寝台車の個室で宗一と昔話に花を咲かせていた。
もっぱら小学校のことや千陽の家でやった懐かしいゲームの話だった。
他にも村で大切な思い出があったはずなのに。欠けた記憶が、どうしても思い出せない。消えた記憶を愛想笑いと酒で誤魔化していた。宗一に知らない、覚えてないと言いたくなかった。
――宗一との思い出は全部、覚えていたかった。
宗一が買ったお酒を勧められるまま飲んでしまい、気づいたときには酩酊していた。
酒で視界が蕩けていた。
隣に座っている宗一の顔を横目で見た。宗一の顔が暗くてよく見えない。
頭がふらつくのは列車の揺れのせいだろうか。そう思ったとき、千陽の頭を宗一が胸元へ抱き寄せた。危なっかしいと思われたのだろうか。大丈夫だからと言ったが、宗一は千陽を胸に抱いたまま返事をしなかった。宗一は千陽が手に持っていた日本酒のミニカップを窓際に置いてくれる。
(もういいや、訊いてしまおう)
千陽はもう一度、宗一を呼んだ。酒の力を借りた。
「なぁ宗一」
「ん」
今度は頭の上から、無機質な声が降ってきた。
「六年生のとき、俺たち山でさ」
「あぁ」
ぴったりとくっついている身体からは自分と同じ酒の匂いがするはずなのに、宗一からは若葉のような青っぽい匂いがした。花屋の店先に立ったときみたいないい香りだった。
香水だろうか? 甘く爽やかで凛とした。
「――俺たちって、喧嘩した?」
千陽の問いに宗一は答えなかった。代わりに宗一のしなやかな指先が千陽の唇を辿った。
「千陽、早く……村に帰りたいな」
寝るなら、ちゃんと自分の座席に帰らないといけないのに。瞼が重かった。
どうしよう。もう、体が動かない。
――落ちる。痛い、苦しい。助けて、宗一。
夢の中必死で空に向かって手を伸ばしていた。
◆
村で過ごした約二年半の思い出は、パズルのピースだ。
あの頃は、ずっと村にいれば、いつの日か村と宗一の全てを理解できると信じていた。
――願っていた。
たった二年と少しでも、とても長い時間だったように思う。六年生の頃の宗一は千陽より背が高かったし、背中の黒いランドセルがずいぶん小さく見えていた。その千陽よりもたくましい背中にあこがれていた。
村に来て三度目の夏だった。当時、千陽は子供なりに少しは将来のことを考えていたかもしれない。
小学生にとっての将来なんて、中学生になったらとか、せいぜい人気の職業を答えるくらいのものだが、千陽は両親と同じようにお菓子を作る仕事をしたいと思っていた。
低学年の頃はホットケーキやパフェを作っていた千陽も、母に習って焼き菓子やデコレーションケーキを作るようになった。美しくスポンジケーキの上にクリームを乗せられたときは嬉しかったし、なにより宗一が家に遊びにきたとき千陽が作ったお菓子を喜んでくれるのが千陽の密かな楽しみだった。
思えば周りのクラスメイトは将来何になりたいか、と訊かれても千陽みたいにパティシエと具体的な職業を答えたりしなかった。
田舎では周りにいる大人が、畑や山で仕事をする人ばかりだったので、職業を自分ごととして想像するのが難しかったのかもしれない。
そういう意味で近くにお手本となる大人がいた千陽は恵まれていた。
今日ケーキ食べにおいでよ、と千陽が言えば、宗一はいつも喜んで遊びに来てくれた。
でも二年経っても相変わらず宗一の家に呼ばれたことはなかった。
――村の中には千陽の家族が立ち入ってはいけない場所があった。
面と向かって言われたわけじゃないけれど。
もう、分かっていた。
山の麓にある赤い大きな鳥居がある神社。
学校から帰るとき、宗一は千陽がそちら側に行こうとすると手を握って別の道へ連れていった。千陽が「どうして?」と訊くと「子供が近づくと危ないから」と言っていた。
でも千陽は、自分以外の村の子供たちがいつも神社の境内で遊んでいるのを知っていた。
宗一に連れて行ってもらえなくても、神社に行きたいなら勝手に一人で行けばいい。もし子供が近づくと危ないなら、両親と一緒に行けばいい。
それだけのことなのに、千陽は父にも母にも「神社に連れて行って」と言えなかった。
両親は村のお客様のままで十分幸せそうだったから。彼らの幸せに水を差したくなかったのかもしれない。
