わたしの可愛い狆が皇帝陛下だなんて聞いてません!

「あんな破廉恥な男にくれてやるために縫い続けていたわけじゃないのに!」
 ユェシャンは地団太を踏んだ。
 全裸の男と同衾していたことよりも、大事な掛け布を奪われた衝撃のほうが大きい。
 あれがなければ冬が越せない。
「また最初からやり直し……? はあ~っ」
 大きなため息をつき肩を落としながら朝餉を受け取るために回廊を歩いた。

 御膳房は、狆の話題で持ちきりだ。
「すばしっこいヤツでしたね」
「罠を仕掛けておいたほうがいいんじゃない?」
 昨晩、一緒に寝たはずの狆は破廉恥な男に驚いて逃げ出したのか、目を覚ました時にはいなくなっていた。
「肉があればおびき寄せられたのに、あいにく今日から肉は禁止だし」
 それを聞いてユェシャンは、おや?と首を傾げる。
「しばらくお肉が食べられないのですか?」
 食盒を差し出す厨番が、呆れたように説明した。
「知らないのかい。もうすぐ『天狗(てんこう)日食』だよ」
 あることに思い当たったユェシャンは、食盒を落としそうになった。
「おっと、大丈夫かい?」
「日食はいつですか!?」
 ユェシャンの剣幕に驚きながら厨番が答える。
「四日後だよ。だから今日からだんだん食事が質素になる。十三妃様にもそう伝えとくれ」
「わかりました」

 ユェシャンは激しく動揺しながら小屋へと戻った。
「大変だわ……!」
 天文師たちのたゆまぬ観測と考証の結果、いまでは日食の周期が正確に予測できる世の中になった。
 昼間に徐々に太陽が欠けてゆく日食。それは天狗が太陽を食べるせいだと言われている。
 天狗は羽を持つ犬に似た神獣だ。
 皇帝は太陽の象徴。だから太陽が天狗に食われても皇帝が命を落とさぬよう、儀礼が執り行われる。
 食事を質素なものとし徳を高めるのもその一環だ。
 それはいいとして。
「早くあの男を探さないと」
 焦るユェシャンのもとへ、その男が現れた。

「先ほどは失礼した」
 光沢のある濃紺の長袍、腰には紅の玉帯、黒い幞頭。高位の宦官の服装だ。
 やはり破廉恥男は宦官だったらしい。
 手には、大事な掛け布を丁寧に折りたたんだ状態で持っている。
「ありがとう! 返しにきてくれたのね」
 ユェシャンはその腕を掴んで、男を小屋へ引き入れた。
「私の失態は改めて謝罪したい。それよりも、後宮の管理を担う立場として謝罪しなければならない。これまであなたを蔑ろにしてきた件で……」
「そんなことはどうだっていいわ」
 ユェシャンは、男が回りくどく謝罪しようとする言葉を遮った。

「あなた、このままだと四日後に完全に狆になってしまうわよ?」
「……どういうことだ」
 男は形のいい眉を寄せて怪訝な顔をする。
「あの狆の正体は、あなたなんでしょう?」
 ユェシャンは声を潜めて続けた。
「誰かに狆になる呪いをかけられたのよ。その呪いは日食が完全になると同時に完成して、あなたはもう人間に戻れなくなるわ」
 男の茶褐色の目が揺れる。
「その根拠は?」
 しばし男を見つめたユェシャンは、意を決したように己の前髪を上げた。
 あれこれ説明するより、こちらのほうが早い。
 現れた菫色の目に男が息を呑んだ。
「黙っておいてもらいたいんだけど、わたしは十三妃なの。蠱氏が呪いや毒に長けているのは知っているでしょう?」
「なるほど」
 呪いを現実のものとして受け止めたのか、男の纏う雰囲気が重苦しいものへと変わった。

「あなたの名は?」
「言えない」
 男はそっけなく答える。
(こちらは秘密を打ち明けたというのに、名前すら言いたくないのね)
 嫌われるのには慣れているけれど、いい気はしない。
「名前を知ったからって、べつに呪ったりなんかしないわよ?」
 それでも男は申し訳なさそうに首を横に振った。
「蠱氏が理由ではない。もっと個人的な事情だ」
 ユェシャンは肩をすくめる。
「わかったわ。名前がないと不便だから、わたしだけが使うあだ名をきめてあげる」
 しばし思案して、ぽんと手を叩く。
「あなたは狆狆(ヂョンヂョン)よ!」
「え……」
「異論は認めないからね」
 文句があるのなら名を名乗れと無言の圧をかけると、男が折れた。
「いいだろう。特別に許してやる」
 なんでこんなにも偉そうなのか――そんな疑問を抱いている場合ではない。
 彼にかけられた呪いは一刻の猶予を争うものだ。
 
