*
小学三年生の頃、千陽は親の身勝手な夢の実現に巻き込まれて田舎に引っ越した。当時はまだ地方移住ブームなんてものはなかったし、携帯電話もパソコンも普及していなかった。
そんな時代にどうして田舎で古民家カフェなんて開こうと考えたのか。
千陽は未だに理解も共感もしていない。当時、実家で売られていたケーキの写真を見返したが、せいぜいティラミスが目新しいくらいだったように思う。
突然引っ越しが決まったときは、世界が全部真っ黒になったみたいだった。
――嫌だっ、絶対、転校なんてしない!
千陽は頑なに転校を拒んでいた。
引っ越し前は、どんな生活になるか分からなくて不安ばかりだった。そんな子供の千陽とは違い、親は地方で物件を見つけてからは毎日楽しそうに移住の準備をしていた。
――きっと新しいお友達がたくさんできるわよ。
――心配するな。小学校も見学させてもらったけど、なかなかいい環境だった。千陽もすぐに慣れるよ。
両親の言葉は全然耳に入ってこなくて、千陽は転校前、泣いてばかりだった。
もちろん子供のなけなしの抵抗やハンストなんて全く意味がなかった。
千陽が引っ越した村は一日数本しか電車が来ないような寂しい土地だった。住む家がいくら駅前でも観光客なんて来ないから、常識的に考えて古民家カフェなんかやったところで商売が成り立つとは思えない。
千陽は新しい学校でいじめられるかもしれないという不安を抱えたまま、四月の新学期に合わせて新しい生活をスタートさせた。
古民家カフェの経営に関しては、正直なところ趣味の延長で儲けはほとんどなかったそうだ。しかし、あの頃の暮らしぶりを振り返ってみても水城家は経済的にそれほど困窮した覚えはないし、始めたばかりの店なのに、不思議とすぐに常連さんと呼ぶようなお客が付いていた。
カフェ以外にも都会でケーキの出張販売もしていたみたいだし、親もそれなりに田舎暮らしの計画はきちんと立てていたのだろう。
そして千陽が心配していたような、いじめも一切なかった。
――ただ千陽は村でも小学校でも『お客さん』のままだった。
それは千陽だけじゃない。水城家全員が、そうだった。
水城家が、立ち入れない場所があった。
どんなに長くそこで暮らしても、村の人だけが知っている「何か」が常にあって、水城家にはそれを知る術がなかった。
村の寄り合いみたいな場には、水城家は絶対に呼ばれなかったし、親が「水城さんところは気にせんで」と村の人に言われているところを何度も目にした。
一番千陽の心を悩ませていたのは、学校で自分だけが友達の家に呼んでもらえないことだった。
一緒に遊ぼうと言えば、みんな一緒に遊んでくれるし、他愛ないおしゃべりだって盛り上がる。喧嘩もしないし、泣かされたりもしていない。
けれど、どうしても千陽だけ本当の彼らと話せていない感じがした。
両親は駅前のカフェに村の人が遊びに来てくれていたし、それで十分だとあまり気に留めていなかったようだった。
けれど千陽は子供で、そこでお友達を一から作らなければいけない状態だった。だから村の中に自分だけ入れないことが気になって仕方なかった。
いじめられているわけじゃない。だから自分がどうやって頑張ればいいのか分からない。
千陽にとって村の人はいつも、薄白い幕の向こうの人だった。
触れようとしても、その幕はサラサラとしていて指先で捉えられない。
そんな薄い幕が自分の周りに、四六時中まとわりついている。
そういった状況が数ヶ月続いて千陽も彼らとの付き合いを諦めていた頃だった。
学校で一番よく喋っていた秋月宗一に軽い気持ちで「今日、うちに遊びに来る?」と訊いてみた。以前遊びに行きたいと言ったときは、周りの子供たちからやんわりと「今日は外で遊ぼう」と断られていた。けれど宗一は、千陽の誘いにあっさりと「じゃあ、帰りに行く!」と言ってくれた。
