手をあげると背を向け階段を下っていく。
ふうと息を吐いた墨馬の瞳には、慈悲と無情が入り交じっていた。
美陽は手を握られたまま、陽平の半歩後ろを歩く。手のひら全体で陽平の体温を感じる。陽平の柔らかいものがぴたりと美陽に張り付いていた。少し汗ばんで湿った皮膚の吸い付くような感触を感じる。それは守ってやるとか、離れたくないとか、そんな生ぬるい感触ではない。
―離してはやらない。
そんな意思が伝わってきた。
美陽がじっと握られた手を見つめて歩く。
「明日ハルのおばさんは?」
「休みやから家にいる」
「よかった」
それだけを陽平が返す。
「なんでヨウが緊張してんねん」
陽平の手に力が入る。
―可哀そうなヨウ。人を疑うなんて不得手なくせに。蘆屋を必死に疑って、それでも疑った先にハッピーエンドを望んでいたのだろうに。
可哀そうなヨウ。疑いたくないと心が言い、疑えと頭が言う。俺のために自分を裏切ろうと葛藤する。
可哀そうなヨウ、愛おしいと思う俺のために。
「ヨウ、ありがとう」
「ん? 何が?」
「……別に」
二人の間に流れる空気は穏やかだった。そしてそれは嵐の前の静寂だった。
次の日は朝から降り始めた雨に外はどんよりした空気に包まれる。
次第に激しくなっていく雨は昼を過ぎる頃には危険を伴うまでになっていった。厳霊山の麓には緊急避難が警告され、早々に避難場所への移動が始まっていた。
本物の鬼の力とはこれほどなのか。
これでは鬼の所業などではなく、神の逆鱗ではないか。
美陽の部屋に閉じこもる二人が身を寄せ合う。激しい雨に渦巻く風。窓の外は空から滝が落ちてきているのかと思うほどの水量で視界が閉ざされる。合わせて数秒ごとに突き刺す閃光と轟く霹靂が尋常ではない。恐怖を煽るほどの地響きが壁と天井を震わせる。びりびりと窓が鳴る。メリメリと空間を走り伝わる音は木が裂かれ根が引き千切れる音。厳霊山を数多の落雷が襲う。
陽平がぎゅっと美陽を抱いたまま離さない。大丈夫だと言っているのに、不安で不安で仕方がないのだろう。チカチカと電気が点滅するとふっと明かりが消えた。どこかの電線に雷が落ちたのだろうか。
「美陽! 停電かしら?」
一階から母親の呼ぶ声が聞こえる。数秒するとパッと再び明かりが点く。
「大丈夫みたい」
美陽が声を張って返事すると母親も安心したのかリビングへと戻っていった。
さきほどから陽平は言葉を発さない。あんなにお喋りな人物が静かだと調子が狂う。
「ヨウ、なんか喋れって」
巻き付く腕をぽんぽんと叩く。
「お前ってこんな怖がりやったんか」
鋭く差し込む白光が部屋に窓枠の影を映す。ゴロゴロとまた雲が唸り出す。部屋のテレビから聞こえてくるニュースは、やはりこの地の異常気象の事など一切触れることはない。しかしSNSには、ここへ向かう電車、道路、すべての交通網が封鎖されている事実を伝えていた。何かの力が働いた素早い対処だ。
美陽が携帯の画面をオフにする。
「俺さ、やっぱり県外の大学行こうかな」
久しぶりに陽平が顔をあげる。思ったよりも情けない顔をしていた。
「なあヨウ、俺が遠くに行ったらどうする? ここを出て違う場所に住むねん。すぐには会えへんくなって、お互い忙しくなったらだんだんと忘れていく。今日のことも、その前のことも」
情けない顔だと思っていたが、そうではなかった。陽平の垂れた眉は「意味が分からない」と伝えている。
「はあ? ハルが県外に出るとして、違う場所に住むとして、なんで俺らが離れるん。俺はずっとハルと一緒におるつもりなんやけど。ハルには俺が必要やろ?」
頭でも打ったんかとでも言いたげな顔に、思わず美陽が吹き出した。
「せやな。そうやんな、ヨウは」
「でもよかった。やっぱりなんか理由あって諦めてたんやろ。おばさんのこと? お金? それなら大丈夫やで。俺が働くし」
「いやお前は進学せんの?」
「ハルー、俺の勉強嫌いなんで知らんねん。いや、勉強が心底嫌いってわけじゃないけど。うちは金ないし、仕事していろいろ学びたい。それより、早く家を出たい」
以前美陽が県外へ出る事を辞めたと伝えた時、焦りだした本当の理由をようやく聞くことができた。
「お前はほんとに、俺がおらなダメやな」
美陽が陽平に体を預ける。
―ヨウは、俺が必要としていると実感して初めて安心する。分かってて利用してるんは俺か。
