ならんせ


 ◆


「――あ、運転手さん、すみません。友達が寝落ちしてて、ちょっとだけ待ってください」
「いいよ、ここ終点だし、十分待って折り返しだから、ゆっくりどうぞ」
「すみませーん」
 いつの間にか村に着いていたらしい。宗一の声でパチリと目が開いた。
「あっ、ごめん、寝てた」
「ちーはるくん、よだれ垂れてんぞ」
「え、うそっ」
 慌てて拭おうとしたら、網棚から荷物を膝の上に落とされる。
「嘘だよ。ほら、早く降りないと、バス引き返しちゃうぞ」
 千陽は宗一に急かされて慌ててバスを降りた。千陽たちが降りたとき、入れ替わりに老夫婦がバスに乗り込んできたが、宗一はその人たちに目配せして会釈した。けれど特に会話をしたりはしなかった。
「知ってる人?」
「うん坂田さん。前に母さんが言ってたけど、あの人たち、時々市内に泊まりがけで通院してるんだって」
「へぇ、やっぱり村での生活って大変なんだな」
「持病がある人は大変。往診も来てくれるけど病院以外じゃ大したことはできないし」
「そっか」
 さっきの宗一の様子から「親が知っている人」以上に坂田さんたちとの深い付き合いは見えなかった。
 今も変わらず家同士親密な付き合いがあるのだと勝手に思っていたが、村も変わったのだろうか。
 千陽たちが降りた国道沿いのバス停の脇には、トタン壁の古びた待合小屋がある。そこから道なりに進み、途中山側に向かう旧道に入ると途端に里山の暮らしを体現した風景が目の前に広がった。
「全然、音がしない。静かだなぁ」
「まぁ千陽もすでにご存じの通り、大自然以外は取り立てて何もないからなぁ。都会を離れて休憩するにはもってこいの場所だけど」
「宗一も村に帰るの久しぶりなんだっけ?」
「一年ぶりかな。高校まではこっちに居たけど、大学進学で村を出たから」
「そうなんだ。――俺、宗一ってずっと村にいるのかと思った」
 千陽がそう言うと隣を歩く宗一が驚いたように目を見開いた。
「んなわけねーだろ。今時どこの村でも過疎化だよ。若者は一回外に出たら村に帰ってこないし。こっちの人と結婚でもしたらまた違うんだろうけど、外から人が来ない限りは、この村もいずれはなくなる」
「寂しくないのか」
 畑の間を縫うようにして二人で歩いていた。宗一は千陽の質問に肩をすくめたあと答える。
「十年前なら、そりゃ寂しいって言っただろうけど。今は村にいる方が寂しいだろ、普通に。俺はここで生まれたけど今は外の人だよ。やっぱり一度外を知っちゃうとなぁ。携帯もインターネットもある時代に、旧時代的な生活だけで幸せを感じられる若者って少ないよ」
 千陽が知っている答えが返ってきて、ホッとしたような、少しがっかりしたような複雑な気持ちだった。 
「――なんだ。宗一も村出たらあんがい普通なんだな」
「えーなんだよぉ、昔は普通じゃなかったみたいな言い方だなぁ」
 宗一はそう言って千陽の肩を小突いてきた。こっちは重いボストンバッグを肩にかけているのだ、今は田んぼに水が張られている時期だし落ちたら大惨事になる。
「もー宗一! 落ちるだろ」
「悪い悪い」
 体勢を整えて再び並んで歩き出した。
「だからさ、俺が言いたいのは……寂しいのが嫌だって人間にとって普通の感覚だろ」
「まーそうだな」
「俺はさ……昔、村にはそういう寂しさがない気がしたんだよ。当たり前に全員知り合いだったから。この村には寂しい人がいないんだろうなって」
 子供の千陽の目には、彼らがとても幸せそうに見えたし村人の宗一が羨ましかった。よそものの自分だけが村人の幸せを享受できず、永遠に寂しいのだと思っていた。