宗一が家に遊びに来てくれることが、千陽は飛び上がるくらい嬉しかった。
その瞬間、数ヶ月抱えていたもやもやした気持ちが全部晴れてなくなってしまったのを覚えている。
子供の心なんて単純で、百あった嫌なことが、たった一つ、宗一が千陽の家に遊びに来てくれたというだけでなくなったりする。実際、その日以降の村での出来事は千陽にとって全部いい思い出になっている。村でのちょっとした違和感や寂しさが全部どうでもよくなるくらい、宗一の存在が千陽の中で大きなものになっていた。
宗一を誘った日の帰り道、少し先を歩く千陽の後ろに宗一が付いてきてくれた。嬉しくて何度も後ろを振り返って確認していたら、隣を歩いてくれた。
その日まで小学校と自分の家しか見ていなかった。目に映る景色が一気に広がった。
初夏の日差しが目に刺さるようで眩しい。
自分が着ているシャツは、いつの間にか長袖から半袖のTシャツに変わっている。
村は四方を美しい山々に囲まれていて、その麓には川が流れている。大きな赤い鳥居の神社、田畑の間にぽつぽつとある古い日本家屋の家々。畦道を歩いていると田畑からは虫の鳴き声がして、南から吹く夏風が土と緑の香りを運んでくる。
それらがこんなにも自分の近くにあったなんて気づいていなかった。ずっと白い薄幕に阻まれていたけど、今ならこの村に手で触れられるんじゃないか、そんなふうに感じていた。
今日まで村で生活してきたのに変な話だけど、それくらい千陽にとって村は現実味のないところだった。
「ねぇ、宗一くん」
「もう宗一でいいよ! 千陽。友達じゃん」
毎日見ていた宗一の姿が、ちゃんと一人の友達として見えた。千陽より頭半分くらい背が高い。やんちゃを絵に描いたような男の子。笑うと白い八重歯が覗く。生傷が絶えないのか足にも腕にも絆創膏が貼られていた。
「うん、じゃあ、宗一って呼ぶ」
「おう」
「俺さ、学校でクラスのみんなに嫌われてるんだと思ってた」
「え、なんでぇ? みんな千陽のこと歓迎してるよ。クラスに十人しかいなかったし、友達増えるのは大歓迎」
宗一はニッと白い歯を見せて笑った。
そんな宗一の表情に千陽は拍子抜けした。確かに嫌われているかもという千陽の感情も的を射た表現ではなかったし、クラスメイトと仲良しなのは本当だ。やっぱり千陽の勘違いや気のせいだろうか。
――でも。
そうだ訊いてみよう。宗一なら千陽の質問に答えてくれるかもしれない。けれど面と向かって訊くのが怖かった。だから勝手に早足になっていた。隣にいた宗一の顔が見えなくなったところで、立ち止まった。
「……だ、だって俺だけ、みんなと一緒じゃないし!」
後ろを振り返るのが怖かった。
もしかしたら自分は村のみんなから嫌われているかもしれない。今日、宗一がうちに遊びに来てくれるのは、ただの気まぐれ。
今、ここで後ろを振り返ったら、宗一の本当の顔を見てしまうかもしれない。
怖い。怖い。怖い。
田んぼの畦道で千陽は下を向いたまま立ち止まっていた。土曜日は半ドンで、太陽はまだ頭の上にあった。
自分の足元の影に、もう一つの影がゆら、ゆら、と重なって揺れている。宗一は千陽の後ろに立っていた。
宗一の影は、近づいて、離れてを繰り返している。千陽はぎゅっと目を閉じた。目を閉じると風の音が聞こえない。
――静かだった。
再び目を開けると、足元には自分の影しかなかった。
変なことを訊いて怒って帰ってしまったのだろうかと思っていたら、突然、足元の影がはしゃぐように揺れた。
「え?」
