乗ってきた自転車のところまで戻ると、ヒマそうに美陽が待ち呆けていた。
「俺抜きで内緒話か?」
「そうじゃないって」
へらっと笑った顔でごまかす。面白くなさそうに美陽が自転車を押し出した。帰り道はあえて自転車を押して歩く。何も言わずただ歩いていた。たぶんお互いに話したい事がある。なかなか言い出せない気まずさが漂い始める中、「なあ」と静かに美陽が口を開いた。
「言いたい事あるんやったら言えよ」
思った通りの美陽の言葉に陽平がぎゅっとハンドルを握り締める。
「ごめん」
その言葉は聞き飽きたと美陽がため息をつく。
「俺、ほんとに鬼になっていくんかな」
今度は美陽の予想外の言葉に伏せていた顔を勢いよく上げる。
「ならへんよ。ならへんって」
「鬼になったらどうなるんやろ。人としての自覚も無くなるんやっけ。狂暴化して、動物も襲うんやっけ。それって人ではなくなるねんな。俺じゃなくなるってことやんな」
陽平が美陽の家の庭に落ちていたスズメを思い出した。「いやいや、そんな事」と頭を振る。
「おっきい組織あるって言ってたよな。そういうのが鬼を排除したりするんかな」
「悪い方に考えんなって。助けてくれる団体かもしれんやん。それに鬼にならんようにって蘆屋も考えてくれてるし」
カラカラカラと車輪の回る音が響く。
「南、俺見て怯えたよな」
「それは」と陽平が言葉を詰まらせる。カラカラと鳴る音がだんだんと遅くなる。次第に音が止まると美陽が立ち止まった。
ついてこない美陽に振り返る。美陽が項垂れ、体全身が力んでいるように見えた。「ハル?」と呼んでも顔をあげない。
「俺じゃないって思おうとした。でも思おうとしたってことは、心当たりがあるねん」
「南の事?」
「関係ないふりしてやり過ごせば、もしかしたら間違いやったで終わるかもって。でもあんなん、確定やん」
美陽の傍まで引き返すと隣に自転車を停める。
「南が戻らんかった日、どうしてた? 俺、連絡してんで」
「記憶なくて。気付いたら寝てた。でも朝起きたらやっぱり知ってんねん、南が厳霊山に行ったこと。彷徨って、戻れなくなって、遭難した事。なのに知らんふりして。お前と探すふりして」
美陽の顔を覗き込みながら、陽平がなんども頷きながら話を聞く。
「ハルのせいじゃないやん。鬼がやったことやん」
「南が厳霊山行ったの分かってて、黙ってたんは俺やで!」
美陽がうずくまり自転車に顔を伏せる。ハンドルを握る手にぐっと力が入る。
―気持ち悪い。体の調子が悪くなるのは鬼のせいだろうか。そうじゃない。これは自分への自己嫌悪だ。
「ハル、大丈夫? また気分悪い?」
「ヨウ、俺に優しくすんなって」
「俺がいるから、俺がなんとかするから」
「お前がいるから、お前がいたらあかんねんて」
「大丈夫、大丈夫やからな」
陽平が美陽の背中を優しく包む。陽平の与える温かさが美陽をつけあがらせる。気持ち悪いのに、また優越感に溺れていく。
「夏休みの最後の一週間、親が出張で家を空ける」
そう相談されたのは南の件があった次の日。そのため美陽が留守を任された。自分が何をするか分からない、不安だから監視してほしい。美陽からの提案だった。もちろん監視なんて形を取る気はない。ただ何かあった時の為に、ただ一緒にすごそうと陽平が提案し直した。あまりにも美陽が不安そうにしているので陽平が泊まり込むことを決めた。
「俺の家に来たらいいのに」と陽平は勧めたが、ずっと世話になるのは悪いとやはり美陽は遠慮する。なのに陽平には多少のわがままを言う。それはそれで嬉しいと思ってしまう。
夏休みも美陽は夏期講習やら自主学習やらで学校の方に出かけていく。何かあればすぐに連絡するようにと伝えていたが、美陽はケロっとしていたので、陽平も心配しすぎないようにしていた。それに陽平は陽平で昼間は用向きがあると言い、出歩いていた。その中の一つが蘆屋と会うことだった。美陽も陽平が隠れて蘆屋に会いに行っていると薄々気づいていた。しかし、それで陽平のモヤモヤとした気が晴れるならとあえて詳細を聞く事はしなかった。
