わたしの可愛い狆が皇帝陛下だなんて聞いてません!

 夕餉を受け取り、宮に戻ったユェシャンの目の前に狆がいる。
 倒壊しかかっているあばら家だ。昨日と同様、どこか隙間から入ってきたのだろう。
「一日ぶりね」
「クウゥゥン」
 うれしそうに尻尾を振る姿に、ユェシャンの頬が緩む。
「やっぱりあなた、リェンメイ様の狆ではなかったのね。顔つきも体つきもちがっていたもの」
 ひょいっと狆を片手で抱き上げたユェシャンは、もう片方の手で後肢の間、つまり股の部分を掴んだ。
 やはり、ある。まちがいなくオスだ。
「キャン!」
 狆が四肢をピーンと伸ばして固まった。
「リェンメイ様の狆はメスだって言われていたわよね」
 独り言ちるユェシャンの隙をついて狆が手から逃れ、棚の陰に隠れた。

「ごめんなさい。びっくりさせちゃったかしら」
 いきなり股を掴んだことを謝罪しても、狆は小さな体をぶるぶる震わせている。
「ご飯はいらないの?」
 ユェシャンが若干傾いた卓子に皿を並べていく。
「今日は珍しくしっかりした夕餉よ……というかね、みんながあなたを探して御膳房にいる人が少なかったから、適当にもらってきちゃった」
 いたすらっぽく笑うと、狆はようやく棚から出てきた。
 (あつもの)に入っている白身魚の身をよく冷ましてから小皿に移す。
 狆はくんくん匂いを嗅いでから美味しそうに食べた。
「いま、みんなが躍起になってあなたを探しているのよ」
 ユェシャンが狆の首の周りを撫でる。
 己の置かれている状況を知ってか知らずか、狆は気持ちよさそうに目を細めた。
「あの時あなたが飛び出してきたのは、リェンメイ様の狆を守るためだったんでしょう?」
 この子は賢そうだから、わかっていて姿を現したのだろう。
 それはいいとして。
「あなたのご主人様は、どこにいるの?」
「キュウン」
 狆は首を傾げるだけだ。
 後宮で飼われている狆は第四妃の宮だけのようだが、宮女がこっそり飼っている可能性も否定できない。
 もしもバレたら宮女ごと処分されかねない。
 それは、いまこうして狆をかくまっているユェシャンにも当てはまることなのだが……まさか十三妃の宮を調べに来る者はいないだろう。
「今日はここに泊まったほうがいいわ」
 夜であっても油断できない。
 捕まってしまえば、確実に処分されるだろう。
 人が一番いない時間帯は夜明け前だ。

「お布団がないから雑魚寝になっちゃうけどね」
 一応、寝台ならある。
 これまでの冬は、捨てられていた衣類にくるまって寒さを凌いできた。
 それを縫って繋ぎ、さらに重ね合わせて分厚くしてきた。
 今年はようやく、すっぽりかぶれる大きさになりつつある。
 ユェシャンは逃げようとする狆を懐に抱いて寝台に寝転がった。
(うわぁ……あったかい!)
 狆の体から漂う不思議な香りが少し気にはなったが、ぬくもりが眠気を誘って思考の邪魔をする。
「おやすみなさい」
 つぎはぎの掛け布をかぶると、ユェシャンはあっというまに眠りについた。

 
「ヒッ……!!」
 夜明け前に目を覚ましたユェシャンは、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
 大声で叫ばなかった自分を褒めたいぐらいだ。
 なんと裸の男に抱かれているではないか。
 長い腕をしっかりユェシャンの背中に回し、懐にすっぽり抱いた状態ですやすや寝息を立てている。
 つやつやの黒髪と傷ひとつない滑らかな素肌から察するに、ゴロツキではなくそれなりの身分だろう。
 しかし……。
(なんで服を着てないの!?)
 どういう状況なのかさっぱりわからないユェシャンだ。
 視線をぐるりと回しても、ここがいつものあばら家であることは間違いない。
 酔っぱらって入ってきたのだろうか。
 いや、そもそも緊急事態でない限り、生殖能力を持った男性の後宮内への立ち入りは厳しく制限されている。
 故意か否かに関係なく、許可なく入ろうとすれば命がけになるはずだ。
 となると、この男は堂々と後宮に入れる身分――つまり宦官だろうか。

 男の下半身を確認しようとユェシャンがもぞもぞ体を動かしたことで、男が目を覚ました。
「ん……?」
 至近距離で目が合うと、男の顔はみるみる驚愕の表情へと変わる。
「うわぁっ! どういうことだ!?」
 ついに大声をあげて寝台から飛びのいた。
(それはこっちの台詞よ)
 ユェシャンはムスッとしながら男を睨む。
「あなた、ここでなにをしているのです?」
 男は戸惑いの色を濃くして視線をぐるりと巡らせた。
「し、失礼する!」
 掛け布を羽織ったまま、脱兎のごとく逃げ去っていく。
「あっ!」
 ユェシャンは慌てて手を伸ばしたが間に合わなかった。
「ちょっと! 掛け布を返しなさいよおぉぉっ!」
 後宮の片隅で、悲痛な叫びが響いた。

