しんしんと、綿のような雪が舞う。そんな、朝。
「ん…?」
ぼんやりと目を覚ました美雪は、自分がどこにいるのか理解できなかった。
ふかふかで、温かい布団。胸いっぱいに吸い込みたいほどいい香りがする。
視線の先には緑と木々の並ぶ庭。
ふわふわと揺れる白は、アヘンの煙ではない。音が吸い込まれ、驚くほど静か。どうやらここは、地下ではないらしい。
「…あ。」
感覚が拾った情報がやっと脳に到達する。昨夜何があったのか思い出し、美雪はゆっくりと起き上がった。
暗殺の失敗と、標的からの求婚。
その手をとった美雪は、彼とその友人が外してくれた腕輪を放り捨てた。
それはどうやら夢ではなかったらしい。その証拠に、あの氷のように冷たい腕輪は、手首についていなかった。
コンコン、と軽く鳴るノック。突然聞こえたその音に、美雪は大きく肩を震わせた。
「奥様~?起きてるかしら。」
「え…」
油の足りないからくり人形のような動きで、振り向く美雪。襖の向こうに人がいることさえ気づかないとは、なんたる不覚。
咄嗟に武器を探す。最も使えそうなのは、自分が身につけている襦袢の帯だ。
「入るわよ~。」
男性の声がそう告げる。
スー…という微かな音と共に動く襖。
顔を出したのは、洋装をまとった壮年の人物だ。声の印象は男性だが、艶のある唇や肩に触れる髪などからは女性のような印象を受ける。今思えば、話し方も女性的だった。
「あらやだ。そんな警戒しないでちょうだい。」
「…」
「でもまぁ、昨日の今日じゃしょうがないわよねぇ。」
帯を絞殺するための紐のように構えていた美雪。だが入り口にいる人物は、攻撃してくる気配がない。美雪の様子を、ただ当然のように受け入れていた。
「アタシ、禅杖司。組長…んんっ、真誠様の側近よ。よろしくね、奥様。」
「…はぁ…。」
司に敵意はない。そう理解した美雪は、ゆっくりと警戒を緩めていく。
それを見た彼は嬉しそうに微笑むと、本題を美雪へ投げかけた。
「朝飯、食べられそうかしら?組長が奥様と一緒に食べたがってるのよ~。」
「…え、っと…」
その瞬間、言葉の返事の代わりに答えたのは腹の虫だった。
クキュウ、とせつない鳴き声。思わず美雪は、握っていた帯で自身の腹をぐるぐる巻きにしてしまった。
穴があったら入りたいとは、こういう状況をいうのだろう。
「んふふ、よかったわ。寝台のお隣にある棚に、お着物が入っているから、好きなのを着てちょうだいな。お手伝いが必要だったら呼んでね。」
「わ…わかり、ました。」
「じゃあ、お着替えが終わった頃にまた呼びに来るわ~。」
美雪の返事に満足そうにすると、流れるように扉を閉める司。
そして部屋には、混乱する美雪だけが残された。
(…えっ。監視するんじゃなくて…?)
驚きと戸惑いで、身体がうまく動かない。
奥様という呼び方も、綺麗すぎる寝具も、監視のない一人部屋も。
全くの未知で、ぬるま湯のように居心地が悪かった。
◇
だだっ広い洋室に、大きな長机が一つ。
そこに座るのは、真誠と美雪の二人だけ。この部屋へ来るまでも、人と殆どすれ違わなかった。
司が言うには、必要最低限の使用人しかいないらしい。侯爵家というのに、随分と殺風景だ。
湯気の立つ白米と味噌汁なんて、いつ以来だろう。
ボスの相手をした翌朝は、少々豪華な中華を食べられた。だがそれも数えられるほどだ。
お腹が容赦なく空腹を主張した。早く食べろと訴えている。
しかし、もし毒があったら?何かの罠だったら?