――揺れていた影は、地面を蹴る音と共に霧散した。次の瞬間、千陽の背中に重しが乗ってくる。千陽がバランスを崩して転びそうになったところで肩を組まれた。
「う、うわっ!」
「ちーはる! そんな小さいこと気にせんで!」
耳元で聞こえた声でランドセル越しの重さが宗一だと分かった。
「お、重い、宗一」
「ごめんごめんて」
宗一が戯れるように突然後ろから飛びついて来たのだ。隣の宗一の顔を見ると、彼は満面の笑みを浮かべていた。
「千陽は外から内に来たよそさんだから」
「え、よそ、さん?」
「そ。だから千陽は村の人に大事にされてるんだよ」
「そうなの?」
「そうそう。今まで外から引っ越してくる人なんていなかったから、どうしたらいいか、みんな分からないだけ」
「じゃあ、宗一も?」
「うん。千陽のこと嫌いとかじゃないし」
「俺の家で遊ぶのは嫌じゃない?」
「もちろん、ほら早く行こ!」
「う、うん」
なんだか宗一から「村とはそういうものなんだ」と無理やり納得させられたような感じがした。
千陽の家に着くと、友達を連れて来た千陽を見て母はとても喜んだ。
ランチタイムの古民家カフェはお客さんが三人入っていて、カウンター席に座っていた。そのお客さんたちは店の入り口に立っていた千陽と宗一になぜか一度も目を向けなかった。
「あらお友達、いらっしゃい」
「同じクラスの宗一」
千陽の隣に立っていた宗一は母にぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
千陽が宗一と一緒に店の裏に行くときだった。ずっとこちらを見ていなかった三人が、何も言わずじっと千陽を見つめていた。千陽は慌ててぺこりと頭を下げた。けれど頭を上げたときには彼らはもう千陽を見ていなかった。
彼らの探るような暗い視線が千陽はなんだか怖かった。
「宗一、さっきうちに来てたお客さんって宗一の知ってる人?」
「うん。てか村の人は全員知ってる人だよ。知らない人とかいないし。三谷さんは村長さんで、手前に座ってたお爺さんとお婆さんは谷本さん」
「なんかさ、さっき怒ってるみたいだったけど」
「そうかな? いつもと同じだったよ」
宗一はきょとんと不思議そうな顔をしていた。
裏庭に面した畳敷きの居間で千陽がランドセルを下ろすと、宗一もそれに倣った。ちゃぶ台の前に二人して座ったが、宗一が遊びに来てくれたのに、千陽は宗一と家で何をするか決めていなかった。
「千陽、お昼ご飯どうする?」
「あ、忘れてた」
宗一と遊べることが嬉しくてお昼ご飯のことが頭から抜けていた。村に子供が買い食いできるようなところがあるのかなんて千陽は知らない。
「もしかして宗一の家、お昼ご飯準備してた? 電話する?」
「いいって、別に電話しなくても俺が千陽の家遊びに来てるの、もう母さん知ってるし」
「え、なんで」
「俺と千陽が歩いてるところ、村のみんな見てたし」
「見てた?」
「うん、見てた」
宗一はそう言ってケラケラと笑った。学校から田んぼの畦道を二人で歩いている間、確かに民家はいくつもあった。けれど表を歩いている人なんていなかったように思う。千陽が不思議そうにしていたら、宗一は「それに店にいた三谷さん俺の家の近くだから、多分言っておいてくれるよ」と続けた。
「へぇ、ご近所さんなんだ」
「うん」
二人でそんなことを話していたら、店から母がやってきて「お昼、ホットケーキ作る?」と訊いてくれた。ホットプレートを出せば子供でも簡単に作れる。
その日は二人でホットケーキを焼いてお昼に食べ、そのあとは二人でテレビゲームをして遊んだ。引っ越し前、千陽は地方だから遊びの選択肢が少ないと勝手に思っていたけど、宗一が家に遊びに来てくれたことで、実際のところ遊びの選択肢がとても増えた気がした。宗一は千陽よりゲームが上手かったし、格闘ゲームでは一度も勝てたことがない。
