はっ、と目を覚ましたとき個室寝台の電気は全て消えていた。アルコールで重くなった頭を振り、のろのろと上体を起こすと車窓には暗闇が広がっていた。
いつの間にか関西を通り過ぎていたようだ。列車が停車していた記憶がない。外は雨が降っているらしく、窓ガラスの外には水滴がついていた。
時折、点々と光る灯りが、蝋燭の火のようにぼんやりと浮かんでは消えていく。
千陽の肩には薄い毛布がかけられていた。
「宗一……」
寝台車には千陽しかいなかった。
きっと眠り込んでしまった千陽を個室に残して宗一は開放寝台の方へ行ったのだろう。
飲めない酒を調子に乗って飲んだせいで、宗一には悪いことをしてしまった。
――さっき夢に見たのは小学六年生の夏、滑落事故が起きた少し前の記憶だった。
千陽が山から見ていた神社の婚礼の列。
(……あれは婚礼なんかじゃなかった、暗い顔で……下を向いて)
水城家が足を踏み入れることを許されていなかった村の一角。夢がフラッシュバックして背に怖気が走る。千陽は思わず前髪をぐちゃぐちゃとかき混ぜていた。
初老の男たちの手によって運ばれていた籠には、間違いなく誰かの遺体が入っていた。
宗一はそのことを千陽に隠し、婚礼だと嘘をついた。
「なん……で……嘘なんか」
神社の手水舎に浮かべられていたのは全て赤い花だった。あの村で、真夏にあんな鮮やかな赤い花なんて咲いていただろうか。一度も見たことがない。
手水舎から溢れる水と共にはらはらと赤い粒が落ちていた。
――そもそもあれは、本当に、花だった?
千陽は滑落事故に遭った日、山の上から神社を見下ろしていた。よくよく考えてみれば、あんなに遠くから手水舎の水に浮かんだ花なんて見えるはずがなかった。
酒を飲みすぎたせいか、古い鉄の匂いが呼気に混じった。吐きそうで気分が悪い。
列車の揺れる音が断続的に耳元で聞こえている。その響きが山から落ちたときに聞こえたあの声と重なって聞こえた。
――家族にならんせ
それは山から落下したときに千陽の耳に届いた言葉だった。
あれは、宗一の声?
男とも女とも判別がつかない、ざらざらと掠れた声だった。
「家族、か……本当、何言ってんだよ……俺、ありえねぇ……」
自嘲的に口から溢れた声に、はは、と乾いた笑いが重なる。
子供の頃、千陽は宗一と「一緒」になりたいと思っていた。
それが決して村では許されないことだと分かっていても、宗一と同じ場所に行きたかったし、彼のいる内側に入れて欲しかった。
『千陽は外から内に来たよそさんだから』
悪意なく無邪気に笑う宗一の声が、千陽の幼い心をどれほど苛めたか。
あの頃の胸を掻きむしりたくなるような、もどかしい感情とその理由を千陽はすでに知っている。
大人になった今では、子供の頃とは違う答えに容易に辿り着けた。ただあの頃の……子供の千陽が知っていた言葉で、一番近いものが「家族」だった。
さっきの光景は酒が見せたただの悪夢だ。馬鹿馬鹿しい、と一蹴するのは簡単だ。けれど悪夢だと再び忘れてしまうには、過去の秘められた記憶は、あまりにも魅力的な色香を放っていた。
あれが、お前のずっと欲しかったものだろうと、耳元で悪夢が囁いている。
思わずあの悪夢に身を委ねてしまいたくなるほど。あれは甘美な――毒だった。
「……宗一」
いつの間にか寝汗で体にまとわりつく布が冷たくなっていた。
千陽は白い薄手の長着を素肌にまとっていた。はっ、と自身の肩を抱いた。寝る前にはTシャツを着ていたのに、今は寝巻きだった。今、自分が座っている場所が分からない。
(ここは、どこだ)
今の千陽がどれほど過去の悪夢を望んでも、十年も忘れていた甘い感情を今更手にしたりはできないし、アレをそもそも受け入れたりはできない。
村を出た瞬間、アレとの縁は途切れたのだ。
千陽は頭を振った。
――違う、こんなのは、俺じゃない。
千陽は必死に走っていた。走って、走って、行き着いたのは、あの村だった。
――もう、ここに帰ってくるつもりなんてなかった。
村を出て宗一と同じ立場で再び出会えた。これが、今の千陽の幸福だ。千陽は、それをそのまま受け入れればいい。
――村へ帰ろう、千陽。
耳元で悪夢が甘く囁いた。
宗一から届いた手紙が、思考の片隅ではらりと落ちた。
「なん、で……いまさら、村なんかに、もう、遅いのに」
目の前の現実を受け入れられなくて、思わず顔を覆っていた。
今の自分が、自分じゃないような気がした。誰かの心が勝手に千陽の心に流れ込んでくる。抗えなかった。
ぽたぽたと頬に涙が伝っていた。
好きだから彼の一番になりたかった。今だって、そうだ。幼い頃の千陽の心は、今もずっと寂しいままでいる。
宗一に千陽の心を全て受け入れてほしかった。
――受け入れてもらえないことが、どれほど悔しかったか。許せなかったか。殺したいほど憎かったか。
誰にも受け入れられず、水底に沈んだ冷たい心。
顔を上げると、千陽は誰もいない神社の参道に一人で立っていた。目の前には赤い大鳥居が見える。その向こうに千陽は行けない。
(なんで……誰もいないの、なんで……なんで……)
足の裏が氷のように冷たかった。もう、終わりだと思った。
千陽はその場で白刃を握り手を血で染めていた。流れ出た鮮血は千陽の喉を伝い灰色の石畳を罪で穢す。
昔の自分は無垢で、無邪気だった。だから、一番仲が良くて、自分の一番そばにいてくれた宗一にすがることしかできなかった。
(違う。あれは、決して恋情なんかじゃなかった)
これは、自分じゃない。違う、俺じゃない。お前は誰だ!
