船の汽笛が夜闇を彩る港町、横浜。
西洋風の建物が多く連なるこの街に、一際大きな日本屋敷が1つ。
葛原院、別邸。
そこは自警団の面々が主に暮らす要塞であり、ビジネスの中心地。
「この屋敷ぜーんぶ、爆弾にしていいわけぇ?」
庭の木の陰から、黒い漢服に身を包んだ女性がケタケタと笑う。
武器屋の件で王に怒られた鬱憤でも晴らすように、彼女の声はひどく上ずっていた。
高揚感に身を預けた彼女が一度息を吹きかければ、その物質は爆弾へと変化するのだ。
手始めに、直ぐ側にある木に吐息と共に口づけをする。その途端、爆発までのカウントダウンが始まった。
「あぁそうだ。組長殿がいる部屋は教えたよな?…確実にそこを潰せ。」
卑劣さが息をしているような、蠍のごとき大男が声を潜める。
この庭先に相方を案内したのも、この男。
はぁいと、間の抜けた女の返事は、大木の爆発によって遮られた。
◇
鳥のさえずりが囁く朝。
徐々に過ごしやすい天気が増えてきた今日この頃。
社交会からたった数日だが、美雪の身の回りは大きく変化していた。
大量に届いた招待状、使用人からも定着した「奥様」の呼び名、真誠の商売相手からの挨拶という名の値踏み…。
司を中心にそれらは素早く捌かれていった。今はまだ、美雪に振られるのは最低限の仕事に限ってくれている。
まずは家の中のことを、ひとつひとつ覚えていく段階だった。
配膳の位置は昨日学んだ。今朝は真誠も司も不在なため、気ままに料理長と並んでお玉を手に取っている。
「旦那様は幼い頃から好まれるお味は変わっていませんから、わりと甘めの味付けが多いですよ。」
解説を聞きながら、美雪は味噌汁をすくう。
お椀によそって味見をすれば、確かにまろやかな味がする。そういえば、出汁巻きもほんのりと甘かった。
食べ慣れてきた温かい味は、彼が子供の頃から好んでいる味。
また1つ真誠のことを知ることができて、美雪の頬に紅がのった。
「足に大怪我をされた際はかなり食欲も落としていらっしゃいましたが…今ではしっかりと食べて下さるので、本当に安心しております。」
隣からしみじみとした声が聞こえてくる。
司と同じくらい長い期間、この家に仕えているのが伺える言葉。
ふと美雪の脳裏に、先日の社交会でボスが吐き捨てた台詞がよぎった。
「あの…足の大怪我、って…。」
だが彼女の質問を遮るように、玄関の方から聞こえてくる大きな音。
どうやら勢いよくドアが開かれたらしい。微かに聞こえる声は、聞き慣れた彼のものだ。
「…?晴明さん…?」
お玉をおき、駆け出す美雪。料理長の引き留める声は、残念ながら届かない。
パタパタと玄関ホールに顔をだす。律儀に使用人を待っていた顔なじみは、美雪の登場に目を丸くした。
「…おいなんで貴様が出てくるんだ。禅杖殿は不在か?」
「…?はい。」
「あー…。」
間が悪かったことを察したのだろう。
ふいと目を逸らし、右手はガシガシと頭をかく。
「…それにしたって、当主の嫁がそう簡単にでてくるな。誰かを向かわせろ。」
ぱちくりと、美雪は目を瞬かせてしまう。相変わらずぶっきらぼうだが、内容は至極まとも。
「…わかりました。」
学びの1つとして、彼女は彼の助言をインプットした。
「それより、その様子だとまだこれを見てないだろう?」
「…?」
差し出されたのは、今日の新聞だ。
彼が指差したのは、一面にデカデカと見出しが出ている記事。
ーー横浜にて爆発 華族別邸に異変
「…え?」
美雪は思わず、声が出た。横浜といえば、真誠の仕事先だ。
慌てて読み進めるが、大した情報はでていない。確かなことは、深夜に爆発があったことだけ。
「…あの馬鹿は仕事か?」
晴明の言葉に、辛うじて頷く美雪。
血の気が引く。横浜は黒龍会の主な縄張りでもある。加えて爆発と言えば、異能者の1人の十八番だ。