同じ日本だし、電車だって通っている。うちに遊びに来てくれる友達もできた。
(なんだ、どこに住んでも同じじゃん)
そう思うようになった。
その日の夕方、宗一の帰り道に途中まで付いていった。
「うちファミコンあるけどスーファミないんだよなぁ。いいなぁスーファミ」
「宗一、持ってないのになんであんなにゲーム強いんだよ」
「才能かなぁ」
茜色の空の下、二人して笑いながら歩いていた。
その時、千陽はもう十分宗一と仲良くなったんだから大丈夫だと思った。
だから、訊いた。
「ねぇ」
「ん?」
夕日を背にして宗一が振り返る。
「俺、今度宗一の家遊びにも行ってもいい?」
「うちはダメ」
間髪をいれずにピシャリと宗一に言い切られて千陽は面食らった。
どうして、とは訊けなかった。答えはもう宗一が教えてくれたから知っている。千陽が「よそさん」だからだ。
じゃあ、また月曜日なと言って山の方へ走っていく宗一の背中をその場で見送った。
千陽が宗一から嫌われていないのは、分かっている。一緒に遊べてとても楽しかったし、その日、宗一が千陽にとって一番の友達になったのは本当だ。
家に帰ってから、宗一に言われた言葉が分からなくて辞書を引いた。
「よそ……よそさん、あった」
そこに書かれていた言葉の意味は、あまりいい言葉じゃなかった。
宗一の笑顔が浮かんで、書かれていた言葉と紐づかない。
――他人、外から来た人。
きっと宗一が言った「よそさん」はこの辞書に書かれている意味とは違うものなんだ。
――だって、他人じゃないし、宗一は俺の友達だし。
千陽はその日、この村で「よそさん」のままでいることを受け入れた。
何度も訊いて、これ以上傷つきたくなかったのかもしれない。
小学三年生の頃、千陽は親の身勝手な夢の実現に巻き込まれて田舎に引っ越した。当時はまだ地方移住ブームなんてものはなかったし、携帯電話もパソコンも普及していなかった。
そんな時代にどうして田舎で古民家カフェなんて開こうと考えたのか。
千陽は未だに理解も共感もしていない。当時、実家で売られていたケーキの写真を見返したが、せいぜいティラミスが目新しいくらいだったように思う。
突然引っ越しが決まったときは、世界が全部真っ黒になったみたいだった。
――嫌だっ、絶対、転校なんてしない!
千陽は頑なに転校を拒んでいた。
引っ越し前は、どんな生活になるか分からなくて不安ばかりだった。そんな子供の千陽とは違い、親は地方で物件を見つけてからは毎日楽しそうに移住の準備をしていた。
――きっと新しいお友達がたくさんできるわよ。
――心配するな。小学校も見学させてもらったけど、なかなかいい環境だった。千陽もすぐに慣れるよ。
両親の言葉は全然耳に入ってこなくて、千陽は転校前、泣いてばかりだった。
もちろん子供のなけなしの抵抗やハンストなんて全く意味がなかった。
千陽が引っ越した村は一日数本しか電車が来ないような寂しい土地だった。住む家がいくら駅前でも観光客なんて来ないから、常識的に考えて古民家カフェなんかやったところで商売が成り立つとは思えない。
千陽は新しい学校でいじめられるかもしれないという不安を抱えたまま、四月の新学期に合わせて新しい生活をスタートさせた。
古民家カフェの経営に関しては、正直なところ趣味の延長で儲けはほとんどなかったそうだ。しかし、あの頃の暮らしぶりを振り返ってみても水城家は経済的にそれほど困窮した覚えはないし、始めたばかりの店なのに、不思議とすぐに常連さんと呼ぶようなお客が付いていた。
