ならんせ


 その夜、千陽は奥の座敷に布団を敷いて一人で眠った。
 布団から太陽の匂いがして千陽を酷く苛立たせた。長い間、誰も住んでいなかった家の寝具がこんなにも柔らかかったり、いい匂いがしたりするはずがない。
 宗一は本当に嘘ばかりだ。
 村に来てから違和感があった。違う、もっと前からだ。列車で再会したときから、もう宗一は宗一じゃなかったのかもしれない。
 千陽の目の前に宗一が二人いた。
 千陽がずっと求めていた理想の宗一と、子供の頃の面影を残した宗一。それは千陽の不安定な心に呼応するように、混じり合ったり、ときに分かれたりする。
 昔のまま大人になった宗一は無邪気で、今も平気でよそ者の千陽を傷つける。それでも彼は、千陽が幼心に盲目的に信じて好きだと感じていた宗一だ。
 千陽の理想の宗一は、千陽と同じように村の外の人間の寂しさを知っている。千陽は自分と同じ場所で、寂しいと口にして心を開いてくれる宗一を好ましいと思っていた。彼は千陽にとって体を重ねたいと思うほどに魅力的な男だった。
 今の宗一が千陽にとって理想の男なら、このまま今の宗一を受け入れてしまえばいいのに。千陽が事故で長い間忘れていた宗一が、千陽を縛り付けて離してくれない。
 暗闇の向こうから時計の鐘が鈍い音を断続的に鳴らしている。柱時計なんてあっただろうか? 鐘の音はいつまでも鳴りやまず、千陽の頭の中でその存在感を増していく。
 ゴーン……。
 カチ、コチ、カチ、コチ。
 ゴーン……。
 カチ、コチ、カチ、コチ。
 ゴーン……。
 カチ、コチ、カチ、コチ。
 ゴーン……ゴーン……。
 ――あぁ、もう。苦しい、助けてくれ。宗一、宗一。
 千陽は無我夢中で布団の中で身をよじるが、体はびくともしない。石のように固くなっていた。
 ――ならん、せ……ならんせ。
 千陽の耳元で山にいた異形が甘く囁いていた。
 過去の幻影がいつまでも千陽の頭にこびりついて離れない。昔の宗一が忘れるなと言っている。決して、忘れてくれるな、と。
(俺は、ずっと、宗一のことを忘れていた。でも、仕方なかった)
 事故だった、仕方なかった。
 あの日、村の掟を破って千陽は罪を背負った。よそ者の自分は村の儀式を見てはいけなかった。だから千陽は山から落ちた。あれは千陽が受けた罰だ。
 宗一は悪いことをした千陽を守ってくれようとしたのに、千陽は宗一の手を振り払った。
 こんな俺を宗一が愛してくれるはずがない。
 壊れた千陽の脳が作り出した宗一がいる。片方は現実には存在しない。
 千陽の理想の宗一なんて、最初からいない。居ていいはずが、ない。
 体が敷布団の上に磔にされているようだった。手が、首がギリギリと縄で締め付けられている。
 全身が寒いと訴えているのに千陽の額には汗が浮いていた。
 ――ならん、せ。
「そう……いち」
 うっすらと目を開けると、宗一が千陽の体に馬乗りになっていた。
 右手がゆっくりと千陽の頬を撫で回していた。昼間も同じように優しく触れてくれた。けれど、今はそれが苦しくてたまらなかった。
 宗一、宗一。
 千陽は必死に宗一の名を呼んだ。けれど、宗一は返事をしてくれない。ただ、千陽の罪を責め立てるように顔を寄せ口付けてくる。どこまでも艶かしい宗一の表情に怖気が走った。
 苦しい、息ができない。
(あぁ、宗一。もっと、俺の罪を責め立てて欲しい。そうでなければ……)
 これは千陽の心の傷が見せている悪夢だ。
 どれくらい体を拘束されていただろうか。再び耳元で鐘の音が響いた時に肉体がどろりと弛緩した。
『……起きて、千陽!』
「ッ!」
 耳元で名前を呼ばれて、千陽は強制的に目を開かされた。
 薄暗闇のなか、ゆっくりと首を横に動かしたが、さっき耳元で千陽を呼んでいた宗一はいない。
 パジャマとして着ていたTシャツと半パンが汗で肌にべったりと張り付いていて気持ち悪かった。
「……また、夢?」
 千陽はゆっくりと上体を起こした。
 枕元の扇風機が緑の羽をカラカラと回していた。寝る前に扇風機のスイッチは切ったはずだった。故障かもしれない。体が寒くてたまらなかったのは、そのせいだろう。
 寝台車のときと同じで、また悪夢にうなされ夜中に目が覚めていた。
 昨日と違って酒を飲んでいないのに頭が鉛のように重い。
 千陽は布団の上に座ったまま、浅い呼吸を繰り返している。
(……誰か、助けてくれ)