一方陽平は、美陽に言えないでいたことがあった。それは沼の近くで見た鳥の死骸だった。美陽がそれを知っているかは分からない。気になって一人で沼のあたりへ行ったときに見つけた。そしてどうしてかその死骸をそっと沼へ落とし、隠した。
鬼を体から出すために必要だと通っていた沼で、明らかに美陽の仕業だと思われる現象が起きている。いや、美陽の仕業というわけではなく、美陽の中の鬼の存在が大きくなっているのだと陽平は考えた。だから一人蘆屋の元へ赴き問い詰めた。もっと確実な方法はないのかと尋ねたが、「ない」の一点張りだった。じゃあ、もし美陽が完全に鬼に飲み込まれたらどうなるかと尋ねれば、その先は組織にしか分からないと曖昧な回答が返ってきた。
「だって、陽平くん。ここ最近で鬼を孕んだ事象なんてほとんどないんやから、俺にだって分からんよ」と一向に真剣みが感じられない。
「それならハルを今すぐ保護してやってくれよ。そしたらなんか術があるんとちがうん?」
「そんな素性分からん団体に美陽くんを預けて大丈夫? 保護って安全が保障されるとは俺は思ってないよ。身の安全がね。だから俺だって知られずに何とかしたいって思ってるんやで?」
そう言われればもはやどうすることが一番良いのか分からなくなってくる。鬼に関する組織? そんなものはネットでいくら調べてもヒットしない。本当にあるのか、ないのか、噂さえも聞こえてこない。今は蘆屋が「鬼の存在を知っている」事だけが真実であり、信じられる唯一の事実だった。だからといって陽平は蘆屋だけを信じるわけにもいかないと考える。美陽を守れないなら、それは味方でも協力者でもない。信じられるのは、美陽を守れるのは自分だと、自負するために証明が必要なのだ。
泊まり込み三日目。嫌な予感がする。なぜなら朝から篠突く雨が止む気配がない。案の定電車は止まり、一日陽平と美陽は二人ですごした。部屋の中は雨音だけが聞こえる。二人とも静かなのは、陽平が美陽の勉強に付き合って問題集とにらめっこをしているからではない。お互いに言葉に出来ないでいる、触れられないでいる。そんな状態が一日中続いていた。コチコチとプレッシャーをかけるように鳴り続ける時計は夕方五時過ぎを示していた。
「ハル、晩飯さ」
「今日も出前にするから」
「いや、でもお金かかるし」
美陽の母親はご飯代にと現金を残している。しかし作れば節約になるのではと陽平が何度も提案していた。
「同じ鍋や食器使うわけにはいかんから。食を分ける定義が曖昧やし」
「そんな神経質にならんでも。ほら、まえ昼飯食った後もなんもなかったやん」
それでも楽観的な陽平をピシャリと遮断した。
晩御飯を食べる間、お風呂上りにくつろぐ時間、いつも陽平はカラカラと笑いながらお喋りをする。そして美陽が楽しそうに相槌を打つ。傍から見ればリラックスしているように映るかもしれない。しかし、やはり二人の間に流れる緊張感はぬぐえなかった。夜も遅くなれば、美陽がうつらうつらと重い瞼に抗い始める。
「ハル、寝たら? 俺が起きとく」
「いや、そういうわけには」
「怖い? 俺が見といたるから」
「ヨウも眠いのに、今日だけは」
ザーザーと空気中に流れる雨音は、心を癒すヒーリングの効果を持つこともあるだろう。しかし今はその音が怖く感じないといえば嘘だった。
「今は全然眠くないし、俺も雨やんだら寝る」
美陽が自分のベッドにもぐり、陽平はその下に敷かれた布団に寝転がった。電気が消えた天井を見つめる。だんだんと目が慣れてくると、壁紙の模様をとらえることができた。
人の意識とは伝わるものなのだろうか。しばらくは美陽が起きている事を感じて取れた。しかしどこかのタイミングで美陽の意識がスッと消えた。すると空気が静かになる。まるで真空空間に放り込まれたように自分以外の存在を感じなくなる。だんだんと張りつめていた緊張感が薄れていく。重くなった瞼をこすりながら、陽平は現実世界に留まろうともがいていた。