 ******

 瑞華国の皇帝シュンウェイは、己の寝殿で頭を抱えていた。
 彼の眼前では、宦官長の白力(バイリー)が腕を組み眉間にしわを寄せて立っている。
「やっと妃の宮へお渡りに行かれたのだと秘かに応援しておりましたのに……」

 シュンウェイはこれまで、特定の妃の宮で夜を明かしたことがない。
 現在二十三歳の健全な男だ。女性に興味がないわけではないし、世継ぎを作らねばならないことも重々承知している。
 しかし先帝――つまりシュンウェイの父親が節操なく多くの妃との間に子をもうけた結果、血みどろの跡目争いが起きた。
 もともと皇位継承権のある男子はシュンウェイを含め七名いた。
 いま生き残っているのは、彼のほかに腹違いの兄と同腹の弟の三名だけ。
 シュンウェイ自身も幼い頃から何度も殺されかけた。
 兄の勇結(ヨンジェ)は聡明だ。彼に皇帝になってもらい自分は弟と悠々自適に暮らそうと思っていたにもかかわらず、なんの因果か先帝が皇太子として指名したのがシュンウェイだった。
 己の過去を振り返るにつけ、いまはまだ子づくりに励む気になどなれない。

 そんなシュンウェイが【心配はいらぬ。探すな】と書き置きを残して寝殿に戻ってこなかった。
 だからバイリーは、ようやく皇帝が重い腰を上げてお渡りに行ったのだろうと期待した。
 真っ先に祝辞を述べようと寝ずに待ちかまえていたバイリーは、裸にボロ布一枚を巻き付けたみっともない姿で戻ってきたシュンウェイの姿に絶句した。
「どんな粗相をして叩き出されたのです? 無理に襲おうとしたのですか?」
「いや」
 シュンウェイはいつもの威厳を捨てて怯えたように首を横に振った。
「逆だ。いきなり股を掴まれて、無理やり一緒に寝かされた」
 バイリーが目を丸くする。
「なんと! 随分と大胆な姫ですね。それでどうにか逃げてきたというわけですか」
 バツが悪そうな顔をしたシュンウェイが、ボロ布に視線を移した。
 
 粗末なあばら家だった。
 どういうわけか狆に変身し、誰かに見つかってはならないと逃げ込んだ小屋にまさか暮らす者がいようとは。
 自分が狆になる。最初は夢でも見ているのかと思った。
 しかし迷惑をかけた狆を処分しようという動きがあると知り、第四妃の飼い犬が疑われているという。
 どう対処すべきか迷っていたら、また狆に変身した。
 夕方になれば変身するやもしれぬと置手紙を書いておいて正解だった。
 そして皆の前へ出て、第四妃の狆ではないと証明したまではよかったのだ。
 シュンウェイは狆に変身すると、なぜかやんちゃになってしまう。
 捕えようと追いかけてくる者たちをおちょくりながら逃げ回り、結局またあばら家に逃げ込んだ。
 
「バイリー。北の端にある、木に押しつぶされそうな小屋に住んでいるのは誰だ」
 首を傾げて思案したバイリーが、思い当たったように答える。
「十三妃様の宮のことでしょうか」
「いまにも崩れそうではないか。おまけにまともな寝具すらなかった」
 バイリーは驚きのあまり言葉を詰まらせた。
「まさか……十三妃様の宮へお渡りを!?」
 その問いには答えず、シュンウェイはため息をつく。
「十三妃が輿入れした報告は受けていない」
 睨みつけると、バイリーはハッとしたように口を噤んだ。
 シュンウェイの声が低くなった途端、ふたりの間にひりつくような空気が漂いはじめた。
「なぜ隠していた」
「十三妃様は大変奥ゆかしい方で、輿入れの儀を拒否されました。さらには、宮の修繕もせずそのままでいいと――」
 言い訳を遮ったシュンウェイが失笑する。
「奥ゆかしい? そんな女がいきなり股を掴むはずないだろう」
「……申し訳ございません。毒婦を陛下に近づけたくなかったのです」

 バイリーはシュンウェイの実の弟でもある。
 だから優しい心根であることや、本当に心配していたのだろうということも理解している。
 しかし。
「誰に入れ知恵されたかは知らぬが、その者をよく調べろ」
「承知いたしました」
 拱手するバイリーに、シュンウェイは意を決したように告げた。

「もうひとつ、おまえに言わねばならぬことがある」