こんな豪華な食事、なにも対価を要求されないわけがない。
椅子に座ったはいいものの、美雪は完全にフリーズしてしまっていた。
「…司。」
「なあに?組長。」
そばに控えていた従者を呼ぶ真誠。そして彼は、信じられないことを司に指示した。
「美雪と俺の膳を全て、彼女の目の前で入れ替えてくれ。」
「…!?」
「承知よ、組長。」
美雪はギョッとしてしまった。そんなことをして、本人に何かあったらどうするのだ。
あろうことか、本当に目の前で朝食達が交換されていく。料理の種類に差はないが、少々盛られている量が多いような気がした。
それが終わると、何の躊躇もなく真誠は箸を取った。
「いただきます。」
そして彼は、何事もなかったように食事を始めるではないか。
「あの…」
「ん?」
戸惑った美雪が声をかける。しかしそれを後悔しそうなほど甘い返事が返ってきてしまった。
優しすぎる瞳が、美雪を捕らえて離さない。
彼が柔和に微笑むと、何だか見透かされているような気分になる。心臓が、煩い。
「安心しろ。家主に毒を盛る馬鹿は雇ってない。」
「………」
そう言って食事を続ける真誠。
ここまで来ると、疑うのが馬鹿らしくなってきた。こちらだけが消耗しても、意味がない。
おずおずと、箸を手に取る。
出汁巻きを一切れ、美雪は口へ運んだ。
「…!!」
美味しい。
ふわふわで温かく、出汁の香りが効いている。
口の中で卵が踊っているみたいだ。
それからというもの、美雪は夢中で食事を頬張った。
会話など一切なかったが、そんなことは気にならない。
窓の外では、雪を被った梅の花が蕾を膨らませていた。
そんな穏やかな食事の後のこと。
「そうだな…黒龍会について知ってることを、全て話してくれないか?」
「……!!」
食後のお茶を飲みながら、真誠は怖いほど優しい声で言い出した。
来た、と美雪は身構える。
ゴクリと喉を鳴らしてお茶を飲み込み、湯飲みをおいて答えた。
「…嫌だ、って言ったら?」
黒龍会とは、アヘン窟の運営を主な生業とする香港マフィアだ。
美雪の古巣であり、多くの異能者を抱える極悪集団。
知っていることを話したとして、それが万が一バレたらと思うと。
とてもじゃないが生きた心地がしないのだ。
だが真誠が率いる葛原組は、黒龍会と対立している。
この食事も、嫁発言も、敵の情報を聞き出すのが目的だったのだろう。
それを拒否したいま、果たしてどんな仕打ちが待っているのか。
警戒し、真誠の様子に目を光らせる美雪。
彼はふわりと笑うと、口を開いた。
「話したくなるまで待つさ。」
「…そう、やっぱり拷も…え?」
「ん?」
噛み合わない会話に、お互いに目が点だ。二人とも、相手の発言の意図が分からない。
司が肩を震わせているのだけが部屋に微かに響く。耐えきれなかったらしい。
「…拷問してでも吐かせるんじゃ…?」
最初に確認を始めたのは、美雪だった。
彼女から見れば、裏社会の人間が目的のために手段を選ばないのは当然のこと。
「拷問してほしいのか?ふむ…まあ世の中には被虐趣味というのもあるとは聞いているが…」
「違います!!」
だというのに、真誠の返答はこれである。
大真面目に見当違いなことを言い出す男に、思わず美雪は声を荒げてしまった。
アハハ、と司の笑い声が豪快になる。
真誠までも、心なしか嬉しそうに微笑んでくるではないか。
「…冗談だ」
「っ…!」
柔らかい声が美雪の不安を受け止める。
なんとなく、そのひと言が悔しい。
「君が俺のことを旦那と認めて、奴らのことを話してもいいと思えたら、話してくれ。」
「…!?」
美雪は驚いて、何も言い返せなかった。
そんな彼女の手に、一回り大きな手が重なる。
「分かりやすく奴らに喧嘩を売れるから、君を娶ったのも事実だ。だがそれ以上に…、君を幸せにするために、俺は君を妻として迎えたのだから。」
「ッ…」
全てを包み込む大樹の幹のような瞳が、美雪だけを映す。それは昨夜見たのと同じ目だ。