カフェ以外にも都会でケーキの出張販売もしていたみたいだし、親もそれなりに田舎暮らしの計画はきちんと立てていたのだろう。
そして千陽が心配していたような、いじめも一切なかった。
――ただ千陽は村でも小学校でも『お客さん』のままだった。
それは千陽だけじゃない。水城家全員が、そうだった。
水城家が、立ち入れない場所があった。
どんなに長くそこで暮らしても、村の人だけが知っている「何か」が常にあって、水城家にはそれを知る術がなかった。
村の寄り合いみたいな場には、水城家は絶対に呼ばれなかったし、親が「水城さんところは気にせんで」と村の人に言われているところを何度も目にした。
一番千陽の心を悩ませていたのは、学校で自分だけが友達の家に呼んでもらえないことだった。
一緒に遊ぼうと言えば、みんな一緒に遊んでくれるし、他愛ないおしゃべりだって盛り上がる。喧嘩もしないし、泣かされたりもしていない。
けれど、どうしても千陽だけ本当の彼らと話せていない感じがした。
両親は駅前のカフェに村の人が遊びに来てくれていたし、それで十分だとあまり気に留めていなかったようだった。
けれど千陽は子供で、そこでお友達を一から作らなければいけない状態だった。だから村の中に自分だけ入れないことが気になって仕方なかった。
いじめられているわけじゃない。だから自分がどうやって頑張ればいいのか分からない。
千陽にとって村の人はいつも、薄白い幕の向こうの人だった。
触れようとしても、その幕はサラサラとしていて指先で捉えられない。
そんな薄い幕が自分の周りに、四六時中まとわりついている。
そういった状況が数ヶ月続いて千陽も彼らとの付き合いを諦めていた頃だった。
学校で一番よく喋っていた秋月宗一に軽い気持ちで「今日、うちに遊びに来る?」と訊いてみた。以前遊びに行きたいと言ったときは、周りの子供たちからやんわりと「今日は外で遊ぼう」と断られていた。けれど宗一は、千陽の誘いにあっさりと「じゃあ、帰りに行く!」と言ってくれた。
宗一が家に遊びに来てくれることが、千陽は飛び上がるくらい嬉しかった。
その瞬間、数ヶ月抱えていたもやもやした気持ちが全部晴れてなくなってしまったのを覚えている。
子供の心なんて単純で、百あった嫌なことが、たった一つ、宗一が千陽の家に遊びに来てくれたというだけでなくなったりする。実際、その日以降の村での出来事は千陽にとって全部いい思い出になっている。村でのちょっとした違和感や寂しさが全部どうでもよくなるくらい、宗一の存在が千陽の中で大きなものになっていた。
宗一を誘った日の帰り道、少し先を歩く千陽の後ろに宗一が付いてきてくれた。嬉しくて何度も後ろを振り返って確認していたら、隣を歩いてくれた。
その日まで小学校と自分の家しか見ていなかった。目に映る景色が一気に広がった。
初夏の日差しが目に刺さるようで眩しい。
自分が着ているシャツは、いつの間にか長袖から半袖のTシャツに変わっている。
村は四方を美しい山々に囲まれていて、その麓には川が流れている。大きな赤い鳥居の神社、田畑の間にぽつぽつとある古い日本家屋の家々。畦道を歩いていると田畑からは虫の鳴き声がして、南から吹く夏風が土と緑の香りを運んでくる。
それらがこんなにも自分の近くにあったなんて気づいていなかった。ずっと白い薄幕に阻まれていたけど、今ならこの村に手で触れられるんじゃないか、そんなふうに感じていた。
今日まで村で生活してきたのに変な話だけど、それくらい千陽にとって村は現実味のないところだった。
「ねぇ、宗一くん」
「もう宗一でいいよ! 千陽。友達じゃん」
毎日見ていた宗一の姿が、ちゃんと一人の友達として見えた。千陽より頭半分くらい背が高い。やんちゃを絵に描いたような男の子。笑うと白い八重歯が覗く。生傷が絶えないのか足にも腕にも絆創膏が貼られていた。