ドカンと脳に響いた音で目を覚ます。しまったと陽平がとっさに飛び起きた。
「ハル!?」
ばちばちと窓を打ち付ける雨音に、雲の中を巨大な何かが移動しているような鈍い轟きが聞こえてくる。
「マジかよ!」
ベッドの中に美陽の姿がない。めくりあがった布団としわの寄ったシーツからは美陽の体温が伝わってくる。「新鮮」。そんな言葉が浮かぶ様だった。
何度も名前を呼びながら家中を探す。家の中に美陽の存在を感じられない。
―ここにはいない。
慌てて着の身着のまま外へ飛び出す。運よく微かな泥の足跡が庭から続いていた。消えないうちに後を追う。消えかけた足跡が公園に繋がっている。公園内のぬかるんだ地面がぽつぽつと陥没している。
「ハル!」
叫んでみたが返事はない。傘だけでも持ってこればよかった。ずぶ濡れの髪からしたたる雨水で視界が遮られる。公園の足跡をたどると、それは集会場となっている掘っ立て小屋に向かっていた。
鍵がかかっていない小屋のドアを開ける。土足となっている小屋の中は土のニオイが充満していた。電気の付いていない建物内へと一歩踏み入れると、泥の付いた靴底がじゃりっと音を立てた。
「ハル? いるん?」
陽平の呼び掛けに返事はないが、小屋の奥の方に気配を感じた。
「こんなとこで何してるん」
美陽であろう何かに近づいていく。その影は座り込んでいるのか黒い塊になって見えた。「帰ろう?」とその肩に手をかけようとした時、稲光が部屋の中を照らす。一瞬明白にうつった美陽の手が、口が真っ赤に染まっているのが見えた。そしてしゃがみ込んでいる美陽が何かを大事に抱えている。子供用のラグビーボールほどの大きさのそれが何か、最初は分からなかった。しかし土のにおいに混じり、生臭いにおいがツンと鼻をさす。
「何持ってんの」
陽平が美陽の前にしゃがみ込み、それを取り上げようとした時、ゴトっと音を立てソレが床に転がった。暗がりに慣れた目がソレをはっきりと映した。
カラスだ。腹が抉られたカラスの死骸だ。
ようやく美陽の赤く染まった手と口元のワケが分かった。
「ハル! お前何した!」
「動物に危害を加えるのはただの戯れや」—蘆屋の言葉を思い出す。陽平が美陽の肩を掴むと、呆けたように宙を見つめている。どこか楽しそうに見えるその顔はまるで幼い子供のようだった。
「ハル? ハル! 聞こえてる!? なあ!」
軽く揺さぶってもその瞳が陽平に向く事はない。さらに転がったカラスを拾い上げ遊ぼうとする始末。思わずカラスに伸ばす手を叩き払った。美陽の手を染めた血のぬるっとした感触が伝わる。ぽたぽたと顎から垂れる血液は、まるで幼子の食べこぼしのように悪意なく滴る。
焦点の定まらない瞳、上がる息、その内うーうーと唸り出し体が震えだす。何度名前を呼ぼうとも視線が合わない。美陽が戻ってこない。
「頼むから、俺やって、なあ、陽平やって分かってや!」
その体に腕を回しぐっと引き寄せる。自分の体に美陽をうずめさせ必死にしがみつく。唸りながらもがく美陽を離すまいと強く抱きしめる。
「なあ! 怖いって! マジで! 怖いって! 戻ってこいって、はよお! 連れていくなって‼ 美陽を返せって‼」
今まで出したことのないくらい大声で叫ぶ。
「ハルを返せって‼」
お願いやから、とぎゅっと美陽の肩に顔をうずめる。
「お前誰やねん」
か細く吐き出した言葉にだんだんと美陽の息が鎮まっていく。ぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら陽平が美陽に縋りつく。雨か涙かも分からない、もう陽平の体はわけの分からない感情でびしょびしょになっていた。
ずしりと陽平の体に重いものが寄りかかる。眠ったのか意識を失ったのか、その顔は陽平の知っている美陽のものに戻っていた。
