馬の蹄と車輪の音があちらこちらから響く。
日が落ちる最中に浮かぶ宝石のような外観。
紳士淑女がその宝石に吸い込まれていく流れの中に、真誠と美雪もいた。
だが、場違いにも程がある。
到着しただけでヒシヒシと感じるその空気に、早くも美雪は強い焦燥感に襲われていた。
汗が止まらない。圧迫された腹が苦しい。
「…美雪。」
早くも降参しかけている彼女の肩を、真誠が引き寄せる。
そして彼は、そっと人混みを抜けた。
「少し休んでから行こうか。」
「は、い…」
促されるままに彼の胸へ身を預ける。
この恐怖から逃れたくて、心は既にアヘンを探し回ってしまっていた。
「おい」
そんな彼女の耳をうつ、もはや聞き慣れた荒い声。
「本当にその女を連れてきたのか…!」
「当然だろう?美雪は俺の妻だ。」
「それはもう分かったが…彼女は大丈夫なのか?」
頭上から聞こえる、いつもの軽口の言い合い。
なんだか安心してきた美雪はそっと目を開け、話し声の方を見上げた。
やはり、晴明だ。尻尾のような黒髪は、今日はうなじの辺りで丸くお団子になっている。
見慣れた彼の存在に、少しだけ息が楽になった気がした。
「あ、の…」
「ん?」
「美雪?」
手を伸ばし、晴明の燕尾服を少しだけ引っ張る。
気づいた晴明と目が合い、真誠が心配げに彼女を呼んだ。
そう、彼女の名前を。
「私…美雪、です。”その女”でも…”彼女”でも…ない、です。」
「…!!」
男二人は驚いて息を呑む。
ぎゅ、と、美雪の肩を抱く真誠の腕が強くなった。
「あー…それは、そうだな。すまん、美雪殿。」
頭をかきながら、晴明が柔らかい声で呟く。
初めて彼からも呼んでもらえたことで、ほんのりと身体の強張りが解けていく。
根拠はないが、大丈夫な気がしてきた。
「…まあ、貴女の旦那を言い張るこの男のそばを離れなければ大丈夫だろうが…。最悪、何かあったらこっちに来い、美雪殿。助け舟くらいは出せるだろう。」
「…??ありがとうございます…。」
ぶっきらぼうな助言。美雪はよくわからないまま礼を返した。
改めて、真誠の腕を借りて姿勢を正す。
夫婦と悪友は、連れ立って会場へと向かった。
中に入った途端、美雪は晴明の助言の意味を理解することになる。
天井に輝くシャンデリアが眩しい。楽器の生演奏が辺りを彩り、華やかな装いの人々が笑い合っている。
その綺羅びやかさが、一斉に美雪に突き刺さってきた。
ーー誰?
ーーなんで葛原院様と?
ーーどういうこと?
聞こえてくる囁き声。好奇と悪意と嫉妬を孕む視線。値踏みされているような感覚。
殺し屋とは、見られてはいけない仕事だ。だが「侯爵家の妻」とは、こうして見られる立場なのだ。
なんて、恐ろしい世界だろう。
美雪の視線は、自然と下がっていた。
「堂々としていればいい。」
そんな彼女を、真誠の囁き声が支える。
「例えば…あの不躾な視線全てが、君の暗殺対象だと思うのはどうだ。君は…標的の前で無様な姿は晒さないだろう?」
「…!」
視線を上げる美雪。隣を歩く真誠を見上げれば、彼はこちらを信じ切っている目をしていた。
そして美雪は、周囲を一瞥する。
ブローチの針が武器になる。ドレスを裂けば絞殺するのには充分だ。
「武器屋」として、殺せない者はこの場にいない。
そう確信できると、美雪の背筋はすらりと伸びた。
その様子を見守る真誠は、安心したように微笑んだ。
◇
真誠が真っ先に挨拶をしたのは、安倍家の当主夫妻の元だった。驚きこそすれ、夫妻は美雪のことを当然のように真誠の妻として認めてくれた。
その温かさがどれだけ、美雪にとって勇気となっただろう。
その後続いた怒涛の挨拶回りを乗り越えられたのは、彼らの言葉のおかげだった。
そうして始まったワルツ。主催者やその関係者が踊っているらしい。
「さて、いくか。」
「…え!?」
彼が動き出したのは、1曲目の終わりとほぼ同時。
美雪の手を引き、ダンスホールの中央へと躍り出た。
「わっ、私、ダンスはまだ…!」
抵抗するように、美雪は逃げ腰になる。確かに司相手に散々練習はしたが、こんな中央で踊れるほどのものではない。
