土曜日の午後。午前中の授業を終え、積祈神社に現れたのは蘆屋だった。じゃりじゃりと小石を踏み鳴らし境内を歩く。トストスと石階段を上っていくと次第に拝殿が姿を現してくる。九月だというのにまだ暑い。学ランを着て来てしまったのは間違いだった。じわりとかいた汗をまとわせ階段を上り切る。静まり返ったその場には人の気配はなかった。
蘆屋が賽銭箱を横切り拝殿の屋内へとずかずか入っていく。参拝者であれば恐れ多く近寄る事ができないであろうその場所へ躊躇う事もなく、むしろ慣れた様子で進んでいく。拝殿の奥にある本殿の扉を開けると、神事を行うための祭壇がある。その部屋に墨馬はいた。蘆屋が後ろ手に本殿の扉を閉める。正座して座る墨馬の横を通り過ぎると、着ていた学ランをするっと脱いだ。
「じゃあ、ヤろっか」
艶めいた笑みを浮かべ墨馬に振り返る。こわばった墨馬をよそに、脱いだ学ランの代わりに白い装束をシャツの上から羽織った。下は制服のまま、部屋の中央に坐する。蘆屋が前にしたのは護摩壇。台の真ん中には鉄でできた丸い護摩釜が置かれ、それを四方に建てた木の棒と縄がぐるりと囲う。釜の奥には手のひらに乗るほどの小さな鳥居が立てられ、その上に白紙を切って作った幣が吊り下げられていた。脇に置かれている木片を火箸で取ると、丁寧に重ねていく。墨馬は黙々と準備を進める蘆屋の背中をうつろにぼんやりと見つめていた。
*
累と墨馬が出会って、もう七年が経とうとしている。
累が初めて鬼と遭遇したのは三歳の時だった。両親の仕事の都合で各地を転々としていた蘆屋家が、ある村に滞在していた時の事。突然累が一人の村人を指さし「鬼だ」と言い放った。術を施してもオニモチが誰も気付けないでいた中、幼い累がそれを言い当てた。その村人を神事にかければ鬼が姿を現した。捕らえれば村で起こっていた行方不明事件や天災などの事故が止んだ。そんな累に目を付けたのが怪異対策局だった。彼らは蘆屋家を買い、そして飼った。欲しかったのは累の力。
呪術秘法を教え込めば、累の力は頭角を現した。鬼を引き出すも強制するも自由自在。鬼を調伏させるにとどまらず、力の使い方を変えれば曲事にも加担できる。幼子を飼いならすなど、大人からすれば簡単な事だった。
そして累はこの地へ寄こされた。鬼とともに。七年前に。
鬼を孕んだだけならオニモチの術で鬼化を抑えることはできる。しかし完全な鬼となってしまえば別だ。もはや手が出せない。自我をなくせば実験材料にもならない。傍に置いておけば災いが降りかかる。処分の対象だ。だがこの地には鬼が必要だった。鬼でありながら人として生きていける存在が必要だった。幾度と試行錯誤をしては失敗していたが、ようやく鬼と累というピースが揃った。これは実験の一つなのだ。
―僕はいい。これでいい。だけど、累には普通の人として生きてほしい。こんな醜悪な大人たちとは関わり合うことのない、明るい世界で。
そう願っているのに僕は―。
累に普通をあげることが、出来ない。
*
蘆屋の前には組みあがった護摩が炎に包まれ燃え上がっている。ぱちぱちと音を立て火の粉が飛び散る。どれだけ火が降り注ごうとも事とせず、誦文を唱え続ける。組み上げた木片の一番上には人型に模した木の形代が置かれている。いくら火を浴びても燃えうつる様子がない。これが鬼の身代。蘆屋が詠いながら手印を組む。それを炎に向けてあてがうと、一層高く外炎が立ち上る。風もないのに幣が大きく揺れる。炎が形代を包み込んでなお、それは燃えることを拒絶する。灰になった木片の上にまた護摩を組み上げ、形代を祀る。それを繰り返し繰り返し続ける。いよいよ蘆屋の眉間に皺が寄り、顎から一粒の汗がしたたり落ちた。
その時、蘆屋の背後でばたりと大きな音がする。顔を歪めたままの蘆屋は振り返ることなくため息のような息を吐く。
「ちゃんと座ってなあかんやん」
