どん底とは、自分の人生を言うのだろう。
冷泉美雪は、他人の血にまみれた刀を持ったままぼんやりと考えた。辺りに生者は、彼女しかいない。
彼女が薄暗い裏社会に身を落として、もう8年。
商売に失敗し、借金を作った父。その取り立てに来た裏の人間たちは、両親を殺し、美雪を光の届かぬ場所へと連れ去った。
幸い、彼女は生かされた。殺し屋として生かせる異能を手に入れてしまったから。
生きるために、他人を殺す。自分の人生を狂わせた奴らと同じ姿。
寒さが彼女の肌を刺す。緩慢な動きで刀の血を拭き取り、鞘に収めた。
彼女の足下で、特殊な小型ランプからアヘンの煙が一筋の細い線を描く。
それを深く吸い込む美雪。
彼女の平穏を壊したものであり、彼女が殺し屋として生きていける能力を与えたもの。
アヘンの煙は、もう彼女の生活から切り離すことができなかった。
◇
江戸時代を引き継ぐ武家屋敷と、文明開化の象徴たる西洋の建物。
この国の伝統と改新が混ざり合う街、東京、麹町。
白い息を吐きながら、早足で砂利道を進む人々。
黒い外套、濃茶の羽織、風になびく首巻き。
彼らのまとう質のいい装いたちは、場所が場所なら格好の獲物だというのに。光のあたるこの場所では、そんな脅威はどこにもない。
美雪は1人ポツンと、そんな街の様子を眺めていた。
今晩の標的は、この町に不釣り合いなほど闇の人間だ。
(葛原院真誠…)
ぼんやりと、美雪は標的の名を心の内に浮かべる。
ここから5分もしないところにある和洋折衷の屋敷に住む青年の名だ。
美雪を抱いたボスが、随分と楽しそうにその青年の殺害がいかに大事かを語っていた。彼さえ落とせば日本は自分のものだ、と。
葛原組という自警団が、ボスの拠点と同じ地域を縄張りにしている。
住民だけではなく、海外商人をも懐におさめ、阿片窟の運営に最も邪魔な存在。
その長が、葛原院真誠という若い侯爵だ。
国の中枢にも顔が利き、財も武も備えている。
つまり葛原院真誠とは、裏社会において最強の男なのだ。
それを今夜、殺す。
「…」
冷たい風が、1つに束ねた長い黒髪を揺らす。北風以上の冷たさが手首にまとわりつく。
殺しの前のこの時間。唯一、美雪が「ただの人」になれる時間。
何度逃げようと思ったかわからない。何度、目の前の光に紛れてしまおうと思ったかわからない。
けれどそれをすれば、手首についた重たい腕輪が爆発する。異能力で作られた爆弾。解除方法など、存在しない。
もしも自分がそうしたのなら、死ななくていい人間まで爆発に巻き込んでしまうだろう。
殺しはしたくない。…したく、ないのだ。
それは見知らぬ誰かであっても、自分自身であっても、同じことだった。
江戸時代を引き継ぐ武家屋敷と、文明開化の象徴たる西洋の建物。
この国の伝統と改新が混ざり合う街、東京、麹町。
白い息を吐きながら、早足で砂利道を進む人々。
黒い外套、濃茶の羽織、風になびく首巻き。
彼らのまとう質のいい装いたちは、場所が場所なら格好の獲物だというのに。光のあたるこの場所では、そんな脅威はどこにもない。
美雪は1人ポツンと、そんな街の様子を眺めていた。
今晩の標的は、この町に不釣り合いなほど闇の人間だ。
(葛原院真誠…)
ぼんやりと、美雪は標的の名を心の内に浮かべる。
ここから5分もしないところにある和洋折衷の屋敷に住む青年の名だ。
美雪を抱いたボスが、随分と楽しそうにその青年の殺害がいかに大事かを語っていた。彼さえ落とせば日本は自分のものだ、と。
葛原組という自警団が、ボスの拠点と同じ地域を縄張りにしている。
住民だけではなく、海外商人をも懐におさめ、阿片窟の運営に最も邪魔な存在。
その長が、葛原院真誠という若い侯爵だ。
国の中枢にも顔が利き、財も武も備えている。
つまり葛原院真誠とは、裏社会において最強の男なのだ。
それを今夜、殺す。
「…」