深い愛情の宿った瞳。
美雪の返事を待たないまま、真誠はゆっくりと立ち上がる。
下ろしたままの美雪の髪を撫で、口づけをして。
彼は食堂を後にした。
「……本気で、言ってるの……??」
彼の真意が、美雪は心底わからなかった。
◇
司は葛原院邸を一通り案内してくれた。
洋館の玄関から、大広間、応接室、書斎に今朝食事をした食堂…。
真誠は奥まで行くのを面倒くさがって、書斎で寝ることが多いらしい。確かに、昨夜美雪が侵入したのもこの部屋だった。
そして渡り廊下を越え、和館へ。
お座敷、茶室、本来の真誠の寝室と、美雪に充てがわれた部屋…。
これらは生活に必要なものだ。
だが、司の案内はこんな優しいものではなかった。
使用人しか使わないような部屋から、庭の抜け道、裏口、玄関扉の鍵がどれか、使用人の人数から警備の有無、裏庭と野良猫の出入り口、倉庫…。
本当に、「隅から隅まで」だ。
「あ、あの…っ!!」
「なあにー?奥様。」
蔵から和館へ戻る庭の中、耐えきれなくなった美雪は声をあげた。
「意味が分からないです…!なんで、私にこんなところまで教えるんですか?私昨日、この家の当主を殺しに来たんですよ…!?」
逃げ場があるように見せかけて、そんなもの、ここには全くないというのに。
「組長のご指示だからねぇ〜。」
「…ハァ?」
にこにこと嬉しそうな司の反応に、不信感が積もる。
側近だと言うのなら、まず当主のその暴論に反対するべきではないのだろうか。
しかし司は笑みを崩さず、美雪に告げる。
「いつでもここから出られる、ってわかる方が、美雪様が安心するだろうから…ってね。」
「…」
そんなことは、恐ろしくて考えたことがなかった。
逃げれば捕まる。捕まれば折檻される。他人の助けで逃げたとしても、自分が捕まれば罰をうけるのは助けてくれた人。それが、裏社会の常識ではないのだろうか。
「さ、早くお家に入りましょう?奥様。雪の中に立ってたら、風邪ひいちゃうわ。」
立ち尽くす美雪に、自身の羽織をかけてくる司。
彼に促され、やっと美雪の足は動き出す。
「…あの男は…なぜ、私を嫁に…?」
地面を見つめたまま、ポツリ、ポツリと美雪は言葉を漏らす。
「やっとみつけた、って…、何のこと…?」
足にかかる雪は酷く冷たい。
冬に慣れた身体には、そのくらいが心地良い。
「…これは、独り言なんだけれどね。」
そんな司の言葉が、頭上から聞こえてきた。
「真誠様ねぇ、ずーっと、貴女のことを探してたのよ。うふふ、初めて美雪様のことを聞いたときはつい、初恋?ってからかっちゃったわ。もー、照れてる幼い真誠様の、かわいいのなんの!」
「………??」
余りにも想像がつかなくて、美雪は司の顔を見上げた。
全て知っているというような顔で、彼は嬉しそうに話し続ける。
「あの子ねぇ、不器用だけれど…貴女のことがずーっと大好きだから、それは信じてあげてほしいわ。…口下手だから、きっと自分では死んでも言わないでしょうけど。」
「…………???」
結局彼は、美雪の疑問に答えなかった。
けれど一緒に戻った和館の空気は、じわりじわりと美雪の身体を暖めていく。
この温かさがずっと続けばいいのに、なんて。
そんな思いが、庭の梅のように蕾をつけていた。
◇
あれ以来、美雪は自室の寝台にうずくまりなんとか目を閉じている状態だった。
身体がゾワゾワして、汗が止まらない。
黒龍会の奴らがすぐそこに来ている気がして、不安で仕方がない。
武器を手に取れと、能力が訴えてくる。アヘンを吸って、暴れて、全て壊してしまえば、この不安から解放されるだろうか。
「……お前」
「ッ!!」
突如聞こえた声に、美雪は反射的に腕を振り上げた。
握りしめていた簪を放る。眼球ならこれで十分突き刺せるからだ。
美雪は能力に任せ、最短距離で最高の結果を出そうとした。
「あ…ぶないだろう…!!」
「ッ……!!ぁ、」