蘆屋の後ろで倒れ込んだ墨馬が苦しそうに息を荒げる。護摩木を積み上げ直しながら蘆屋が背後の様子を伺う。しかし起き上がろうとする墨馬の腕に力が入らない。すると蘆屋が立ち上がり墨馬の元へ近づいていく。ぐったりする墨馬の胸ぐらを掴むと無理やり引き起こした。
「香住、何してるん」
「も、無理。くるしっ―」
墨馬を掴んだまま蘆屋が顔を近づける。半立ち状態で目を開けることも出来ない墨馬を見下ろすと、墨馬の顔面にぽたぽたと蘆屋の汗がしたたり落ちた。
「無理とちゃうやろ。なあ、香住。ちゃんと出来るやろ。いつも一人で出来てるやん。俺が誰のためにやってると思ってるん。手間かけさせんなや」
ぱっと手を離すと墨馬がへなへなとその場に座り込む。再び蘆屋が護摩壇の前に座ると一層強く誦文を唱え炎に手をあてがう。今まで以上に炎が燃え上がり天井に届くかというところで炭と化した形代がぼろぼろと形を崩し、炎の中に消えていった。
形代が無くなると共に墨馬が意識を失ったように再びばたりとその場に倒れた。
火消しを行い、装束の袖で顔の汗を拭く。部屋のドアを開けて換気をすると籠っていた熱が一気に外へと流れ出る。その代わりひんやりとした風の帯が部屋の中を泳ぎだす。未だに目をつむったまま起きない墨馬に学ランをかけてやる。顔にかかった髪をかき上げてやると、墨馬の眉間に入っていた力が抜けていく。
「よう頑張った」
先ほどの剣幕とは一転、蘆屋が甘えた顔になる。傍に座るとその寝顔をじっと見つめた。
蘆屋が積祈神社を後にする。階段を下っていると陽平が歩いて来るのが見えた。ニカっと嬉しそうに笑うと陽平に駆け寄る。蘆屋のくたびれた制服姿を捕えると目を丸くする。何があったのかと言いたげだが、話しかけたくないのであろう。陽平は気にかけていないふりをした。
「ここでよう会うなあ」
「別にお前に会いたいわけじゃない」
つれないなあと蘆屋が肩をすくめる。
「香住に用あるんやったら今度にしたって。今会える状態やないから」
どういうことかと陽平が顔をしかめる。
「話なら俺が聞いたるやん。何? どうしたん? 美陽くんのこと?」
「お前に用ないって。墨馬さんと話したい」
まあまあと蘆屋が陽平の腰に手を回すと回れ右をする。「おい」と反抗する陽平を連れ、神社と反対方向へ歩き出した。
積祈神社から離れ、陽平が連れて来られたのは小学校。
運動場の端にある遊具へと蘆屋が向かう。どういうつもりか分からないまま陽平がその後を大人しくついて歩いた。
カラフルなタイヤたちが半分顔を出した遊具、登り棒、ブランコとその隣にはジャングルジムが並んでいる。青葉台にある錆びれたジャングルジムとは違い、朱色と青のペンキが綺麗に塗られ、鮮やかに映えていた。その中で蘆屋はブランコを選び、その一つに腰掛ける。高校生には小さすぎるそれは、座れば椅子にもならない程に低い。それでも前後に動かし蘆屋が遊ぶ。無邪気に見えるその姿に悪意は感じられず、仕方なくその隣のブランコに腰掛けた。
「ちっさあて漕がれへんな」
こうしていると蘆屋とは普通の友達にもなれたのではないかと思ってしまう。蘆屋はどうして美陽が鬼になることを止めなかったのか、むしろ鬼にしようと仕向けたのか、まだ聞いていなかった。
「なあ、蘆屋さ」
「陽平くんは誰を信じればいいと思っとる?」
いきなりの質問に陽平が戸惑う。その言い草が陽平の思考を惑わす。蘆屋が察していたように、陽平にはすぐにその答えが出せなかった。
「まだ香住を信じとるん?」
「それは……だって、墨馬さんは」
「じゃあ教えたるわ。あいつの本当の正体。それはな―」
「鬼や」
足立がぽつりとつぶやいた。向かいに座っている美陽が「えっ」と漏らしたまま固まっている。
足立に会いに来たのは墨馬の事を訊きたかったからだ。積祈神社で墨馬に声を掛けてもらった時、なぜか違和感を覚えた。蘆屋とは違う意味で、得体の知れない影を感じた。蘆屋と繋がりがある事が分かると、余計にそのいかがわしさが増した。