冷たい風が、1つに束ねた長い黒髪を揺らす。北風以上の冷たさが手首にまとわりつく。
殺しの前のこの時間。唯一、美雪が「ただの人」になれる時間。
何度逃げようと思ったかわからない。何度、目の前の光に紛れてしまおうと思ったかわからない。
けれどそれをすれば、手首についた重たい腕輪が爆発する。異能力で作られた爆弾。解除方法など、存在しない。
もしも自分がそうしたのなら、死ななくていい人間まで爆発に巻き込んでしまうだろう。
殺しはしたくない。…したく、ないのだ。
それは見知らぬ誰かであっても、自分自身であっても、同じことだった。
◇
暗い、暗い、夜。
雲が空を覆い、月さえも身を隠している。
猫の足音さえも聞こえてきそうなほどの静けさ。
足音もなく、美雪はひらりとバルコニーに降り立った。
袖の短い黒い着物と、黒の袴。
真っ黒の帯と懐の武器を確認し、革手袋をつけ直す。
アヘンが美雪にもたらした異能とは、「武器道の極み」。
相棒たる武器達は今日も、彼女の懐にある。
呼吸を整え、窓をひく。
まるで招き入れるかのように、呆気なく窓は開いた。
「…」
ここは2階。鍵が開いてるのも無理はない。
だがその安心は、彼女と標的の住む世界が違うことをまざまざと突きつけてきた。
1歩、1歩、中へ入る。
板張りの床。清潔な寝台。そこに沿っておかれた大きな箪笥棚。
かすかに聞こえる標的の寝息。最強の男は、今日で人生の幕が下りるとも知らずに寝こけているらしい。
能力が告げる、この場に最適な武器。
美雪は懐から短刀をとりだした。
寝台のすぐ隣に位置取る。能力が、短刀が、どこを狙えばいいかを教えてくれた。
眉間。
大嫌いな刃をかざす。人形のような、お綺麗な顔立ちが刃に映った。
体中から温度が消えていく。頭がぼんやりとして、能力のままにだけ動く。殺しの瞬間。
(…ごめんなさい。さようなら。)
常套句を心に、最短距離で最高の結果へと刃を振り下ろした。
はずだった。
「…えっ」
みしりと軋む手首。短刀の切っ先は、かすかに肌に触れただけ。
寝ていたはずの標的の手が、美雪の手を止めたのだ。
「…やっとみつけた。」
標的の瞳に映る自身に気づくまで、たっぷり数秒は使っただろう。
深い木漏れ日のような温かさを宿す目。陶器のような肌が紅潮し、うっとりと笑みを浮かべている。
不釣り合いな美しさと甘美な言葉。それは、見惚れてしまうほどのもの。
「…は?」
その油断が、彼女にとって命取りだった。
腕を逸らされ、強く引っ張られる。
その衝撃にハッとした瞬間、左手はリボルバーの引き金に指をかけた。
位置を反転させられる。額に突きつけ、発砲。辺り一帯に響く破裂音。悪手だが、致し方ない。
しかしほんの小さな動作で避けられてしまう。標的の額を血が伝うが、彼は一切気にした様子がない。
重心を乗せられ、起き上がれない。両手を寝台に縫い付けられた瞬間、美雪は初めての失敗を嫌というほど突きつけられた。
視線が退路を探す。道筋は辛うじて描ける。だが藻掻いても身じろぎにしかならない。先ほどの発砲音で、部屋の外に集まる足音に焦りが募る。
(あぁ…やっとこの地獄が終わるのか)
もう、これまでだろう。
そう思うと自然と力が抜け、美雪は抵抗の意思を消した。
最強の男とは、伊達ではなかったのだ。
「お前、俺の嫁になれ。」
そんな真誠が言葉を紡ぐ。自身の処刑を決定づけるその言葉を…。
さて、彼はいまいったい何を言い出したのか。
「…ん?」
「おや?聞こえなかったか、美雪。」
突如呼ばれた名前。
なぜ知っているのか。そんな混乱さえ処理できないまま、優しく頬を撫でられた。
「その異能を、殺しではなく俺の護衛に使え。その方が、君にはふさわしい。だが残念だが、護衛では目立つ。」
「…??」
「だから、俺の嫁になってくれ。」
決定事項のようにスラスラと流れる求婚。
「…はい??」
どうやら、先ほどの処刑宣告は聞き間違いではなかったようだった。