だが、その簪は目の前の男性に握りしめられてしまった。またも、暗殺失敗。もはや殺し屋とは名乗れないのではないか。
ぐにゃぐにゃする視界の中で、困ったように頭をかく黒髪の男性。
見たことがあるのは分かったのだが、美雪は名前が思い出せない。
「…”武器屋”の異能はどこを抑えればいいんだ…?手か…?脳…??」
そうぼやきながら、男が寝台に腰掛ける。
帯を使えば絞殺出来るだろうか。そう無意識に算段を立てる美雪の額に、男の指が伸びる。
「……」
ボソボソと何か言っているらしい。抵抗できずにいると、ぽう…と柔らかい光が額に触れた。
するとどうだろう。ゆっくりと、身体を襲っていた不安も不快感もほどけていくではないか。
ほう…と、呼吸が通る。
男の指が額から離れたとき、やっと彼が誰なのかを美雪は認識できた。
「昨日、の…」
どうにかそれだけ呟く。目の前の男は、安倍晴明だ。
「…依存症状が出ててもおかしくないとは、思っていたが。」
ムス、とした顔で見下ろしてくる晴明。
それが分かっていてわざわざここへ来たのだとしたら、それは。
「……心配……?」
「誰が貴様なんかを!!」
「………」
まさかと思って口にすれば、即座に大声で否定されてしまった。
彼の返事が正常だ。短時間で随分図々しくなってしまったと、美雪は布団を深く被り直した。
晴明は手足を組むと、舌打ちをひとつ。そしてまるで言い訳のように話し始めた。
「あの女たらしは本気で貴様を妻にするつもりらしい。自分は仕事で横浜だから、近場の俺が貴様の様子を見ろと、わざわざ朝に言いつけに来た。…だから仕方なくだ。」
「…えっ」
微かな美雪の声は、晴明に届いたらしい。
視線だけでこちらを伺ってきた彼に、彼女は尋ねた。
「………なんで、わざわざそんなこと」
「妻が心配だからだろ。」
「……」
即答された返事。うまく飲み込めずにぼんやりしていると、晴明はおもむろに立ち上がった。
「貴様を謎に溺愛してる男から直接聞け、そういうのは。」
吐き捨てるようにそう告げる。彼は黒猫の尻尾のような髪を揺らして、そのまま部屋をでていってしまった。
その足音さえまだ残っているのに、聞こえてくる話し声。
「雪より軽い口はこれか??」
「冷たっっ!!」
真誠と晴明だ。
昨夜も聞いたような騒がしくてテンポの早い応酬が聞こえてくる。詳しい内容は分からないが、どうやら美雪のことを話しているらしい。
「さっさと仕事に戻れ、宮中の飼い犬!」
「言われんでも戻るわ、この我儘坊っちゃんが!」
「なっ…!!」
部屋の襖を開けながら、真誠が廊下に向かって叫ぶ。
遠のきつつ聞こえた言葉から察するに、どうやら今回は晴明の勝ちだろうか。
美雪が真誠の方を向いていたことに気づき、彼は咳払いをひとつ。
少々気まずそうにしながら、後ろ手に襖を閉めた。
「…症状がでてたと煩いのから聞いた。今は、調子はどうだ?」
先ほどと打って変わって、優しい声で真誠は言う。
畳に膝をつき、彼は美雪の頬をそっと撫でた。赤い指先の冷たさが心地良い。
「今は、まあ…。」
「…そうか。」
「でも……落ち着かない……。」
「………そう、か。」
短い会話。思い悩むように、真誠の視線が下る。
深い茶色の彼の髪を、雪の白がちらちらと飾っていた。
「…可能な限り、人体に影響の薄いものを選んだはず、だ。適当に潰してきたアヘン窟の押収品だから、質なんてあったもんじゃないんだろうが…」
「…?」
真誠にしては珍しく、歯切れの悪い物言い。
苦しそうに眉根を寄せ、何かに耐えるように揺れた瞳で、彼は美雪に尋ねた。
「アヘン………吸う、か………?」
「………!」
心臓が、大きく跳ねた。
大嫌いだ、アヘンなんて。あれさえ無ければ殺しなんてしなくて済んだ。あれさえ無ければ苦しい思いも、怖い思いも、痛い思いもしなかった。
けれど今はどうしても、アヘンが欲しい。
無いほうがよっぽど、恐ろしい。
「…………うん。」
「ッ………。」