ポツリ、ポツリと他の貴族たちもホールへ。だが、誰も彼もが訝しげに美雪を見つめている。
「問題ない。…俺を信じろ、美雪。」
「…!」
シャンデリアに負けないほど輝く、自信に満ちた笑み。
真誠にそう言われてしまっては、何も言い返すことなどできなかった。
一歩、二歩、音楽と共にステップを踏む。
彼に導かれるまま、足を進める美雪。
息の合ったターンで、満天の星空のように広がる漆黒のドレス。
その姿に、どこからか見惚れたようなため息が漏れ聞こえてきた。
「美雪、覚えておくといい。」
甘い声に、彼を見上げる美雪。
「誰が何と言おうと、君は俺の妻だ。」
心に刷り込まれるほど言われた言葉が、もう一度宣言される。
熱をもつ真誠の手が、優しく美雪の腰を支えた。
「君が居るべき場所は、…俺の腕の中だからな?」
地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸。
美雪は確かにそれを掴んだのだろう。けれどその糸が切れる様子は微塵もない。
美雪自身を包み込み、糸自らが彼女を地獄から引き上げる。
「…はい。」
この手を離すことは、もう美雪にもできそうになかった。
◇
「葛原院殿。」
狐のような声が聞こえ、真誠は振り返った。
手招きをしているのは、近衛家のご当主だ。
五摂家の筆頭格であり、政治・対外発信で目立つ家。真誠の目的に、最も理解を寄せてくれている”スポンサー”。
流石に、無視は出来ない。
「…美雪、すぐ戻る。」
「あ…はい。いってらっしゃいませ。」
一声添えて、真誠は狐じじいの元へ駆けていった。
その背を見送り、美雪は所在なく立ち尽くす。
(…どうしよう。)
直ぐに戻ると言われた以上、あまり動かない方がいいのだろう。
だがただ立ちん坊をしていても、誰に声をかけられるか分かったものではない。さすがに、挨拶以外の対応を適切にできるとは思えなかった。
辺りを観察するように視線を動かす。
大きな窓を越えた先の壁際に、晴明がいるのが目に入った。手に持っているのは、洋酒だろうか。
すると、向こうもこちらに気づいてくれた。
ちょいちょいと、指先で小さく手招きされる。
そちらへ向かおうと、ドレスの裾を掴んだ。
サアっと青くなった彼の顔色に、何事だろうと思う間もなく。
「…!?」
背後に強く引っ張られ、彼女はたたらを踏むようにバルコニーへ。
カーテンの裏、誰の目にもとまらぬ影。
両手は頭上にまとめあげられ、力任せに引っ張られて足先が浮く。
痛みに顔をしかめたが、次に来る衝撃に比べれば優しいものだった。
「なぜお前が標的の男とダンスなど踊っているんだ?武器屋」
地の底に響くような声。独特なタバコの匂い。
そして、人を人と扱わないこの言葉。
「ぼ、す…!!」
目の前にいるのは黒龍会のボス、王だった。
「爆弾魔から、お前は爆発により死んだと聞いていたが?」
「っ…!」
腕を捻りあげられ、彼の視線が手首に突き刺さる。
「……外したのか?どうやって。」
アヘン戦争を生き抜いた軍人の圧が、ヒシヒシとのしかかる。身じろぎできないほどの視線に、呼吸が苦しい。
「…まあ、どうでもいいか。」
そして王は、迷うことなく美雪の手を引く。彼女の背がバルコニーの柵に叩きつけられ、そのまま下へと押し出される。
「ひっ…!」
「下に居ておけ。回収班が直に来る。」
「嫌…ッ!」
足が宙に浮き、身体が後方へ傾く。
ぐるんと回る視界。月もない夜空に、王の目だけが猛禽類のように光った。
脳に急激に血が逆流した感覚に、思わず目を瞑る。
無重力感に、死を覚悟した。
しかし背中に受けた衝撃は、冷たい土と殴打の痛みではなく、最も安心できる力強い腕に抱かれる感覚。
背中がバルコニーの柵を横に滑る。起き上がらされ、ぎゅ、と抱き寄せられた。
「俺の妻に何かようか?」
その声に、恐る恐る目を開けた美雪。
「…黒龍会の首領。」
王を押しのけ彼女を助けてくれたのは、真誠だった。
「…何の話だ。」
「おや、この期に及んで誤魔化されますか?…俺以外が妻に執着するとしたらそれは、彼女の元鞘だろ?」
わずかな沈黙。
音楽はすぐ向こうで鳴り続けているのに、この場だけが切り離されたように静かだ。
