ならんせ


 母親から渡されたタオルで濡れた髪を拭きながら二階の自室へ行くと、さっき外から見たときには点いていたはずの部屋の電気が消えていた。
 壁のスイッチを押すと、ぱん、と部屋が一気に明るくなった。窓の外は既に夜になっている。帰ってくるときは周りの住宅の電気が一斉に消えていたのに、現在は隣近所の家の窓からカーテン越しに柔らかな灯りが漏れていた。
 不思議なことづくしで首を傾げるしかない。
 自分の家は裕福でもないし泥棒の線はないだろう。それに強盗なら表のケーキ店に行く。
 帰ってきたとき一階の廊下には誰もいなかったし、シンと静まり返っていた。
 不思議に思っていたら階下から「風呂はいったぞ」という父の声が聞こえてきた。
 宗一と電話中、一階廊下の階段の前には千陽が立っていた。今、父が下にいるということは、さっきまで二階には誰もいなかった。
「俺の勘違い、か」
 自室の部屋の入り口で一人ごちていると、今度は母が下から「お風呂!」と千陽を呼んだ。うるさいので仕方なく「すぐ入る!」と返事した。絶対にこのやりとりは全部ご近所さんに筒抜けている。今に始まった話ではないが、実に恥ずかしい親子だ。
 田舎に住んでいた頃ならいいが、ここは東京で都会なのだ。
 昔から過保護なんだか放任主義なんだかよく分からない両親だった。千陽は子供の頃からずっと彼らの身勝手な行動に振り回されている。
「あーやだやだ」
 再び鬱屈した感情に沈んでいたら、天井の電気が点滅し始めた。どうやら電気が切れかかっているらしい。しばらくライトの下に突っ立っていると明滅が止まった。そろそろ買い替え時期かもしれない。
 千陽は宗一からの手紙とさっきのメモを小学生の頃から使っている学習机の上に置き、体を拭いて着替えたあとは、同じタオルで雨に降られたデイパックの雫を拭いた。カバンを開けると中の書類や携帯電話は無事だった。
 携帯電話を開き、さっき宗一に教えてもらったアドレスにメールを書いた。

 ――久しぶり、宗一。さっき電話ありがとう。俺が手紙見たところで、電話かかってきてすげーいいタイミングで笑った。寝台列車のチケットとか高かっただろ? 会った時お金払うから金額教えて。

