肌にこびりつく甘い焦げ匂い。呼吸の音ひとつさえ耳を打つ静寂。
真誠は、重い口を開いた。
「…その手を離せ」
その一言で、常人ならば震えて土下座するだろう。
だがソファに座る老獪な男は、喉の奥で低く嗤う。
「…お望み通りに。」
金属同士が擦れる嫌な音を立てて、手枷を繋ぐ鎖が切断された。
「ぅ…、」
「だがなぁ…鎖を解くと…」
美雪が小さく呻く。だらりと下がる彼女の右手に、王は鎖を切った短刀を握らせた。
大きく身体が跳ね、ゆらりと立ち上がる美雪。
「異能が暴走しちまう。」
口元に弧を描き、言葉を紡ぐ王。
「もう…」
見物を決め込むように彼はソファへ沈む。
「止められねぇ。」
アヘンのようにねっとりとした声。
それを背景に流しながら、美雪は真誠に向けて走り出した。
「組長!」
「ッ…!」
刀を構える霞と、震える陽が真誠の前へ。
美雪の腕が、短刀に勢いをつけようと振られる。
「ッ、待て…!」
2人の襟を引き倒す真誠。
武器屋の操る短刀は、身長の違う兄妹の両目を潰す軌道を描く。正確に、躊躇なく。
それに気づいた霞は、血の気が引いた。
(組長の助けがなければ、今頃失明していた…!)
虚ろな目のまま、美雪は兄妹を素通りして駆ける。
「もう、みゆちゃん…!!」
陽は振り向く。銃口を美雪に向けた。
「ッ……」
陽の脳裏に浮かぶ、初夏の景色。美雪から寄せられた全幅の信頼。
ーー陽さんなら、私が真誠さんに相応しくなかったら、迷わず撃てるでしょ?
今がその時なのだろう。美雪は真誠に刃を振るっている。細い赤が彼の肌に浮かんでいく。
大好きなボスの脅威なら、撃たなければ。
「……無理、だよぉ……」
しかし銃が震える。涙で視界が滲む。
横浜の散策はしたりない。新橋だって回りたい。字の練習はまだまだだ。
「撃てないよ…みゆちゃん…!!」
「陽、」
このままでは手元が狂いかねない。霞は妹を守るために彼女を背に庇う。
そんな兄妹を視界の端に捉え、真誠は声を荒げた。
「霞!陽!」
「…!」
「美雪は俺が止める。王を抑えろ!」
その声は、兄妹にとって確かな道しるべ。
二人は迷いなく、王へと武器を向けた。
高みの見物を楽しんでいた男へ。
「ほう…」
兄妹の様子に、彼は口角を上げた。
陽が銃を構える。間髪入れず、王が発砲。
「チッ…!」
陽の舌打ち。彼女の額に血が伝う。
霞は間合いを詰める。即、刀を振り下ろした。
響く低く鈍い音。刀は銃で受け止められた。
足払いを霞は避ける。しかし手首を取られてしまう。
「ぐ…!」
身体を反転させられる。ソファを見上げる霞の腹に、硬い軍靴が襲いかかった。
「ッガ…!」
「兄者!!」
陽が叫ぶ。銃口を王へ。
しかし王の銃が霞の眉間に触れる。
「…撃つぞ?」
「ッ……!!」
低く短い一言。王の言葉に、陽は銃を下ろさざるを得ない。
「構わん、陽!撃て!」
「でも兄者…!!」
霞が叫ぶ。陽は撃てない。
そんな兄妹を、滑稽だと王は嗤う。
「ククク…頭がアレなら、部下も部下か…」
「が、ァ…!!」
霞の内臓を潰す王の右脚。王は脚を組み、優雅に座り直した。
「少し黙ってろ…。」
冷たい銃口は一切ブレない。
藻掻く霞を足が抑え込み、視線だけで陽を封じる。
「ここからが見ものだろうが…」
王が見つめるのは、真誠が殺されるその瞬間だけだった。
◇
無気力に垂れた美雪の腕。
