その花嫁、元殺し屋につき ――暗殺先で標的から求婚された件

「…美雪。」

横浜、山手の屋敷の最奥、最優先で復旧させた私室たち。
美雪の寝室の襖の前で、真誠は最愛の妻の名を呼んだ。

米国の記念日から夜が明けて。
生け捕りにした爆弾魔も、商会の受けたダメージも、処理しきった深夜。

丸一日私室から美雪が出てこないと陽から聞いて、真誠はいまここに来ていた。

「…開けていいか?」

返事はない。だが耳をすますと、微かに聞こえてくるのは嗚咽だ。

「…美雪?入るよ…?」

流石に心配になり、真誠は襖を開ける。
中を覗くと、寝台の上に大福のような山が形成されていた。

「…美雪?」

襖を閉め、ゆっくり寝台へ。
大福の隣に腰掛けると、彼女の荒い息遣いと鼻をすする音がハッキリと聞こえてきた。

思い出すのは、彼女を迎えた翌日の夕方。
アヘンを吸うための一式など勿論手元になくて、霞と陽に命じて場所が分かるアヘン窟を適当に潰させた。
その押収品を手に、急いで麹町へ戻ったのだ。

頼んだ通り、晴明が来てくれていた。彼のおかげで彼女の禁断症状がマシになっていたと思うと、感謝してもしきれない。
同時に、諸悪の根源を差し出すことしかできない歯がゆさに、身体が引き裂かれるような思いだった。

さて、今の美雪はその時よりもずっと苦しそうだ。

「…美雪…?」

そっと、大福に触れる。すると警戒している猫のように、大福が大きく跳ねた。
思わず離れそうになった手を押し留める。真誠はゆっくりと、大福を撫でた。

昨日の朝方以来、美雪はアヘンを吸っていない。
なら、この大福は禁断症状によるものだ。この屋敷に来てから、2日と吸わずにいられたことはなかったのだから。

「……。」

大丈夫か、と聞こうとして、真誠は声がでなかった。大丈夫なはずが、ない。
かと言って、アヘンを持って来ようかとも、言えなかった。

さわさわと、夏に向かっていく生暖かい風が頰を打つ。何もしなくても、じわりと汗が滲むようになってきた。
右脚が、鈍く痛い。

「ま……こ、と……さ……」
「…!!」

僅かに大福が崩れた。

目元だけ、美雪が姿を現す。
汗が酷く、土気色の顔。涙で濡れた肌はぐしゃぐしゃだ。

か細い彼女の声が続く。

「ぁ…へ、ん…」
「…持ってくるか?」
「……」

欲しい、と虚ろな灰褐色の瞳に光が宿る。
だがぎゅ、と目を閉じると、彼女は小さく首を振った。

その答えに、真誠は息を呑んだ。

「わ…た、し…」
「…うん。」

大福を抱きしめるように、真誠は体を寄せる。
美雪の微かな声を、聞き漏らすことのないように。

「ァ…へ、ん…」
「…?」
「…ゃ…め、…た…ぃ…。」
「……!!」

言葉が、でなかった。

脳裏に浮かぶ爆弾魔の姿。
彼女から情報を聞き出すための拷問は、アヘンを用いて行った。

こちらが手を出さなくても、禁断症状で勝手に苦しんでくれる。話せばアヘンをやるとチラつかせれば、彼女は喋った。極少数のアヘンで恍惚とした表情の、醜さたるや。
足りないと喚くところに、「もっと欲しいなら話せ」とチラつかせる。

