カフスを止める真誠の耳に、バタバタという足音と可愛らしい話し声が聞こえてきた。
扉へ視線を移したのと、ノックもなしに元気に開かれたのは同時。
「ボスーっ!!見てみてー!!すっごい可愛いでしょーっ!!」
「あ、あの、ひなさん…!!」
弾丸のような勢いで、美雪の手を引く陽の登場だ。
二人とも、質素な女学生といった出で立ちだった。
美雪は薄茶に白い矢矧模様の着物と、深緑の袴。
一方陽は、深い紫の着物に袴は臙脂色だ。
長い黒髪は三つ編みにされ、お揃いのリボンが華やかに揺れている。
「みゆちゃんすっごい可愛いでしょ!!これなら駅でも目立たないよねっ!!」
「ど、どうでしょう…?」
自慢げな陽と頰を染める美雪。彼女たちはまさに、女学校の同級生同士にしか見えない。
真誠は思わず、笑みが溢れた。
「あぁ、よく似合ってる。美雪も陽も綺麗な顔立ちをしてるから、着物が質素でも気品が隠せてないことだけが難点か。」
「えへへへへ、でっしょーー!!似合うでしょー!!!」
美雪に飛びついて喜ぶ陽。
そんな彼女を受け止めながら、美雪も頰が染まっている。
花が綻ぶような笑顔が増えた。真誠は美雪の変化に目を細めていた。
「てかてか!ボスも超〜〜かっこいいーー!!!」
変わらぬハイテンションのまま、陽の目がハートを描く。彼女にとって、いまの真誠の姿はなかなかお目にかかれないもの。
仕立てのいいフロックコートとベストは光沢のある黒。
ネクタイが首元を飾り、キラリとカフスが光る。
「あぁ…。このあと、”上客”と会食でな。」
「そーなんだー?」
艶のある声が、夜闇のように囁く。
青空のような返答をよそに、美雪は一歩、二歩、と真誠の元へ。
伸ばした手が宙にとまる。だがその手はそっと、僅かに彼の目元にかかっていた髪を耳元へかけた。
「…お気をつけて。」
祈るように囁く。
大木のような温かい瞳に、美雪だけが映っている。
見上げる彼女の額に、優しく真誠の唇が触れた。
「…陽。」
「はいっ!!」
余りにも自然な口づけに、美雪は頰が熱くて仕方がない。
だというのに真誠は、何もなかったかのように陽を呼び、何か話している。
頭上と背後から聞こえてくる言葉は、ただの音となって美雪の耳をすり抜けた。
(わ、私…!なんで真誠さんの髪になんて触れて…!!)
すぐ隣には、あの陽がいたのに。穴があったら入りたいし、アヘンがあったら大量に吸ってごまかしたい。
「行こう、みゆちゃん!!」
「えぇ…!?あ、あのっ…!」
くんっと、つんのめりそうな勢いで手を引かれる。
目を白黒させている間に、どんどん扉の方へ。
「女学生なんだろ?それらしく楽しんでおいで。」
そう言ってニヤリと笑う真誠の姿は、あっという間に階段に変わっていった。
◇
どんよりと曇り空。誰もが雨を心配して早足になる中、美雪と陽は横浜の街並みを軽やかに散策していた。
丸田菓子店ではオマケをしてもらい、洋装のお店に飾られたワンピースに目を輝かせ、洋食のお店で昼食をとる。
真誠と司からお小遣いを貰っていた陽は、上機嫌で美雪を連れ歩いた。
「私ね!こんな風に誰かと一緒に過ごすの初めて!ちょー楽しい!!」
曇天の中でも、陽の周りだけは晴天だ。
まさに名前の通りの陽だまりに、美雪の心も晴れ渡っていく。
「…私も。」
波の音と船の汽笛に彩られ、二人の少女は海辺を駆ける。向かったのは、倉庫の立ち並ぶエリア。
「兄者ぁ〜〜!!」
「え、あ、お仕事中なんじゃ…」
両手をぶんぶん振る陽。美雪は手を引っ張るが、お構いなしだ。
こちらに気づいた霞。話していた相手に何か指示を出すと、濃紺の羽織をはためかせて駆けてきた。
「どうした。」
淡々と尋ねる霞。しかし陽はぎゅーっと美雪に抱きついて言った。