頷けば、真誠の綺麗な顔立ちがぐしゃぐしゃに歪んでしまった。その顔を隠すように、真誠は俯く。
たっぷり、10秒は数えただろうか。
「…わかった。」
顔を上げた時、真誠は朝と同じように微笑んでいた。
そして、彼のそばにおいていた袋から、機材などを取り出し準備を始めてくれた。
アヘン中毒者であることまで含めて、真誠は美雪を受け入れてくれている。
もしかしたら本当に、彼を信じてもいいのかもしれない。
美雪はほんの少しだけ、そう思ってしまったのだった。
「ん…?」
ぼんやりと目を覚ました美雪は、自分がどこにいるのか理解できなかった。
ふかふかで、温かい布団。胸いっぱいに吸い込みたいほどいい香りがする。
視線の先には緑と木々の並ぶ庭。
ふわふわと揺れる白は、アヘンの煙ではない。音が吸い込まれ、驚くほど静か。どうやらここは、地下ではないらしい。
「…あ。」
感覚が拾った情報がやっと脳に到達する。昨夜何があったのか思い出し、美雪はゆっくりと起き上がった。
暗殺の失敗と、標的からの求婚。
その手をとった美雪は、彼とその友人が外してくれた腕輪を放り捨てた。
それはどうやら夢ではなかったらしい。その証拠に、あの氷のように冷たい腕輪は、手首についていなかった。
コンコン、と軽く鳴るノック。突然聞こえたその音に、美雪は大きく肩を震わせた。
「奥様~?起きてるかしら。」
「え…」
油の足りないからくり人形のような動きで、振り向く美雪。襖の向こうに人がいることさえ気づかないとは、なんたる不覚。
咄嗟に武器を探す。最も使えそうなのは、自分が身につけている襦袢の帯だ。
「入るわよ~。」
男性の声がそう告げる。
スー…という微かな音と共に動く襖。
顔を出したのは、洋装をまとった壮年の人物だ。声の印象は男性だが、艶のある唇や肩に触れる髪などからは女性のような印象を受ける。今思えば、話し方も女性的だった。
「あらやだ。そんな警戒しないでちょうだい。」
「…」
「でもまぁ、昨日の今日じゃしょうがないわよねぇ。」
帯を絞殺するための紐のように構えていた美雪。だが入り口にいる人物は、攻撃してくる気配がない。美雪の様子を、ただ当然のように受け入れていた。
「アタシ、禅杖司。組長…んんっ、真誠様の側近よ。よろしくね、奥様。」
「…はぁ…。」
司に敵意はない。そう理解した美雪は、ゆっくりと警戒を緩めていく。
それを見た彼は嬉しそうに微笑むと、本題を美雪へ投げかけた。
「朝飯、食べられそうかしら?組長が奥様と一緒に食べたがってるのよ~。」
「…え、っと…」
その瞬間、言葉の返事の代わりに答えたのは腹の虫だった。
クキュウ、とせつない鳴き声。思わず美雪は、握っていた帯で自身の腹をぐるぐる巻きにしてしまった。
穴があったら入りたいとは、こういう状況をいうのだろう。
「んふふ、よかったわ。寝台のお隣にある棚に、お着物が入っているから、好きなのを着てちょうだいな。お手伝いが必要だったら呼んでね。」
「わ…わかり、ました。」
「じゃあ、お着替えが終わった頃にまた呼びに来るわ~。」
美雪の返事に満足そうにすると、流れるように扉を閉める司。
そして部屋には、混乱する美雪だけが残された。
(…えっ。監視するんじゃなくて…?)
驚きと戸惑いで、身体がうまく動かない。
奥様という呼び方も、綺麗すぎる寝具も、監視のない一人部屋も。
全くの未知で、ぬるま湯のように居心地が悪かった。
◇
だだっ広い洋室に、大きな長机が一つ。
そこに座るのは、真誠と美雪の二人だけ。この部屋へ来るまでも、人と殆どすれ違わなかった。
司が言うには、必要最低限の使用人しかいないらしい。侯爵家というのに、随分と殺風景だ。
湯気の立つ白米と味噌汁なんて、いつ以来だろう。
ボスの相手をした翌朝は、少々豪華な中華を食べられた。だがそれも数えられるほどだ。
お腹が容赦なく空腹を主張した。早く食べろと訴えている。
しかし、もし毒があったら?何かの罠だったら?