ボスが先手を打ってきたと考えても、おかしくない。
ふら、と視界が反転する。
「おい!!」
咄嗟に晴明のガッシリとした腕が美雪を受け止めた。
そのまま、怪我をしないようにそっと座らされる。
「言っておくが、ここに何も報が来ていないならどうせあの馬鹿は無事だからな?」
「で、でも…」
新聞には何も載っていない。本人からの連絡もない。その上相手があのボスだとしたら。
いくら真誠が「裏社会最強」と言われているとしても、果たして勝率はいかほどか。
黒龍会の威力を身に染みて知っているからこそ、美雪は震えが止まらない。
しかし晴明は、顔色ひとつ変えていなかった。
「足をちょん切られようが、弟や貴様に殺されかけようが生きてるような奴だぞ?爆発程度、どうせ見越して何か手を打ってるに決まってる。」
「…。」
晴明は真誠のしぶとさを身に染みて知っているからこそ、こうもハッキリ断言出来るのだろう。
結局、美雪を使用人に預けると、彼はそのまま仕事へ向かってしまった。
◇
ぐったりと、美雪は寝台に横たわる。
握りしめる短刀だけが安心材料だ。
正直に言えば、今すぐにでも報復に行きたい。
だが残念ながら、徹底された秘密主義のせいで、本拠地までの道順は美雪さえ知らない。
王を殺すシミュレーションだけを頭の中で何度も、何度も繰り返す。だが彼女の異能をもってしても、あの老人を殺せる気がしない。
アヘン戦争では、多くの異能者が清国内で暴れ回ったと言う。それもまた、大国清の敗北の要因のひとつだ。
そんな戦争に軍人として参加していたからこそ、王はアヘンを熟知し利用している。
その彼に、一体どうやってアヘンで勝てと言うのか。
「は…は…」
不安に押しつぶされそうになりながら、なんとか浅い呼吸を繰り返す。
今すぐにでもあの薬を吸いたくて仕方がない。
(吸ったところで…気が紛れるだけで、何も変わらないのに…)
そんな自己否定ばかりが、頭の中を渦巻いていた。
そこへまた、ノックと同時に開かれるふすま。
遠慮なく踏み込んでくるのは、もちろん晴明だ。
「…おい、起きてるか?美雪殿。」
「…」
のそ…と、布団から顔だけをだす。
依存症状がでている中、衝動だけで彼を襲わなくなったのは大きな変化だ。
それを確認すると、のしっと寝台に腰掛ける晴明。
そして彼は「ん」とだけ言って、1枚の紙を差し出してきた。
「…?」
どうにか短刀から手を離し、そっと紙を受け取る美雪。
それは晴明宛の電報だった。葛の葉商会が差出人となっている。
本文にはただ、「ブジ」の二文字のみ。
「これ…?」
確信するにはいま一歩情報が足りなくて、困ったように晴明を見上げる。
すると彼は、そんな美雪の反応に目を丸くした。
「…まさかとは思うが、商会の名前すら聞いてないのか?」
その確認に、美雪は頷く。それは晴明にとっては予想外だったらしい。
彼は盛大に頭を抱えてしまった。
「アイツ…やること成すこと無茶苦茶か…?せめて社交会に出す前に教えるところだろうそれは…!!」
ブツブツと文句を垂れる晴明。その様子をただじっと美雪は見つめ続ける。
司も不在な以上、真誠に関しての一番の情報源は彼だ。
そんな彼女に耐えかねたように、くわっと晴明は大声をあげた。
「分かったからその期待の視線を止めろ馬鹿者が!そっくりか貴様ら夫婦!!」
「…!…ふふ。」
どうやら美雪は、真誠と同じ視線を送っていたらしい。約1ヶ月で、これほど似てしまうものなのか。
さて晴明いわく、葛の葉商会とは葛原院家が運営する商会だと言う。貸し倉庫、貨物船運送業者と商会の仲介、そして高利貸し。その三点が主事業であり、全て横浜が拠点。
今回襲われたのは、真誠が仕事場付近で寝泊まりする際に使う別邸であり、彼が率いる自警団の本拠地でもあるお屋敷だという。
