鼻の奥に刺さる消毒液の匂い。目に痛いほどの白いカーテンとシーツ。
白髪の目立つ巨漢が寝台に横たわる。その呼吸音は、豪雨に呑まれて消えそうだった。
「…今夜が山やろうなぁ。」
葛原専属の女医が呟く。
これまでも聞いたことがあるその言葉。何度聞いても、耳障りの悪いものだ。
立ったまま俯く真誠。白に包まれているのは、彼が幼い頃からの重鎮だ。
豪快に笑う声は真誠の重圧を軽くしてくれた。分厚い手に力強く背を叩かれると、じんじんと痛い。陽や自分を軽々と抱えた太い腕。
どう考えても、病院のベッドが不釣り合いだ。
「っ……。」
歯を食いしばることしかできない。
真誠の右手は、布を引き裂きそうなほどに袴を握りしめていた。
「…えい。」
「い゛っ〜〜〜〜!?!」
そんな義足との接続部を、軽いタッチで女医が叩く。
だがそれは、この天気の中では極太の注射針を刺されたような激痛だ。
「仙…波…!!何、を……!!」
突然の衝撃に耐えきれずに崩れ落ちる真誠。だが女医は組長の文句を聞き流し、容赦なく彼を椅子へ座らせた。
「ついでや、その足も見せなはれ。どうせ手入れは雑やろぉ?アンタ。」
「っ…!!雑はどっちだ!!」
右脚をとられ、あっと言う間に袴をめくられ義足を外される。
危篤患者の隣ですることとは思えない暴挙。
しかし患部を診察しながら、女医は当然のように言った。
「山越えようとしてはる患者の横で、そないな顔されるほうが気が滅入りやす。」
「そ、れは…。」
「お命預けちょる組長がしゃんと立ってる方が、迷わんで帰れるもんや。」
「……。」
この女医もまた、先代の頃からの縁だ。くぐった修羅場の数が違う女傑からの助言は、重い。
「アンタが彼の魂引っ張るんやで?」
「……。」
義足のズレを手早く直す女医。そして真誠を支える足は、彼女によって丁寧に固定されていく。
「気張りなはれ。組長やろが。」
パチン、と革ベルトが止められた。その音はまるで、俯くことを許さないと鼓舞するかのよう。
真誠のことを真っ直ぐ見つめる数秒。
その後彼女は、荷物をまとめてさっさと病室を出て行ってしまった。
扉の外から微かに聞こえる祝詞。それは引きずってきた晴明による祈祷だ。
横たわる男が、冥府へ落ちないためのもの。
「…生きろ。頼むから。」
真誠はそう言って、嫌に冷たい無骨な手を強く握り締めた。
◇
葉っぱから雫がぽたりと落ちる。
ようやく雨は止んだが、空気はまだじっとりと雨水の匂いがした。
重傷者二人の見舞いも済ませ、真誠と晴明は揃って病院の入り口を潜る。
手荒なメンテを受けた足は、朝よりずっと歩きやすかった。
「あ!」
彼らの正面から聞こえた明るい声。ニ人が視線を向けると、女性と見紛うような優男がブンブンと手を振っていた。幸人だ。
「まーこちゃーん!!」
「…!?まこっ……?」
「ふ…!!ふ、くくく」
満面の笑みで呼ばれた名前。自分のこととは到底思えず辺りを見渡すが、残念ながら他に呼ばれてそうな人物がいない。
真誠の反応も含め、晴明はもう耐えられなかった。
「アハハハハハハ!!まこちゃ……まこちゃんってお前!!アハハハハハハハハハハ!!」
「……。」
木製の右脚で、真誠は思いっきり晴明の向こう脛を蹴りつけた。
「い゛った!!」
流石の晴明も痛みに沈み込む。だが、笑いは止まらない。
そうこうしていると、すでに幸人は彼らの目の前だった。
