その花嫁、元殺し屋につき ――暗殺先で標的から求婚された件

蕾だった梅が満開となり、一際冷たい風が肌を刺す頃。
美雪は1人、洋館の応接室に向けて足を進めていた。

真誠のおかげで、苦しいほどの症状はあれ以来ない。
酷く物足りなさを感じることはあるが、まだ我慢できる。
なんだか本当に、蜘蛛の糸を掴んだような気がしてきていた。

初めて訪れた応接室。華やかな装飾の施された扉は、まるで壁だ。
中から微かに聞こえる話し声は、真誠と司だろう。司は随分と楽しそうだ。

ゆっくり深呼吸を、ひとつ。

「あの、失礼します…。」

扉を開けるとそこは、未知の世界だった。

「このデザイン絶対似合うわよ奥様!黒の絹に赤いレースにしたら素敵じゃない〜!」
「…胸元と腕をだしすぎじゃないか…?他の男に見せてやる義理はない。」
「んっふふ。助平よねぇ、真誠様ったら。」
「あ?」
「調整はしてあげるわよぉ!初めての社交界なんだから、ちゃ〜んと奥様を一流の華にしてあ、げ、る!」
「…あ、美雪。」

パタン。
と、真誠と目が合った途端に美雪は扉を閉めてしまった。

(…なんだろう…今の…。)

机の上に大量に広がった布。分厚い本。
なんだか舞い上がっているような司の様子と、呆れ顔の真誠がいた。向かいに座っていたのは見知らぬ男性だった。

よくわからないけれど、恐ろしいことが起きる気がする。

そう直感して、美雪は応接室に背を向けた。

「ほらいらっしゃいな、奥様!!」
「きゃっ!!」

しかし扉は勢いよく開き、しっかりと肩を掴まれる。
上機嫌な司から、逃げられるはずがないのだった。



2週間後に、五摂家主催の社交会がある。
それに一緒に来てほしいと、真誠が伝えてくれたのはそれだけだった。

ドレスの採寸以来、時間を見つけてはマナーを叩き込む日々が始まった。司の指導は、優しいけれど容赦がない。
それでも、殺しの訓練に比べれば何万倍も簡単だった。

「奥様って、お生まれは華族かしら?」
「…えっ」
「基本的な所作は身についていらっしゃるから。」

稽古終わりのある日、ふと尋ねられた質問。
困ったように美雪は司を見上げたが、彼は穏やかに美雪の返事を待ってくれている。

ゆるゆると、目線が下がってしまった。
ずっと昔の思い出を、探すように思い返していく。

「…よく、わからないけど…たぶん…違う、かな…?」
「…そう。」
「でも…」

霧がかかったような中、ぼんやりと浮かぶ顔は…父と、母か。

「父様が…大きなお屋敷のお庭のお祭りに…連れて行って、くれて…。母様、は……素敵な淑女になってね、って…今日みたいなの…教えて、くれて…。」

美雪が育ったのは、大きな港町だった。
船の汽笛はいつも聞こえていて、洋装の大人が沢山いた。
ぽってりとした父の腹の上で甘えるのが好きだった。母に髪を結ってもらうのが好きだった。
沢山、美雪を抱きしめてくれた2人。

「ねえ、美雪様。」
「…?」

司が、美雪と目を合わせるように跪く。
彼は美雪の両手を優しく握り締めた。

「美雪様のお家のお名前を、教えてくれないかしら?美雪様のお名前、全部。」
「…」

自分の家の名前。両親から引き継いだ大事なもの。もうずっと長いこと、誰からも呼ばれなかったもの。

「れ、い…ぜん…」

ポロポロと涙が溢れてくる。
雫と一緒に、声が零れ出ていく。

「冷泉…美雪…。わたし…っ…冷泉、美雪…!!」

呼吸が、うまく出来なかった。喉が詰まって苦しい。
身体がざわざわし、恐怖に胸が締め付けられる。

両親を殺した奴を殺したい。アヘンがあれば殺せるはずなのだ。武器になるものならなんでもいい。それさえあれば、最適で最強の使い方は能力が教えてくれるのだから。
大好きな両親を奪った者を殺したい。自分の平穏を壊した奴らを殺したい。
身体が、心が、アヘンを求めて止まない。

「っ、奥様…!!」
「やだぁ……!違う、わたし…っ、みゆき、だもん……。れ、いぜ…冷泉…みゆき…!!」

強いストレスによる、衝動的なアヘンへの渇望だ。
司は慌てて美雪を抱きしめ、鎮静向けの漢方を差し出そうとする。しかし、暴れる彼女の手がその粉を床へぶちまけてしまった。

本来なら、彼女にアヘンを与える場合は真誠か晴明の管理の下だ。しかし二人とも、今は仕事中である。
医者がアテにならないことは、とっくの昔に実証済みだ。

与えないに越したことはない。そんなことは、百も承知。
だが本人に克服の意志がない以上、無理はさせられない。

「っ………ままならないわね……。」

どうにか、美雪を抱え込む。
断腸の思いで、司は彼女がアヘンを吸うための部屋へ駆け込むのだった。



その日の深夜。
報告を聞いた真誠は、書斎の机で頭を抱えていた。

1日に1度、最低限の量のみ。それでなんとか保っていたが、今日の崩れは想定外だった。
結局彼女は、夕食もまともに食べていない。

(何が…望む世界を作ってやる、だ。)