「商会から俺の職場への電報なら、ただの仕事の連絡だ。一番早く、かつ敵に気づかれずに美雪殿に連絡ができる。…あの馬鹿の考えそうなことだ。」
そこまで彼の言葉を聞いて、美雪は改めて電報に見入ってしまう。
ブジ。たった二文字の中に、沢山の情報が詰まっている。
真誠だけではなく、司も、きっとお屋敷の多くや商会も、「ブジ」なのだ。
「これは式神に確認させてきたことだが」
そう前置きして、晴明は続ける。
「屋敷自体は派手にやられていたが、禅杖殿も含め、自警団の人員に大きな損害はなさそうだ。あの傲慢野郎は無傷らしい。全く、人騒がせにも程がある。どうせ今晩にでも、現場を抜け出して帰ってくるんじゃないか?」
その報告に、やっと身体から力が抜けていく感覚がした。
晴明がそう言うのなら、間違いない。
「…晴明さん。」
「…なんだ。」
「…ありがとう、ございます。」
「…ふん。」
それだけ答えて、彼は立ち上がる。
また仕事へ戻るのだろう。まだ午後の日も高いうえに、彼は朝と同じ仕事着のままだった。
◇
くつくつと、鍋を温める。夜の帳も深く降りた頃。
「んー…?」
今朝と同じ味噌汁を作ってみたのだが、なんだか違う。
恐らく味噌か出汁のどちらかが足りないのだが、果たしてどちらだろうか。
こんな時間に台所に美雪が立つのは、他の使用人たちはいい顔をしないだろう。
だが今は、最低限の門番しかいない。
結局今日は、夕食までずっと1人だった。
料理長は器用に屋敷にいる人数分だけ作っていったので、真誠の分の食事はない。もちろん、今日のような日は彼は横浜で食べてくると分かっているからだろう。
ただ何となく、何か食べれるものがあったらいい気がした。たったそれだけで、美雪は習ったばかりの味噌汁を作ってみてるのだった。
白味噌と昆布を前に本気で唸る美雪。
あまりに真剣で、彼女は廊下の足音に気づかない。
「んー…せっかくならちゃんと真誠さんの好きな味にしたいんだけどな…。」
料理長が教えてくれたこの家の味にするには、どちらを足すべきか。
ドサリと、背後から突然聞こえてきた物音に美雪の肩が大きく跳ねた。
つい包丁を握って勢いよく振り向く。暗い廊下の向こうからの物音と、人の気配。門番がいるはずなのに、なぜ。
だがその疑問は、ちょっと目を凝らせば簡単に消え去った。
なぜなら床に微かに見えている落し物が、真誠の鞄なのだ。
「…?」
包丁を調理台に戻し、そーっと歩みを進める。
物音ひとつ立てずに覗き込んだ。そして彼女は息を呑む。
そこに居たのはやはり、この家の主。
「真誠さん…!」
「っ…!ぁ、えと…ふ、普通に声をかけようとしたんだが…。」
何故か歯切れの悪い言葉。だがそんなこと、美雪にはどうでもよかった。
「っ、と…!」
真誠が半歩よろけるほどの勢いで、彼に飛びつく美雪。
全身で彼の体温を確かめる。耳と肌で彼の鼓動を聞く。
胸いっぱいに彼の香りを吸い込めば、嗅ぎ慣れない土埃と微かに火薬の匂い。それだけで、爆発事件が事実だとわかって胸が痛い。血の匂いがしないことが、唯一の救いだ。
「よかった…!!おかえりなさい、真誠さん…!」
「…!!」
一方、真誠の方も胸がいっぱいだった。
まさか、美雪から名前を呼ばれるだなんて。
おかえりと美雪から言われるだなんて、思ってもいなかった。
下ろされた長い髪をすく。彼女が髪を結ばなくなったのは、社交会以降だ。
そんな小さな変化ひとつひとつが、真誠には愛おしくて仕方がない。
「…ただいま、美雪。心配かけてすまなかった。」
この場が暗くて良かったと、真誠は密かに安堵した。台所のように明るかったら、熱が集まる頬や涙を堪えるのに必死な目元を美雪に見られていたかもしれない。
二人で食べた夜食の味噌汁は、それまでのどんな食事よりも甘かった。