「うん、じゃあ、宗一って呼ぶ」
「おう」
「俺さ、学校でクラスのみんなに嫌われてるんだと思ってた」
「え、なんでぇ? みんな千陽のこと歓迎してるよ。クラスに十人しかいなかったし、友達増えるのは大歓迎」
宗一はニッと白い歯を見せて笑った。
そんな宗一の表情に千陽は拍子抜けした。確かに嫌われているかもという千陽の感情も的を射た表現ではなかったし、クラスメイトと仲良しなのは本当だ。やっぱり千陽の勘違いや気のせいだろうか。
――でも。
そうだ訊いてみよう。宗一なら千陽の質問に答えてくれるかもしれない。けれど面と向かって訊くのが怖かった。だから勝手に早足になっていた。隣にいた宗一の顔が見えなくなったところで、立ち止まった。
「……だ、だって俺だけ、みんなと一緒じゃないし!」
後ろを振り返るのが怖かった。
もしかしたら自分は村のみんなから嫌われているかもしれない。今日、宗一がうちに遊びに来てくれるのは、ただの気まぐれ。
今、ここで後ろを振り返ったら、宗一の本当の顔を見てしまうかもしれない。
怖い。怖い。怖い。
田んぼの畦道で千陽は下を向いたまま立ち止まっていた。土曜日は半ドンで、太陽はまだ頭の上にあった。
自分の足元の影に、もう一つの影がゆら、ゆら、と重なって揺れている。宗一は千陽の後ろに立っていた。
宗一の影は、近づいて、離れてを繰り返している。千陽はぎゅっと目を閉じた。目を閉じると風の音が聞こえない。
――静かだった。
再び目を開けると、足元には自分の影しかなかった。
変なことを訊いて怒って帰ってしまったのだろうかと思っていたら、突然、足元の影がはしゃぐように揺れた。
「え?」
――揺れていた影は、地面を蹴る音と共に霧散した。次の瞬間、千陽の背中に重しが乗ってくる。千陽がバランスを崩して転びそうになったところで肩を組まれた。
「う、うわっ!」
「ちーはる! そんな小さいこと気にせんで!」
耳元で聞こえた声でランドセル越しの重さが宗一だと分かった。
「お、重い、宗一」
「ごめんごめんて」
宗一が戯れるように突然後ろから飛びついて来たのだ。隣の宗一の顔を見ると、彼は満面の笑みを浮かべていた。
「千陽は外から内に来たよそさんだから」
「え、よそ、さん?」
「そ。だから千陽は村の人に大事にされてるんだよ」
「そうなの?」
「そうそう。今まで外から引っ越してくる人なんていなかったから、どうしたらいいか、みんな分からないだけ」
「じゃあ、宗一も?」
「うん。千陽のこと嫌いとかじゃないし」
「俺の家で遊ぶのは嫌じゃない?」
「もちろん、ほら早く行こ!」
「う、うん」
なんだか宗一から「村とはそういうものなんだ」と無理やり納得させられたような感じがした。
千陽の家に着くと、友達を連れて来た千陽を見て母はとても喜んだ。
ランチタイムの古民家カフェはお客さんが三人入っていて、カウンター席に座っていた。そのお客さんたちは店の入り口に立っていた千陽と宗一になぜか一度も目を向けなかった。
「あらお友達、いらっしゃい」
「同じクラスの宗一」
千陽の隣に立っていた宗一は母にぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
千陽が宗一と一緒に店の裏に行くときだった。ずっとこちらを見ていなかった三人が、何も言わずじっと千陽を見つめていた。千陽は慌ててぺこりと頭を下げた。けれど頭を上げたときには彼らはもう千陽を見ていなかった。
彼らの探るような暗い視線が千陽はなんだか怖かった。
「宗一、さっきうちに来てたお客さんって宗一の知ってる人?」