「………なんでここに?」
引きつった笑みのまま、真誠はどうにか言葉を絞り出す。
それに気づいているのか否か、幸人は変わらぬ調子で話しだした。
「今朝の新聞!まこちゃんも見ましたよね?爆発したの劉商って聞いたから、もしかして商談した彼も入院してるんじゃないかと思って!いるとしたらこの病院かなって思ったの!」
チラチラと看護師たちが様子を伺っている。驚いた者もいれば、ドン引きしてる者もいる。それが真誠には手に取るようにわかった。
専属医を連れ込めるくらいにはコネがあるこの病院で、まさか一介の商人にこんな呼び方をされるなんて。
「あっ!もしかしてまこちゃんも昨夜の件で病院に?先月の爆発はまこちゃんのあのお屋敷だったもんね。今回はまこちゃんのところは平気?」
「ひーーーッッッ!!アハハハハハ!!」
足元からの笑い声は止む気配がない。
衝撃の呼び名の連呼に、晴明は腹がよじれそうだ。
「……まあ…、そんな、もんだ。」
色んな方面への怒りで声が低くなる。
当の幸人は真誠の様子に首を傾げるのだから質が悪い。
「やっぱりそうだよね…!なんか物騒だから、まこちゃんたちも気をつけてくださいね!奥様によろしくお伝えください!」
そうして礼をして、嵐は病院の中へと去っていった。
「……で?いつまで笑ってるんだ、お前は…。」
絶対零度で足元を見下ろす。それでも肩を震わせられるのは、恐らくこの日本で彼だけだ。
「はー…はー…くくく…。なんだあの怖いもの知らずは?くく…顧客か?」
涙目を擦りながらなんとか晴明は立ち上がる。
答えたらまた笑われそうだが、無視もできない。
「……まあ……。」
低く唸った瞬間、案の定晴明が再び吹き出した。
「ぶっ…くくく…顧客なのかよ…!!お前、会長様だよな…??アハハ…!大物だなあの男…!!くくく。」
「……」
木材と骨がぶつかる鈍い音が、再び二人の間に響いた。
「まこちゃーん!!ごめんなさい、言い忘れたことが!!」
「あァ?」
しかし、何故か幸人が駆け足で戻ってきた。
振り向き際の真誠が悪人顔になったのは、もう不可抗力だ。
「ふひ…あははは…!!悪い顔漏れてるぞ、まこちゃん…ハハハハハ!!」
「ッ〜〜〜!!」
それを指摘して笑い続ける晴明のうるさいこと…。
「えと…??ごめんなさい、間が悪かったかな…?というか、なんでずっと笑って…?」
しかも、当の本人は本気で困惑している。
眉間に手を押し当てて、長く長く息を吐く真誠。
浮かんだ青筋は消せないが、声を落として彼は囁いた。
「……口の聞き方を御社では一切教えないらしいな?…弟探しの協力を打ち切るぞ、水村。」
「えっ…?」
ポカンと呆けた顔の幸人。
「…あっ!!!」
数秒の間の後、彼はやっと顔色を変えた。
「しっ、失礼しました会長様っっ!!お願いしますお力をお貸しくださいーーーっっ!!」
だが今度は真誠の両腕にしがみついてくるではないか。
「……近い……。」
「失礼しました!!てかっ!!あのっっ!!その弟のことで実は相談が…!!」
「はぁ…?」
「ひっ」
パッと手を離してすくみ上がる幸人。
睨む真誠に、彼は涙目のままそおっと耳打ちをし始めた。
一方、晴明は彼らから一歩離れて、小刻みに肩を震わせ続けていた。
(こいつ面白すぎる…!あれだけ”まこちゃん”と連呼しておいて、今更ビビるのか…!)