 メールの送信ボタンを押した後、俺は一階に降りて風呂に入った。

 *

 風呂から出ると、もう夕飯の時間になっていた。部屋着に使っているジャージ姿でリビングに入ると、食卓の上に出来立ての生姜焼きが並んでいた。
 家業のケーキ屋は住宅街の店なので、毎日十八時過ぎには閉店している。それは千陽が子供の頃から変わっていない。適当な経営だが立地に支えられているおかげと催事の売り上げがあるので採算は取れているそうだ。
「お父さん、千陽。ご飯よ」
 もういい年なんだし家族揃っての夕食なんて、もうしなくてもいいんじゃないか。そう思いながら、言われるまま自分の席に座った。
「で、どうだったの?」
「どうって何が」
「就活よ。今日はハローワーク行ってきたんでしょ」
「頑張ってる」
「千陽。父さんと一緒にケーキ作ってもいいんだからな。昔から好きだっただろ? お菓子作り」
「それは……」
 気まずい。気まずかった。
 これが嫌なら、仕事を決めてさっさと実家を出て行かなくてはいけない。
 家族で顔を突き合わせての夕飯のせいで、就活に関して頭の痛い話をしなければならなくなった。
 何も決まっていなかったので、千陽は早々に話題をそらすため、さっき宗一から電話があったことと、来週⚫︎⚫︎⚫︎村に宗一と行くことを伝えた。
「――え、宗一くんから連絡があったの」
「うん。元気そうだったよ」
 母は千陽から話を聞いたあと目を見張って父と顔を見合わせた。二人とも難しいパズルを解くときみたいな顔になっている。最初の声色は怒っているように見えたが、あぁ、でも、そうか、でもな、と二人で何度も言い合ったあと、二人揃って眉根を寄せると千陽に向き直った。
「えっ、え、なに、なんだよ。父さんも母さんも急に変な顔して」
 千陽が慌てると二人は不幸にあった人と出会ったときのような、どこか憐れむような表情に変わる。千陽は両親のその奇妙な表情の意図が全然分からなかった。
「宗一くんが、村に一緒に行こうって言ったの?」
「そう、だけど。何で」
「だって、千陽。引っ越すとき……宗一くんと、その……あんまり仲良くなかったじゃない」
「え、俺と宗一が?」
「やっぱり覚えてない、か。まぁ、宗一くんも千陽も事故にあってショックだっただろうしな」
「え、父さん、一体なんの話してるの?」
「だから、ほら千陽、村にいたとき宗一くんと遊んでて、滑落事故にあったじゃない」
 母がそう続けた。――滑落事故。それは千陽が小学六年生の頃にあった事故のことだ。生きてるのが不思議なくらいの大怪我で、一時は生死の狭間を彷徨ったと聞いている。自分は事故に遭ったあとは、ずっと眠っていただけで、苦しかった記憶などは一切なかった。
「それは、俺も覚えているけど、それが?」
「それがって、大事故だったでしょ。母さん肝が冷えたわ。あなたが目を覚まさないんじゃないかって」
 その日は、村にある山で学校帰りに宗一と遊んでいた。それは自分たちにとって当たり前で、いつものことで……。
 そう。いつものことだったのに千陽は山から足を滑らせて、強く頭を打って村の外の病院に運ばれた。事故に遭ったのは覚えているが、両親が言うような宗一と喧嘩した記憶はなかった。
 千陽は宗一のことを一番仲がいい親友だったと思っている。片時も離れたくないと思うくらい。宗一だって同じように思っていたはずだ。引っ越したときだって本当に悲しかった。親の都合で田舎に引っ越して、親の都合で都会に戻ってきた。千陽は今でもそのことを恨んでいる。それくらい、宗一とはあのまま一緒にいたいと思っていた。
「宗一くんは千陽にもう会いたくないんだと思ってたわ。千陽だって忘れているけど……」
 母はそう暗い声で続けた。
「え……別に、俺、そんなことないけど。それに宗一、今日普通に元気だったし。来週の旅行楽しみにしてそうだったし。俺たち喧嘩とかしてない」
「そう。でも、宗一くんが千陽のことを今どう思っているか……」
「なんだよ、変なの。ごちそうさまでした」
 千陽は夕飯を食べ終わった皿を流し台に置くと、食事中の両親をその場に残して自室に逃げ込んだ。
 あれ以上あの場に座っていたくなかった。父と母から宗一についての話を聞きたくなかった。
(だって、宗一は……俺の一番の親友で、自分が一番、宗一のことを知っているんだし。なんだよ、あれ)
 あんなふうに訳知り顔で、宗一のことを語られたくなかった。
 ドアを開けると、またひとりでに自室の電気が点いていた。
 ――今日は変なことばっかりだ。
 両親から節電についていつも厳しく言い聞かされていたので、部屋を出るときは電気を消すのが習慣になっている。
 部屋のスイッチが壊れているのだろうか。
 机の方に視線を向けると、携帯の外側の液晶が光っていた。千陽は携帯を掴んで、そのままベッドの上に仰向けで寝転んだ。メールは宗一からで、さっきの返事だった。

 ――メール届いた。千陽のメルアド、ホットケーキパンケーキ~って今でも、お菓子作り好きなんだな。チケットだけどあれ貰い物だからお金は気にしなくていい。お互い息抜きしようぜ。旅程作ったから送る。目を通しといて。

 メールの下には、当日の集合場所やら、電車の乗り換えなどが、綺麗にまとめられていた。
 千陽は宗一と離れていた間の彼の約十年を知らない。
 少なくとも、こんな綺麗な旅程を立てるような、几帳面な男じゃなかった。
 今日、千陽に届いた封筒の荒い文字は、水性マジックで滲んでいた。そう、ああいうのが宗一だった。
 デジタル化が進んで世の中の全部がどんどん綺麗になっていく。今日行ったハローワークだってタッチパネルで案内された。
 文字も連絡手段も全てがスマートだ。
 旅程を立てるために、何度も宗一に会ったりしなくたって、携帯電話があれば簡単に完結する。
「宗一……宗一……宗一」
 千陽は何度呼んでも、馴染まない親友の名前を練習のように呼んだ。
(俺たち、どんな喧嘩してた……)
 千陽は滑落事故で消えた自分の記憶を全て取り戻したいと思っている。あの日以来、村の思い出は全てが断片的で、記憶は割れたガラスのようにバラバラだ。
 あの日失った記憶は、千陽にとってぜったい失ってはいけなかったものだ。
 新しく返信メールを作ったあと「なぁ、俺たちどんな喧嘩してたっけ?」と書きかけたけど、結局全部消してしまった。
 何度も書いては消してを繰り返し、結局、千陽は何もメールを送らず枕に顔を埋めた。