数時間後。外が明るくなった頃、一度外へ出ていた陽平が家に帰ってくる。その足で美陽の部屋へ向かう。部屋の時計を見るとまだ朝の七時半を過ぎたところだった。長い夜に感じた。ベッドで静かに眠っている美陽を確認すると、ようやく安心したように陽平が座り込む。太陽の光が窓から注ぎ込み、その柔らかな光が美陽の肌に落ちる。目元にかかった前髪をかき上げてやる。こんなにも陽の光が安息をもたらしてくれるなんて、感じたこともなかった。ベッドを背もたれにし、陽平が座り直す。
「ビンゴかよ」
はあと息をつき、天井を仰ぐ。すると布団がもぞもぞと動いた。美陽が薄目を開け、眩しそうにする。
「起きた?」
ヨウと声を掛けようとした瞬間、美陽が吐き気に襲われえ思わずえずく。
「なに、臭い、気持ち悪っ」
「洗面器と歯ブラシ持ってくるから、ちょっと待ってて」
「は?」と現状を飲み込めない美陽が口の違和感と状況に顔をしかめる。慌てて一式を持ってきた陽平がとりあえず口を濯げと要求する。口に含んだ水を吐き出すと僅かに血が混じった唾液が洗面器を汚した。
「俺、何した? てか、お前なんかボロボロやん」
詳細な記憶はないらしい。しかし記憶がない事は分かっているらしい。ボロボロなのは美陽の方だった。血色が悪くダルそうな美陽に昨晩の事を陽平が話した。一通りの話を聞くと、鼻に纏いつく生臭さと口内の不快感に合点がいったようだった。それと同時に自分への嫌悪感が美陽を蝕む。被った布団にぎゅっと顔を押し付け丸まった。
「口の中のもん、出来るだけ搔きだしたんやけどな」
「どうやって……」
美陽の目が布団から覗く。
「限界があって」
「え、だからどうやって」
陽平がうえっと舌をだし気持ち悪がる。
「なあ、ハル」
「ん?」
振り向いた美陽の目の前に陽平の真剣なまなざしが現れる。少しだけ吊り上がった目じり、美陽のモノより丸い形をした目の中に茶色い瞳が鎮座している。目頭からピンクの涙丘がはっきりと見える。陽平のそれは猫目というやつだった。その目でまっすぐに見つめられると、力強さに目を逸らせなくなる。
「ヨウ、何?」
「なあハル、俺らは頼る相手を間違ってたんかもしれん」
「頼る相手?」と美陽がしばらく考えて、「あっ」と声にならない声をあげる。うんと陽平が一度頷いた。
「俺抜きで内緒話か?」
「そうじゃないって」
へらっと笑った顔でごまかす。面白くなさそうに美陽が自転車を押し出した。帰り道はあえて自転車を押して歩く。何も言わずただ歩いていた。たぶんお互いに話したい事がある。なかなか言い出せない気まずさが漂い始める中、「なあ」と静かに美陽が口を開いた。
「言いたい事あるんやったら言えよ」
思った通りの美陽の言葉に陽平がぎゅっとハンドルを握り締める。
「ごめん」
その言葉は聞き飽きたと美陽がため息をつく。
「俺、ほんとに鬼になっていくんかな」
今度は美陽の予想外の言葉に伏せていた顔を勢いよく上げる。
「ならへんよ。ならへんって」
「鬼になったらどうなるんやろ。人としての自覚も無くなるんやっけ。狂暴化して、動物も襲うんやっけ。それって人ではなくなるねんな。俺じゃなくなるってことやんな」
陽平が美陽の家の庭に落ちていたスズメを思い出した。「いやいや、そんな事」と頭を振る。
「おっきい組織あるって言ってたよな。そういうのが鬼を排除したりするんかな」
「悪い方に考えんなって。助けてくれる団体かもしれんやん。それに鬼にならんようにって蘆屋も考えてくれてるし」
カラカラカラと車輪の回る音が響く。
「南、俺見て怯えたよな」
「それは」と陽平が言葉を詰まらせる。カラカラと鳴る音がだんだんと遅くなる。次第に音が止まると美陽が立ち止まった。
ついてこない美陽に振り返る。美陽が項垂れ、体全身が力んでいるように見えた。「ハル?」と呼んでも顔をあげない。
「俺じゃないって思おうとした。でも思おうとしたってことは、心当たりがあるねん」
「南の事?」
「関係ないふりしてやり過ごせば、もしかしたら間違いやったで終わるかもって。でもあんなん、確定やん」
美陽の傍まで引き返すと隣に自転車を停める。
「南が戻らんかった日、どうしてた? 俺、連絡してんで」