こんな豪華な食事、なにも対価を要求されないわけがない。
椅子に座ったはいいものの、美雪は完全にフリーズしてしまっていた。
「…司。」
「なあに?組長。」
そばに控えていた従者を呼ぶ真誠。そして彼は、信じられないことを司に指示した。
「美雪と俺の膳を全て、彼女の目の前で入れ替えてくれ。」
「…!?」
「承知よ、組長。」
美雪はギョッとしてしまった。そんなことをして、本人に何かあったらどうするのだ。
あろうことか、本当に目の前で朝食達が交換されていく。料理の種類に差はないが、少々盛られている量が多いような気がした。
それが終わると、何の躊躇もなく真誠は箸を取った。
「いただきます。」
そして彼は、何事もなかったように食事を始めるではないか。
「あの…」
「ん?」
戸惑った美雪が声をかける。しかしそれを後悔しそうなほど甘い返事が返ってきてしまった。
優しすぎる瞳が、美雪を捕らえて離さない。
彼が柔和に微笑むと、何だか見透かされているような気分になる。心臓が、煩い。
「安心しろ。家主に毒を盛る馬鹿は雇ってない。」
「………」
そう言って食事を続ける真誠。
ここまで来ると、疑うのが馬鹿らしくなってきた。こちらだけが消耗しても、意味がない。
おずおずと、箸を手に取る。
出汁巻きを一切れ、美雪は口へ運んだ。
「…!!」
美味しい。
ふわふわで温かく、出汁の香りが効いている。
口の中で卵が踊っているみたいだ。
それからというもの、美雪は夢中で食事を頬張った。
会話など一切なかったが、そんなことは気にならない。
窓の外では、雪を被った梅の花が蕾を膨らませていた。
そんな穏やかな食事の後のこと。
「そうだな…黒龍会について知ってることを、全て話してくれないか?」
「……!!」
食後のお茶を飲みながら、真誠は怖いほど優しい声で言い出した。
来た、と美雪は身構える。
ゴクリと喉を鳴らしてお茶を飲み込み、湯飲みをおいて答えた。
「…嫌だ、って言ったら?」
黒龍会とは、アヘン窟の運営を主な生業とする香港マフィアだ。
美雪の古巣であり、多くの異能者を抱える極悪集団。
知っていることを話したとして、それが万が一バレたらと思うと。
とてもじゃないが生きた心地がしないのだ。
だが真誠が率いる葛原組は、黒龍会と対立している。
この食事も、嫁発言も、敵の情報を聞き出すのが目的だったのだろう。
それを拒否したいま、果たしてどんな仕打ちが待っているのか。
警戒し、真誠の様子に目を光らせる美雪。
彼はふわりと笑うと、口を開いた。
「話したくなるまで待つさ。」
「…そう、やっぱり拷も…え?」
「ん?」
噛み合わない会話に、お互いに目が点だ。二人とも、相手の発言の意図が分からない。
司が肩を震わせているのだけが部屋に微かに響く。耐えきれなかったらしい。
「…拷問してでも吐かせるんじゃ…?」
最初に確認を始めたのは、美雪だった。
彼女から見れば、裏社会の人間が目的のために手段を選ばないのは当然のこと。
「拷問してほしいのか?ふむ…まあ世の中には被虐趣味というのもあるとは聞いているが…」
「違います!!」
だというのに、真誠の返答はこれである。
大真面目に見当違いなことを言い出す男に、思わず美雪は声を荒げてしまった。
アハハ、と司の笑い声が豪快になる。
真誠までも、心なしか嬉しそうに微笑んでくるではないか。
「…冗談だ」
「っ…!」
柔らかい声が美雪の不安を受け止める。
なんとなく、そのひと言が悔しい。
「君が俺のことを旦那と認めて、奴らのことを話してもいいと思えたら、話してくれ。」
「…!?」
美雪は驚いて、何も言い返せなかった。
そんな彼女の手に、一回り大きな手が重なる。
「分かりやすく奴らに喧嘩を売れるから、君を娶ったのも事実だ。だがそれ以上に…、君を幸せにするために、俺は君を妻として迎えたのだから。」
「ッ…」
全てを包み込む大樹の幹のような瞳が、美雪だけを映す。それは昨夜見たのと同じ目だ。
深い愛情の宿った瞳。
美雪の返事を待たないまま、真誠はゆっくりと立ち上がる。
下ろしたままの美雪の髪を撫で、口づけをして。