村の夏祭りの日さえも、宗一は千陽を誘ってくれなかった。
去年も、一昨年も。
――今年の夏も、誘ってもらえないのだろうか。次第に胸の底に暗い何かが蠢くのを感じていた。
一学期の終業式の日だった。いつもと同じように千陽は宗一を遊びに誘った。
「――宗一」
「ん?」
「今日、山遊びに行こ!」
「うん。いいよ。じゃあ、昼食べたあと二時に学校の裏門で待ち合わせな」
「分かった。じゃあ、またあとでな」
そんなふうに昼から遊ぶ約束をして学校を出た。
取り立てて変わったこともない、普通の土曜日だった。
家で昼ごはんを食べたあと千陽は学校の裏門へ向かった。約束の時間より三十分も早かったので、千陽は一人で先に山へ入っていた。
山に登っても学校の方を見れば校舎の時計が見えるし腕時計もしていたので、約束の時間になったら裏門まで走って戻ればいいと思っていた。
三十分も早く着いて、魔が差した。
千陽のそのときの衝動的な行動の理由を説明するとしたら、子供っぽくいうなら拗ねていた、だろうか。表立っては言っていなかったけど、押さえつけた心の奥底では鬱屈が溜まっていた。
なんで自分だけ本当の仲間になれないのか。自分はこんなにも宗一と仲良しで、今では一番の親友といってもいいくらいなのに、他のクラスメイトたちと同じではない。
千陽が一番納得できなかったのは、千陽が宗一と同じになる手段がなかったことだ。
どんなに望んでも。時間を経ても、絶対に彼らと同じにはなれない。
その日、一人で山の中に入った千陽は、山の中腹のあたりから初めて村の神社を見下ろした。
「……結構広い神社なんだな」
村の人たちは入れて水城の家は決して入れない村の社。
裏山からは、境内と赤い大鳥居、参道の石畳がよく見えた。
なんてことない普通の神社だった。境内には立派な瓦屋根の本殿や社務所。鮮やかな赤い花がたくさん浮かんでいる手水舎。神主家族が住んでいる母屋も見えた。
どうして、この神社に水城家が近づけないのか理由が分からない。
真夏の太陽を遮るほど生い茂った木々の下は少し肌寒かった。千陽が立っている場所の横には小さな祠がある。
千陽はなんだか力が抜けてその場にすとんと腰を下ろしてしまった。ここから足を一歩でも踏み出せは崖下で、下の様子は暗くてよく見えない。
村の秘密を知った達成感よりも、罪悪感が勝った。
ここにくるまでは十分くらいの道のりだった。早く学校まで帰ろうと思ったけれど、気が抜けたせいか中々動けなかった。
しばらく、ぼんやりと神社を見下ろしていると、真夏なのに黒い着物を着ている村人が二十人くらいゆっくりと赤い鳥居をくぐっていくのが見えた。
歩く人々は一様に下を向いている。
先頭に立っている四人の初老の男たちは、畳一畳くらいの大きさの藁籠を運んでいた。
全員が黒い服を着ていたので、千陽は葬列だと思った。
でも村の誰かが亡くなったなんて話は聞いていない。
(聞いても……知らない人だろうけど)
千陽がそんなことを考えていたときだった。突然、強い力で肩を掴まれた。
「いっ!」
痛みと驚きで、思わずうめき声が漏れた。考えてみれば、自分は神社に近づいてはいけない人間だった。こんなところを誰かに見られでもしたら、村の人に何を言われるか分かったものじゃない。
怒られることを覚悟で、千陽は恐る恐る後ろを振り返った。
「千陽」
「そ、宗一」
後ろには宗一がいた。学校で別れたとき、宗一は自分と同じように白いTシャツに膝丈のズボンを着ていた。けれど目の前に立っていた宗一は、神社に向かう村人と同じ黒い着物と袴を着ていた。
「え、なに……その着物、え?」
千陽が今この祠にいることを宗一は知らないはずだった。どうして、この場所が分かったのだろう。
「千陽、ここで何してるの?」
宗一の肩を掴む力が強くてひどい痛みを感じた。けれど怖くて千陽は抵抗できなかった。
宗一の声はどこまでも冷たく。真剣な眼差しだった。
「な……何って……学校、早く着いたし、先に山で遊んでただけ」
「ここで……何、見てたの」
千陽を叱責するような宗一の暗い瞳に体が凍りついた。
「え……あ、ごめん。俺、今日……村でお葬式があるって知らなくて」