 窓の外では相変わらず雨が激しく降っていて草木を揺らす風の音がごうごうと部屋まで響いていた。千陽が寝ている座敷の横は縁側だ。空き地のせいか、建物に吹き付ける風が窓ガラスを激しく揺らしている。
 こんな大雨の中、宗一は村の寄り合いに出掛けて行った。おそらく向かったのはあの神社だろう。
 宗一は、もう家に帰ってきたのだろうか。
 電話の向こうから聞こえた宗一の声は明るかったが、昼間の宗一は不安げな表情で……村に怯えていた。宗一は一人で大丈夫なんだろうか。
 千陽は布団の上で頭を振る。よそ者の自分が村の人間を心配する必要なんてない。それに宗一は、もう大人だ。そう心の中で千陽は自分を納得させた。
 宗一に千陽は必要ない。
(最初から、分かっていただろう)
 千陽は枕元で手を動かしたが、寝る前に枕元に置いていたはずの携帯がなかった。時間が分からなくて、千陽は布団から抜け出した。
 布団に入ったときには寝具から太陽の匂いがした。けれど今は、ひどく湿っぽく、カビ臭い匂いが鼻をつく。
 それだけじゃない。部屋全体が鉄錆のような匂いに満たされていた。千陽はその匂いに思わず顔を歪めた。血の匂いだ。
 ガタンと玄関の方で音がした。
「……宗一?」
 宗一が村の寄り合いから帰ってきたのだろうか。千陽は畳の上を足早に進み、隣の和室に続く襖を開けた。隣は仏壇がある居間だ。
 居間の明かりは頭上の小さな豆球だけだった。赤みがかった薄暗がりでは部屋の様子がよく見えない。
 不意に線香の煙が漂ってくる。
 宗一が仏壇に線香を立てたのだろうか。仏壇があった方向に目をやったときだった。突然、目の前に黒い影がぼんやりと現れた。――それは人の形をしていた。
「……眠れないのか」
 影が心地よいテノールで千陽を呼んだ。宗一が仏壇の前に座っていた。
「……いや、なんか目が、覚めちゃってさ」
「まぁ、外、すごい雨だからな」
「うん」
 気づいていなかっただけで、宗一は最初から居間にいたのだろうか。暗闇に慣れ始めた目には、はっきりと宗一の姿が映っていた。
 座布団の上に姿勢を正して座っていた宗一は、うっすらとした笑みを浮かべて千陽を見つめていた。
「宗一、お前……村の寄り合いに行ってたんだろ」
「行かない。大雨だし。それに……あんな場所……もう、俺が行くような場所じゃない」
 宗一の吐き捨てるような声に千陽は目を見張った。
「え、あんな場所って」
「千陽だって、そう思ってるだろ。あそこは……怖い場所だって」
「それは……」
 宗一は寝台車で見たときと同じように黒の長着を身に纏っていた。宗一は普段から着物を着ているのだろうか。
「千陽、こっち」
 暗闇で仏壇の前に座ってる宗一は、千陽を手招きした。千陽は吸い寄せられるように宗一の前に膝をついた。
「どうしたんだ?」
「いや、その……ちょっと気になって。千陽、昼間、大丈夫だったかなって?」
「え、昼間?」
 宗一がどういう意図で言ったのか分からなくて千陽は首を傾げた。
「千陽、慣れてないみたいだったから」
 暗闇の中で宗一は、はにかむような笑みを浮かべている。目の前にいるのは、本当に宗一なんだろうか。まださっきの悪夢が続いているような気がした。千陽の知っている宗一は、こんなことは言わない。
 言っていなかった。
 夕方、千陽が風呂に入っているとき、すりガラスの向こう側に立っていた宗一は、体を重ねても変わらず友人のままでいてくれた。こんなふうに恋人を気遣うような態度に変わったりしなかった。千陽はそれに安心していた。
 変わりたくない。ずっと、昔のままの宗一がいい。怖い。置いていかないで欲しい。千陽はカタカタと小刻みに震えていた。
「あ、ごめんな……宗一。昼間、偉そうなこと言ったくせに……俺、全然上手くないし、なんか役立たずだった」
 千陽の言葉に宗一は不服そうに眉を顰めた。
「何言ってんだよ。俺は千陽のこと心配してるんだ。どこか痛いところとか」
 千陽は宗一から体を離した。これ以上、宗一に踏み込まれたくなかった。これ以上、心をかき乱されたくない。
「俺は……俺はさ、宗一を慰めたかっただけで……別に」
 千陽が距離を空けた分、宗一が距離を詰めてくる。勘弁して欲しかった。
「別にって何? もしかして千陽って、そういうふうにいつも男を弄んだりするんだ」
 宗一の顔はずっと優しい笑顔のままだった。そして当たり前のように千陽に触れてくる。
「……宗一……お前、一体……誰なんだ」
 宗一は千陽の背中に腕を回してきた。
「千陽。宗一だって言ってるだろ? 他に誰がいるんだよ」