そうでなければ、あんな大切な感情を今日まで忘れているはずがない。これは、千陽の罪だ。
俺は、忘れたくなかった。
――恋にしたかった。
違う。
苦しい。息がつまる。
涙が次々に溢れ、呼吸が浅くなる。口から、ごぼごぼと血が溢れていた。力を失った体が冷たい石畳の上に投げ出される。目の前に広がるのは永遠の闇だった。湿った土の匂いがした。ここからは永遠に出られない。
遠のく意識の中、千陽は。――最後は、青空が見たかったのにと思った。
視界の端に小さな読書灯の灯りが見えた。
「千陽……千陽、大丈夫だから」
「ぁ、は……はっ……うっ」
苦しくて、呼吸が引きつる。
千陽は、さっきまで目を開けていたはずだ。けれど再び目を開けると千陽は狭い寝台に宗一と並んで座っていた。
千陽の肩は、全力で走ったあとのように上下に動いていた。ち、とじれるような舌打ちのあと、暴れる千陽に宗一が覆い被さってくる。耳元で寝台の軋む音がした。
「大丈夫だから、ゆっくり息して」
「ッ、な、んで、こんなっ、嫌だ、俺……」
「過呼吸。少し……飲ませすぎたな」
宗一の身体が千陽の上体に重なった。そのまま、ぴったりと隙間なく抱きしめられている。
宗一の身体からは酒で寝落ちする前に香った爽やかな甘い匂いがした。宗一の重さが、心地よかった。
されるがまま千陽は宗一に身体を撫でられていた。バラバラだった自分の心が元に戻っていくような気がした。
「……千陽、怖い夢でも見たの?」
「ッ、ゆ、め……」
「うなされてたよ」
宗一は赤子をあやすように、千陽のこめかみに唇を当てた。読書灯の灯りの中、千陽は宗一の顔を見つめる。視線が交差したあと、宗一は目を細めた。その色っぽい仕草に喉が鳴る。訳が分からない。ただ、ひどく喉が渇いている気がした。そのまま宗一は千陽に唇を重ねてきた。
「なに、可愛い顔して、誘ってるの?」
「ぇ……」
舌が感じた甘い感触に、驚いて目を見開いた。慌てて宗一の身体から自分の身体を離した。
「お、おお、お前、急に、な、何して……」
「治療。びっくりしたら呼吸戻っただろ」
「それ……は、そうだ、けど」
「過呼吸ってしんどいよなぁ、俺も演技の稽古しててよくなるよ」
宗一は小さく笑ったあと、窓際に置いてあった千陽のペットボトルの水を手渡してくれた。
「あ、ありがと」
「どういたしまして。まぁ、酒飲ませすぎたのは俺のせいなんだけど。でも、飲めないなら飲めないって言えよ」
「いや、俺も楽しくて調子乗って飲んじゃって」
「そっか」
「て、てか、宗一、お、お前は、誰にでも……あんな……こと、するのか」
「おーおー初々しいことで、あ、もしかして童貞だった? ……それともキスもまだとか」
宗一にケラケラと揶揄うように笑われてしまった。千陽の顔は真っ赤だった。
「は、はぁ!? お前、デリカシーってものが」
「ないなぁ、そういうのあの村じゃオープンだったし。まぁ無神経だった。ごめんごめん」
ふっ、と笑った宗一は薄暗闘の中、千陽から離れ窓際に移動する。宗一は寝巻きに黒い長着を着ていた。その着物の色が自分が山から落ちた時に見た宗一の着物と重なって見えた。
目の前にいる宗一は、本当に自分の知っている宗一なんだろうか。
「……なぁ、お前……そう……いち、なんだよな」
恐る恐る千陽は確かめた。千陽の視線を受けた宗一は演技がかった仕草で肩をすくめた。
「ん、宗一じゃなかったら、一体誰なんだよ」
「それは、分からないけど。なんか、ずっと……俺も、変だし」
「そうか? 変じゃないよ。千陽は昔のままの千陽だし、俺は宗一。俺は、お前が大好きな親友の、宗一くんです」
宗一は滔々と答えた。
「……うん、そっか。……なぁ、それ、何読んでんの?」
宗一の手には薄い冊子があった。こんなに暗い中、一人で本を読んでいたのだろうか。
「あぁ、これ? お芝居の台本。千陽が先に寝ちゃったから、ここで練習してた。次のオーディションの台詞。次は名前がある役欲しいなぁ」
「宗一」
「ん?」
「俺、自分の寝台行って寝るよ」
「そ、分かった。千陽」
「ん」
扉の前で千陽は後ろを振り返る。宗一はニヤリと笑った。
「ここで寝ても、別に、俺、襲ったりしないけどなぁ」
「そ、そういう意味じゃない!」
「あっそ、じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい!」
宗一の個室を出ると、外の通路には灯りが付いていた。
なんだか、長い悪夢を見ていた気がする。