「さあヂョンヂョン、早速質問よ。最近、黒霊芝(くろれいし)や黒い花の入った食事を摂らなかった?」
 昨日よりも匂いが強くなっている。
 日食に向けて着々と呪いが進行している証拠だ。
 ヂョンヂョンは顎に指をかけて記憶を手繰り寄せた。
「そういえば、工芸茶の中に黒霊芝と黒百合が入っていた」
「そのふたつには光を吸収する効果があるの。つまりヂョンヂョンはいま、陽の気を吸い取られている状態ね」

「いや、あの茶は私だけでなく数人で飲んだ。その全員が呪いにかかっていると?」
「おそらく一緒に飲んだ人が、あなたの呪いに関係しているのだわ。『天狗食(てんこうしょく)の呪い』は、陽の気がよわくなった人の髪や爪を触媒にして呪いを発動するの」
 髪一本ぐらい、入手するのは容易だろう。
 天狗に陽の気を完全に食べられてしまうと、天狗に似た姿へと変わり戻れなくなる。
 だからヂョンヂョンは狆に変身するというわけだ。

「もしも日食が起こらなかったら?」
「いい質問ね。その場合は、犬になっている時間が長くなるだけで人間に戻れるわ」
 天狗日食は頻繁に起こるものではない。
 前回、この国で天狗日食が起きたのは三百年以上前だったはずだ。
 この呪いを完遂する機会は、約三百年に一度。
 一般的には知られていない呪いであるため、ユェシャンも御膳房で日食の話を聞くまでピンときていなかった。
「この国には生息していない黒百合をわざわざ異国から取り寄せた周到さといい、あなたを呪っている人は相当な博識ではないかしら」

 ヂョンヂョンが黙り込む。
 呪いをかけた人物に心当たりがあるのだろう。
「それで……その呪いとやらは、どうすれば解けるんだ?」
「そこまで覚えてないわ」
 即答したユェシャンを、ヂョンヂョンは口をぽかんと開けて見つめ返す。
 さんざんしたり顔で語っておきながら、それはないだろうと思っているにちがいない。
「仕方ないじゃない、三百年に一度しかかけられない呪いの解き方までいちいち覚えてなんていられないわよ」
 ただし、とユェシャンは続ける。
「わたしの荷物の中にいくつか書物があるはずなんだけど、そこには書いてあるかもしれない」
「荷物はどこに?」
 ヂョンヂョンはなにもない小屋をぐるりと見回している。

「輿入れの日に没収されたままよ。後宮って陰険なことをするのね」
 宦官を責めても仕方ないとわかっているが、文句のひとつも言いたくなる。
 ヂョンヂョンはきまり悪そうな顔をして目を逸らした。
「……調べたところ、本来この宮に支給されるはずの金子(きんす)もくすねている者がいた」
「どうせそんなことだろうと思っていたわ」
 ユェシャンがふんすと胸を張ると、ヂョンヂョンがふと表情を緩めて微笑んだ。
「逞しいのも考え物だな」
 笑いごとではないと言い返したいのに、なぜか心臓がドキンと跳ねて二の句が継げない。
 頬を赤く染めるユェシャンを知ってか知らずか、ヂョンヂョンが続ける。
「では、その荷物をまず探すとするか。皇帝が勅命すればすぐにでも――」

 せっかく小さく深呼吸して気を取り直したというのに、ヂョンヂョンの発言でユェシャンの心臓はまた跳ねた。
「あなたの呪いを解くために陛下が動くほど可愛がられているの!?」
 そんな立ち位置にいる宦官と同衾したとバレたらどうなるか……。
 後宮を追い出されるのなら故郷へ戻ればいいから幸運だが、首を刎ねられるかもしれない。
 青ざめるユェシャンを見て、今度はヂョンヂョンが慌てだした。
「いや、そういうんじゃない。ええっと、いまの話は無しだ。穏便に荷物を探すにはどうすればいい?」
 呪われていると知って動揺したせいで、皇帝の力を借りるといったおかしな発言をしていただけだったようだ。
「きまってるじゃない。狆に変身したら匂いを辿っていけばいいのよ。犬は人間よりも鼻が利くもの」
「なん……だと……?」
 犬の嗅覚が非常に優れているのは、猟犬と共に狩りをしていたからよく知っている。
「今日中にお願いね。捕まらないようにだけ気を付けるのよ」
 ユェシャンがにっこり笑うと、ヂョンヂョンも不敵な笑みを浮かべる。
「そうか。では匂いを存分に嗅がせてもらおう」
「えっ!」
 お返しとばかりに羽交い絞めにされたユェシャンは、耳や首に鼻突を当てられさんざん恥ずかしい思いをさせられたのだった。