「みゆちゃんと横浜散策してきたの!袴もちょー可愛いでしょ!!」
「…えっ?まさかそのために…?」
陽の顔をまじまじと見てしまう美雪。てっきり仕事の確認をしに行くのかと思っていたのに。
ふ、と霞の顔が綻ぶ。彼は髪のセットを崩さないようにそおっと妹の髪を撫でた。
「…奥様。陽のこと、よろしくお願いします。」
「兄者ーっ!!私が奥様のことよろしくするんだもん!!」
「そうだな。しっかりやれよ?陽。」
「うんっ!!」
そんな兄妹をただ呆然と眺める美雪。
二人の世界は、恋人ともただの家族とも仲間とも違う、独特の空気感。
駅に向かいながら、美雪は思わず尋ねた。
「…霞さんは、おいく歳上なんですか?」
「20!」
「に、じゅう…歳、差…!?」
妹に対して大人な兄の印象はあったが、予想以上だ。
目を丸くする美雪に対し、ニコニコと陽は話し続ける。
「兄者はねー、私が生きやすいようにってボスのところに来てくれたの!」
「生きやすいように…?」
手を繋いで歩きながら、陽の語る思い出話。
「私を生んだせいで、お母さん死んじゃったんだって。だから私のこと嫌いだったお父さんを、私は銃で撃ったみたいなのー。」
「みたい、って…。」
「うん、覚えてない!覚えてるのは、私のこと抱えた兄者が走ってたことと、ボスがカッコよかったことー!もう10年以上前!」
「…。」
美雪は不思議でならない。今の話が事実なら、あれほど慕う兄を薄暗い裏社会へ引きずり込んだのは、陽だ。
それは、美雪にとっての黒龍会と同じ立ち位置。
(私だったら、自分を許せない…。)
想像しただけで、気分は鉛のようだ。
だが陽は、にっこりと笑う。
「ボスと兄者がいるから、私は今の方がずっといい!!」
「…。」
裏社会の方が幸せ。
そんな価値観を、美雪は初めて目の当たりにしたのだった。
◇
一方その頃、山手の坂の上にて。
英国商人のお屋敷で、真誠はランチの席についていた。
フィッシュアンドチップスやローストビーフに舌鼓をうちながら、笑みを浮かべて談笑する。
露西亜への警戒、清の分譲、そして貿易の話。
あくまで私的な会食の場でありながら、互いの国の威信が滲む。
「Some goods travel faster than others… especially those that ruin nations.(ある種の“商品”は特によく流通しますね…国を滅ぼす類のものは。)」
真誠の言葉に、相手の英国人が僅かに眉を寄せた。
それを見逃すことはなく、笑顔を絶やさない真誠。
「Of course… I trust your company deals only in respectable commodities. Otherwise, we wouldn’t be sitting here.(もちろん…そちらは立派な製品のみを扱っていますでしょう?だからこそ、我々は取引ができる。)」
相手もまた笑顔で返す。
結局この日は、具体的な契約内容を決めるための日取りをとったに過ぎなかった。
そうして、真誠は屋敷を後にした。
門を潜り、馬車へ向かう。
キラリと不自然に光る一瞬を、真誠はもちろん見逃さなかった。
半拍ほど歩くテンポをズラす。
たったそれだけで、放たれた矢は地面に突き刺さった。
「…。」
狙撃手がいる場所を一瞥する。そのまま、彼は馬車の中へ入る。
窓のカーテンを締め、馬車を発車させた。
深く腰掛け、組み立ててあった仮説を整理する。
馬車の騎手へ、霞への伝言を真誠は預けていった。
◇
厚い雲が夕日を遮り、薄暗い。
新橋についた美雪と陽は、貨物列車の周りを観察していた。