葬式を上から覗き見しているなんて、考えてみればよくないことだった。
悪いことをしていたのは自分だ。
「ご、ごめ……」
「千陽、なに言ってんの、葬式なんて、ないよ」
「え、だって、さっき黒い着物着た人が」
そう言って千陽はさっきまで見ていた神社を見下ろす。けれど、すでに眼下に着物姿の村人たちはなかった。拝殿に入ったのだろうか。一人戸惑っていたら千陽の隣に宗一が座った。着物が汚れてしまうと思ったが、宗一は気にしていないようだった。
宗一は眉を寄せた。
「そう、いち?」
千陽を見る宗一の目は今にも泣きそうな目をしていた。そこにきてやっと自分が取り返しのつかない悪いことをしたのだと気づいた。
村の秘密を暴くような真似をしてしまった。言葉が続けられなくて、その場で黙っていると宗一が口を開いた。
「……違う。あれは葬式じゃない。婚礼だよ」
「え?」
宗一の哀しげな表情と婚礼という言葉が結び付かなかった。
「今日は……結婚式。だから……きっと千陽は大丈夫」
宗一はそう自分に言い聞かせるように呟きながら、おもむろに千陽の右手を掴んだ。
「っ、え、なに」
千陽は驚いて宗一の手を振り払いかける。けれど逃げる手を追いかけるようにして宗一に再び手を強く握られた。
宗一は何かを決意するような目をしていた。
「いいから、千陽。手、貸して」
そう言った宗一は、千陽の指を、親指、人差し指、と一本一本、手のひらで隠すようにゆっくりと握ってきた。訳が分からなかった。
「今日、外からお嫁さんが来たんだ」
「……そ、そう、なんだ」
「着物は親に着せられた。だから今日は用事あって、山で遊べないって言いに来た」
「うん。そっか、分かった……残念」
勝手に一人で神社を見ていたことを叱られたりはしなかった。代わりに今にも涙が落ちそうな目で指を握られている。
千陽の指を大事そうに握る宗一の行為は真剣だった。
「なぁ宗一……なんで、俺の指、握ってるの」
「おまじない」
「おまじない?」
「うん。……もう手遅れかもしれないけど。千陽が幸せになれますようにって」
「手遅れって?」
「千陽が神社を見たのなら、指を隠さないといけないんだ」
右手が終わると、左手も親指から順番に恭しく握られていた。
「なぁ」
「……なに」
「千陽は結婚とかしたい?」
「え?」
宗一に指を握られながら、結婚と訊かれたとき、千陽は自分の気持ちに気づいてしまった。
(あぁ、そうか……だから。一生、無理なんだ。俺は、この村には入れない)
ここ最近、どうして千陽は以前より宗一に受け入れてもらえないことが苦しくなったのか。
無理やり村の秘密を暴くみたいな悪い事をしてしまったのか。
この村は、こういうものなんだと受け入れていたのに。自分のようなよそ者が、内に入れてもらえないのは当たり前のことだと理解していたのに。
それでも自分は、どうしても村の内側に入りたかった。
千陽は、宗一と本当の家族になりたかった。
「千陽」
「あ、ごめん。なに」
「……今日、神社で祝言あげて家族になる。何も知らない子供が近づいたら大人に叱られる。だから」
「なぁ、宗一、俺……宗一が言ってること全然、分からない」
きっと、いつか本当の意味で大好きな宗一と一緒になれるんじゃないか。千陽はいつか村の人が内に入れてくれる日が来ると信じて待っていた。
今日はダメだったけど、いつか、宗一から「うちにおいで」って言ってくれる日がくると思っていた。
でも、端から、そんな未来は存在しなかった。
千陽は無我夢中で宗一の手を振り払っていた。宗一のおまじないは薬指で終わり、小指が残っている。
もう、どうでもよかった。
宗一に、幸せなんて願われたくない。
――家族にならんせ。
瞬間、何度も何度も、耳の内側でこだました。
(俺を、本当の意味で家族にする気なんて、最初からないくせに!)
何度も何度も、村が千陽を呼んでいた。
――家族にならんせ。
最後に見えたのは、夏の青空だった。
「……全部、青い」
蝉の鳴き声が騒がしかった。
千陽が山から落ちた瞬間、宗一は、どんな顔をしていたのだろう。暗くてよく見えない。
宗一は、泣いていたのだろうか。