◇
冷泉美雪は、他人の血にまみれた刀を持ったままぼんやりと考えた。辺りに生者は、彼女しかいない。
彼女が薄暗い裏社会に身を落として、もう8年。
商売に失敗し、借金を作った父。その取り立てに来た裏の人間たちは、両親を殺し、美雪を光の届かぬ場所へと連れ去った。
幸い、彼女は生かされた。殺し屋として生かせる異能を手に入れてしまったから。
生きるために、他人を殺す。自分の人生を狂わせた奴らと同じ姿。
寒さが彼女の肌を刺す。緩慢な動きで刀の血を拭き取り、鞘に収めた。
彼女の足下で、特殊な小型ランプからアヘンの煙が一筋の細い線を描く。
それを深く吸い込む美雪。
彼女の平穏を壊したものであり、彼女が殺し屋として生きていける能力を与えたもの。
アヘンの煙は、もう彼女の生活から切り離すことができなかった。
◇
江戸時代を引き継ぐ武家屋敷と、文明開化の象徴たる西洋の建物。
この国の伝統と改新が混ざり合う街、東京、麹町。
白い息を吐きながら、早足で砂利道を進む人々。
黒い外套、濃茶の羽織、風になびく首巻き。
彼らのまとう質のいい装いたちは、場所が場所なら格好の獲物だというのに。光のあたるこの場所では、そんな脅威はどこにもない。
美雪は1人ポツンと、そんな街の様子を眺めていた。
今晩の標的は、この町に不釣り合いなほど闇の人間だ。
(葛原院真誠…)
ぼんやりと、美雪は標的の名を心の内に浮かべる。
ここから5分もしないところにある和洋折衷の屋敷に住む青年の名だ。
美雪を抱いたボスが、随分と楽しそうにその青年の殺害がいかに大事かを語っていた。彼さえ落とせば日本は自分のものだ、と。
葛原組という自警団が、ボスの拠点と同じ地域を縄張りにしている。
住民だけではなく、海外商人をも懐におさめ、阿片窟の運営に最も邪魔な存在。
その長が、葛原院真誠という若い侯爵だ。
国の中枢にも顔が利き、財も武も備えている。
つまり葛原院真誠とは、裏社会において最強の男なのだ。
それを今夜、殺す。
「…」
冷たい風が、1つに束ねた長い黒髪を揺らす。北風以上の冷たさが手首にまとわりつく。
殺しの前のこの時間。唯一、美雪が「ただの人」になれる時間。
何度逃げようと思ったかわからない。何度、目の前の光に紛れてしまおうと思ったかわからない。
けれどそれをすれば、手首についた重たい腕輪が爆発する。異能力で作られた爆弾。解除方法など、存在しない。
もしも自分がそうしたのなら、死ななくていい人間まで爆発に巻き込んでしまうだろう。
殺しはしたくない。…したく、ないのだ。
それは見知らぬ誰かであっても、自分自身であっても、同じことだった。
江戸時代を引き継ぐ武家屋敷と、文明開化の象徴たる西洋の建物。
この国の伝統と改新が混ざり合う街、東京、麹町。
白い息を吐きながら、早足で砂利道を進む人々。
黒い外套、濃茶の羽織、風になびく首巻き。
彼らのまとう質のいい装いたちは、場所が場所なら格好の獲物だというのに。光のあたるこの場所では、そんな脅威はどこにもない。
美雪は1人ポツンと、そんな街の様子を眺めていた。
今晩の標的は、この町に不釣り合いなほど闇の人間だ。
(葛原院真誠…)
ぼんやりと、美雪は標的の名を心の内に浮かべる。
ここから5分もしないところにある和洋折衷の屋敷に住む青年の名だ。
美雪を抱いたボスが、随分と楽しそうにその青年の殺害がいかに大事かを語っていた。彼さえ落とせば日本は自分のものだ、と。
葛原組という自警団が、ボスの拠点と同じ地域を縄張りにしている。
住民だけではなく、海外商人をも懐におさめ、阿片窟の運営に最も邪魔な存在。
その長が、葛原院真誠という若い侯爵だ。
国の中枢にも顔が利き、財も武も備えている。
つまり葛原院真誠とは、裏社会において最強の男なのだ。
それを今夜、殺す。
「…」
冷たい風が、1つに束ねた長い黒髪を揺らす。北風以上の冷たさが手首にまとわりつく。