西洋風の建物が多く連なるこの街に、一際大きな日本屋敷が1つ。
葛原院、別邸。
そこは自警団の面々が主に暮らす要塞であり、ビジネスの中心地。
「この屋敷ぜーんぶ、爆弾にしていいわけぇ?」
庭の木の陰から、黒い漢服に身を包んだ女性がケタケタと笑う。
武器屋の件で王に怒られた鬱憤でも晴らすように、彼女の声はひどく上ずっていた。
高揚感に身を預けた彼女が一度息を吹きかければ、その物質は爆弾へと変化するのだ。
手始めに、直ぐ側にある木に吐息と共に口づけをする。その途端、爆発までのカウントダウンが始まった。
「あぁそうだ。組長殿がいる部屋は教えたよな?…確実にそこを潰せ。」
卑劣さが息をしているような、蠍のごとき大男が声を潜める。
この庭先に相方を案内したのも、この男。
はぁいと、間の抜けた女の返事は、大木の爆発によって遮られた。
◇
鳥のさえずりが囁く朝。
徐々に過ごしやすい天気が増えてきた今日この頃。
社交会からたった数日だが、美雪の身の回りは大きく変化していた。
大量に届いた招待状、使用人からも定着した「奥様」の呼び名、真誠の商売相手からの挨拶という名の値踏み…。
司を中心にそれらは素早く捌かれていった。今はまだ、美雪に振られるのは最低限の仕事に限ってくれている。
まずは家の中のことを、ひとつひとつ覚えていく段階だった。
配膳の位置は昨日学んだ。今朝は真誠も司も不在なため、気ままに料理長と並んでお玉を手に取っている。
「旦那様は幼い頃から好まれるお味は変わっていませんから、わりと甘めの味付けが多いですよ。」
解説を聞きながら、美雪は味噌汁をすくう。
お椀によそって味見をすれば、確かにまろやかな味がする。そういえば、出汁巻きもほんのりと甘かった。
食べ慣れてきた温かい味は、彼が子供の頃から好んでいる味。
また1つ真誠のことを知ることができて、美雪の頬に紅がのった。
「足に大怪我をされた際はかなり食欲も落としていらっしゃいましたが…今ではしっかりと食べて下さるので、本当に安心しております。」
隣からしみじみとした声が聞こえてくる。
司と同じくらい長い期間、この家に仕えているのが伺える言葉。
ふと美雪の脳裏に、先日の社交会でボスが吐き捨てた台詞がよぎった。
「あの…足の大怪我、って…。」
だが彼女の質問を遮るように、玄関の方から聞こえてくる大きな音。
どうやら勢いよくドアが開かれたらしい。微かに聞こえる声は、聞き慣れた彼のものだ。
「…?晴明さん…?」
お玉をおき、駆け出す美雪。料理長の引き留める声は、残念ながら届かない。
パタパタと玄関ホールに顔をだす。律儀に使用人を待っていた顔なじみは、美雪の登場に目を丸くした。
「…おいなんで貴様が出てくるんだ。禅杖殿は不在か?」
「…?はい。」
「あー…。」
間が悪かったことを察したのだろう。
ふいと目を逸らし、右手はガシガシと頭をかく。
「…それにしたって、当主の嫁がそう簡単にでてくるな。誰かを向かわせろ。」
ぱちくりと、美雪は目を瞬かせてしまう。相変わらずぶっきらぼうだが、内容は至極まとも。
「…わかりました。」
学びの1つとして、彼女は彼の助言をインプットした。
「それより、その様子だとまだこれを見てないだろう?」
「…?」
差し出されたのは、今日の新聞だ。
彼が指差したのは、一面にデカデカと見出しが出ている記事。
ーー横浜にて爆発 華族別邸に異変
「…え?」
美雪は思わず、声が出た。横浜といえば、真誠の仕事先だ。
慌てて読み進めるが、大した情報はでていない。確かなことは、深夜に爆発があったことだけ。
「…あの馬鹿は仕事か?」
晴明の言葉に、辛うじて頷く美雪。
血の気が引く。横浜は黒龍会の主な縄張りでもある。加えて爆発と言えば、異能者の1人の十八番だ。