彼は食堂を後にした。
「……本気で、言ってるの……??」
彼の真意が、美雪は心底わからなかった。
◇
司は葛原院邸を一通り案内してくれた。
洋館の玄関から、大広間、応接室、書斎に今朝食事をした食堂…。
真誠は奥まで行くのを面倒くさがって、書斎で寝ることが多いらしい。確かに、昨夜美雪が侵入したのもこの部屋だった。
そして渡り廊下を越え、和館へ。
お座敷、茶室、本来の真誠の寝室と、美雪に充てがわれた部屋…。
これらは生活に必要なものだ。
だが、司の案内はこんな優しいものではなかった。
使用人しか使わないような部屋から、庭の抜け道、裏口、玄関扉の鍵がどれか、使用人の人数から警備の有無、裏庭と野良猫の出入り口、倉庫…。
本当に、「隅から隅まで」だ。
「あ、あの…っ!!」
「なあにー?奥様。」
蔵から和館へ戻る庭の中、耐えきれなくなった美雪は声をあげた。
「意味が分からないです…!なんで、私にこんなところまで教えるんですか?私昨日、この家の当主を殺しに来たんですよ…!?」
逃げ場があるように見せかけて、そんなもの、ここには全くないというのに。
「組長のご指示だからねぇ〜。」
「…ハァ?」
にこにこと嬉しそうな司の反応に、不信感が積もる。
側近だと言うのなら、まず当主のその暴論に反対するべきではないのだろうか。
しかし司は笑みを崩さず、美雪に告げる。
「いつでもここから出られる、ってわかる方が、美雪様が安心するだろうから…ってね。」
「…」
そんなことは、恐ろしくて考えたことがなかった。
逃げれば捕まる。捕まれば折檻される。他人の助けで逃げたとしても、自分が捕まれば罰をうけるのは助けてくれた人。それが、裏社会の常識ではないのだろうか。
「さ、早くお家に入りましょう?奥様。雪の中に立ってたら、風邪ひいちゃうわ。」
立ち尽くす美雪に、自身の羽織をかけてくる司。
彼に促され、やっと美雪の足は動き出す。
「…あの男は…なぜ、私を嫁に…?」
地面を見つめたまま、ポツリ、ポツリと美雪は言葉を漏らす。
「やっとみつけた、って…、何のこと…?」
足にかかる雪は酷く冷たい。
冬に慣れた身体には、そのくらいが心地良い。
「…これは、独り言なんだけれどね。」
そんな司の言葉が、頭上から聞こえてきた。
「真誠様ねぇ、ずーっと、貴女のことを探してたのよ。うふふ、初めて美雪様のことを聞いたときはつい、初恋?ってからかっちゃったわ。もー、照れてる幼い真誠様の、かわいいのなんの!」
「………??」
余りにも想像がつかなくて、美雪は司の顔を見上げた。
全て知っているというような顔で、彼は嬉しそうに話し続ける。
「あの子ねぇ、不器用だけれど…貴女のことがずーっと大好きだから、それは信じてあげてほしいわ。…口下手だから、きっと自分では死んでも言わないでしょうけど。」
「…………???」
結局彼は、美雪の疑問に答えなかった。
けれど一緒に戻った和館の空気は、じわりじわりと美雪の身体を暖めていく。
この温かさがずっと続けばいいのに、なんて。
そんな思いが、庭の梅のように蕾をつけていた。
◇
あれ以来、美雪は自室の寝台にうずくまりなんとか目を閉じている状態だった。
身体がゾワゾワして、汗が止まらない。
黒龍会の奴らがすぐそこに来ている気がして、不安で仕方がない。
武器を手に取れと、能力が訴えてくる。アヘンを吸って、暴れて、全て壊してしまえば、この不安から解放されるだろうか。
「……お前」
「ッ!!」
突如聞こえた声に、美雪は反射的に腕を振り上げた。
握りしめていた簪を放る。眼球ならこれで十分突き刺せるからだ。
美雪は能力に任せ、最短距離で最高の結果を出そうとした。
「あ…ぶないだろう…!!」
「ッ……!!ぁ、」
だが、その簪は目の前の男性に握りしめられてしまった。またも、暗殺失敗。もはや殺し屋とは名乗れないのではないか。
ぐにゃぐにゃする視界の中で、困ったように頭をかく黒髪の男性。
見たことがあるのは分かったのだが、美雪は名前が思い出せない。
「…”武器屋”の異能はどこを抑えればいいんだ…?手か…?脳…??」
