私には意味が分からなかった。
彼女がどうしてこんなところに居るのか。
「な、何してるの」
彼女はゆっくりと首を傾げる。ただ、私と合ったまま目は逸らさず、こちらを見つめている。
「会えてよかったじゃないの。何を躊躇う必要があるの」
私は喉の奥で、声にならない息を噛み殺した。
ここは、私の家だ。正確に言えば、私と夫の家。鍵を持っているのは私たちだけ――のはずだった。
「……どうやって入ったの」
問いかけると、彼女は小さく笑った。笑う必要なんてないのに、当然みたいに笑った。
「どうやって、って。前にあなたが言ってたじゃない。玄関の鍵、替えるの面倒だって。覚えてないの?」
覚えている。覚えていないふりをしていただけだ。
結婚する前、私は合鍵を作った。
夫のためではない。自分が安心するために、夫に差し出すふりをして、もう一本を自分だけの保険にしておくために。
「……それ、返したはずよ」
私の声は、妙に丁寧だった。丁寧に言えば、何かが守られる気がした。言葉を整えれば、現実が整う気がした。
彼女は肩をすくめた。
「返されたって、受け取ったとは限らないでしょ」
彼女の膝の上には、湯気の立つマグカップがあった。うちの食器棚の奥にしまっていた、ペアのうち片方。あの柄は、私が好きで選んだ。夫は「どっちでもいい」と言った。
「座って」
彼女が言う。命令ではない。むしろ、親切みたいな声音だ。
私は立ったまま、ソファの背を握った。指先が冷たい。握っているものが、現実につながっている唯一の手がかりみたいだった。
「あなた、怖いの?」
彼女は私の顔をまっすぐ見て、目だけで確かめる。
怖い。
でも、怖いのは彼女がここにいることだけじゃない。
彼女がここにいる理由を、私はもう知っている気がした。そして、その“知っている”を確かめたくない。
「夫は……どこ」
言ってから、しまったと思う。主語を出した瞬間、私の中の何かが夫を中心に回り始める。彼女の狙い通りに。
「今? 会社じゃない?」
彼女はマグを口元に運ぶ。唇に触れるカップの縁が、やけに生々しい。
「あなた、まだ“夫”って呼ぶんだね」
私は、答えなかった。
答えたら、全部が決まってしまう気がした。
沈黙の中で、彼女が言う。
「ねえ。あなたって、いつから自分が被害者だと思ってたの?」
胸の奥が、鈍く鳴った。
「……何の話?」
「そうやって、知らないふり。上手だよね」
彼女は息をついて、指先でマグの取っ手を撫でる。
「私、あなたにお礼を言いに来たの。会えてよかった。ほんとに」
「……お礼?」
「あなたが、押してくれたから」
押してくれた。
その言葉が、私の中の引き出しを勝手に開けた。埃の匂いのする、触れたくない引き出し。私はその取っ手に指をかけた覚えなんてないのに、記憶だけが勝手に滑り出す。
数か月前。
職場の飲み会。終電間際。彼女が少し酔って、愚痴をこぼした。
「最近、変なの。だれかに見られてる気がする」
「大丈夫? 気のせいじゃない?」
私は笑ってそう言った。笑って言える程度のことだと思った。
そのあと、私は夫に話した。
“会社の子が、ストーカーっぽいのに悩んでるみたい”って。
夫は眉をひそめて、「何それ、危ないじゃん」と言って、なぜか少しだけ楽しそうだった。
私は、そこで止めるべきだった。
でも私は、止めなかった。
夫が彼女に“助けるふり”で近づくことも、
彼女が“救ってくれる人”として夫にすがることも、
私はどこかで、見たかった。
それが現実になったとき、私は初めて、見たくなかったと知った。
「……私が、押した?」
声が裏返る。
彼女は頷く。ゆっくり、優しく。
「あなたが、私の話を彼にした。あなたが、彼に私の弱いところを渡した」
彼女は言葉を選ばない。選ぶ必要がないという顔をしている。
「それで、あなたは安心したんでしょ? “自分だけが大事にされてる”って確認できると思ったんでしょ?」
私は否定したかった。
でも、否定する言葉が見つからない。否定できるほど、私は綺麗じゃない。
「……違う」
ようやく出た声は、薄かった。
彼女は小さく首を振る。
「違わないよ。あなた、いつもそう。欲しいものがあるのに、正直に欲しいって言わない。自分の手で汚したくないから」
胸が苦しい。
でも、その苦しさの中に、刺さるほどの心当たりがあった。
彼女はマグをテーブルに置いて、音を立てた。
カチン、と。
その音だけで、私は背筋を伸ばしてしまう。叱られる犬みたいに。
「それでね」
彼女は声を落とす。秘密を打ち明けるみたいに。