人足たちの怒鳴り声、荷積み荷下ろしの音、蒸気の抜ける大きな音。
横浜に向けた荷物は絹や綿製品、機械の部品など様々だ。
「見覚えのある箱とか、あるー?」
陽が美雪に耳打ちする。しかし美雪は小さく首を振った。
「んーそっかー。もう少し近くまで行ってみよっか!」
「えぇ。」
そう言って、二人の殺し屋は貨物列車に近づこうとした。
しかしその足がピタリと止まる。彼女たちの前に立ちふさがるのは、二人の男性。
「こんな可愛い子達がどうしたの?」
「こっちに面白いものはないよ。お兄さん達が送ってあげようか?お家はどの辺り?」
和装の二人は、年の頃は同じくらいだろう。真誠や霞に比べれば、なんとも簡単に殺せそうだ。
「…知り合い?」
「…いえ。恐らく邪魔だてではなく、単純な…。」
「あーね?」
囁き合う二人。その会話は辺りの喧騒に掻き消され、お互いの耳にしか届かない。
「え?お嬢さん、無視は良くないんじゃ…。」
男性の手が美雪に伸びる。
小さく響いたのは銃声のような破裂音。
ジンジンと痛む手先に驚いて、男性は手を引っ込めた。
彼の目には、残念ながら二人の女性が何か動いたようには見えなかった。
だが、冷水のような双眸が男性たちを射抜く。
男性たちは一歩、後ずさった。
「と、とにかく、仕事をしている人たちの邪魔にならないようにね。」
そう言って、彼らはそそくさと立ち去っていった。
「…大丈夫?」
ぎゅっと美雪を抱きしめていた陽が首を傾げる。
「もちろん。守ってくれてありがとう、ひなさん。」
「へへへ。」
微笑む彼女たち。そんな二人は、背後から聞こえたため息で振り返った。
帯に仕込んでいる短刀に手をかけていたが、そんな警戒は不要だった。
「晴明さん…!」
「あー…うん。」
がしがしと頭をかく晴明。何とも言えない彼の表情に美雪と陽は首を傾げるが、彼は目をそらすだけだった。
一部始終を見ていて、助けに入ろうとした手が宙に残ったのだから、彼の反応も仕方がない。
「…ところで、美雪殿たちはなぜここに?迎えは来てるのか?」
話を逸らすように晴明は問いかける。
「調べ物を…。お迎えは19時に来てくれる予定なので、大丈夫ですよ。」
「そうか。」
「ご心配ありがとうございます。」
「いや、別に。」
美雪は微笑んで答える。
そこでふと思い出した、彼女の懐にある封書。
「そうだ。実は、真誠さんからお手紙を預かってて。」
両手で差し出す美雪。真っ白な紙の上に堂々と鎮座する達筆な宛名。
それを見た晴明は、まるで害虫でも目撃したかのように顔をしかめた。
「えーっ、なにその顔!ボスからのお手紙が嫌な訳ぇ?」
陽から飛ぶ鋭い文句。晴明はその勢いに辟易していた。
「…嫌に決まってる。碌なものじゃないぞ、こんなの…。」
「ぶー!それでもボスの友達ぃ?」
「ともだ…!?俺とアイツがぁ?それはなんか違うだろ…。」
だが結局、彼はその手紙を受け取った。
ため息混じりにフロックコートの内側に手紙を仕舞う。
そんな様子に、美雪は思わず笑みが溢れた。
何だかんだ言いながら、満更でもないことは目に明らかだ。
「…アイツは暫く横浜か?」
「えぇ。5日くらいは向こうかと。」
「わかった。」
そう話していると、晴明に駅員が声をかけてきた。
短い会話を少し。そして駅員の後を追おうと、晴明は足を向ける。
「仕事に戻るが、気をつけろよ。」
「はい。」
「はーいっ!」
最後にそう言い残して、晴明は去っていった。
蒸気に揺れるフロックコート。駅員が腰を低くしている様子は、まさにお役人。
「…あの人ホントにお国の人なんだねー。」
「そう、ね。」
二人の脳裏によぎる昨夜の司の笑顔。
陽の呟きに、美雪も頷いた。
曇天の空は低く、今にも雨が降りそうだった。