王が、鼻で笑う。
「…貴様の手先か、長年コソコソとうちの商売を邪魔している鼠は。」
「諸外国と結ばれている条約にて、アヘンの輸入は禁止。違反者を取り締まるのは当然でしょう。」
冷たい風が吹き付け、空気を重くしていく。
す…と、王が美雪へ手を伸ばした。
「それはうちのモノだ。貴様も組織を束ねる身なら、足抜けがどれほどの大罪かはわかるだろう?」
「知らんな。」
だが真誠は、間髪入れず答える。
「…なに?」
老獪な男が顔をしかめる。それさえも涼しい顔で受け流し、真誠は言葉の刃を突きつけた。
「彼女はこの国の民であり、俺の妻だ。貴様らに搾取されるモノじゃない。」
それは最早、宣言であり宣戦布告。
美雪を抱き寄せる腕に、力がこもる。
一方、王は値踏みをするように目を細めた。
「英国を怒らせれば滅びるだけ。林の二の舞だ。…片足風情が。」
唸るように吐き捨て、猛禽類のような眼光が2人を射抜く。
彼はそれ以上何も言わず、影に溶けるように燕尾を翻した。
音もなく消えた姿。気配だけが、その場に微かに残っていた。
「っは…」
「美雪…!」
詰めていた息を吐いた途端、美雪の膝から力が抜けていく。
ガクンと重力に引っ張られた身体を、真誠は支えながらゆっくり座らせた。
「大丈夫か?」
「ん…ぅ、」
真っ青な顔。呼吸は浅く、早い。
震える手が真誠の胸元を強く握りしめ、離さない。
「わ、たし…」
「ん?」
縋るように揺れる瞳。涙が一筋、白い肌を伝う。
「ここに…いても、いいの…?」
紡がれたのは、自ら真誠の元を望む言葉。
「当然だ。言っただろ、美雪。」
愛する妻を抱きかかえ、優しい笑みを浮かべて繰り返す。
「君が居るべき場所は、…俺の腕の中だ、と。」
日が落ちる最中に浮かぶ宝石のような外観。
紳士淑女がその宝石に吸い込まれていく流れの中に、真誠と美雪もいた。
だが、場違いにも程がある。
到着しただけでヒシヒシと感じるその空気に、早くも美雪は強い焦燥感に襲われていた。
汗が止まらない。圧迫された腹が苦しい。
「…美雪。」
早くも降参しかけている彼女の肩を、真誠が引き寄せる。
そして彼は、そっと人混みを抜けた。
「少し休んでから行こうか。」
「は、い…」
促されるままに彼の胸へ身を預ける。
この恐怖から逃れたくて、心は既にアヘンを探し回ってしまっていた。
「おい」
そんな彼女の耳をうつ、もはや聞き慣れた荒い声。
「本当にその女を連れてきたのか…!」
「当然だろう?美雪は俺の妻だ。」
「それはもう分かったが…彼女は大丈夫なのか?」
頭上から聞こえる、いつもの軽口の言い合い。
なんだか安心してきた美雪はそっと目を開け、話し声の方を見上げた。
やはり、晴明だ。尻尾のような黒髪は、今日はうなじの辺りで丸くお団子になっている。
見慣れた彼の存在に、少しだけ息が楽になった気がした。
「あ、の…」
「ん?」
「美雪?」
手を伸ばし、晴明の燕尾服を少しだけ引っ張る。
気づいた晴明と目が合い、真誠が心配げに彼女を呼んだ。
そう、彼女の名前を。
「私…美雪、です。”その女”でも…”彼女”でも…ない、です。」
「…!!」
男二人は驚いて息を呑む。
ぎゅ、と、美雪の肩を抱く真誠の腕が強くなった。
「あー…それは、そうだな。すまん、美雪殿。」
頭をかきながら、晴明が柔らかい声で呟く。
初めて彼からも呼んでもらえたことで、ほんのりと身体の強張りが解けていく。
根拠はないが、大丈夫な気がしてきた。
「…まあ、貴女の旦那を言い張るこの男のそばを離れなければ大丈夫だろうが…。最悪、何かあったらこっちに来い、美雪殿。助け舟くらいは出せるだろう。」
「…??ありがとうございます…。」
ぶっきらぼうな助言。美雪はよくわからないまま礼を返した。
改めて、真誠の腕を借りて姿勢を正す。
夫婦と悪友は、連れ立って会場へと向かった。
中に入った途端、美雪は晴明の助言の意味を理解することになる。
天井に輝くシャンデリアが眩しい。楽器の生演奏が辺りを彩り、華やかな装いの人々が笑い合っている。
その綺羅びやかさが、一斉に美雪に突き刺さってきた。
ーー誰?