「うん。てか村の人は全員知ってる人だよ。知らない人とかいないし。三谷さんは村長さんで、手前に座ってたお爺さんとお婆さんは谷本さん」
「なんかさ、さっき怒ってるみたいだったけど」
「そうかな? いつもと同じだったよ」
宗一はきょとんと不思議そうな顔をしていた。
裏庭に面した畳敷きの居間で千陽がランドセルを下ろすと、宗一もそれに倣った。ちゃぶ台の前に二人して座ったが、宗一が遊びに来てくれたのに、千陽は宗一と家で何をするか決めていなかった。
「千陽、お昼ご飯どうする?」
「あ、忘れてた」
宗一と遊べることが嬉しくてお昼ご飯のことが頭から抜けていた。村に子供が買い食いできるようなところがあるのかなんて千陽は知らない。
「もしかして宗一の家、お昼ご飯準備してた? 電話する?」
「いいって、別に電話しなくても俺が千陽の家遊びに来てるの、もう母さん知ってるし」
「え、なんで」
「俺と千陽が歩いてるところ、村のみんな見てたし」
「見てた?」
「うん、見てた」
宗一はそう言ってケラケラと笑った。学校から田んぼの畦道を二人で歩いている間、確かに民家はいくつもあった。けれど表を歩いている人なんていなかったように思う。千陽が不思議そうにしていたら、宗一は「それに店にいた三谷さん俺の家の近くだから、多分言っておいてくれるよ」と続けた。
「へぇ、ご近所さんなんだ」
「うん」
二人でそんなことを話していたら、店から母がやってきて「お昼、ホットケーキ作る?」と訊いてくれた。ホットプレートを出せば子供でも簡単に作れる。
その日は二人でホットケーキを焼いてお昼に食べ、そのあとは二人でテレビゲームをして遊んだ。引っ越し前、千陽は地方だから遊びの選択肢が少ないと勝手に思っていたけど、宗一が家に遊びに来てくれたことで、実際のところ遊びの選択肢がとても増えた気がした。宗一は千陽よりゲームが上手かったし、格闘ゲームでは一度も勝てたことがない。
同じ日本だし、電車だって通っている。うちに遊びに来てくれる友達もできた。
(なんだ、どこに住んでも同じじゃん)
そう思うようになった。
その日の夕方、宗一の帰り道に途中まで付いていった。
「うちファミコンあるけどスーファミないんだよなぁ。いいなぁスーファミ」
「宗一、持ってないのになんであんなにゲーム強いんだよ」
「才能かなぁ」
茜色の空の下、二人して笑いながら歩いていた。
その時、千陽はもう十分宗一と仲良くなったんだから大丈夫だと思った。
だから、訊いた。
「ねぇ」
「ん?」
夕日を背にして宗一が振り返る。
「俺、今度宗一の家遊びにも行ってもいい?」
「うちはダメ」
間髪をいれずにピシャリと宗一に言い切られて千陽は面食らった。
どうして、とは訊けなかった。答えはもう宗一が教えてくれたから知っている。千陽が「よそさん」だからだ。
じゃあ、また月曜日なと言って山の方へ走っていく宗一の背中をその場で見送った。
千陽が宗一から嫌われていないのは、分かっている。一緒に遊べてとても楽しかったし、その日、宗一が千陽にとって一番の友達になったのは本当だ。
家に帰ってから、宗一に言われた言葉が分からなくて辞書を引いた。
「よそ……よそさん、あった」
そこに書かれていた言葉の意味は、あまりいい言葉じゃなかった。
宗一の笑顔が浮かんで、書かれていた言葉と紐づかない。
――他人、外から来た人。
きっと宗一が言った「よそさん」はこの辞書に書かれている意味とは違うものなんだ。
――だって、他人じゃないし、宗一は俺の友達だし。
千陽はその日、この村で「よそさん」のままでいることを受け入れた。
何度も訊いて、これ以上傷つきたくなかったのかもしれない。