「あなたの望み、叶えてあげたんだよ」
私は、視線だけで問い返した。
「彼、あなたを選んだよ」
彼女が言う。
「最初から最後まで、あなたの方を“家”にしてた。私には帰る場所なんて与えなかった」
私は、ほっとした。
そして、その瞬間に、自分が最低だと分かった。
ほっとしたことが、私の罪の形をはっきりさせた。
私は彼女の不幸で呼吸をしている。
「だから――」
彼女は立ち上がる。足音がしない。なのに、距離だけが一気に縮む。
「あなたに、渡しに来たの」
彼女が差し出したのは、封筒だった。薄いのに、妙に重そうに見える。
白い紙の角が、封筒の口から少しだけ覗いている。
「なに……」
私は受け取れない。指が動かない。
「あなたの“安心”の材料」
彼女は微笑んだ。
「写真。音声。メッセージ。全部あるよ。あなたが欲しがってたやつ」
私は、息を止めた。
欲しがってた。
そうだ。私はずっと、確かめたかった。夫が誰と何をしているのか。疑う自分を正当化できる証拠が欲しかった。もしくは、疑う自分が間違っていたと証明できる証拠が欲しかった。
どっちに転んでも、私はそれを“持っていたい”と思った。
「いらない」
口が勝手に言う。
でも、視線は封筒から離れない。
彼女は封筒をテーブルの上に置いた。私の手の届く場所に。
「いらないなら、捨てればいいよ。あなた、得意でしょ。都合の悪いもの、見えないところに押し込むの」
そして彼女は、私の横をすり抜けて玄関へ向かった。
出ていくんだ。
そう思ったのに、彼女は靴を履かずに、玄関の鏡の前で立ち止まった。
「……ねえ」
彼女が鏡越しに私を見る。
「あなた、まだ気づいてないの?」
私は、返事ができない。
彼女は、ドアノブに手をかけたまま言う。
「彼があなたを“選んだ”って思ってるなら、あなたはずっとこの先も、選ばれるために努力し続けることになる」
努力。
その言葉が、妙に現実的で、むしろ残酷だった。
愛とか、裏切りとか、そういう物語じゃない。生き方の癖。癖は直らない。
「あなたはね」
彼女は鍵の束を揺らす。
ちいさな金属音。私の心臓がそれに合わせて鳴る。
「選ばれたんじゃないの。置かれてただけ」
玄関のドアが開く。外の冷たい空気が流れ込む。
彼女は最後に一度だけ振り返った。
「合鍵、返すね」
そう言って、鍵を靴箱の上に置いた。
置き方が丁寧で、腹が立った。
私の生活をよく知っている人みたいに。
ドアが閉まる。
その音が、家の中の空気を変えた。静かになったのに、静かじゃない。壁が薄くなったみたいに、何もかもが近い。
私は、しばらく動けなかった。
テーブルの上の封筒が、そこにあるだけで部屋が傾いて見える。
――捨てればいい。
そうだ。捨てればいい。
見なければいい。
私はいつもそうしてきた。見ないことで、保ってきた。
でも、私は封筒に手を伸ばした。
指先が震えた。
震えは、恐怖じゃない。期待だった。
封筒の口を破り、紙の束を取り出す。
写真が一枚、二枚。
音声の入ったUSB。
印刷されたメッセージのログ。
そして、一番上に、手書きのメモがあった。
“あなたが知りたかったのは、彼の裏切りじゃない。あなた自身がどこまで堕ちるかだよね”
私は笑った。
声は出なかった。喉が、泣き方を忘れていた。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
ただいま、と夫の声。
私は反射的に封筒の中身を抱え込む。
隠すためじゃない。取られたくない。
この“材料”が私のものになった瞬間、私はもう、戻れない場所に立っている。
夫がリビングに入ってきて、私を見る。
「どうしたの? なんか……顔色悪いけど」
私は、笑顔を作った。
作れる。私はいつも作ってきた。
「ううん、何でもない」
そう言いながら、テーブルの上に残っている封筒の破片を、指先で集める。
夫は気づかない。気づく必要がない。
この家は、私が“何でもない”で回している。
でも私は知ってしまった。
この先私が守るのは、夫婦の形じゃない。
“何でもない”と言い続けられる自分の体裁だ。
私は、鍵の束が置かれた靴箱の方向を一瞬だけ見た。
合鍵は返ってきた。
なのに、彼女はもう、私の家の中にいる。
私の頭の中に。
そして私は、封筒の中身を、捨てない。
たぶん何度でも、見返す。
選ばれたかった私が、置かれていただけの私が、
どこまで自分を嫌いになれるのか確かめるために。
夫がコートを脱ぐ音がする。
私は「おかえり」と言う準備をして、息を吸った。
その息が、妙に冷たかった。