真誠は他人を寄せ付けない気が強く、年齢の割に経歴や立場が異質だ。故に学校でも社交界でも、遠巻きに見られていることが多かった。
そんな真誠に、これほど距離感をぶち抜いてくる者が現れるとは。
いくら晴明でさえ、ここまで一気に詰めたことはない。
「…まあ美雪には言っといてやる。」
「あっ、まこちゃ…」
「次にそのふざけた態度できたら、仲介料5倍はふっかけるぞ?」
「失礼しました会長様ッッッ!!」
内緒話は終わったらしい。だがもう、真誠のキレっぷりも幸人の反応も、全てが晴明にとって新鮮で可笑しくて仕方がない。
「行くぞこの笑い上戸。」
「いででで。ふ、くく…。悪かったって、引っ張るな。アハハ。」
「悪いなんて微塵も思ってないだろ、貴様!!」
真誠に耳を思い切り引っ張られる。そのまま引きずられるようにして、晴明は葛原院家の馬車に乗り込んだのだった。
◇
横浜中華街のすぐ手前。
煉瓦造の洋風の建物が、湿った空気の中に沈んでいる。
一見ただの会社に見えるそれは、一棟丸ごと葛原組の所有物だ。
山手の邸宅が襲撃された時用に、ずっと以前から密かに準備されていたもの。
その建物に、美雪は初めて足を踏み入れた。
「奥様…!?」
階段を昇って扉を開けると、驚いた霞が真っ先にとんできた。
美雪を案内してくれた使用人に目くじらを立てる彼を、美雪は慌てて引き止める。
「待って、霞さん…!私が無理を言ったんです。ちゃんと怪しまれないようにしたので、ね?」
「っ……。」
美雪の姿を見れば、その言葉には黙るしかない。
なぜなら彼女が身につけているのは、完全に男物の着流しだ。それも、どうやって仕入れたのかと思うほど質素な。
艶のある長い髪は黒猫の尻尾のように垂れ下がり、パッと見ただけでは少年だ。
この建物がある場所は、山手や港のそばと違って治安が良くない。
そんな場所に侯爵夫婦が出入りするのは違和感がある。
あの真誠でさえ、ここへの出入りは細心の注意を払っている。
それを美雪も分かっているからの変装だ。
とはいえ、もしも真誠が知ったらなんと言うか。
美雪の背後で、使用人は縮こまっていた。
「奥様…なぜそこまでしてこちらに…?」
ため息を全力で飲み込んで、霞は尋ねる。
すると美雪は、手元の風呂敷を胸元へ掲げて答えた。
「新聞を見て、どうしても居ても立ってもいられなくて…。ご迷惑だったらごめんなさい。向こうのお屋敷に残ってた消毒液や添え木や包帯、保存食を持ってきたのだけど…。」
「そう、でしたか…。お心遣い、感謝致します。」
霞は、美雪からそっと風呂敷を受け取る。それは物資以上の重さだった。
そこからは、霞は美雪から目が離せなかった。
怪我人一人一人に話しかけ、状況を聞き、傷を労っている。
慕っていた重鎮の危篤に沈みきっている陽に寄り添ってくれた姿は、まさに組長の妻だ。
使用人の話では、美雪は男装のために髪を斬り落とそうとしたらしい。
組長に殺されるからそれだけは止めてくれと懇願した結果、手を止める条件がここへの案内だったと言う。
流石にその話を聞いて、霞は肝が冷えた。
美雪の行動力を侮っていたと、認めざるをえない。
司が商会をまわしているので、真誠は病院の後にここへ来るはず。流石に、組長到着前には奥様の身なりを整えさせなければ。
霞は使用人へ、美雪の着物を大至急かつ隠密に持ってくるよう指示したのだった。
「あの、霞さん。」
「はい、なんでしょうか。」
泣きつかれた陽を膝枕する美雪の元へ駆け寄る。
彼女は真剣な面持ちで、霞に尋ねた。
「実動部隊というのは…私でも、お力になれますか?」
「………えっ!?」
あんぐりと口が開いてしまう霞。確かに美雪は元黒龍会の殺し屋だが、まさか彼女からそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
固まってしまった霞に、訴えるように美雪は続ける。
「殺しは…嫌、です。でも、皆さんが傷ついてるのに私だけ何もしないのは…もっと、苦しいです。大嫌いな異能だけれど、でも、私にも人を殺せる異能は、あります…!」
「…!」
「出来ることがあるのに、黙ってろというのは…やっぱり、嫌です…!!」
「……。」
彼女の言う苦しさが、霞には痛いほど分かる。
それはここへ来たばかりの頃、彼自身が妹に対して感じていた焦りだ。
まさに「天賦の才」と言う様に、メキメキと銃の扱いを覚え、喜んで前線へ立つ幼い妹。
けれど霞は警察あがりの最低限の体術ができる程度で、陽の隣には並べなかった。
出来ることはあるのに、何もできない。大事な人が危険の最前線に居るにも関わらず。