「えっと、それはどういう意味ですか?」
「そのままや。墨馬香住は鬼を孕み、産み落とした。その中身は鬼となっとる。もう人やない」
「でも、今でも普通に神主として生活していますよね」
「せやな。累君がおるおかげでな」
道理としは理解できる。もし墨馬が鬼を孕んだとして、それが進行して墨馬の体を鬼が蝕んだとする。そしてそこに蘆屋というオニモチが術を施し鬼を抑えることは可能なのかもしれない。しかしそれで人として生活できるまでになるのだろうか。それが出来るなら、オニモチさえいれば鬼にそれほど恐れる必要はないのではないか。
「分かるよ。あんたの考えとること。でも累くんは特別なんよ」
「特別って、何が」
「あの子は小さい時から神童や言われてね。本人は親や組織の役に立ててるのが嬉しかったのかもしれんけど。私らはずっと見て来たから分かってるんよ。あの子は国に利用されとる」
「すみません、話がみえなくて」
「そうやね」と足立が困ったように笑う。そして蘆屋の生い立ちを話し始めた。初めて聞く話に困惑している美陽に、さらに足立は話を進めた。
「この町はね、実験に選ばれたんやと私は思っとる」
「それは、怪異対策局という組織にですか?」
「そう」と足立が頷く。さらに美陽の顔が曇っていく。
「香住さんにはお姉さんがいてね。香住さんの前はお姉さんが神主をしてたんよ。神主とは名ばかりで、本当は鬼をこの地に置くってことをやった」
「お姉さんも、鬼だったんですか?」
「非道やんね。鬼にされて、この地に置かれた。その上で鬼を増やそうとした。積祈神社は厳霊山の権化として建てられた神社や。一番上に強い鬼を置き、その地に生まれる鬼を支配できるのか服従させることが出来るのか。そういう実験やと思っとる」
何のためにと思うと同時に、「鬼にさせられた」という言葉に衝撃を受けた。
「人は昔から神という存在により人の信仰を集め、人を統一してきた。それに対抗する大きな力、鬼の力を手に入れたいと馬鹿な考えをしとるもんが怪異対策局のトップに君臨しとる」
「そんなことって。非現実的じゃないですか」
「普通ならば、そう考えるでしょう」
足立がため息を付きながら首を振る。
「あの、それで墨馬さんのお姉さんは」
足立の悲しみを帯びた目から、良い結末は選択肢から除かれた。
「その時寄こされたオニモチでは抑えられんくてね。怪異対策局に引き取られたまま、どうなったか私には」
「だから普通じゃないんよ」と足立が吐き捨てた。
それはあまりにも倫理に叛いた行為ではないか。そんな事が許されるのか。法律には反しないのか。そもそも鬼に関する法律なんて存在していない。
「そういうのって、許されるんですか?」
「許されとる。許されとるから問題なんよ。ご両親を事故でなくされた香住さん兄弟が引き取られた先が悪かった。そしてそこに現れてしまった累君という逸材。ずっと香住さんを抑えていたのも累君。あれほど普通に生活できるまでに抑えられるなんて、累君の他聞いたことがない」
唖然とするしか出来ない。美陽がクダショウの儀を行ってしまったことは確かに偶然だった。しかしこれほどまでの陰謀があったとは、にわかには信じがたい。
「それで、そんな話どうして俺なんかに。隠さなければいけない話では?」
「そうなんよ。うちもそう思ってたし、うちは祠を守る事以外に口出しするべきではない。でもね、あんたと陽平君が初めてこの家に来たとき、どうしても出来んかった。あんたらの日常を奪ったらあかんって、天啓があった気がしたんよ。ほんまはあんたも香住さんも、累君も救いたい」
「壊れてしまう前に」と小さな声で足立が付け足した。
「救いたい? 俺を?」
足立が机の上で組んでいた手をもじもじと動かす。言っていいのか悪いのか、迷っているようだった。