 耳元で甘いテノールに囁かれる。得体の知れない何かに体を侵食されていくようだった。千陽は必死で宗一の拘束から逃れようとした。
「いやっ、やめ……ろ」
 偽物の宗一から甘い香りがして体が硬直する。寝台車で宗一の体からした香水の匂いだった。
「千陽、大丈夫だ。俺は……ずっと、千陽のそばにいる」
「ッ、いや」
 千陽は宗一の腕を振り払って畳の上を後ずさりする。知らない宗一が、怖い。千陽に手を振り払われた宗一は項垂れた。けれど千陽が息を吸った拍子に、再び顔を上げ、貼り付けたような笑顔のまま千陽との距離を詰めてくる。
 これは、宗一じゃない。
「……千陽……よかったのか? 大好きな宗一を受け入れなくて」
 男は顔にかかる前髪を右手でかきあげたあと、不遜な笑みを浮かべて千陽を見下ろしてくる。
「え……」
「昼間、優しく抱いてやっただろ、千陽。あんなに、よがってたじゃないか。宗一、宗一って。欲しかったんだろ、宗一が、宗一の全部が」
 笑みを浮かべたままの宗一が、千陽の手首をつかみ畳の上に組み伏せてくる。瞬間、畳から埃が舞い上がる。古い家特有の匂いが辺りに充満していた。
 この家にやってきたとき、不自然に部屋の中が綺麗に清掃されていた。
 誰も住んでいなかった家なのに、水道も電気もガスも通っている。
 今、千陽のいる場所が、本当の宗一の家だ。
 障子や襖が破れ、見上げている頭上の豆球はふらふらと明滅して今にも切れそうだった。
 ここが、宗一の家だ。ここが、現実だ。じゃあ、目の前の男は誰だ。
「千陽」
「お……お前……誰、なんだよ」
「何を言ってるんだ? 俺は、お前の理想の宗一だろう」
「理想……の」
 ひどく喉が渇いて声が引きつっていた。
「お前が寂しいと言えば、同じように寂しいと寄り添ってくれる。俺は、お前と同じようにひとりぼっちだ。だから、村の寄り合いに行って、お前を家で一人寂しく泣かせたりなんかしない。ずっと、一緒だよ、千陽」
「……そう、いち」
「愛しているよ。千陽。おいで」
「いやっ、やめろっ! 俺は……俺は……お前のことなんて」
 美しく弧を描く宗一の唇が千陽の唇に重なった。昼間と同じ、宗一の味がした。着物からすらりと伸びた宗一の手が千陽の身体を確かめるように喉から胸元へと下に滑っていく。
「千陽は素直だなぁ、ほら、体は受け入れた。嘘がつけない」
 宗一の顔をした異形はくつくつと喉で笑った。
「ッ……」
「気づいているんだろう? ここは、一年も誰も住んでいなかった家だ。不自然に整っているなんて、おかしいと思っただろ」
「……分かってる、ここが、本当の宗一の家なんだろう」
「そうだ。お前のことを優しく抱いてくれる宗一がいる家だ」
 得体の知れない黒い影が千陽の首の上に手を置いた。じわじわと喉に重しが加わっていく。
「っ、く……ぁ」
「千陽……宗一の肉は甘かったか? 足りないだろう? もう一度、優しくしてやろうか」
 異形はそう言って千陽の首を両手でぎりぎりと絞めあげてくる。
「ッ、い……や、やめっ」
「遠慮するな、ずっと欲しかったのだろう。安心しろ、じきに全て手に入る。宗一は、お前のものだ」
「や……めっ、ろ!」
 千陽は必死の思いで男の拘束から逃れた。今度はあさっさりと千陽を解放してくれる。異形は怪しい笑みを浮かべたまま片膝を立ててこちらを見つめていた。
「そうだ。千陽、いいことを教えてやる」
「っ……なん、だ」
「誰も住んでいない家で、今日、なぜ食事ができた?」
「しょく……じ」
「食べただろう。宗一が準備したあたたかい食事を」
 宗一の顔をした異形は、千陽に近づき、口と喉を親指でなどる。冷たい。死人の指先だった。
 千陽は、砂を噛むような夕食の味を思い出していた。刹那、猛烈な吐き気に襲われ、口を右手で押さえて居間から走り出る。
 廊下に出ると頭上の電気は青白く点っていた。どこもかしこもカビ臭い。誰も住んでいない。無人の家だった。
 無人の家で食事なんて食べられるわけがない。宗一も偽物だ。
 宗一じゃない誰かに抱かれて、偽りの身体で幸せになった気になって、得体の知れない食事を口にした。
 走るたび床板が鳴る。ほうほうの体で脱衣所の洗面台にしがみついた。
 蛇口を捻って胃の中のものを吐き出したが、口からは胃液しか流れてこなかった。
 自分は一体何を口に入れた。自分は、今、どこにいる?
 夢だ。全部、悪夢だ。
 ここは一体、どこなんだ。
 本物の宗一は――どこに。