ーーなんで葛原院様と?
ーーどういうこと?
聞こえてくる囁き声。好奇と悪意と嫉妬を孕む視線。値踏みされているような感覚。
殺し屋とは、見られてはいけない仕事だ。だが「侯爵家の妻」とは、こうして見られる立場なのだ。
なんて、恐ろしい世界だろう。
美雪の視線は、自然と下がっていた。
「堂々としていればいい。」
そんな彼女を、真誠の囁き声が支える。
「例えば…あの不躾な視線全てが、君の暗殺対象だと思うのはどうだ。君は…標的の前で無様な姿は晒さないだろう?」
「…!」
視線を上げる美雪。隣を歩く真誠を見上げれば、彼はこちらを信じ切っている目をしていた。
そして美雪は、周囲を一瞥する。
ブローチの針が武器になる。ドレスを裂けば絞殺するのには充分だ。
「武器屋」として、殺せない者はこの場にいない。
そう確信できると、美雪の背筋はすらりと伸びた。
その様子を見守る真誠は、安心したように微笑んだ。
◇
真誠が真っ先に挨拶をしたのは、安倍家の当主夫妻の元だった。驚きこそすれ、夫妻は美雪のことを当然のように真誠の妻として認めてくれた。
その温かさがどれだけ、美雪にとって勇気となっただろう。
その後続いた怒涛の挨拶回りを乗り越えられたのは、彼らの言葉のおかげだった。
そうして始まったワルツ。主催者やその関係者が踊っているらしい。
「さて、いくか。」
「…え!?」
彼が動き出したのは、1曲目の終わりとほぼ同時。
美雪の手を引き、ダンスホールの中央へと躍り出た。
「わっ、私、ダンスはまだ…!」
抵抗するように、美雪は逃げ腰になる。確かに司相手に散々練習はしたが、こんな中央で踊れるほどのものではない。
ポツリ、ポツリと他の貴族たちもホールへ。だが、誰も彼もが訝しげに美雪を見つめている。
「問題ない。…俺を信じろ、美雪。」
「…!」
シャンデリアに負けないほど輝く、自信に満ちた笑み。
真誠にそう言われてしまっては、何も言い返すことなどできなかった。
一歩、二歩、音楽と共にステップを踏む。
彼に導かれるまま、足を進める美雪。
息の合ったターンで、満天の星空のように広がる漆黒のドレス。
その姿に、どこからか見惚れたようなため息が漏れ聞こえてきた。
「美雪、覚えておくといい。」
甘い声に、彼を見上げる美雪。
「誰が何と言おうと、君は俺の妻だ。」
心に刷り込まれるほど言われた言葉が、もう一度宣言される。
熱をもつ真誠の手が、優しく美雪の腰を支えた。
「君が居るべき場所は、…俺の腕の中だからな?」
地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸。
美雪は確かにそれを掴んだのだろう。けれどその糸が切れる様子は微塵もない。
美雪自身を包み込み、糸自らが彼女を地獄から引き上げる。
「…はい。」
この手を離すことは、もう美雪にもできそうになかった。
◇
「葛原院殿。」
狐のような声が聞こえ、真誠は振り返った。
手招きをしているのは、近衛家のご当主だ。
五摂家の筆頭格であり、政治・対外発信で目立つ家。真誠の目的に、最も理解を寄せてくれている”スポンサー”。
流石に、無視は出来ない。
「…美雪、すぐ戻る。」
「あ…はい。いってらっしゃいませ。」
一声添えて、真誠は狐じじいの元へ駆けていった。
その背を見送り、美雪は所在なく立ち尽くす。
(…どうしよう。)
直ぐに戻ると言われた以上、あまり動かない方がいいのだろう。
だがただ立ちん坊をしていても、誰に声をかけられるか分かったものではない。さすがに、挨拶以外の対応を適切にできるとは思えなかった。
辺りを観察するように視線を動かす。
大きな窓を越えた先の壁際に、晴明がいるのが目に入った。手に持っているのは、洋酒だろうか。
すると、向こうもこちらに気づいてくれた。