殺しの前のこの時間。唯一、美雪が「ただの人」になれる時間。
何度逃げようと思ったかわからない。何度、目の前の光に紛れてしまおうと思ったかわからない。
けれどそれをすれば、手首についた重たい腕輪が爆発する。異能力で作られた爆弾。解除方法など、存在しない。
もしも自分がそうしたのなら、死ななくていい人間まで爆発に巻き込んでしまうだろう。
殺しはしたくない。…したく、ないのだ。
それは見知らぬ誰かであっても、自分自身であっても、同じことだった。
◇
暗い、暗い、夜。
雲が空を覆い、月さえも身を隠している。
猫の足音さえも聞こえてきそうなほどの静けさ。
足音もなく、美雪はひらりとバルコニーに降り立った。
袖の短い黒い着物と、黒の袴。
真っ黒の帯と懐の武器を確認し、革手袋をつけ直す。
アヘンが美雪にもたらした異能とは、「武器道の極み」。
相棒たる武器達は今日も、彼女の懐にある。
呼吸を整え、窓をひく。
まるで招き入れるかのように、呆気なく窓は開いた。
「…」
ここは2階。鍵が開いてるのも無理はない。
だがその安心は、彼女と標的の住む世界が違うことをまざまざと突きつけてきた。
1歩、1歩、中へ入る。
板張りの床。清潔な寝台。そこに沿っておかれた大きな箪笥棚。
かすかに聞こえる標的の寝息。最強の男は、今日で人生の幕が下りるとも知らずに寝こけているらしい。
能力が告げる、この場に最適な武器。
美雪は懐から短刀をとりだした。
寝台のすぐ隣に位置取る。能力が、短刀が、どこを狙えばいいかを教えてくれた。
眉間。
大嫌いな刃をかざす。人形のような、お綺麗な顔立ちが刃に映った。
体中から温度が消えていく。頭がぼんやりとして、能力のままにだけ動く。殺しの瞬間。
(…ごめんなさい。さようなら。)
常套句を心に、最短距離で最高の結果へと刃を振り下ろした。
はずだった。
「…えっ」
みしりと軋む手首。短刀の切っ先は、かすかに肌に触れただけ。
寝ていたはずの標的の手が、美雪の手を止めたのだ。
「…やっとみつけた。」
標的の瞳に映る自身に気づくまで、たっぷり数秒は使っただろう。
深い木漏れ日のような温かさを宿す目。陶器のような肌が紅潮し、うっとりと笑みを浮かべている。
不釣り合いな美しさと甘美な言葉。それは、見惚れてしまうほどのもの。
「…は?」
その油断が、彼女にとって命取りだった。
腕を逸らされ、強く引っ張られる。
その衝撃にハッとした瞬間、左手はリボルバーの引き金に指をかけた。
位置を反転させられる。額に突きつけ、発砲。辺り一帯に響く破裂音。悪手だが、致し方ない。
しかしほんの小さな動作で避けられてしまう。標的の額を血が伝うが、彼は一切気にした様子がない。
重心を乗せられ、起き上がれない。両手を寝台に縫い付けられた瞬間、美雪は初めての失敗を嫌というほど突きつけられた。
視線が退路を探す。道筋は辛うじて描ける。だが藻掻いても身じろぎにしかならない。先ほどの発砲音で、部屋の外に集まる足音に焦りが募る。
(あぁ…やっとこの地獄が終わるのか)
もう、これまでだろう。
そう思うと自然と力が抜け、美雪は抵抗の意思を消した。
最強の男とは、伊達ではなかったのだ。
「お前、俺の嫁になれ。」
そんな真誠が言葉を紡ぐ。自身の処刑を決定づけるその言葉を…。
さて、彼はいまいったい何を言い出したのか。
「…ん?」
「おや?聞こえなかったか、美雪。」
突如呼ばれた名前。
なぜ知っているのか。そんな混乱さえ処理できないまま、優しく頬を撫でられた。
「その異能を、殺しではなく俺の護衛に使え。その方が、君にはふさわしい。だが残念だが、護衛では目立つ。」
「…??」
「だから、俺の嫁になってくれ。」
決定事項のようにスラスラと流れる求婚。
「…はい??」
どうやら、先ほどの処刑宣告は聞き間違いではなかったようだった。
◇