「でも俺はこれからも鬼と共に生きていかなあかんみたいやし、もう普通の人として生きるんは無理かもしれんで?」
「それは俺が離れる理由か? 加持とか体調とか、いろいろ気にすることは増えるけど、それは俺の理由にもならん」
陽平にもたれる美陽の体に一つだけ変化があった。今まで感じていた血が騒ぐようなざわつきがなくなった。そわそわと体が悦ぶのを感じない。その代わり、とても静かで暖かな安心感が体の中を流れているようだった。
その頃、積木神社では—穏やかでない状況が蘆屋たちを襲っていた。
積祈神社の本殿の中。護摩釜から轟轟と立ち上がる火が部屋中の空気を焼く。部屋の中でガラガラと何かが崩れ落ちる音が盛大に響いた。
暴れ出し部屋の外へ這い出ようとする墨馬の襟首を蘆屋が掴み、引き倒す。うつぶせに倒れた墨馬の体を抑え込むが、凄まじい力で振りほどかれる。剝きだした爪が蘆屋を襲う。襲い来る手首を掴むと力任せに床へと押し付ける。息を切らした蘆屋が墨馬に馬乗りになった。
滴る汗が墨馬の顔へぽたぽたと落ちる。蘆屋のシャツのボタンは二つ三つ無くなっていた。はだけ乱れたシャツからのぞく肌についた引っかき傷から血が滲む。そんな怪我など気にする余裕はない。
「暴れんなって香住!」
護摩壇に目を遣ると、少しも火に犯されていない形代が灰になった護摩木の中へと沈んでいく。くそっと小さく吐く。蘆屋が他所に気をとられていると、再び墨馬が蘆屋を跳ね飛ばし扉の方へと手を伸ばした。しまったと抱きかかえるように墨馬の動きを封じると、暴れた墨馬の肘が見事に蘆屋の脇腹に入る。ぐふっと息を吐き出すが、腕の力を緩めるわけにはいかない。こんな状態ではまともに誦文を唱えることも出来なければ護摩木を組むことも出来ない。護摩釜にある護摩木が燃え尽きてしまえば加持が失敗に終わる。鬼を鎮めることが出来なくなる。
「おまっ。このツケは高いからな」
必死に手を伸ばし取り上げた十五センチほどの護摩木を口にくわえる。ふつふつと口の中で何かを唱えれば、なんとか墨馬を仰向けに押し倒し、咥えていた護摩木を墨馬の歯牙に噛ませるように押し込んだ。鬼を封じる簡単な術。墨馬ほどの鬼相手に効果はさほど期待はできない。それでも少しだけ弱まった墨馬の力を感じ取ると、今だと蘆屋が散乱した護摩木を拾い上げ、数枚釜へと投げ込んだ。
墨馬へと視線を戻すと、次は咥えていた護摩木をぎりぎりと噛み砕こうとしている。そんな事をすれば人の歯がもたない。今度は護摩木を取り上げる為、墨馬の口をねじ開ける。
「香住の体を壊すんは頂けんなあ!」
力任せに誦文を叫べば炎が力を取り戻したように燃え立った。どこを殴られたのかも分からない。蘆屋の体も限界が来ている。護摩木を吐いた墨馬がさらに蘆屋を突き飛ばし威嚇する。
―俺っぽくないことはしたくないんやけどなあ。こんなんまるで陽平くんみたいやん。
自分を嘲笑するようにふっと笑いを零す。儀式や術などにもはや打開策はない。
蘆屋が最後の力を振り絞り墨馬を捕えると、両手でその顔を挟んだ。そして無理やり自分の目を合わせさせる。
「香住! 戻って来い! 俺や、累や! 分かるやろ! 香住‼」
こんなものは術でもなんでもない。ただのまやかし。それでも人はそんなものに縋る。形のないもの、方法が確立されていないもの、一か八かの運、そんな不確かなものに望みをかけて祈る。しかし祈りこそが古より途切れることなく人々がとってきた手段だった。何よりも人にある心という一番不確かなものを信じて来た。
「香住!」
一瞬だったか、墨馬の瞳孔が鮮やかな黒を取り戻した。蘆屋が護摩壇に向かい手印を結ぶと叫ぶ。
「去ね! 鎮まれ!」
ぼっと音を立て形代が燃え始める。みるみると縁が黒くなり、形を保ったまま炭へと変わる。蘆屋の腕がずしりと重くなる。腕の中の墨馬からふっと力が抜け、何事もなかったような穏やかな寝顔を見せていた。ちりちりと燃え尽きていく火を見届けると、蘆屋もガクっとその場に崩れ落ちた。浅い息を繰り返し、汗で濡れた顔を拭う。そのままばたりと仰向けに寝転がる。上下する腹を枕に墨馬が眠っている。
「勘弁してや、ほんま」
もう朝日が顔を出した頃だろうか。荒々しい風と雨、雷の音も聞こえない。手を伸ばし、扉をわずかに開ける。つうっと一筋の光が部屋の中に差し込んだ。部屋のこもった空気と入れ替わりに綺麗な風が吹き込んでくる。天日を確認した蘆屋がようやく安心し目をつむった。