そうぼやきながら、男が寝台に腰掛ける。
帯を使えば絞殺出来るだろうか。そう無意識に算段を立てる美雪の額に、男の指が伸びる。
「……」
ボソボソと何か言っているらしい。抵抗できずにいると、ぽう…と柔らかい光が額に触れた。
するとどうだろう。ゆっくりと、身体を襲っていた不安も不快感もほどけていくではないか。
ほう…と、呼吸が通る。
男の指が額から離れたとき、やっと彼が誰なのかを美雪は認識できた。
「昨日、の…」
どうにかそれだけ呟く。目の前の男は、安倍晴明だ。
「…依存症状が出ててもおかしくないとは、思っていたが。」
ムス、とした顔で見下ろしてくる晴明。
それが分かっていてわざわざここへ来たのだとしたら、それは。
「……心配……?」
「誰が貴様なんかを!!」
「………」
まさかと思って口にすれば、即座に大声で否定されてしまった。
彼の返事が正常だ。短時間で随分図々しくなってしまったと、美雪は布団を深く被り直した。
晴明は手足を組むと、舌打ちをひとつ。そしてまるで言い訳のように話し始めた。
「あの女たらしは本気で貴様を妻にするつもりらしい。自分は仕事で横浜だから、近場の俺が貴様の様子を見ろと、わざわざ朝に言いつけに来た。…だから仕方なくだ。」
「…えっ」
微かな美雪の声は、晴明に届いたらしい。
視線だけでこちらを伺ってきた彼に、彼女は尋ねた。
「………なんで、わざわざそんなこと」
「妻が心配だからだろ。」
「……」
即答された返事。うまく飲み込めずにぼんやりしていると、晴明はおもむろに立ち上がった。
「貴様を謎に溺愛してる男から直接聞け、そういうのは。」
吐き捨てるようにそう告げる。彼は黒猫の尻尾のような髪を揺らして、そのまま部屋をでていってしまった。
その足音さえまだ残っているのに、聞こえてくる話し声。
「雪より軽い口はこれか??」
「冷たっっ!!」
真誠と晴明だ。
昨夜も聞いたような騒がしくてテンポの早い応酬が聞こえてくる。詳しい内容は分からないが、どうやら美雪のことを話しているらしい。
「さっさと仕事に戻れ、宮中の飼い犬!」
「言われんでも戻るわ、この我儘坊っちゃんが!」
「なっ…!!」
部屋の襖を開けながら、真誠が廊下に向かって叫ぶ。
遠のきつつ聞こえた言葉から察するに、どうやら今回は晴明の勝ちだろうか。
美雪が真誠の方を向いていたことに気づき、彼は咳払いをひとつ。
少々気まずそうにしながら、後ろ手に襖を閉めた。
「…症状がでてたと煩いのから聞いた。今は、調子はどうだ?」
先ほどと打って変わって、優しい声で真誠は言う。
畳に膝をつき、彼は美雪の頬をそっと撫でた。赤い指先の冷たさが心地良い。
「今は、まあ…。」
「…そうか。」
「でも……落ち着かない……。」
「………そう、か。」
短い会話。思い悩むように、真誠の視線が下る。
深い茶色の彼の髪を、雪の白がちらちらと飾っていた。
「…可能な限り、人体に影響の薄いものを選んだはず、だ。適当に潰してきたアヘン窟の押収品だから、質なんてあったもんじゃないんだろうが…」
「…?」
真誠にしては珍しく、歯切れの悪い物言い。
苦しそうに眉根を寄せ、何かに耐えるように揺れた瞳で、彼は美雪に尋ねた。
「アヘン………吸う、か………?」
「………!」
心臓が、大きく跳ねた。
大嫌いだ、アヘンなんて。あれさえ無ければ殺しなんてしなくて済んだ。あれさえ無ければ苦しい思いも、怖い思いも、痛い思いもしなかった。
けれど今はどうしても、アヘンが欲しい。
無いほうがよっぽど、恐ろしい。
「…………うん。」
「ッ………。」
頷けば、真誠の綺麗な顔立ちがぐしゃぐしゃに歪んでしまった。その顔を隠すように、真誠は俯く。
たっぷり、10秒は数えただろうか。
「…わかった。」
顔を上げた時、真誠は朝と同じように微笑んでいた。
そして、彼のそばにおいていた袋から、機材などを取り出し準備を始めてくれた。
アヘン中毒者であることまで含めて、真誠は美雪を受け入れてくれている。
もしかしたら本当に、彼を信じてもいいのかもしれない。
美雪はほんの少しだけ、そう思ってしまったのだった。