「あんたは陽平君に依存してるんとちゃう? あんたがあの子を見る目はまるで心酔しとるようや。太陽を神と崇め、その力を尊ぶような。でもそれは鬼の影響かもしれんと私は思っとる。陽平君は鬼を惹く何かを持ってるんとちゃうかって」
「俺とヨウの関係は変ですか?」
冷たい声が足立を遮る。
「俺を救うというのは、その変な関係から解き放とうとか、そういう意味ですか?」
足立の組んでいた手にぐっと力が入る。刃のように変わってしまった美陽の言葉に、言ってしまった事を後悔する。
「鬼っていうのは、一般的には具現化して伝えられとるけど、そうやない。実際は大地や自然に人の暗いもんが落とされ染み込んでいって、それが人に返ってくる。それが鬼ちゅうもんや。やったことや放った言葉は自分に返ってくるって言うけど、念っちゅうのは一番その力が強い。そして、それぞれの地には大なり小なり鬼が産まれる力をはらんどる。そこらの地には電波や地場がぐるぐる渦巻いとって、住む人の体に巻き付いとる。鬼は狙いを定めた人物をさらに分厚く巻き上げ土地に縛り付ける。それは逃すまいとする念の拘束や」
美陽が以前、県外へ出ずここに残りたいと陽平に伝え、それを咎められた事を思い出す。そして昔も今も、陽平の存在を欲している事は自分自身が一番自覚している。しかし―。
「心配して頂いてるのだと思いますけど、違いますから。鬼のせいだとか、違います」
「……そう」と、ただそれだけしか返す言葉が出てこなかった。「余計なお世話やったね」と苦々しく笑うと、美陽も言いすぎたと頭を下げた。
しかし足立が蘆屋や墨馬の事を心配しているというのも本当なのだろう。
もし墨馬が国によって鬼にされてしまった存在だというなら、蘆屋が国に利用されている存在なら、そんなのは美陽でも目をつむりたい運命だった。
「あと、もう一つ」
「なんや」と優しく足立が問う。
「七年前、祠に猫を置いた少年が遭遇したのは貴方ですか?」
「……違うな。私は早朝にあれを見つけて、処分した」
「そうですか」とぶるっと美陽が体を震わせた。
蘆屋が賽銭箱を横切り拝殿の屋内へとずかずか入っていく。参拝者であれば恐れ多く近寄る事ができないであろうその場所へ躊躇う事もなく、むしろ慣れた様子で進んでいく。拝殿の奥にある本殿の扉を開けると、神事を行うための祭壇がある。その部屋に墨馬はいた。蘆屋が後ろ手に本殿の扉を閉める。正座して座る墨馬の横を通り過ぎると、着ていた学ランをするっと脱いだ。
「じゃあ、ヤろっか」
艶めいた笑みを浮かべ墨馬に振り返る。こわばった墨馬をよそに、脱いだ学ランの代わりに白い装束をシャツの上から羽織った。下は制服のまま、部屋の中央に坐する。蘆屋が前にしたのは護摩壇。台の真ん中には鉄でできた丸い護摩釜が置かれ、それを四方に建てた木の棒と縄がぐるりと囲う。釜の奥には手のひらに乗るほどの小さな鳥居が立てられ、その上に白紙を切って作った幣が吊り下げられていた。脇に置かれている木片を火箸で取ると、丁寧に重ねていく。墨馬は黙々と準備を進める蘆屋の背中をうつろにぼんやりと見つめていた。
*
累と墨馬が出会って、もう七年が経とうとしている。
累が初めて鬼と遭遇したのは三歳の時だった。両親の仕事の都合で各地を転々としていた蘆屋家が、ある村に滞在していた時の事。突然累が一人の村人を指さし「鬼だ」と言い放った。術を施してもオニモチが誰も気付けないでいた中、幼い累がそれを言い当てた。その村人を神事にかければ鬼が姿を現した。捕らえれば村で起こっていた行方不明事件や天災などの事故が止んだ。そんな累に目を付けたのが怪異対策局だった。彼らは蘆屋家を買い、そして飼った。欲しかったのは累の力。