その苦しさから這い出るために、霞は死に物狂いで努力した。
きっと当時の霞より、今の美雪の方が強い。そんな彼女にただ守られていろというのは、やはり酷なのだろう。
霞は、ゆっくりと口を開いた。
「…申し訳ありませんが、俺はそれを判断致しかねます。」
「……!」
「どうか、組長とお話なさって下さい。…貴女は、組長にとって何よりも大事な唯一のお方です。…そんな美雪様を、危険な目に合わせる判断を…、俺はできません。」
「……。」
俯いてしまった美雪に、霞は静かに語りかける。
「…それは決して、あなたの実力を過小評価している訳ではありません。美雪様という、組長にとって唯一の刃を、どこでどう振るうかを決めるのは…組長と美雪様だ、というだけですから。」
「霞さん…。」
揺れる灰褐色の瞳。ふ、と安心したように、この組の姫は微笑んだ。
「ありがとう、ございます。」
「…いえ。」
そこへ、カランカランとベルが鳴る。恐らく真誠が到着したのだろう。
美雪に一礼し、玄関へ向かう霞。
さて奥様がここにいる理由をまずはなんて説明するべきか、思考を巡らせるのだった。
◇
暗くじめじめとした地下の一室。
ランプの灯りだけが頼りの中に漂うアヘンの香り。
「…揃ってますネ。」
辮髪の男性が辺りを見渡す。まるで無の中から突然姿を現したような彼は、「幻術士」。
「あーんたが最後だよぉ。揃ってますね、じゃねーよ。」
だらしなく横たわり文句を垂れる女性は、「爆弾魔」。
彼女の文句を聞き流し、幻術士は話を進めた。
「昨夜はお疲れ様でしたネ、爆弾魔、情報屋。今回は、さすがに多少は被害がでたでしょう。」
彼の言葉に、キシシと笑う爆弾魔。一方、幸彦は目を伏せて黙っていた。自身を攫ったこの男が、幸彦は本能的に苦手だった。
「毒使い、次の手筈はどうなっていますネ?」
壁沿いにいた大男が、嘲るように答える。
「材料は増えてますよ。暴走してくれるかは分かんねぇけどねぇ?まあ、仕込んではいるんで。」
彼は、「毒使い」こと久堂明。
日本のこと、横浜のこと、葛原組のことを最も黒龍会に伝えている裏切り者。
彼の言葉に、幻術士は静かに頷いた。
「そのまま進めて下さいネ。葛原の頭領の命はまだ泳がせなさい。同じく、武器屋もネ。」
ゆらゆらと揺れるランプ。
その灯りは、幻術士の底の見えぬ瞳を淡く照らす。
「英国は日本における彼女らの権威拡大をお望みネ。そのために手段は選ばなくて構わない。」
にい…と、弧を描く赤い唇。
「頭領の計画どおり、英国の元を去った愚かな国の宴を潰し…、この国の裏社会の最強を落とすと致しましょう。…ネ?」
白髪の目立つ巨漢が寝台に横たわる。その呼吸音は、豪雨に呑まれて消えそうだった。
「…今夜が山やろうなぁ。」
葛原専属の女医が呟く。
これまでも聞いたことがあるその言葉。何度聞いても、耳障りの悪いものだ。
立ったまま俯く真誠。白に包まれているのは、彼が幼い頃からの重鎮だ。
豪快に笑う声は真誠の重圧を軽くしてくれた。分厚い手に力強く背を叩かれると、じんじんと痛い。陽や自分を軽々と抱えた太い腕。
どう考えても、病院のベッドが不釣り合いだ。
「っ……。」
歯を食いしばることしかできない。
真誠の右手は、布を引き裂きそうなほどに袴を握りしめていた。
「…えい。」
「い゛っ〜〜〜〜!?!」
そんな義足との接続部を、軽いタッチで女医が叩く。
だがそれは、この天気の中では極太の注射針を刺されたような激痛だ。
「仙…波…!!何、を……!!」
突然の衝撃に耐えきれずに崩れ落ちる真誠。だが女医は組長の文句を聞き流し、容赦なく彼を椅子へ座らせた。
「ついでや、その足も見せなはれ。どうせ手入れは雑やろぉ?アンタ。」
「っ…!!雑はどっちだ!!」
右脚をとられ、あっと言う間に袴をめくられ義足を外される。
危篤患者の隣ですることとは思えない暴挙。
しかし患部を診察しながら、女医は当然のように言った。
「山越えようとしてはる患者の横で、そないな顔されるほうが気が滅入りやす。」
「そ、れは…。」
「お命預けちょる組長がしゃんと立ってる方が、迷わんで帰れるもんや。」
「……。」
この女医もまた、先代の頃からの縁だ。くぐった修羅場の数が違う女傑からの助言は、重い。
「アンタが彼の魂引っ張るんやで?」
「……。」
義足のズレを手早く直す女医。そして真誠を支える足は、彼女によって丁寧に固定されていく。
「気張りなはれ。組長やろが。」
パチン、と革ベルトが止められた。その音はまるで、俯くことを許さないと鼓舞するかのよう。
真誠のことを真っ直ぐ見つめる数秒。
その後彼女は、荷物をまとめてさっさと病室を出て行ってしまった。