「記憶なくて。気付いたら寝てた。でも朝起きたらやっぱり知ってんねん、南が厳霊山に行ったこと。彷徨って、戻れなくなって、遭難した事。なのに知らんふりして。お前と探すふりして」
美陽の顔を覗き込みながら、陽平がなんども頷きながら話を聞く。
「ハルのせいじゃないやん。鬼がやったことやん」
「南が厳霊山行ったの分かってて、黙ってたんは俺やで!」
美陽がうずくまり自転車に顔を伏せる。ハンドルを握る手にぐっと力が入る。
―気持ち悪い。体の調子が悪くなるのは鬼のせいだろうか。そうじゃない。これは自分への自己嫌悪だ。
「ハル、大丈夫? また気分悪い?」
「ヨウ、俺に優しくすんなって」
「俺がいるから、俺がなんとかするから」
「お前がいるから、お前がいたらあかんねんて」
「大丈夫、大丈夫やからな」
陽平が美陽の背中を優しく包む。陽平の与える温かさが美陽をつけあがらせる。気持ち悪いのに、また優越感に溺れていく。
「夏休みの最後の一週間、親が出張で家を空ける」
そう相談されたのは南の件があった次の日。そのため美陽が留守を任された。自分が何をするか分からない、不安だから監視してほしい。美陽からの提案だった。もちろん監視なんて形を取る気はない。ただ何かあった時の為に、ただ一緒にすごそうと陽平が提案し直した。あまりにも美陽が不安そうにしているので陽平が泊まり込むことを決めた。
「俺の家に来たらいいのに」と陽平は勧めたが、ずっと世話になるのは悪いとやはり美陽は遠慮する。なのに陽平には多少のわがままを言う。それはそれで嬉しいと思ってしまう。
夏休みも美陽は夏期講習やら自主学習やらで学校の方に出かけていく。何かあればすぐに連絡するようにと伝えていたが、美陽はケロっとしていたので、陽平も心配しすぎないようにしていた。それに陽平は陽平で昼間は用向きがあると言い、出歩いていた。その中の一つが蘆屋と会うことだった。美陽も陽平が隠れて蘆屋に会いに行っていると薄々気づいていた。しかし、それで陽平のモヤモヤとした気が晴れるならとあえて詳細を聞く事はしなかった。
一方陽平は、美陽に言えないでいたことがあった。それは沼の近くで見た鳥の死骸だった。美陽がそれを知っているかは分からない。気になって一人で沼のあたりへ行ったときに見つけた。そしてどうしてかその死骸をそっと沼へ落とし、隠した。
鬼を体から出すために必要だと通っていた沼で、明らかに美陽の仕業だと思われる現象が起きている。いや、美陽の仕業というわけではなく、美陽の中の鬼の存在が大きくなっているのだと陽平は考えた。だから一人蘆屋の元へ赴き問い詰めた。もっと確実な方法はないのかと尋ねたが、「ない」の一点張りだった。じゃあ、もし美陽が完全に鬼に飲み込まれたらどうなるかと尋ねれば、その先は組織にしか分からないと曖昧な回答が返ってきた。
「だって、陽平くん。ここ最近で鬼を孕んだ事象なんてほとんどないんやから、俺にだって分からんよ」と一向に真剣みが感じられない。
「それならハルを今すぐ保護してやってくれよ。そしたらなんか術があるんとちがうん?」
「そんな素性分からん団体に美陽くんを預けて大丈夫? 保護って安全が保障されるとは俺は思ってないよ。身の安全がね。だから俺だって知られずに何とかしたいって思ってるんやで?」
そう言われればもはやどうすることが一番良いのか分からなくなってくる。鬼に関する組織? そんなものはネットでいくら調べてもヒットしない。本当にあるのか、ないのか、噂さえも聞こえてこない。今は蘆屋が「鬼の存在を知っている」事だけが真実であり、信じられる唯一の事実だった。だからといって陽平は蘆屋だけを信じるわけにもいかないと考える。美陽を守れないなら、それは味方でも協力者でもない。信じられるのは、美陽を守れるのは自分だと、自負するために証明が必要なのだ。
泊まり込み三日目。嫌な予感がする。なぜなら朝から篠突く雨が止む気配がない。案の定電車は止まり、一日陽平と美陽は二人ですごした。部屋の中は雨音だけが聞こえる。二人とも静かなのは、陽平が美陽の勉強に付き合って問題集とにらめっこをしているからではない。お互いに言葉に出来ないでいる、触れられないでいる。そんな状態が一日中続いていた。コチコチとプレッシャーをかけるように鳴り続ける時計は夕方五時過ぎを示していた。