愛している女性1人、アヘンの沼から引き上げることすらできていない。

右足の古傷が痛みだす。
脳裏に蘇る、自分と瓜二つの少年の咆哮。鼻の奥を刺すようなアヘンの悪臭と、異能の暴走。

もしも、美雪がアレと同じ状態になってしまったら。真誠は、それが何よりも恐ろしい。
そう思った瞬間、耐え難い激痛が失くした足に襲いかかった。

「ッ……ぐ、」

口の中に広がる鉄の味。
身体に纏わりつく暗闇が、呼吸すら奪っていく。

コンコンと、突如響くノックの音。
急激に現実に引き戻され、真誠は詰めていた息を吐いた。

返事も待たずに入ってきたのは、晴明だった。

「俺は医者じゃないんだが?」

いつものように文句を言いながら、彼は静かに戸を閉める。
無言の真誠に気づくと、彼はため息交じりに話し始めた。

「異能は暴走していない。…気は酷く淀んでいたから、換気と簡単な除霊はしておいたぞ。」
「…そうか。」

暗い返事に、晴明は顔をしかめる。
常に傲慢なほど自信に満ちた真誠が、こうも崩れているのを見るのは幼い頃以来だ。調子が狂うにも程がある。

ガシガシと頭をかいて、晴明は口を開く。

「司殿の判断は正しいだろ。異能が発現するほどアヘン漬けにされてたんだ、抜くのは生半可な覚悟じゃ無理だ。」
「……分かって、いる…。」
「…焦りが顔に出てるぞ、馬鹿者が。いつもの澄まし顔はどこに置いてきた。」
「…………。」

虚空を睨む、光のない瞳。無言の圧は、真誠を暗い渦へ、渦へ…。

響く盛大な舌打ち。
剣印を組むと、晴明は素早く真誠の目の前に四縦五横の格子を描いていく。

「臨める兵、闘う者、皆、陣列れて前に在れ」
「っ…!!」

その途端、真誠は急に呼吸が楽になった。肺が上下するのがわかる。肩が軽く、足の痛みはない。

「…すまん。」
「ハッ、この悪霊吸引器め。」

思わず口をついた謝罪。晴明はそれを鼻で笑ってきた。

「彼女の生家までわかったと聞いたが?貴様が相変わらずの体たらくでは、報復など到底先になりそうだ!」

これには、流石の真誠も耳が痛い。
結果を焦るあまり、無駄足を踏むところだった。

「1つ貸しだからな。」

そう言って立ち去ろうとする晴明。
そんな悪友の背に、真誠は礼を送る。

「今度の社交会、お前はせめて許嫁殿を連れてこれるといいな。」

扉を抜ける直前に、晴明はそんな腐れ縁に向けて舌を出す。

「余計なお世話だ、この強引婚。」

彼が去ったこの部屋は、先ほどよりもずっと空気が軽かった。



冬の締めと、春の顔合わせを兼ねた社交会当日。
まだ僅かに日差しが残る夕方、真誠は自身の身支度を整え邸宅を歩いていた。

向かうのは、とある客間。そこで美雪が準備を進めているはずだった。
ここ暫く、真誠は彼女と会えていない。報告を聞く限りでは問題なさそうだが、果たして。

木製の扉の前に立つ。中から微かに聞こえる話し声は、美雪と司だろう。司は随分と楽しそうだ。

ゆっくり深呼吸を、ひとつ。軽くノックをして、返事を聞いてから扉を開けた。

「美雪。準備はどう…だ…。」

思わず言葉が途切れる。
扉を開けるとそこには、絶世の美女がいた。

床につくほどのロングドレスは、社交会で女性たちが好んで着ている形のものだ。
自身の燕尾服と揃いの黒い最高級シルク。ドレスの揺れに合わせて深い波を描く漆黒に、銀糸の刺繍が映える。葛の葉と、狐の文様。そこに微かに散る紫の星たちは、アメジストだろう。

その刺繍を辿っていけば、細く引き締まった腰と、ふくよかで色気のある胸元が目に入る。サファイアのブローチが輝き、華やかだ。
首周りまでとどくハイネックの銀のレースが谷間を飾り、露出を抑えている。しかし袖はなく、肩口とロンググローブの合間に覗く白い肌が陶器のようだ。

初めて見る華やかな飾りがみ。艶やかな黒髪の中にサファイアが輝いている。うなじを飾るドレスのハイネックレースの慎ましさが、色っぽい。

「あ、あの……」

照れたような、困ったような表情の美雪。
昔真誠を救ってくれた無邪気な笑顔とは違うが、彼女が何よりも綺麗で可愛らしいことは、今も当然の事実だ。

「…似合ってる、美雪。」
「え、あ、えと…。」

一方、美雪もまた真誠に見惚れてしまっていた。

深い黒の燕尾服が、夕日を受けて鮮やかな光沢を見せる。真っ白なシャツとのコントラストが眩しい。
そこから、左側に流された前髪に視線がいく。普段より凛々しい印象だ。

脳裏に浮かぶ、母が読み聞かせてくれた西洋の童話。

(…王子、様。)

それはきっと、真誠のような人のことを言うのだろう。

コツ、コツと、真誠の革靴が床板を叩く。
彼は美雪の前で膝をつき、彼女の指先に触れるだけの口づけを。

「…!?」

心臓が駆け足をし始めた。
指先から、あの夜と同じうっとりとした表情の真誠が見上げてくる。

「どうか俺の妻として、共に来てくれないか?美雪。」
「っ……。」

爆弾を投げ捨てた以上、美雪にできる答えはひとつしかなかった。

「…はい。」

形式だけでもそう頷けば、とろけたように嬉しそうに真誠は笑う。
その表情に胸がきゅうっとなったことに、美雪は見て見ぬふりをした。