扉の外から微かに聞こえる祝詞。それは引きずってきた晴明による祈祷だ。
横たわる男が、冥府へ落ちないためのもの。
「…生きろ。頼むから。」
真誠はそう言って、嫌に冷たい無骨な手を強く握り締めた。
◇
葉っぱから雫がぽたりと落ちる。
ようやく雨は止んだが、空気はまだじっとりと雨水の匂いがした。
重傷者二人の見舞いも済ませ、真誠と晴明は揃って病院の入り口を潜る。
手荒なメンテを受けた足は、朝よりずっと歩きやすかった。
「あ!」
彼らの正面から聞こえた明るい声。ニ人が視線を向けると、女性と見紛うような優男がブンブンと手を振っていた。幸人だ。
「まーこちゃーん!!」
「…!?まこっ……?」
「ふ…!!ふ、くくく」
満面の笑みで呼ばれた名前。自分のこととは到底思えず辺りを見渡すが、残念ながら他に呼ばれてそうな人物がいない。
真誠の反応も含め、晴明はもう耐えられなかった。
「アハハハハハハ!!まこちゃ……まこちゃんってお前!!アハハハハハハハハハハ!!」
「……。」
木製の右脚で、真誠は思いっきり晴明の向こう脛を蹴りつけた。
「い゛った!!」
流石の晴明も痛みに沈み込む。だが、笑いは止まらない。
そうこうしていると、すでに幸人は彼らの目の前だった。
「………なんでここに?」
引きつった笑みのまま、真誠はどうにか言葉を絞り出す。
それに気づいているのか否か、幸人は変わらぬ調子で話しだした。
「今朝の新聞!まこちゃんも見ましたよね?爆発したの劉商って聞いたから、もしかして商談した彼も入院してるんじゃないかと思って!いるとしたらこの病院かなって思ったの!」
チラチラと看護師たちが様子を伺っている。驚いた者もいれば、ドン引きしてる者もいる。それが真誠には手に取るようにわかった。
専属医を連れ込めるくらいにはコネがあるこの病院で、まさか一介の商人にこんな呼び方をされるなんて。
「あっ!もしかしてまこちゃんも昨夜の件で病院に?先月の爆発はまこちゃんのあのお屋敷だったもんね。今回はまこちゃんのところは平気?」
「ひーーーッッッ!!アハハハハハ!!」
足元からの笑い声は止む気配がない。
衝撃の呼び名の連呼に、晴明は腹がよじれそうだ。
「……まあ…、そんな、もんだ。」
色んな方面への怒りで声が低くなる。
当の幸人は真誠の様子に首を傾げるのだから質が悪い。
「やっぱりそうだよね…!なんか物騒だから、まこちゃんたちも気をつけてくださいね!奥様によろしくお伝えください!」
そうして礼をして、嵐は病院の中へと去っていった。
「……で?いつまで笑ってるんだ、お前は…。」
絶対零度で足元を見下ろす。それでも肩を震わせられるのは、恐らくこの日本で彼だけだ。
「はー…はー…くくく…。なんだあの怖いもの知らずは?くく…顧客か?」
涙目を擦りながらなんとか晴明は立ち上がる。
答えたらまた笑われそうだが、無視もできない。
「……まあ……。」
低く唸った瞬間、案の定晴明が再び吹き出した。
「ぶっ…くくく…顧客なのかよ…!!お前、会長様だよな…??アハハ…!大物だなあの男…!!くくく。」
「……」
木材と骨がぶつかる鈍い音が、再び二人の間に響いた。
「まこちゃーん!!ごめんなさい、言い忘れたことが!!」
「あァ?」
しかし、何故か幸人が駆け足で戻ってきた。
振り向き際の真誠が悪人顔になったのは、もう不可抗力だ。
「ふひ…あははは…!!悪い顔漏れてるぞ、まこちゃん…ハハハハハ!!」
「ッ〜〜〜!!」
それを指摘して笑い続ける晴明のうるさいこと…。
「えと…??ごめんなさい、間が悪かったかな…?というか、なんでずっと笑って…?」
しかも、当の本人は本気で困惑している。
眉間に手を押し当てて、長く長く息を吐く真誠。
浮かんだ青筋は消せないが、声を落として彼は囁いた。
「……口の聞き方を御社では一切教えないらしいな?…弟探しの協力を打ち切るぞ、水村。」
「えっ…?」
ポカンと呆けた顔の幸人。
「…あっ!!!」
数秒の間の後、彼はやっと顔色を変えた。
「しっ、失礼しました会長様っっ!!お願いしますお力をお貸しくださいーーーっっ!!」
だが今度は真誠の両腕にしがみついてくるではないか。
「……近い……。」
「失礼しました!!てかっ!!あのっっ!!その弟のことで実は相談が…!!」
「はぁ…?」
「ひっ」
パッと手を離してすくみ上がる幸人。
睨む真誠に、彼は涙目のままそおっと耳打ちをし始めた。
一方、晴明は彼らから一歩離れて、小刻みに肩を震わせ続けていた。
(こいつ面白すぎる…!あれだけ”まこちゃん”と連呼しておいて、今更ビビるのか…!)