「ハル、晩飯さ」
「今日も出前にするから」
「いや、でもお金かかるし」
美陽の母親はご飯代にと現金を残している。しかし作れば節約になるのではと陽平が何度も提案していた。
「同じ鍋や食器使うわけにはいかんから。食を分ける定義が曖昧やし」
「そんな神経質にならんでも。ほら、まえ昼飯食った後もなんもなかったやん」
それでも楽観的な陽平をピシャリと遮断した。
晩御飯を食べる間、お風呂上りにくつろぐ時間、いつも陽平はカラカラと笑いながらお喋りをする。そして美陽が楽しそうに相槌を打つ。傍から見ればリラックスしているように映るかもしれない。しかし、やはり二人の間に流れる緊張感はぬぐえなかった。夜も遅くなれば、美陽がうつらうつらと重い瞼に抗い始める。
「ハル、寝たら? 俺が起きとく」
「いや、そういうわけには」
「怖い? 俺が見といたるから」
「ヨウも眠いのに、今日だけは」
ザーザーと空気中に流れる雨音は、心を癒すヒーリングの効果を持つこともあるだろう。しかし今はその音が怖く感じないといえば嘘だった。
「今は全然眠くないし、俺も雨やんだら寝る」
美陽が自分のベッドにもぐり、陽平はその下に敷かれた布団に寝転がった。電気が消えた天井を見つめる。だんだんと目が慣れてくると、壁紙の模様をとらえることができた。
人の意識とは伝わるものなのだろうか。しばらくは美陽が起きている事を感じて取れた。しかしどこかのタイミングで美陽の意識がスッと消えた。すると空気が静かになる。まるで真空空間に放り込まれたように自分以外の存在を感じなくなる。だんだんと張りつめていた緊張感が薄れていく。重くなった瞼をこすりながら、陽平は現実世界に留まろうともがいていた。
ドカンと脳に響いた音で目を覚ます。しまったと陽平がとっさに飛び起きた。
「ハル!?」
ばちばちと窓を打ち付ける雨音に、雲の中を巨大な何かが移動しているような鈍い轟きが聞こえてくる。
「マジかよ!」
ベッドの中に美陽の姿がない。めくりあがった布団としわの寄ったシーツからは美陽の体温が伝わってくる。「新鮮」。そんな言葉が浮かぶ様だった。
何度も名前を呼びながら家中を探す。家の中に美陽の存在を感じられない。
―ここにはいない。
慌てて着の身着のまま外へ飛び出す。運よく微かな泥の足跡が庭から続いていた。消えないうちに後を追う。消えかけた足跡が公園に繋がっている。公園内のぬかるんだ地面がぽつぽつと陥没している。
「ハル!」
叫んでみたが返事はない。傘だけでも持ってこればよかった。ずぶ濡れの髪からしたたる雨水で視界が遮られる。公園の足跡をたどると、それは集会場となっている掘っ立て小屋に向かっていた。
鍵がかかっていない小屋のドアを開ける。土足となっている小屋の中は土のニオイが充満していた。電気の付いていない建物内へと一歩踏み入れると、泥の付いた靴底がじゃりっと音を立てた。
「ハル? いるん?」
陽平の呼び掛けに返事はないが、小屋の奥の方に気配を感じた。
「こんなとこで何してるん」
美陽であろう何かに近づいていく。その影は座り込んでいるのか黒い塊になって見えた。「帰ろう?」とその肩に手をかけようとした時、稲光が部屋の中を照らす。一瞬明白にうつった美陽の手が、口が真っ赤に染まっているのが見えた。そしてしゃがみ込んでいる美陽が何かを大事に抱えている。子供用のラグビーボールほどの大きさのそれが何か、最初は分からなかった。しかし土のにおいに混じり、生臭いにおいがツンと鼻をさす。
「何持ってんの」
陽平が美陽の前にしゃがみ込み、それを取り上げようとした時、ゴトっと音を立てソレが床に転がった。暗がりに慣れた目がソレをはっきりと映した。
カラスだ。腹が抉られたカラスの死骸だ。
ようやく美陽の赤く染まった手と口元のワケが分かった。
