わたしの可愛い狆が皇帝陛下だなんて聞いてません!

 夕方、狆の姿のヂョンヂョンがやってきた。
 後宮内ではいまだに狆捕獲大作戦が続いているが、十三妃の宮まで探しにくる者はいない。
 今日ユェシャンがタオリンの宮で吹聴した蟲毒の一件がすでに噂になっているようだから、なおさら遠巻きにされているだろう。
 ユェシャンにとってもヂョンヂョンにとっても好都合だ。
「ヂョンヂョン、荷物を見つけてくれてありがとう! 呪いの解き方がわかったわよ」
 書物を取り戻せたことで、天狗食の呪いの解呪方法も判明した。
 ヂョンヂョンが大きな黒目をさらに大きくして膝に飛び乗ってくる。

「天狗日食が完了する瞬間、金環が見えたところで解呪薬を一気に呑み干せばいいわ。薬の作り方もわかったし材料も揃ってる。ひとつ問題があるとすれば――」
 ユェシャンの説明にヂョンヂョンはおとなしく耳を傾けている。
「呪いをかけた術者の体の一部が必要なことかしら」
 ヂョンヂョンの体の一部が呪いに使われたのと同様、解くためには相手の物が必要となる。
 髪の毛でも爪でもなんでもいい。
「それをね、事前に食べておかないといけないのよ」
 ヂョンヂョンの顔がスンッとなった。
 他人の髪を食べるなど、気持ちのいいものではないのはわかるが仕方ない。
 一生狆の姿のまま過ごすよりはマシだ。
「天狗に完全に食われてしまう前に、相手を食ってやるの。我慢してちょうだい」
 ヂョンヂョンの背中をやさしく撫でる。
 いつものように夕餉を分け合って食べると、ヂョンヂョンの機嫌も良くなった。
 天狗日食に向けて、食事は徐々に質素になっている。
 あと三日。それまでに術者を見つけなければならない。

「おい、起きろ」
 またもや不愉快な声で起こされた。窓の外は白んでいる。
 ヂョンヂョンはぐっすり眠って目を覚ますのが送れただけか、それとも狆の姿でいる時間がそれだけ伸びたのか。
「それで、術者を探す方法は?」
 ふあっとあくびをしたユェシャンが起き上がる。
「そんなのきまってるじゃない。また匂いを辿るのよ」
「…………」
 なぜ自分が――とでも言いたげな不満顔をされても困る。
 そもそも巻き込まれたのはユェシャンのほうだ。
「自分で気づいているかわからないけど、今あなたの体からは天狗食の呪い独特の匂いがするわ」
 黒霊芝を煮詰めて乾燥させたような香りだ。しかもだんだん強くなってきている。
「その匂いを追っていけば、自ずと辿り着けると思う。ついでに髪の毛をもらってくるといいわね」
 ヂョンヂョンは渋々といった様子で頷いた。
 犬に変身する呪いを解くために、犬の能力を最大限活用しなければならぬことが複雑なのだろう。
「あれこれ不満はあるだろうけど、狆に変身させたことを後悔させられると思うわ」
「そうだな」
「一緒に、ざまあみろって笑ってやりましょ」
 ユェシャンはヂョンヂョンを鼓舞するように拳を握る。
 小屋を出ていく時、彼は不意に振り返りなにか言いたそうな顔をした。
 しかし、結局無言のまま去っていった。

 にこやかに手を振り見送ったユェシャンが、スッと真顔に戻る。
 匂いで辿ればいいと、こともなげに言ったものの実はそこまで容易ではない。
 ユェシャンの荷物は後宮内にあるとわかっていたから簡単だったのだ。
 もしも匂いが残っていなければ、すでにすべて処分済みだとあきらめればいい。
 しかし今回は術者が後宮内にいるかわからない上に、いなかったとしてもあきらめるわけにはいかない。
 術者がもしも遠方にいれば、匂いを辿って見つけたとしてヂョンヂョンはここまで戻れるだろうか。
 残された日数は限られている。
「わたしは、わたしにできることをしないとね」
 良質の解呪薬を作ってみせようではないか。
 ユェシャンも決意を新たにした。