呪術秘法を教え込めば、累の力は頭角を現した。鬼を引き出すも強制するも自由自在。鬼を調伏させるにとどまらず、力の使い方を変えれば曲事にも加担できる。幼子を飼いならすなど、大人からすれば簡単な事だった。
そして累はこの地へ寄こされた。鬼とともに。七年前に。
鬼を孕んだだけならオニモチの術で鬼化を抑えることはできる。しかし完全な鬼となってしまえば別だ。もはや手が出せない。自我をなくせば実験材料にもならない。傍に置いておけば災いが降りかかる。処分の対象だ。だがこの地には鬼が必要だった。鬼でありながら人として生きていける存在が必要だった。幾度と試行錯誤をしては失敗していたが、ようやく鬼と累というピースが揃った。これは実験の一つなのだ。
―僕はいい。これでいい。だけど、累には普通の人として生きてほしい。こんな醜悪な大人たちとは関わり合うことのない、明るい世界で。
そう願っているのに僕は―。
累に普通をあげることが、出来ない。
*
蘆屋の前には組みあがった護摩が炎に包まれ燃え上がっている。ぱちぱちと音を立て火の粉が飛び散る。どれだけ火が降り注ごうとも事とせず、誦文を唱え続ける。組み上げた木片の一番上には人型に模した木の形代が置かれている。いくら火を浴びても燃えうつる様子がない。これが鬼の身代。蘆屋が詠いながら手印を組む。それを炎に向けてあてがうと、一層高く外炎が立ち上る。風もないのに幣が大きく揺れる。炎が形代を包み込んでなお、それは燃えることを拒絶する。灰になった木片の上にまた護摩を組み上げ、形代を祀る。それを繰り返し繰り返し続ける。いよいよ蘆屋の眉間に皺が寄り、顎から一粒の汗がしたたり落ちた。
その時、蘆屋の背後でばたりと大きな音がする。顔を歪めたままの蘆屋は振り返ることなくため息のような息を吐く。
「ちゃんと座ってなあかんやん」
蘆屋の後ろで倒れ込んだ墨馬が苦しそうに息を荒げる。護摩木を積み上げ直しながら蘆屋が背後の様子を伺う。しかし起き上がろうとする墨馬の腕に力が入らない。すると蘆屋が立ち上がり墨馬の元へ近づいていく。ぐったりする墨馬の胸ぐらを掴むと無理やり引き起こした。
「香住、何してるん」
「も、無理。くるしっ―」
墨馬を掴んだまま蘆屋が顔を近づける。半立ち状態で目を開けることも出来ない墨馬を見下ろすと、墨馬の顔面にぽたぽたと蘆屋の汗がしたたり落ちた。
「無理とちゃうやろ。なあ、香住。ちゃんと出来るやろ。いつも一人で出来てるやん。俺が誰のためにやってると思ってるん。手間かけさせんなや」
ぱっと手を離すと墨馬がへなへなとその場に座り込む。再び蘆屋が護摩壇の前に座ると一層強く誦文を唱え炎に手をあてがう。今まで以上に炎が燃え上がり天井に届くかというところで炭と化した形代がぼろぼろと形を崩し、炎の中に消えていった。
形代が無くなると共に墨馬が意識を失ったように再びばたりとその場に倒れた。
火消しを行い、装束の袖で顔の汗を拭く。部屋のドアを開けて換気をすると籠っていた熱が一気に外へと流れ出る。その代わりひんやりとした風の帯が部屋の中を泳ぎだす。未だに目をつむったまま起きない墨馬に学ランをかけてやる。顔にかかった髪をかき上げてやると、墨馬の眉間に入っていた力が抜けていく。
「よう頑張った」
先ほどの剣幕とは一転、蘆屋が甘えた顔になる。傍に座るとその寝顔をじっと見つめた。
蘆屋が積祈神社を後にする。階段を下っていると陽平が歩いて来るのが見えた。ニカっと嬉しそうに笑うと陽平に駆け寄る。蘆屋のくたびれた制服姿を捕えると目を丸くする。何があったのかと言いたげだが、話しかけたくないのであろう。陽平は気にかけていないふりをした。
「ここでよう会うなあ」
「別にお前に会いたいわけじゃない」
つれないなあと蘆屋が肩をすくめる。
「香住に用あるんやったら今度にしたって。今会える状態やないから」
どういうことかと陽平が顔をしかめる。
「話なら俺が聞いたるやん。何? どうしたん? 美陽くんのこと?」