真誠は他人を寄せ付けない気が強く、年齢の割に経歴や立場が異質だ。故に学校でも社交界でも、遠巻きに見られていることが多かった。
そんな真誠に、これほど距離感をぶち抜いてくる者が現れるとは。
いくら晴明でさえ、ここまで一気に詰めたことはない。
「…まあ美雪には言っといてやる。」
「あっ、まこちゃ…」
「次にそのふざけた態度できたら、仲介料5倍はふっかけるぞ?」
「失礼しました会長様ッッッ!!」
内緒話は終わったらしい。だがもう、真誠のキレっぷりも幸人の反応も、全てが晴明にとって新鮮で可笑しくて仕方がない。
「行くぞこの笑い上戸。」
「いででで。ふ、くく…。悪かったって、引っ張るな。アハハ。」
「悪いなんて微塵も思ってないだろ、貴様!!」
真誠に耳を思い切り引っ張られる。そのまま引きずられるようにして、晴明は葛原院家の馬車に乗り込んだのだった。
◇
横浜中華街のすぐ手前。
煉瓦造の洋風の建物が、湿った空気の中に沈んでいる。
一見ただの会社に見えるそれは、一棟丸ごと葛原組の所有物だ。
山手の邸宅が襲撃された時用に、ずっと以前から密かに準備されていたもの。
その建物に、美雪は初めて足を踏み入れた。
「奥様…!?」
階段を昇って扉を開けると、驚いた霞が真っ先にとんできた。
美雪を案内してくれた使用人に目くじらを立てる彼を、美雪は慌てて引き止める。
「待って、霞さん…!私が無理を言ったんです。ちゃんと怪しまれないようにしたので、ね?」
「っ……。」
美雪の姿を見れば、その言葉には黙るしかない。
なぜなら彼女が身につけているのは、完全に男物の着流しだ。それも、どうやって仕入れたのかと思うほど質素な。
艶のある長い髪は黒猫の尻尾のように垂れ下がり、パッと見ただけでは少年だ。
この建物がある場所は、山手や港のそばと違って治安が良くない。
そんな場所に侯爵夫婦が出入りするのは違和感がある。
あの真誠でさえ、ここへの出入りは細心の注意を払っている。
それを美雪も分かっているからの変装だ。
とはいえ、もしも真誠が知ったらなんと言うか。
美雪の背後で、使用人は縮こまっていた。
「奥様…なぜそこまでしてこちらに…?」
ため息を全力で飲み込んで、霞は尋ねる。
すると美雪は、手元の風呂敷を胸元へ掲げて答えた。
「新聞を見て、どうしても居ても立ってもいられなくて…。ご迷惑だったらごめんなさい。向こうのお屋敷に残ってた消毒液や添え木や包帯、保存食を持ってきたのだけど…。」
「そう、でしたか…。お心遣い、感謝致します。」
霞は、美雪からそっと風呂敷を受け取る。それは物資以上の重さだった。
そこからは、霞は美雪から目が離せなかった。
怪我人一人一人に話しかけ、状況を聞き、傷を労っている。
慕っていた重鎮の危篤に沈みきっている陽に寄り添ってくれた姿は、まさに組長の妻だ。
使用人の話では、美雪は男装のために髪を斬り落とそうとしたらしい。
組長に殺されるからそれだけは止めてくれと懇願した結果、手を止める条件がここへの案内だったと言う。
流石にその話を聞いて、霞は肝が冷えた。
美雪の行動力を侮っていたと、認めざるをえない。
司が商会をまわしているので、真誠は病院の後にここへ来るはず。流石に、組長到着前には奥様の身なりを整えさせなければ。
霞は使用人へ、美雪の着物を大至急かつ隠密に持ってくるよう指示したのだった。
「あの、霞さん。」
「はい、なんでしょうか。」
泣きつかれた陽を膝枕する美雪の元へ駆け寄る。
彼女は真剣な面持ちで、霞に尋ねた。
「実動部隊というのは…私でも、お力になれますか?」
「………えっ!?」