 この日と次の日、ヂョンヂョンは姿を見せなかった。
 狆が捕まったと聞いてはいないため、必死に術者を追っているにちがいない。
 ユェシャンは、待っている間に解呪薬作りに取り掛かった。
 主成分はトリカブト、白霊芝(びゃくれいし)、甘草。
 白霊芝は乾燥させたものを故郷から持ってきている。トリカブトと甘草は小屋の裏の畑にあった。
「これまでの十三妃たちに感謝しないといけないわね」
 トリカブトの球根は猛毒で有名だが、弱毒化すれば体内の気を瞬時に巡らせる特効薬となる。
 ユェシャンは畑から球根を掘り起こした。
 弱毒化には塩漬けと燻製のふたつの方法があるが、塩漬けは間に合わない。
 煙を吸わぬよう風向きも考慮しながら慎重に燻す。
 十三妃のあばら家から奇妙な煙が上がって気味悪がられても、なにも問題ない。
 すでに十分嫌われているし、近づく者がいないほうがいい。
 それぞれすり潰した粉を呑みやすいように蒸留水に混ぜたら完成だ。
「よし! 会心の出来だわ!」
 前日にようやく薬が完成しユェシャンがホッとひと息ついた時、小屋の戸が叩かれた。
「ヂョンヂョン!」
 勢いよく戸を開ける。
 しかし、そこにいたのはヂョンヂョンではなくバイリーだった。

「おっと、待ち人ではなく申し訳ございません」
「ええっと……そういうのではなくてですね……」
 しどろもどろになるユェシャンの様子がおもしろいのか、バイリーが目を細める。
「本日は十三妃様への招待状をお持ちいたしました」
 差し出された紙を受け取り文字を追う。
【第十三妃・蠱月香を天狗日食の儀に招待する】
 御璽が押してある。
(これは断れないやつだわ)
 それでもと、ユェシャンは抵抗を試みた。
「前日に急に言われましても……先日金子を頂いたばかりで、十三妃様は儀式に参加できるような衣装をお持ちではありません」
 しかしバイリーも引き下がらない。
「こちらで用意しましょう。明朝、支度の女官も派遣しますのでご心配なく」
 ユェシャンは前髪に隠された眉根を寄せた。
「……ひとつだけお願いがございます。同伴者を連れて参加してもよろしいでしょうか」
「かまいません。ちなみに、どなたでしょうか」

 明日の天狗日食は、この小屋の外でヂョンヂョンと太陽が食われていく様子を眺めながら呪いを解く算段だった。
 しかし儀式に出るとなれば連れていくしかない。
「宦官か飼い犬のどちらかです」
「なるほど?」
 バイリーが一瞬笑った気がする。
 おかしな要求をしている自覚はあるが、これだけは譲れない。
 どう言い繕おうかとユェシャンが思案していると、先にバイリーが口を開いた。
「いいでしょう。許可します」
「へ?」
 思いもよらぬ返答に、間抜けな声が漏れる。
「では、諸々よろしくお願いしますね」
 バイリーは呆気にとられるユェシャンを置いて行ってしまった。

「困ったわ……」
 天狗日食の儀は国家行事だ。
 大勢の参加者たちが集まる中でうまく立ち回れるだろうか。
 頭を抱えるユェシャンの耳に、再び戸を叩く音が聞こえた。
 今度は慎重に開く。
 待ち焦がれていたヂョンヂョンは、狆の姿をしていた。
 驚いたことに口元や体は血に汚れ、足を引きずっているではないか。

「どうしたの!?」
 ユェシャンは慌てて小さな体を抱き上げ、寝台へと運ぶ。
 蒸留水で顔と足を拭いてみると、出血しているのはどうやら右前肢だけのようだ。
「清潔な蒸留水が余っていてよかった。待っててね、いま止血するから」
「キュウゥン……」
 ユェシャンは外へ飛び出し、畑で蓬の葉を摘んで戻ってきた。
 蓬をよく揉んで、ヂョンヂョンの傷口へ貼り付ける。そして上から布を巻いた。
 深皿に水を注いで差し出すと、ヂョンヂョンは水滴を飛び散らしながら勢いよく飲んでいる。

 どこかで酷い目に遭ったのだろう。
 ユェシャンはいたたまれない気持ちでヂョンヂョンを見つめた。
「知っていると思うけど、今日は夕餉がないの」
 ここから天狗日食の儀が終わるまで断食となる。
「水だけで我慢してね」
 ヂョンヂョンの濡れそぼった口の周りを布でやさしく拭き取った。
「さっき口の周りについていた血は、誰のもの? もしかして術者?」
 ヂョンヂョンがこくりと頷いた。
 術者を見つけて噛みついたのだろうか。だとすれば血を舐めたのだから、術者の体の一部を食べる目的は達成したことになる。
「こっちの薬も、もう完成しているから安心してちょうだい」
 本番を前にふたりで最終確認をしたいところだが、もしかするとヂョンヂョンと言葉を交わせないままになるかもしれない。
 そこまで考えが至らなかったことに、ユェシャンは歯噛みした。
 
「ヂョンヂョン、ずっとわたしのそばにいてね。なにがあっても守るから」
 再びこくりと頷くヂョンヂョンをそっと抱きしめて、眠りについた。