時間はかかったし、目も当てられない状態だった。だが、拷問は成功した。

あんな地獄を味わう美雪を、果たして自分が支えられるだろうか。

しかも吸いたいという悪魔の欲望は、燻り続ける。一生、だ。

真誠は目を閉じる。たっぷり10秒は経っただろうか。
目を開けたとき、真誠は最愛の女性を抱きしめて答えた。

「…わかった。」
「…!…」

美雪の眉根に皺が寄る。とても綺麗とは言えない状態の彼女に、真誠はそっと口づけをした。

「…1週間、耐えられれば…身体の苦しみは、マシにはなるそうだ。」
「ぃ…しゅう…かん…」
「あぁ。」

恐怖に震える彼女の頭を撫で、真誠は伝えた。

「ずっと支える。美雪が望むのなら…一緒に、乗り越えよう。」
「……。」

布団越しに、美雪が真誠の手を握り返す。
その力強さが、答えだった。



翌朝から、真誠の行動の最優先は美雪だった。

残っていた処理は、社員が出勤する頃には捌き切った。自分の判断が必要なら電報を寄越すか直接来いと司に伝え、山手の屋敷へ。

爆弾魔からの情報は全て霞に託し、精査を任せた。本拠地の確認が最優先だが、突撃はなし。情報屋、幻術士に見られている前提での隠密行動が必須だ。

専属医を呼びつけ、美雪の診察。
だが結局、「根性論しかあらしまへん。」とバッサリ切り捨てられただけだった。
特効薬などないことは、端から分かっていた。

晴明にも電報を打った。返事はまだない。

自分と美雪の私室のあるエリアを立ち入り禁止に。屋敷には最低限の使用人だけを残し、準備は整った。

その頃には、美雪は既に激痛に悲鳴をあげていた。
それは、地獄の始まりの声だった。



真誠から電報を貰った、翌日。
使用人に案内され、晴明は山手の屋敷を進んでいた。

まだ整備中の箇所もあるなか、屋敷の中央で使用人はベルを鳴らす。

「真誠様がいらっしゃるまで、こちらでお待ちください。」
「…え?あ、あぁ…。」

そう使用人は言うと、そそくさと仕事に戻ってしまった。
まるで、真誠に会いたくないとでも言うかのように。

(…なんだ…?)

晴明は顔をしかめた。こんな対応は、この屋敷で見たことがなかった。

ガタイのいい男たちが豪快に笑い合っていることの多い広間。そこに人が誰もいない。

誤解される言動の多い真誠だが、使用人や部下などの近しい人たちには慕われている。先ほどの者も、長く彼に仕えている人物だ。

酷く淀んだ気。重い空気の中に微かに聞こえる高い悲鳴は、まさか美雪なのだろうか。
知らない屋敷に来た感覚がして、晴明は居心地が悪かった。

「すまん、待たせた…!」
「あぁ、う……ん!?」

廊下の奥から駆けてくる真誠。
だが予想外の姿に、晴明は反射的に鼻を覆ってしまった。

「いやちょっと待て!!なんか臭うぞ、お前!!どうした!?」
「仕方ないだろ!!下痢と嘔吐の処理してたんだから。」
「は………はぁ!?!」

それはお前がやることなのか。
咄嗟に浮かんだ言葉を、晴明はどうにか飲み込んだ。

よく見れば、真誠の目元には深いクマがある。顔には疲労の色が滲み、髪もぐしゃぐしゃだ。
着流しに襷掛けなど、いくら上質な服でも侯爵家当主の格好とは思えない。加えて、本能的に引いてしまうこの酷い匂い。