「お前に用ないって。墨馬さんと話したい」
まあまあと蘆屋が陽平の腰に手を回すと回れ右をする。「おい」と反抗する陽平を連れ、神社と反対方向へ歩き出した。
積祈神社から離れ、陽平が連れて来られたのは小学校。
運動場の端にある遊具へと蘆屋が向かう。どういうつもりか分からないまま陽平がその後を大人しくついて歩いた。
カラフルなタイヤたちが半分顔を出した遊具、登り棒、ブランコとその隣にはジャングルジムが並んでいる。青葉台にある錆びれたジャングルジムとは違い、朱色と青のペンキが綺麗に塗られ、鮮やかに映えていた。その中で蘆屋はブランコを選び、その一つに腰掛ける。高校生には小さすぎるそれは、座れば椅子にもならない程に低い。それでも前後に動かし蘆屋が遊ぶ。無邪気に見えるその姿に悪意は感じられず、仕方なくその隣のブランコに腰掛けた。
「ちっさあて漕がれへんな」
こうしていると蘆屋とは普通の友達にもなれたのではないかと思ってしまう。蘆屋はどうして美陽が鬼になることを止めなかったのか、むしろ鬼にしようと仕向けたのか、まだ聞いていなかった。
「なあ、蘆屋さ」
「陽平くんは誰を信じればいいと思っとる?」
いきなりの質問に陽平が戸惑う。その言い草が陽平の思考を惑わす。蘆屋が察していたように、陽平にはすぐにその答えが出せなかった。
「まだ香住を信じとるん?」
「それは……だって、墨馬さんは」
「じゃあ教えたるわ。あいつの本当の正体。それはな―」
「鬼や」
足立がぽつりとつぶやいた。向かいに座っている美陽が「えっ」と漏らしたまま固まっている。
足立に会いに来たのは墨馬の事を訊きたかったからだ。積祈神社で墨馬に声を掛けてもらった時、なぜか違和感を覚えた。蘆屋とは違う意味で、得体の知れない影を感じた。蘆屋と繋がりがある事が分かると、余計にそのいかがわしさが増した。
「えっと、それはどういう意味ですか?」
「そのままや。墨馬香住は鬼を孕み、産み落とした。その中身は鬼となっとる。もう人やない」
「でも、今でも普通に神主として生活していますよね」
「せやな。累君がおるおかげでな」
道理としは理解できる。もし墨馬が鬼を孕んだとして、それが進行して墨馬の体を鬼が蝕んだとする。そしてそこに蘆屋というオニモチが術を施し鬼を抑えることは可能なのかもしれない。しかしそれで人として生活できるまでになるのだろうか。それが出来るなら、オニモチさえいれば鬼にそれほど恐れる必要はないのではないか。
「分かるよ。あんたの考えとること。でも累くんは特別なんよ」
「特別って、何が」
「あの子は小さい時から神童や言われてね。本人は親や組織の役に立ててるのが嬉しかったのかもしれんけど。私らはずっと見て来たから分かってるんよ。あの子は国に利用されとる」
「すみません、話がみえなくて」
「そうやね」と足立が困ったように笑う。そして蘆屋の生い立ちを話し始めた。初めて聞く話に困惑している美陽に、さらに足立は話を進めた。
「この町はね、実験に選ばれたんやと私は思っとる」
「それは、怪異対策局という組織にですか?」
「そう」と足立が頷く。さらに美陽の顔が曇っていく。
「香住さんにはお姉さんがいてね。香住さんの前はお姉さんが神主をしてたんよ。神主とは名ばかりで、本当は鬼をこの地に置くってことをやった」
「お姉さんも、鬼だったんですか?」
「非道やんね。鬼にされて、この地に置かれた。その上で鬼を増やそうとした。積祈神社は厳霊山の権化として建てられた神社や。一番上に強い鬼を置き、その地に生まれる鬼を支配できるのか服従させることが出来るのか。そういう実験やと思っとる」
何のためにと思うと同時に、「鬼にさせられた」という言葉に衝撃を受けた。
「人は昔から神という存在により人の信仰を集め、人を統一してきた。それに対抗する大きな力、鬼の力を手に入れたいと馬鹿な考えをしとるもんが怪異対策局のトップに君臨しとる」