振り乱される髪から覗く瞳に光はなく、淀んでいる。
けれど武器を持つ右手の動きだけが俊敏だ。躊躇は一切ない。
「く…!」
チリチリと痛む腕や頬。
真っ直ぐ頸動脈を突く彼女の刃。首を反らす。だが、じわりと滲む赤。
「…」
美雪と目が合う。彼女は何も発しない。だが、その瞳に膜を張る大粒の涙。
その瞬間、視界から美雪が消えた。
「美雪…!?」
真誠の驚愕と、木材に刃の刺さる鈍い音が重なる。
「…!?しまっ…!」
彼女の刃が、真誠の義足を貫通。衝撃を受け傾く身体。たたらを踏むことも出来ず、背後の壁に強く背を打ち付けた。
「うッ…」
崩れ落ちる真誠。
間髪入れず、美雪は彼に馬乗りになる。
彼女の小さな左手が迷いなく真誠の喉を圧迫した。
「ッ、ァ…」
何よりも恐れていた美雪の暴徒化。
追い詰められ方は、15年前と同じだ。
懐にある拳銃へ向かう真誠の手。
(…やっぱり)
しかしその手は、空を握った。
あの日、憎悪と殺意を向けてきたのは自分と同じ顔。
だが今真誠の目に映るのは、懇願と助けを求めている美雪だ。
(アレと、美雪が重なるなんて…、ありえない)
か細い呼吸に呻く。真誠は銃ではなく、美雪へ手を伸ばした。
「み…ゅ、き…」
「…」
荒れてざらつく頬に、指が触れる。
瞬間、義足から力任せに引き抜かれる短刀。美雪の手の中で、くるりと刃が回る。
真誠の視界が、白く弾けた。
「ッ゛…!」
声にならない悲鳴。右腹部に衝撃が走った。冷たい刃の感覚と爆発する激痛。
力を失くした真誠の手が滑る。だが無理やり空中でそれを引き止める。彼の腕は、美雪の背後に回された。
「俺の…嫁に、なれ」
「…!?」
怯えたように美雪の身体が跳ねる。
逃さないように強く、抱きしめた。
しかし腹の奥で、何かがじわりと崩れていく。
「…君の、力で…、俺を、護衛…して、ほしい…。」
互いの身体が密着する。より深く沈んでいく短刀。遅れて、熱が体内で暴れまわった。
「ッ…だが…、護衛、では…目立つ…。」
息も絶え絶えに、真誠は美雪の頭を撫でた。
「だから…、嫁に、なってくれ。」
「っ…!!」
頬を寄せ、目を閉じる真誠。
「俺は…、ただの、少女の、君を…、知って…る。」
瞳の奥に浮かぶのは、「みぃつけた!」と言う無垢な笑顔。
「絶望の…俺を、救って…くれた…」
桜が舞う、春の山手。
「…ずっと…、桜の中…見守って、た。」
瞼を開く。そして彼女の顎に手を添え、目を合わせた。
「今度は…俺が…、救い、たい…」
つう、と灰褐色の瞳からこぼれ落ちる一筋の涙。
それはまるで、地獄の中に垂らされた蜘蛛の糸。
「わ、たし…」
美雪の震える唇が僅かに動く。
「ここに…いても…」
涙に混ざる囁き。
「いい、の…?」
紡がれたのは、自ら真誠の元を望む言葉。
「…当然…だ。」
浅い息のまま、真誠は声を絞り出す。
「言った…だ、ろ…?」
愛する妻を抱きかかえ、脂汗の滲む笑みを浮かべて繰り返した。
「君の…場所、は…」
あの社交会の夜と、同じ言葉。
「俺の…腕の中、だ…」
「…!!」
鼻を突く異臭、血の匂い。お互いの涙が混ざり合う。
すべての音が止まる。
呼吸を確かめ合うように、2人の唇が重なった。
「……美、雪…」
「…?」
力なく、真誠の首を滑る美雪の手。真誠に導かれ、懐へ。
彼女が触れたのは、手に馴染んだ黒い鉄だった。