「まぁ、あの頃はまだ小学校もあって賑やかで、子供もたくさんいたから。今はその辺り誰もいないんだぜ?」
 宗一は前方に見える家を指差した。確かに誰かが住んでいるようには見えない。外の石塀は倒れ、崩れた民家の土壁が無惨にも庭に広がっていた。
 千陽は一生懸命にこの家の人を思い出そうとしたが、その頃、ここに家があったのかも覚えていない。この道を宗一と歩いた記憶はあるのに。
 以前より舗装された道が増えている気がした。
 山の麓近くまで来て、三年ほど通っていた小学校を見てもさほど思うことはなかった。ここに来るまでは、あんなにも懐かしさに手を引かれるような感覚に陥ったのに。学校の中に入ればまた違うのだろうか。
「ここって、俺たちが通ってた小学校だよな」
「そうそう。もう廃校してるけどな。今は村のコミュニティセンターとして使われているから入ることはできるけど、明日行ってみるか?」
「うん、行きたい」
「了解。じゃあ、明日は俺が村を巡るツアー組んでやるよ」
「ツアーって、どこ連れてってくれるんだろ」
「そりゃ、まー山か、川だろ。実際それしかないし」
「山か川な。楽しみにしてる」
 二人して笑いながら小学校の前を通り過ぎたときだった。ふと目の端にビニールハウス群が見えて、千陽はその場に足を止めた。
「どうした?」
 昔はなかった気がする。
「なぁ宗一、あのビニールハウスって何育ててるんだ?」
「あぁ、切花」
「へーこの村、花とかやってるんだな」
 ここ最近、花き農家を始めた家があるのだろうか。そう思っていたら宗一が驚いた声を出す。
「何、知らなかったのか? 昔っから、この村は切花出荷しているよ。このあたりは温暖だし川もあるしさ。米とかもやってるけど」
「……知らなかった」
 小学校で地元の生活について学んだりする授業は当然あったはずだ。単に千陽が忘れているのか、これも事故で失った記憶なのかは分からないが――この村では、昔から花を育てている家があったのだ。
「ところでさ……宗一」
「ん?」
「――夏にさ、村で赤い花って育てて出荷してた?」
「赤い花?」
 千陽の質問に宗一の間の抜けた声が返ってきた。
「そう。こう確か……花びらは小指の先くらい小さいやつだと思うんだけど、俺、昔夏に村で見た気がしてさ」
 急に昨晩夢で見た赤い花が頭に浮かんだ。手水舎に浮かべられていた赤い花。石畳に溢れるほどたくさんの赤。
「うーん。赤い花ねぇ。てか、そもそも夏はビニールハウスの中って灼熱だぜ? 赤い花以前に夏に花は出荷してないよ」
「そっか、なら俺の気のせいかも」
「春は書き入れ時だし、ビニールハウスの前通るといい匂いするよ」
 そう言いながら前を歩く宗一は、ふと山の向こうに視線を向けた。
「あ、なんか雲行き怪しくなってきてない? 雨降りそうだ。傘ないし急ごうぜ」
「分かった」
 宗一に急かされて千陽はビニールハウスの横を走った。宗一が教えてくれたように、ビニールハウスの前を通った時、ふわりと甘く爽やかな花の香りがした。
「ッ、た!」
「どうした千陽」
「いや……なんか、足が、痛くてさ」
「足?」
 さっきまでなんともなかったのに、花の匂いを嗅いだ後から足の裏が痛くなった。
 靴の中を確かめたが、何も入っていなかった。
「千陽、普段走らないんだろ、運動不足か?」
 からかう宗一の声に生返事した。
「まぁ……うん。そう、かもな」
「ほら、行くぞ? なんならおぶってやろうか」
「できるものなら」
「荷物置いていけばギリ?」
「ばーか、走れるって」
 そう言って千陽は宗一の背中を追った。
 ――それは靴に入った小石とかではなく、割れたガラスを踏んでいるような痛みだった。