ならんせ

 朝日に照らされた村はゆっくりと目を覚まし始めている。
 民家のポストには、平成二十年七月一日の朝刊がささっていた。
 新聞の印字を見た瞬間、夢と現実の間でふらふらしていた思考が今に固定された気がした。
 学校の裏門の前を通り抜け、山に入ると早朝の涼しい風を全身に受けた。新緑の匂いが心地いい。
 小学生でも登れるなだらかな山を道なりに登る。自然と早足になった。目的地の中腹についた頃には千陽の息は少し上がっていた。
 千陽が滑落事故にあった場所。祠の前に宗一はいた。宗一は祠の前で手を合わせ熱心に何か祈っていた。
 この山で事故にあった千陽は、村での記憶をほとんど失ってしまった。
 その結果、千陽は事故の後遺症の記憶障害に悩まされていた。
 失った記憶は、何かの拍子で全て元通りになるかもしれないし、永遠にそのままかもしれないものだった。退院後、千陽を苦しめていた病。
 記憶が戻らないなか村の小学校に通い続けることは、千陽の心に負担をかけ続けた。苦しむ千陽を見た両親は、違う土地で一から生活を立て直した方がいいと考えたのだろう。
 当たり前だ。忘れてしまった友達と一緒にいても、埋まらないパズルのピースを探し続けながら生活するようなものだ。子供には負担が大きすぎる。全部忘れてしまった方がいい。大人なら誰だって、そう考える。
 けれど千陽は宗一のことを全部思い出したかった。村を出る最後の日まで足掻き続けた。けれど千陽は何も思い出せなかった。
 記憶を失う前から積み重なっていた村への不信感、それでも親友だった宗一に自分のことを忘れられたくないという身勝手な感情で頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 お別れの日、それらの苦しみを全部宗一にぶつけてしまった。
 喧嘩じゃない。あの日、千陽が宗一に呪いをかけたのだ。
 千陽は宗一の背後に立つと口を開いた。
「……俺はずっと一人で寂しかった! 宗一なんて大嫌いだ。宗一は俺が村から居なくなったら、すぐに俺のこと忘れる。賭けてもいいし」
 村を出る日、千陽は泣きながら宗一にそう言い放った。
 実際忘れてしまったのは、千陽の方だった。思い出すのが苦しくて、自分で記憶に蓋をした。自分で新しい外の生活を選んでしまった。
 千陽の声に宗一は肩をびくりと震わせたあとゆっくりと振り返る。宗一は目を見開きこちらを見ていた。
 バケモノに出会ったみたいな顔をしていた。けれど今日までそんな顔をしていたのは千陽の方だったのかもしれない。
 宗一が怖くてたまらなかったから。
 でも、どうして宗一は紋付袴なんて着ているのだろう。全然意味が分からない。神頼みをするときの正装か?
「千陽、え、思い出したのか」
「さっき、思い出したよ。全部。……せっかく村まで連れてきてくれたのに、思い出すの遅くなった。ごめん」
「そう……そっか。よかった……よかったぁ」
 宗一は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。千陽は同じようにその場に座り、宗一の背中を強く抱きしめていた。
「ごめん……宗一。俺、お前に酷いこと言った。……宗一にはどうしようもなかったことで八つ当たりして傷つけた」
 宗一は首を横に振った。
「いや俺も悪かったから。親友でずっとそばにいたのに、千陽が一人で寂しかったのに気づいてなかった」
「うん」
 宗一には生まれた時から家族みたいに仲がいい村の人たちがいたから、宗一は外から村に引っ越してきた千陽の寂しさに気づけなかった。千陽はそれが恨めしかった。けれど千陽は自分の寂しさを宗一に理解して欲しかった。千陽は宗一が好きだったから。分かって欲しかった。
「でもさ、俺は千陽のことすぐ忘れるような、薄情な男じゃないからな、絶対」
「うん、分かってる。知ってる」
 大人にとってはたった数年でも、子供の千陽と宗一にとってはとても長い時間だ。
 二人にとって、村で一緒に過ごした時間はかけがえのないものだった。
 千陽との約束を宗一は今日まで覚えていた。だから今回、村に帰ろうと連絡してくれた。村に足を踏み入れたら千陽が記憶障害に苦しむと分かっていても。それが千陽の願いだったから。宗一は千陽を村に連れてきた。
 千陽の記憶を全部取り戻すため。
「俺さ、村出てから一人になって、やっと千陽の気持ちが身に沁みて分かった」
「うん」
 千陽の別れの言葉に小学生だった宗一は深く傷ついたはずだ。一緒に過ごした三年間を否定したのだから傷ついて当然だ。
 お前は薄情な男だと面と向かって言ったようなものだ。
 千陽は悪夢の中で異形に何度も問われた。
 記憶を失ったまま、理想の宗一といる方が幸せだろうと。けれど千陽はここからやり直すと決めた。
 好きな宗一も嫌いな宗一も全部、彼だ。
 どこに住んでも理不尽はあるし、完璧な人間なんていない。酷いのはお互い様で、それでいいと思えた。
 宗一があの日、千陽に向けて手を伸ばしてくれた。それが千陽と宗一にとっての真実だ。
「じゃあ、俺が言った言葉も思い出したか?」
「あぁ」
 別れの日。
 記憶障害の発作で千陽は宗一の心を傷つけた。その場には宗一の母親も居た。決して和やかなお別れではなかった。宗一の母親にとって千陽は息子を傷つける疫病神だったかもしれない。早く目の前から消えてしまえばいいと思ったはずだ。
 宗一が千陽を今日まで村や家に呼べなかった理由も察せた。
 泣きじゃくる千陽は、両親に宥められながらこの村を去ることになった。けれど、宗一は癇癪を起こしている千陽に駆け寄って、同じくらい泣きながら手を握ってお別れしてくれた。
 ――俺、千陽の記憶が戻るように、村で祈ってるから。
 ――本当に?
 ――約束。俺、大人になったら千陽に会いにいくから、だから、一緒に村に帰ってこよう。
 宗一は村で千陽の幸せを祈ってくれた。
「俺、千陽の記憶が戻るように、ずっと祈ってた」
「……言葉通り、本当にここで祈ってるとは思わなかったな」
「まぁ千陽が事故にあった場所だし、ここが一番ご利益がありそうだったから」
「そうかも。実際思い出せたし」
 顔を突き合わせて笑い合った。
「で、俺はお前との約束通り、記憶が戻るように祈ってたし、今日まで千陽のこと忘れてなかったよ? 賭けに勝った俺に何か言うことないのかよ。千陽くん」
 目にうっすらと涙を浮かべながら不敵に笑う宗一は、子供の頃と同じ宗一の顔をしていた。無邪気で全然爽やかイケメン俳優じゃない。
 ちょっと暑苦しい、近所の悪ガキだ。
「……大嫌いって言ったのは嘘。……大好きだ」
 千陽の告白を聞いて宗一はにやりと笑う。
「上等。あーよかった。村に帰ってきたから好き好きって言いながら二回もしたのに。俺あっさり捨てられちゃうのかと思った」
「好き好きは、言ってない」
「言ったようなもんだろ?」
「てか、宗一、その格好なんだよ。紋付袴って」
「え、言っただろ、俺――舞台俳優志望なんだよ」
 千陽は宗一の意味不明の言葉に首を傾げた。