ボスが先手を打ってきたと考えても、おかしくない。
ふら、と視界が反転する。
「おい!!」
咄嗟に晴明のガッシリとした腕が美雪を受け止めた。
そのまま、怪我をしないようにそっと座らされる。
「言っておくが、ここに何も報が来ていないならどうせあの馬鹿は無事だからな?」
「で、でも…」
新聞には何も載っていない。本人からの連絡もない。その上相手があのボスだとしたら。
いくら真誠が「裏社会最強」と言われているとしても、果たして勝率はいかほどか。
黒龍会の威力を身に染みて知っているからこそ、美雪は震えが止まらない。
しかし晴明は、顔色ひとつ変えていなかった。
「足をちょん切られようが、弟や貴様に殺されかけようが生きてるような奴だぞ?爆発程度、どうせ見越して何か手を打ってるに決まってる。」
「…。」
晴明は真誠のしぶとさを身に染みて知っているからこそ、こうもハッキリ断言出来るのだろう。
結局、美雪を使用人に預けると、彼はそのまま仕事へ向かってしまった。
◇
ぐったりと、美雪は寝台に横たわる。
握りしめる短刀だけが安心材料だ。
正直に言えば、今すぐにでも報復に行きたい。
だが残念ながら、徹底された秘密主義のせいで、本拠地までの道順は美雪さえ知らない。
王を殺すシミュレーションだけを頭の中で何度も、何度も繰り返す。だが彼女の異能をもってしても、あの老人を殺せる気がしない。
アヘン戦争では、多くの異能者が清国内で暴れ回ったと言う。それもまた、大国清の敗北の要因のひとつだ。
そんな戦争に軍人として参加していたからこそ、王はアヘンを熟知し利用している。
その彼に、一体どうやってアヘンで勝てと言うのか。
「は…は…」
不安に押しつぶされそうになりながら、なんとか浅い呼吸を繰り返す。
今すぐにでもあの薬を吸いたくて仕方がない。
(吸ったところで…気が紛れるだけで、何も変わらないのに…)
そんな自己否定ばかりが、頭の中を渦巻いていた。
そこへまた、ノックと同時に開かれるふすま。
遠慮なく踏み込んでくるのは、もちろん晴明だ。
「…おい、起きてるか?美雪殿。」
「…」
のそ…と、布団から顔だけをだす。
依存症状がでている中、衝動だけで彼を襲わなくなったのは大きな変化だ。
それを確認すると、のしっと寝台に腰掛ける晴明。
そして彼は「ん」とだけ言って、1枚の紙を差し出してきた。
「…?」
どうにか短刀から手を離し、そっと紙を受け取る美雪。
それは晴明宛の電報だった。葛の葉商会が差出人となっている。
本文にはただ、「ブジ」の二文字のみ。
「これ…?」
確信するにはいま一歩情報が足りなくて、困ったように晴明を見上げる。
すると彼は、そんな美雪の反応に目を丸くした。
「…まさかとは思うが、商会の名前すら聞いてないのか?」
その確認に、美雪は頷く。それは晴明にとっては予想外だったらしい。
彼は盛大に頭を抱えてしまった。
「アイツ…やること成すこと無茶苦茶か…?せめて社交会に出す前に教えるところだろうそれは…!!」
ブツブツと文句を垂れる晴明。その様子をただじっと美雪は見つめ続ける。
司も不在な以上、真誠に関しての一番の情報源は彼だ。
そんな彼女に耐えかねたように、くわっと晴明は大声をあげた。
「分かったからその期待の視線を止めろ馬鹿者が!そっくりか貴様ら夫婦!!」
「…!…ふふ。」
どうやら美雪は、真誠と同じ視線を送っていたらしい。約1ヶ月で、これほど似てしまうものなのか。
さて晴明いわく、葛の葉商会とは葛原院家が運営する商会だと言う。貸し倉庫、貨物船運送業者と商会の仲介、そして高利貸し。その三点が主事業であり、全て横浜が拠点。
今回襲われたのは、真誠が仕事場付近で寝泊まりする際に使う別邸であり、彼が率いる自警団の本拠地でもあるお屋敷だという。
