ならんせ


 *

「……千陽……千陽! 起きて!」
 名前を何度も呼ばれて肩を強く揺すられていた。ここはどこなんだろう。
 視界の向こうに、ぬらりとした赤い唇が見えた瞬間、千陽は反射的に手を振り払っていた。
「ひっ!」
「ッ、あぁ千陽、起きた。もう、一体どこで寝てるんだよ」
「あ、ごめ……! 手、痛かっただろ」
 宗一は千陽が振り払った右手を左手で押さえていた。
「全然、大丈夫。それよりお前は大丈夫なのか? マジで死んでるのかと思った」
 床から体を起こすと、脱衣所の窓からは朝日が差し込んでいた。変な姿勢で横になっていたせいか、体のあちこちが痛む。
「ちーはる、起きてるのか」
「ぁあ」
 千陽は生返事をした。
 昨夜は居間から脱衣所にある洗面台まで走ったのは覚えている。そして目が覚めたら脱衣所に転がっていた。
 夢、なのか。
「千陽、もしかして昨日、具合悪かった?」
 宗一は心配そうな顔で千陽の顔を覗き込んでいた。
「違う……寝ぼけてて」
「ふーん。ならいいけど、風邪ひくぞ。具合悪くないなら、今日朝飯は高里さんの家に食べに行くから」
「高里さんって?」
「昨日うちの夕飯手伝ってくれた人。家の中すっからかんだし、こっち来るとき連絡して、食材買って冷蔵庫に入れてもらってたんだよ」
「……そう、か」
「うん。で、朝ごはん食べにおいでってさ。朝電話あった。――普段から家の管理任せてて、お金も渡してる」
 宗一がそう言った途端、体が一気に弛緩した。
「なんだ……はは……そっか。飯、お前が作ったんじゃないんだ」
 自然と乾いた笑いが漏れた。やっぱり昨夜のできごとは、千陽の心がみせた悪夢だった。
「いや、ちゃんと作ったって! まぁ、確かに飯炊いて、高里さんも持ってきてくれた鍋を火にかけただけだよ。でも、おいしかったろ? 俺の手料理ぃ」
 一人で砂を噛むような食事だった。急速に口の中が昨日の味を思い出す。ちゃんと人間が食べるものの味だった。
 ――千陽……宗一の肉は甘かったか?
 千陽は頭を振った。自分の頭がどうかしてる。
「……うん」
「なら、よかった」
 宗一はしゃがんだまま、こちらを見てニッと歯を見せた。千陽と同じように半袖と半パン姿で、髪の毛は寝癖で鳥みたいにあちこちに跳ねていた。千陽は手を伸ばし宗一の右手に触れた。あたたかい指先に安堵する。
「ん、どした?」
「ちょっと……確認してる」
「一体なんの確認だよ」
 宗一がくすくすと笑う。宗一が人間かどうか確認しているなんて言えるわけがない。けれど悪夢の終わりを確かめて安心したかった。
「なぁ、宗一。昨日は何時に帰ってきたんだ」
「昨日? あー外すごい大雨だっただろ。小雨になってから一時くらいだったかな。今日は晴れてるぞ、よかったな。散歩日和で」
「散歩日和って、なんだよ」
「昨日言ったろ? 今日は俺とお前で村を散歩するスケジュールになっております。添乗員は俺、旅行客は千陽」
「お客、か」
「そ、ほら、早く早く! パジャマ着替えて出かけるぞ」
「おう、分かった」
 千陽は宗一の笑顔に釣られて笑ってしまった。
 宗一は洗面所の前に立ち、千陽に背を向けて歯磨きを始める。
 まだ悪夢と現実の境目が分からない。
 けれど、宗一は宗一のまま再び千陽の目の前に立っている。今は、それでよかった。