「ハル! お前何した!」
「動物に危害を加えるのはただの戯れや」—蘆屋の言葉を思い出す。陽平が美陽の肩を掴むと、呆けたように宙を見つめている。どこか楽しそうに見えるその顔はまるで幼い子供のようだった。
「ハル? ハル! 聞こえてる!? なあ!」
軽く揺さぶってもその瞳が陽平に向く事はない。さらに転がったカラスを拾い上げ遊ぼうとする始末。思わずカラスに伸ばす手を叩き払った。美陽の手を染めた血のぬるっとした感触が伝わる。ぽたぽたと顎から垂れる血液は、まるで幼子の食べこぼしのように悪意なく滴る。
焦点の定まらない瞳、上がる息、その内うーうーと唸り出し体が震えだす。何度名前を呼ぼうとも視線が合わない。美陽が戻ってこない。
「頼むから、俺やって、なあ、陽平やって分かってや!」
その体に腕を回しぐっと引き寄せる。自分の体に美陽をうずめさせ必死にしがみつく。唸りながらもがく美陽を離すまいと強く抱きしめる。
「なあ! 怖いって! マジで! 怖いって! 戻ってこいって、はよお! 連れていくなって‼ 美陽を返せって‼」
今まで出したことのないくらい大声で叫ぶ。
「ハルを返せって‼」
お願いやから、とぎゅっと美陽の肩に顔をうずめる。
「お前誰やねん」
か細く吐き出した言葉にだんだんと美陽の息が鎮まっていく。ぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら陽平が美陽に縋りつく。雨か涙かも分からない、もう陽平の体はわけの分からない感情でびしょびしょになっていた。
ずしりと陽平の体に重いものが寄りかかる。眠ったのか意識を失ったのか、その顔は陽平の知っている美陽のものに戻っていた。
数時間後。外が明るくなった頃、一度外へ出ていた陽平が家に帰ってくる。その足で美陽の部屋へ向かう。部屋の時計を見るとまだ朝の七時半を過ぎたところだった。長い夜に感じた。ベッドで静かに眠っている美陽を確認すると、ようやく安心したように陽平が座り込む。太陽の光が窓から注ぎ込み、その柔らかな光が美陽の肌に落ちる。目元にかかった前髪をかき上げてやる。こんなにも陽の光が安息をもたらしてくれるなんて、感じたこともなかった。ベッドを背もたれにし、陽平が座り直す。
「ビンゴかよ」
はあと息をつき、天井を仰ぐ。すると布団がもぞもぞと動いた。美陽が薄目を開け、眩しそうにする。
「起きた?」
ヨウと声を掛けようとした瞬間、美陽が吐き気に襲われえ思わずえずく。
「なに、臭い、気持ち悪っ」
「洗面器と歯ブラシ持ってくるから、ちょっと待ってて」
「は?」と現状を飲み込めない美陽が口の違和感と状況に顔をしかめる。慌てて一式を持ってきた陽平がとりあえず口を濯げと要求する。口に含んだ水を吐き出すと僅かに血が混じった唾液が洗面器を汚した。
「俺、何した? てか、お前なんかボロボロやん」
詳細な記憶はないらしい。しかし記憶がない事は分かっているらしい。ボロボロなのは美陽の方だった。血色が悪くダルそうな美陽に昨晩の事を陽平が話した。一通りの話を聞くと、鼻に纏いつく生臭さと口内の不快感に合点がいったようだった。それと同時に自分への嫌悪感が美陽を蝕む。被った布団にぎゅっと顔を押し付け丸まった。
「口の中のもん、出来るだけ搔きだしたんやけどな」
「どうやって……」
美陽の目が布団から覗く。
「限界があって」
「え、だからどうやって」
陽平がうえっと舌をだし気持ち悪がる。
「なあ、ハル」
「ん?」
振り向いた美陽の目の前に陽平の真剣なまなざしが現れる。少しだけ吊り上がった目じり、美陽のモノより丸い形をした目の中に茶色い瞳が鎮座している。目頭からピンクの涙丘がはっきりと見える。陽平のそれは猫目というやつだった。その目でまっすぐに見つめられると、力強さに目を逸らせなくなる。
「ヨウ、何?」
「なあハル、俺らは頼る相手を間違ってたんかもしれん」
「頼る相手?」と美陽がしばらく考えて、「あっ」と声にならない声をあげる。うんと陽平が一度頷いた。