ちょいちょいと、指先で小さく手招きされる。
そちらへ向かおうと、ドレスの裾を掴んだ。
サアっと青くなった彼の顔色に、何事だろうと思う間もなく。
「…!?」
背後に強く引っ張られ、彼女はたたらを踏むようにバルコニーへ。
カーテンの裏、誰の目にもとまらぬ影。
両手は頭上にまとめあげられ、力任せに引っ張られて足先が浮く。
痛みに顔をしかめたが、次に来る衝撃に比べれば優しいものだった。
「なぜお前が標的の男とダンスなど踊っているんだ?武器屋」
地の底に響くような声。独特なタバコの匂い。
そして、人を人と扱わないこの言葉。
「ぼ、す…!!」
目の前にいるのは黒龍会のボス、王だった。
「爆弾魔から、お前は爆発により死んだと聞いていたが?」
「っ…!」
腕を捻りあげられ、彼の視線が手首に突き刺さる。
「……外したのか?どうやって。」
アヘン戦争を生き抜いた軍人の圧が、ヒシヒシとのしかかる。身じろぎできないほどの視線に、呼吸が苦しい。
「…まあ、どうでもいいか。」
そして王は、迷うことなく美雪の手を引く。彼女の背がバルコニーの柵に叩きつけられ、そのまま下へと押し出される。
「ひっ…!」
「下に居ておけ。回収班が直に来る。」
「嫌…ッ!」
足が宙に浮き、身体が後方へ傾く。
ぐるんと回る視界。月もない夜空に、王の目だけが猛禽類のように光った。
脳に急激に血が逆流した感覚に、思わず目を瞑る。
無重力感に、死を覚悟した。
しかし背中に受けた衝撃は、冷たい土と殴打の痛みではなく、最も安心できる力強い腕に抱かれる感覚。
背中がバルコニーの柵を横に滑る。起き上がらされ、ぎゅ、と抱き寄せられた。
「俺の妻に何かようか?」
その声に、恐る恐る目を開けた美雪。
「…黒龍会の首領。」
王を押しのけ彼女を助けてくれたのは、真誠だった。
「…何の話だ。」
「おや、この期に及んで誤魔化されますか?…俺以外が妻に執着するとしたらそれは、彼女の元鞘だろ?」
わずかな沈黙。
音楽はすぐ向こうで鳴り続けているのに、この場だけが切り離されたように静かだ。
王が、鼻で笑う。
「…貴様の手先か、長年コソコソとうちの商売を邪魔している鼠は。」
「諸外国と結ばれている条約にて、アヘンの輸入は禁止。違反者を取り締まるのは当然でしょう。」
冷たい風が吹き付け、空気を重くしていく。
す…と、王が美雪へ手を伸ばした。
「それはうちのモノだ。貴様も組織を束ねる身なら、足抜けがどれほどの大罪かはわかるだろう?」
「知らんな。」
だが真誠は、間髪入れず答える。
「…なに?」
老獪な男が顔をしかめる。それさえも涼しい顔で受け流し、真誠は言葉の刃を突きつけた。
「彼女はこの国の民であり、俺の妻だ。貴様らに搾取されるモノじゃない。」
それは最早、宣言であり宣戦布告。
美雪を抱き寄せる腕に、力がこもる。
一方、王は値踏みをするように目を細めた。
「英国を怒らせれば滅びるだけ。林の二の舞だ。…片足風情が。」
唸るように吐き捨て、猛禽類のような眼光が2人を射抜く。
彼はそれ以上何も言わず、影に溶けるように燕尾を翻した。
音もなく消えた姿。気配だけが、その場に微かに残っていた。
「っは…」
「美雪…!」
詰めていた息を吐いた途端、美雪の膝から力が抜けていく。
ガクンと重力に引っ張られた身体を、真誠は支えながらゆっくり座らせた。
「大丈夫か?」
「ん…ぅ、」
真っ青な顔。呼吸は浅く、早い。
震える手が真誠の胸元を強く握りしめ、離さない。
「わ、たし…」
「ん?」
縋るように揺れる瞳。涙が一筋、白い肌を伝う。
「ここに…いても、いいの…?」
紡がれたのは、自ら真誠の元を望む言葉。
「当然だ。言っただろ、美雪。」
愛する妻を抱きかかえ、優しい笑みを浮かべて繰り返す。
「君が居るべき場所は、…俺の腕の中だ、と。」