 身支度を整えて二人して外に出ると、宗一が言った通り昨日の大雨が嘘のように外は晴れ渡っていた。眩しくて思わず目を細める。雨風にさらされた草木の匂いが湿気と共に漂っていた。これは梅雨の匂いだ。
 高里さんの家は夫婦二人暮らしの家だと宗一が教えてくれた。高里の奥さんは千陽の母親と同じ年くらいで、割烹着姿で千陽たちを迎え入れてくれた。旦那さんの仕事は林業で、今は近くの山で仕事に出掛けていると言っていた。
 よそ者の自分が突然訪ねて行って、どんな顔をされるんだろうと思っていただけに千陽は、古い家の廊下を歩きながら拍子抜けしていた。
「ほらほら、どうぞどうぞ、座って! うちの子は東京出て行ったきりなのよ、宗一くんたちが遊びに来てくれて嬉しいわぁ」
 ――本当に不思議だった。千陽は村の知らない人の家に上がっている。昔は村の誰の家にも呼んでもらえなかったのに。どうして、今。
 居間のちゃぶ台の上には千陽たちのために和食が準備されていた。千陽と宗一が畳の上の座布団の上に座ると、高里の奥さんがご飯と味噌汁をよそってくれる。
 高里の奥さんは千陽のことをちゃんと知っていた。
「――え、俺の家の喫茶店、覚えているんですか?」
「もちろんよ。駅前の喫茶店。それに千陽くんは、うちの息子とも同級生だったし」
「え……?」
「ほら、千陽。同じクラスだっただろ? 高里と。そのお母さんだよ」
 全然記憶になかった。村の小学校はどの学年も一クラスで、同じ年なら、みんな卒業まで同じクラスだ。
 それなのに、千陽は「高里くん」を覚えていない。これも滑落事故の記憶障害だろうか。――それとも彼が本当の仲間として遊んでもくれない薄情なクラスメイトだったからだろうか。
「朝会ったときも思ったけど、千陽、やっぱり覚えてなかったか」
「あ……うん。あの高里さん、すみません。あの、俺、昔のことが……」
「そんな、いいの、いいのよ。千陽くん六年生のとき事故で大変だったでしょう。あんなことになって、村のことなんて忘れてしまいたかったんじゃない?」
「いえ、そ、そんなことは! 全然」
「無理しないで。本当に怖かったと思うわ。うちの子も宗一くんも、あのときは、すごく落ち込んでいてねぇ。酷い事故だったわ」
 高里さんは千陽が事故に遭い、記憶を失っていることを当然みたいに知っていた。
「千陽くんのうちの喫茶店、村でとても有名だったのよ」
「え、そう、だったんですか」
「お前、知らなかったのか? 千陽の家のケーキ、ホントすげぇ美味かったし、俺も母さんとよく買いに行ってた」
 宗一も同じように千陽の家の喫茶店を褒めてくれた。
「まぁ、ずいぶん昔のことだものねぇ。お店のチーズケーキがとても美味しかったの、うちのお父さんも一人でこっそり通っててねぇ。ほら、こんな田舎じゃ娯楽なんてないし、水城さんご夫婦が、こんな辺鄙な村に来てくれて、その上駅前で素敵なお店までやってくれて。村のみんなは感謝していたわ」
 懐かしい、懐かしいと奥さんは、千陽の両親がやっていた喫茶店のことを教えてくれた。
「あの、今は両親、東京の住宅街でケーキ屋をしています」
「そう、東京で。よかったわぁ、水城さん、帰った後もお店続けられたのね」
「え……あの、両親が、よかったって、どういうことですか?」
 高里の奥さんがそう言った理由が分からなくて千陽は訊き返していた。村を「出た」ではなく、高里の奥さんは東京に「帰った」と言っていた。
「ほら、子供が小学生の頃は村もいいところだけどね。子供が中学に上がるとやっぱり都会の方がいいわよ。うちの子は親のわがままで高校まで村にいてもらったけど。都会と田舎で教育格差はどうしてもあるし。だから、千陽くんのご両親みたいな生き方は同じ親としてとても尊敬してたの。誰でも出来ることじゃないわ」
「そん、けい」
 高里の奥さんと宗一と千陽。同じちゃぶ台を囲んで座っている。奥さんは湯呑みでお茶を飲みながら話を続けた。
「そうよ? 千陽くんは親に感謝しなくちゃ」
「感謝って、そんな、うちの親なんて、ほんと、自由人で、自分勝手だし」
 自分の親は、千陽の人生をめちゃくちゃにした。千陽はそう思っていた。
「あら、自由ってとてもいいことじゃない」
「なんだなんだ? おい、千陽、遅れてきた反抗期かぁ?」
 隣に座っている宗一は箸を持ったまま千陽を肘で小突いてくる。
「別に、そういうんじゃないけど。……そうですか、うちの喫茶店楽しんでくださっていたなら……その、よかったです。うちの家、ずっと村から嫌われていたんだと思ってて、俺」
 必死に大人ぶって返事をしたけれど千陽の内心は複雑だった。
「何言ってるの、まぁ、でも千陽くんがそう思うのも無理ないわ。村のご老人たちは、よそさんは大事にせぇ大事にせぇって、あの頃、水城さんのご家族に嫌われないように必死だったもの」
「嫌われないようにですか」
「そうよ。村に外から人が来るなんて、滅多にない特別なことだし。でもね、あそこまで遠巻きにされたら、外からきた人間は嫌な気持ちになるわよ。千陽くんは特に子供だったんだし」
 千陽の家は村で孤立していた。
 それは千陽の勘違いだったのだろうか。
 確かに千陽の両親が村の駅前でやっていた喫茶店はいつも繁盛していた。千陽もその光景を目にしている。
 千陽たち水城の家が嫌いなのにどうして、村の人たちは、どうして店にはやってくるんだろうと思っていた。店に来る彼らの姿は千陽の目からとても歪に見えていた。
 ――でも、それなら、どうして。
「……いえ、俺は嫌な気持ちとかは」
 口では否定したものの千陽自身も、そう思っていた。
 ――千陽は、よそさんだから。
 幼い宗一が笑顔でそう千陽に言った。怖かった。
 千陽は、ずっと、村でよそ者だった。
 村の人に仲間はずれにされていて悲しかった。けれど、高里さん夫婦がそれを理解していたことに、千陽はどこかで救われている気がした。
「あ、ご飯食べてるのに、おばちゃん話し込んじゃってごめんね。久しぶりのお客さん嬉しくて。お代わりどう? 千陽くん?」
「ッ、あ、いえ、十分いただきました」
 過去を思い出そうとして、思考が散漫になっていた千陽は慌てて返事する。
「そう。今日は宗一くんと村巡るんだっけ? 楽しんで来てね。といっても何もないところだけど」
「高里さん、それ俺も千陽に言いました」
「まぁでも事実よねぇ。また、千陽くんのご両親みたいに村で素敵なお店やってくれる人が来ればいいんだけど。ホント、人は減るばかりよ」
 高里さんはそう言って席を立ちキッチンに向かう。
 ――忘れてしまった村のことを、千陽はもっと知らないといけない気がした。
 自分は、何か大事なことを忘れている気がする。