「そんなことって。非現実的じゃないですか」
「普通ならば、そう考えるでしょう」
足立がため息を付きながら首を振る。
「あの、それで墨馬さんのお姉さんは」
足立の悲しみを帯びた目から、良い結末は選択肢から除かれた。
「その時寄こされたオニモチでは抑えられんくてね。怪異対策局に引き取られたまま、どうなったか私には」
「だから普通じゃないんよ」と足立が吐き捨てた。
それはあまりにも倫理に叛いた行為ではないか。そんな事が許されるのか。法律には反しないのか。そもそも鬼に関する法律なんて存在していない。
「そういうのって、許されるんですか?」
「許されとる。許されとるから問題なんよ。ご両親を事故でなくされた香住さん兄弟が引き取られた先が悪かった。そしてそこに現れてしまった累君という逸材。ずっと香住さんを抑えていたのも累君。あれほど普通に生活できるまでに抑えられるなんて、累君の他聞いたことがない」
唖然とするしか出来ない。美陽がクダショウの儀を行ってしまったことは確かに偶然だった。しかしこれほどまでの陰謀があったとは、にわかには信じがたい。
「それで、そんな話どうして俺なんかに。隠さなければいけない話では?」
「そうなんよ。うちもそう思ってたし、うちは祠を守る事以外に口出しするべきではない。でもね、あんたと陽平君が初めてこの家に来たとき、どうしても出来んかった。あんたらの日常を奪ったらあかんって、天啓があった気がしたんよ。ほんまはあんたも香住さんも、累君も救いたい」
「壊れてしまう前に」と小さな声で足立が付け足した。
「救いたい? 俺を?」
足立が机の上で組んでいた手をもじもじと動かす。言っていいのか悪いのか、迷っているようだった。
「あんたは陽平君に依存してるんとちゃう? あんたがあの子を見る目はまるで心酔しとるようや。太陽を神と崇め、その力を尊ぶような。でもそれは鬼の影響かもしれんと私は思っとる。陽平君は鬼を惹く何かを持ってるんとちゃうかって」
「俺とヨウの関係は変ですか?」
冷たい声が足立を遮る。
「俺を救うというのは、その変な関係から解き放とうとか、そういう意味ですか?」
足立の組んでいた手にぐっと力が入る。刃のように変わってしまった美陽の言葉に、言ってしまった事を後悔する。
「鬼っていうのは、一般的には具現化して伝えられとるけど、そうやない。実際は大地や自然に人の暗いもんが落とされ染み込んでいって、それが人に返ってくる。それが鬼ちゅうもんや。やったことや放った言葉は自分に返ってくるって言うけど、念っちゅうのは一番その力が強い。そして、それぞれの地には大なり小なり鬼が産まれる力をはらんどる。そこらの地には電波や地場がぐるぐる渦巻いとって、住む人の体に巻き付いとる。鬼は狙いを定めた人物をさらに分厚く巻き上げ土地に縛り付ける。それは逃すまいとする念の拘束や」
美陽が以前、県外へ出ずここに残りたいと陽平に伝え、それを咎められた事を思い出す。そして昔も今も、陽平の存在を欲している事は自分自身が一番自覚している。しかし―。
「心配して頂いてるのだと思いますけど、違いますから。鬼のせいだとか、違います」
「……そう」と、ただそれだけしか返す言葉が出てこなかった。「余計なお世話やったね」と苦々しく笑うと、美陽も言いすぎたと頭を下げた。
しかし足立が蘆屋や墨馬の事を心配しているというのも本当なのだろう。
もし墨馬が国によって鬼にされてしまった存在だというなら、蘆屋が国に利用されている存在なら、そんなのは美陽でも目をつむりたい運命だった。
「あと、もう一つ」
「なんや」と優しく足立が問う。
「七年前、祠に猫を置いた少年が遭遇したのは貴方ですか?」
「……違うな。私は早朝にあれを見つけて、処分した」
「そうですか」とぶるっと美陽が体を震わせた。