あんぐりと口が開いてしまう霞。確かに美雪は元黒龍会の殺し屋だが、まさか彼女からそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
固まってしまった霞に、訴えるように美雪は続ける。
「殺しは…嫌、です。でも、皆さんが傷ついてるのに私だけ何もしないのは…もっと、苦しいです。大嫌いな異能だけれど、でも、私にも人を殺せる異能は、あります…!」
「…!」
「出来ることがあるのに、黙ってろというのは…やっぱり、嫌です…!!」
「……。」
彼女の言う苦しさが、霞には痛いほど分かる。
それはここへ来たばかりの頃、彼自身が妹に対して感じていた焦りだ。
まさに「天賦の才」と言う様に、メキメキと銃の扱いを覚え、喜んで前線へ立つ幼い妹。
けれど霞は警察あがりの最低限の体術ができる程度で、陽の隣には並べなかった。
出来ることはあるのに、何もできない。大事な人が危険の最前線に居るにも関わらず。
その苦しさから這い出るために、霞は死に物狂いで努力した。
きっと当時の霞より、今の美雪の方が強い。そんな彼女にただ守られていろというのは、やはり酷なのだろう。
霞は、ゆっくりと口を開いた。
「…申し訳ありませんが、俺はそれを判断致しかねます。」
「……!」
「どうか、組長とお話なさって下さい。…貴女は、組長にとって何よりも大事な唯一のお方です。…そんな美雪様を、危険な目に合わせる判断を…、俺はできません。」
「……。」
俯いてしまった美雪に、霞は静かに語りかける。
「…それは決して、あなたの実力を過小評価している訳ではありません。美雪様という、組長にとって唯一の刃を、どこでどう振るうかを決めるのは…組長と美雪様だ、というだけですから。」
「霞さん…。」
揺れる灰褐色の瞳。ふ、と安心したように、この組の姫は微笑んだ。
「ありがとう、ございます。」
「…いえ。」
そこへ、カランカランとベルが鳴る。恐らく真誠が到着したのだろう。
美雪に一礼し、玄関へ向かう霞。
さて奥様がここにいる理由をまずはなんて説明するべきか、思考を巡らせるのだった。
◇
暗くじめじめとした地下の一室。
ランプの灯りだけが頼りの中に漂うアヘンの香り。
「…揃ってますネ。」
辮髪の男性が辺りを見渡す。まるで無の中から突然姿を現したような彼は、「幻術士」。
「あーんたが最後だよぉ。揃ってますね、じゃねーよ。」
だらしなく横たわり文句を垂れる女性は、「爆弾魔」。
彼女の文句を聞き流し、幻術士は話を進めた。
「昨夜はお疲れ様でしたネ、爆弾魔、情報屋。今回は、さすがに多少は被害がでたでしょう。」
彼の言葉に、キシシと笑う爆弾魔。一方、幸彦は目を伏せて黙っていた。自身を攫ったこの男が、幸彦は本能的に苦手だった。
「毒使い、次の手筈はどうなっていますネ?」
壁沿いにいた大男が、嘲るように答える。
「材料は増えてますよ。暴走してくれるかは分かんねぇけどねぇ?まあ、仕込んではいるんで。」
彼は、「毒使い」こと久堂明。
日本のこと、横浜のこと、葛原組のことを最も黒龍会に伝えている裏切り者。
彼の言葉に、幻術士は静かに頷いた。
「そのまま進めて下さいネ。葛原の頭領の命はまだ泳がせなさい。同じく、武器屋もネ。」
ゆらゆらと揺れるランプ。
その灯りは、幻術士の底の見えぬ瞳を淡く照らす。
「英国は日本における彼女らの権威拡大をお望みネ。そのために手段は選ばなくて構わない。」
にい…と、弧を描く赤い唇。
「頭領の計画どおり、英国の元を去った愚かな国の宴を潰し…、この国の裏社会の最強を落とすと致しましょう。…ネ?」