先程の使用人の態度に納得ができた。
彼を慕っていればいるほど、こんな姿は見たくないだろう。

「それより!お前俺によく痛み止めしてくれるだろ!」
「え?あぁ…まぁ…。」

鬼気迫る勢いで真誠から詰められ、一歩後退りながら晴明は曖昧に頷いた。
そんな彼に、見たことないほど必死な顔で真誠は叫んだ。

「頼む、美雪にもしてやってくれ…!!」
「…えっ。」

だが、咄嗟に晴明は返事ができなかった。

真誠の痛みは大抵右脚だ。患部が分かりやすい分、気流や血流を少し補佐するように術をかけてやれば、痛み止めになる。それに、古傷だから処置が楽だ。

けれど、どう考えてもそれとは状況が違う。
痛みの発生源がどこかも分からないなか、果たして力になれるかどうか。

軽率なことは、言えなかった。

晴明が黙っていることで、何か察したのだろう。
あの真誠が、今にも泣き出しそうなほどに顔を歪ませた。

「いや…すまん。そもそも人に見せられるような状態じゃないんだ…。」
「……。」
「…忙しいのに、無駄足を踏ませて悪かった。」

そう言って、俯いたまま彼は踵を返すではないか。

数日寝ていないのだろう。右脚を引きずってゆっくりと歩く姿は、どう見ても限界だ。
あの、真誠が。

「っ〜〜〜〜〜〜!!」

がしがしと頭をかく晴明。
鼻を覆っていた手を外し、大股で広間から足を踏み出す。

「言っておくが!!」

大声でわずかに振り向いた真誠。その背を力いっぱい、晴明は叩いた。

「痛っ…!」
「…どこまで力になれるか分からんからな。」
「……!」

こんな様子を見せられて、放っておけるはずがなかった。

「…お前はいったん休め、馬鹿。共倒れするぞ。」
「……あぁ……。」

すまん、と小さく聞こえた声。
気味が悪いほどの素直さ。それが一層、晴明に鳥肌を立たせた。



何度下の処理をして、何度無理やり水と粥を飲ませ、何度吐いたそれらを片付けただろう。

ちち、と微かに聞こえる小鳥の囀り。
開けっ放しの窓から夏の日差しが差し込んでくる。

「ん…?」

美雪の寝台の横で突っ伏して気を失っていた真誠は、その眩しさに目が覚めた。

頭が働かないまま、ぼんやりと美雪の寝顔を眺める。深く眉間に皺が寄っているが、眠れてはいるらしい。
それだけで、真誠はほっ…と息を吐いた。

滲んでいる汗を手ぬぐいで拭ってやる。暦の記録をチラと確認すれば、ちょうどこの夜明けで1週間だ。

恐らく、まだ地獄は続くのだろう。けれど、一番の山は越えたはず。

のそ…と真誠は身体を起こす。部屋を見渡せば、ひどい有様だった。
片付け切れてない糞尿や嘔吐の包みが隅に積み上がっている。水差しや食器は転がったまま。替えたシーツもくしゃくしゃに丸まって放置。
最低限換気だけはちゃんとしろと、晴明の忠告をギリギリ守れてる状態だ。

もう一度、美雪の様子を確認する。
顔色は悪い。でも、寝れてる。

これなら、少し席を外しても大丈夫そうだ。

「ん…っ、」

固くなってる身体をどうにか立ち上がらせる。
寝台に立てかけていた杖をとって、片足のまま歩き出した。
傷に響くから義足は辞めろと、晴明に取り上げられてしまっていた。

とりあえず捨てるべき汚物たちを手に取る。
そのままゆっくりと、真誠はこの部屋を後にした。

その様子を、庭の影から見守る男がいた。



とん、とん、と杖が床を叩く。
風呂まで済ませると、やっと正常に頭が回る感覚がした。

司や霞からは今日にでも、諸々の報告が来る手筈だ。

扉に挟まっていた新聞はついでに回収したが、まだ読む気にはなれない。倉庫で暴れた暴徒は葛の葉商会のせいにはなっていないはずだが、果たしてどうなっただろうか。

黒龍会の拠点の件も気になる。爆弾魔を捕らえた以上、向こうだって警戒しているだろう。
組織規模や王のやり口を考えると、そう簡単にトンズラはしないはず。けれど、このまま捕り逃すことだけは何としても避けたい。

任せきりだったこの7日間。様々な進捗がどうなっているか、気にならない訳ではなかった。

水を張った桶と清潔な手ぬぐいを持って、廊下をゆっくりと進む。
さすがに義足を使いたいが、残念ながら美雪の部屋から取ってくるのを忘れていた。

澄んだ空気を肺に満たす。
それから、開けたままだった襖から、美雪の私室に真誠は足を踏み入れた。

寝台を見る。
自分の目を、疑った。

「っ……!?」 

がしゃんと、手から滑り落ちた桶から水が飛散した。着物も足もびしゃびしゃだが、そんなことどうでもよかった。

「美雪…!?」

踏み出そうとして出来なくて、真誠は派手に転倒してしまった。足がない。もどかしい。

汚れたままの畳を這う。何とか寝台にたどり着いたが、どう見ても美雪の姿が跡形もなく消えていた。

「っ……!!!」

どうして。
そんな混乱を即座に打ち消す。攫われたのだ。
いまの彼女は、自力で立ち上がる力すら残っていないのだから。

「嘘だろ……!!」

寝台を支えに、何とか立ち上がる。
夜は最低限の使用人さえ人払いしていたことと、換気のために開けたままの窓。それらが災いしたとしか思えない。

(とにかく本拠地をすぐに…!!)

いま追えば間に合うはず。そう言い聞かせて、畳に転がる義足を引ったくった。
今ほど、この足が憎かったことはない。

そこに、微かに聞こえてきた人の声。

何事かと顔を上げる。やっと装着できた義足をもつれさせながら、真誠は声の方へ向かった。

「葛原院さーん、電報でーす。」

そんな間延びした言葉が玄関から響く。広すぎる屋敷が不便でならない。

「なんだ!!」

叩くように引き戸を開ける。勢い余って戸にヒビが入りそうだ。

「え、あ、速達で電報です…。麹町から…。」
「麹町から…?」

萎縮した配達員が差し出す紙を受け取る。
司や霞なら横浜からのはず。いったい誰からか。こんな時に。

苛立ちを抑えられないままに紙を開く。
その瞬間、血の気どころか呼吸まで引いていく感覚がした。

ーー晴明 重傷 意識不明 急来

「………は?」

腕に抱いた妻も、肩を並べる親友も。
真誠を支えていた二本柱が、容赦なく砕かれた瞬間。

目の前が、真っ暗になった。