「商会から俺の職場への電報なら、ただの仕事の連絡だ。一番早く、かつ敵に気づかれずに美雪殿に連絡ができる。…あの馬鹿の考えそうなことだ。」
そこまで彼の言葉を聞いて、美雪は改めて電報に見入ってしまう。
ブジ。たった二文字の中に、沢山の情報が詰まっている。
真誠だけではなく、司も、きっとお屋敷の多くや商会も、「ブジ」なのだ。
「これは式神に確認させてきたことだが」
そう前置きして、晴明は続ける。
「屋敷自体は派手にやられていたが、禅杖殿も含め、自警団の人員に大きな損害はなさそうだ。あの傲慢野郎は無傷らしい。全く、人騒がせにも程がある。どうせ今晩にでも、現場を抜け出して帰ってくるんじゃないか?」
その報告に、やっと身体から力が抜けていく感覚がした。
晴明がそう言うのなら、間違いない。
「…晴明さん。」
「…なんだ。」
「…ありがとう、ございます。」
「…ふん。」
それだけ答えて、彼は立ち上がる。
また仕事へ戻るのだろう。まだ午後の日も高いうえに、彼は朝と同じ仕事着のままだった。
◇
くつくつと、鍋を温める。夜の帳も深く降りた頃。
「んー…?」
今朝と同じ味噌汁を作ってみたのだが、なんだか違う。
恐らく味噌か出汁のどちらかが足りないのだが、果たしてどちらだろうか。
こんな時間に台所に美雪が立つのは、他の使用人たちはいい顔をしないだろう。
だが今は、最低限の門番しかいない。
結局今日は、夕食までずっと1人だった。
料理長は器用に屋敷にいる人数分だけ作っていったので、真誠の分の食事はない。もちろん、今日のような日は彼は横浜で食べてくると分かっているからだろう。
ただ何となく、何か食べれるものがあったらいい気がした。たったそれだけで、美雪は習ったばかりの味噌汁を作ってみてるのだった。
白味噌と昆布を前に本気で唸る美雪。
あまりに真剣で、彼女は廊下の足音に気づかない。
「んー…せっかくならちゃんと真誠さんの好きな味にしたいんだけどな…。」
料理長が教えてくれたこの家の味にするには、どちらを足すべきか。
ドサリと、背後から突然聞こえてきた物音に美雪の肩が大きく跳ねた。
つい包丁を握って勢いよく振り向く。暗い廊下の向こうからの物音と、人の気配。門番がいるはずなのに、なぜ。
だがその疑問は、ちょっと目を凝らせば簡単に消え去った。
なぜなら床に微かに見えている落し物が、真誠の鞄なのだ。
「…?」
包丁を調理台に戻し、そーっと歩みを進める。
物音ひとつ立てずに覗き込んだ。そして彼女は息を呑む。
そこに居たのはやはり、この家の主。
「真誠さん…!」
「っ…!ぁ、えと…ふ、普通に声をかけようとしたんだが…。」
何故か歯切れの悪い言葉。だがそんなこと、美雪にはどうでもよかった。
「っ、と…!」
真誠が半歩よろけるほどの勢いで、彼に飛びつく美雪。
全身で彼の体温を確かめる。耳と肌で彼の鼓動を聞く。
胸いっぱいに彼の香りを吸い込めば、嗅ぎ慣れない土埃と微かに火薬の匂い。それだけで、爆発事件が事実だとわかって胸が痛い。血の匂いがしないことが、唯一の救いだ。
「よかった…!!おかえりなさい、真誠さん…!」
「…!!」
一方、真誠の方も胸がいっぱいだった。
まさか、美雪から名前を呼ばれるだなんて。
おかえりと美雪から言われるだなんて、思ってもいなかった。
下ろされた長い髪をすく。彼女が髪を結ばなくなったのは、社交会以降だ。
そんな小さな変化ひとつひとつが、真誠には愛おしくて仕方がない。
「…ただいま、美雪。心配かけてすまなかった。」
この場が暗くて良かったと、真誠は密かに安堵した。台所のように明るかったら、熱が集まる頬や涙を堪えるのに必死な目元を美雪に見られていたかもしれない。
二人で食べた夜食の味噌汁は、それまでのどんな食事よりも甘かった。
